ゴッホの「ひまわり」の絵の前にいた。
私は、絵をみつめていた。
Zは、その私の横で、私を見ている。
『ゴッホは、好きなの?』
私は、彼に、『向こうへ、行ってください。』とは、言えなかった。
『はい。』
『どうして。』今度は、何が何でも聞きたい、と言う強い調子ではなかった。
優しく、いたわるように訊く。
『こんなに激しい黄色を使い分けできるなんて、
気がふれた人しか、描けないからです。』
私は、余計なことを、話し続けた。
『ゴッホは、宣教師をしていたことが、あったんです。
非常に仕事熱心だったんですが、評判が悪かった。
それで、苦情がたくさん来て、彼は、クビになったんです。
多分、度を越えた信者の家への訪問とか行っていたと思います。
粘着質なんです。彼の絵を観ていると、それが、わかります。
ゴッホは、これと見定めると、その一つしか、見えない。
ゴーギャンとは、根本的に違います。』
ゴッホの絵の斜め横に、ゴーギャンの絵が飾られている。
『どう、違うの?』
今度は、私は、彼の顔を見た。彼は、相変わらず、私を見続けている。
『ゴーギャンは、今で言う証券マンでした。
証券マンと言うのは、世間の動きを見て、
株の上げ下げを判断しなければならないでしょう。
要するに、まともな感覚の持ち主で、ただ、サラリーマンには、向いてなかった。
ゴーギャンの残した言葉の中で、私が好きなのは、
”親は子供のために自分を犠牲にして、
その子供は、また自分の子供ために人生を犠牲にする。
こんな馬鹿げたことが、いつまで続くんだ”と言う言葉です。
彼の性格が、現れているでしょう。
そんな人が、どだい、ゴッホのような気のふれた人間の面倒をみれる訳がないんです。』
初めて会った人に話すような内容では、なかった。
『何となく』とか『別に』と言うべきだった。
けれど、私の答えを聞いて、私から離れていく人もいる。
それとは逆に、惹かれる人もいる。
彼は、後者であった。
- 前ページ
- 次ページ
まだ、その頃、田舎に住む私は、友人と二人で、
東京に美術館周りをするために、旅行にやって来た。
金曜日の夜に関西を出発して、
日曜日の夜に戻る短い期間の滞在である。
土曜日の朝になって、友人である修子が
『具合が悪いので、部屋で寝ている』、と言い出した。
私に気を遣って、彼女は、
『休日を無駄にさせたくないから、悪いけど、一人で回ってくれる。』
と頼んだ。
私も側にいられると、却ってゆっくり寝られないだろうと思い、
『ほなら、夕食は一緒に食べよな。それまでには、帰ってくるしな。』
と言い残して、一人、品川のホテルを後にした。
午前中に、ある美術館を訪れ、昼食を取った。
午後には、新宿にある「東郷青児美術館」にあるゴッホの「ひまわり」を
観に行った。
お客さんは、かなり、少なかった。
常設の絵を観ているところに、横から男性の声が聞こえた。
『これは、マチスの影響を受けていますね。』
私は、横を見た。声の主に対して、かなり、冷たい目線であったと、思う。
彼は、私を見て、微笑んだ。
ヨットパーカーに、ジーンズ、スニーカー。
かなり、ラフな服装であるが、一つ一つが高価なものであることは、わかる。
少なくとも、下3桁に980円がつくような代物ではない。
何かしら野望を持っていそうな顔立ちである。
優しいとか、穏やかと言った類の顔ではない。
けれど、知的で、軽薄そうな印象は受けなかった。
Zである。
『はぁ。』私は、それ以上、返事せずに、次の絵に進んだ。
彼は、その私の後を付いてきて、また、絵の説明を始めた。
私は、返事をしなかった。彼は、一人で話している体である。
東郷青児の絵の前を、私は素通りした。
チラとも観ずに、次のブースに進んだ。
彼は、まだ、私の横にいた。
『何故、東郷青児の絵を、観ないんですか?』
と彼は、私に尋ねた。
答える必要は、なかった。
『何故?』しつこく、訊いてくる。
私は、迷惑そうなため息をひとつ、ついた。
『はぁぁ。好きじゃないからです。』
『何故、好きじゃないの?聞きたいな。』
説明を聞くまでは、引き下がらないという強い調子である。
仕方がない。
『東郷青児の絵って、誰かの絵に似てると思いませんか?』
私は、反対に質問してみた。
『さぁ。思い浮かばないな。』
『竹久夢二とマリー・ローランサン、です。』
『なるほど。それで、竹久夢二とマリー・ローランサンの絵は、きらい?』
『そうじゃ、ないんです。
東郷青児は、竹久夢二の妻であるたまきが経営していた絵葉書屋で、働いていました。
竹久夢二は、旅行から帰ってこない。竹久夢二の絵葉書は、好評ですぐ売れる。
そこで、当時、東郷青児がゴーストライターとして、代わりに描いていた、
言われていました。
それに、東郷青児のフランス留学のお金もたまきが出したと言われています。
東郷青児は、フランスに渡り、マリー・ローランサンが注目されていることを知って、
竹久夢二とマリー・ローランサンの良いとこどり、したんです。
確かに、竹久夢二とマリー・ローランサンの絵って、共通項は多いです。
そういう嗅覚だけは、東郷青児と言う人は、働くんです。
私は、そう感じます。
確かに、ある程度の計算は、仕方ないと思います。
けど、計算だけで、描かれた絵は、好きになれないんです。』
彼は、改めて、私を見た。
『申し訳なかった。
あなたに、馬鹿みたいに、いろいろ言ったけど、
絵に詳しかったんですね。』
男性は、どうかわからないが、
女性にとっては、「ナンパをされる」という行為は、
それを口にするかしないかは別にして、重要な意味を持つ。
私は以前に、柔らかい友人と堅い友人と分けたが、
堅い友人の中には、自分の思いとは関係なく
状況的にそうならざらるを得ないという人もいる。
もっと、簡単に言うと、男性と縁がない、と言うことである。
ナンパされ慣れている柔らかい友人たちとは、
ナンパされるとか、されないで、
競い合うことは、まず、ない。
論点が違う。
ナンパされることは、大前提である。
どれだけ、変わった、おもしろい、興味深いナンパをされるか、
それが、大事なのだ。
堅い友人たちは、まず、ナンパと言う行為が、
まったく、彼女たちの人生に関わりないことが、多い。
そのことを、劣等感とするか、プライドとするか、
彼女たちの性格が、大きく関係している。
一人の友人が言う。
『もし、私が、ナンパされたことがない、って言うたら、
みんな、信じると思うで。
けど、アンタが、されたことがない、って言うたら、
ウソや、と思うやろ。そういうこっちゃ。』
別の友人の友人が言う。
『私なんか、今まで、ナンパなんか、一回もされたことがないわ。
ナンパされるのは、隙があるからや。
私は、隙がないから、ナンパなんか、されへん。』
もう一人の友人である。
『今日、初めて、ナンパされてさ。私なんか、ナンパするかぁ。』と嬉しそうである。
『多分、私が油断してたんだよ。』
彼女たちの何人かは、ナンパされない理由として、
自分には、隙や油断がないということにしているらしい。
もちろん、それも一つの理由にあることに、間違いはない。
近所の人である。彼女は、中肉中背で、腰まで髪を伸ばしている。
『後ろからな、”すいません”言うて、声かけてくるから、
”ナンパや”思て、後ろ振り向いたんや。
そしたら、向こうが、こっちの顔見てな、
”ゲッェ!もぅ、いいです。”言うて、走って逃げって行ったわ。
もぉ、ショックやったで。』
A国大使館のスタッフにナンパされたという女性も、その一人である。
あるいは、その他の友人は、反対に自分の方から積極的に男性をナンパしている。
『ナンパするのってさ、ホント、勇気いるんだよぉ。
だから、ナンパ、断っちゃ、ダメだよ。
男の人も、必死だと思うよ。
私、その気持ち、わかるもん。』
私は、ニューヨークが好きだという人たちの集まりに出かけたことがあった。
そこに来た女性の何人かの女性が、日本ではナンパをされたことがないが、
ニューヨークに行けば、ナンパされるので、
ニューヨークが好きだったり、住みたいと思ったりすることだ。
『ほぉ。』私は、びっくりした。
案外、このことは、根が深いのかもしれない。
私は、自分からナンパをすると言う彼女が好きである。
彼女は、いつも、努力をしている。
自分がナンパされないのであれば、自分からナンパすればいい、
と彼女なりにいろいろと考えて、行動に起こしている。
その努力が、他の人から見ていて、馬鹿げているように思えたとしても、
人の非難ばかりして、努力しない人より、よほど、マシである。
例えば、二人目の「自分は隙がないから、ナンパされない」という女性は、
背は高いが、小太りで、やせる努力はいっさいしない。
見た目も、性格的にも、可愛げ気がない。
仕事に行っても、いつも、不満ばかりを漏らし、
自分で何も努力しない。
常に、悪いのは他人であり、自分ではないと、自己正当化している。
だから、私は、彼女と友人になれない。
「友人の友人」と書いたのは、そういう訳である。
一人一人の話を聞いていると、それだけで、
彼女たちが、女性として、どんな人生を歩んできたのかが、わかる。
一人ずつに、短編小説が書けるくらいである。
自分からナンパをする、と言った女性以外は、
私同様、未だに、独り身である。
何故、私がこんなことを書くかと言うと、
私が、Zと知り合ったきっかけも、結局のところ、ナンパだからである。
それは、どう綺麗な飾った言葉で説明しても、一言で済む。
「ナンパ」
だから、出会いは、単純である。
『カサブランカ・ダンディ』で書いた
ダンディズムを感じる男性についても、「線からはずれた人」であった。
仮にZとする。
(他のブログサイトから移動してきましたので、『カサブランカ・ダンディ』はここをクリックしてください。)
Zは、大学生の時から、京都の舞妓に入れあげ、
毎週のように、東京と京都を往復していた。
ご存知の通り、京都の御茶屋は、「いちげんさんお断り」の世界である。
そう言うところに出入りできる家の環境である。
そして、20代後半まで、働かなかった。
見かねたZの父親の友人が、Zのために東証一部上場会社の就職を世話した。
Zは、サラリーマンである自分を、嫌っていた。
サラリーマンのようなつまらない人種とつきあわなければならない、
そんな自分が、嫌でたまらないようであった。
だから、精一杯の反抗は、
会社員が絶対着ないような、銀座の一流店でスーツをしつらえ、
それらを着こなすことであった。
彼にとっては、給料は、意味のないものであった。
別に働かなくてはならないような環境では、ないのだ。
そういう類の多くの人間がそうであるように、
彼も完璧主義で、しかも、それを私に当てはめようとした。
私は、一度、彼のことを試した。
私が考えているような人間かどうかと言うことである。
それは、的確に当たった。
彼が、私に恋愛感情さえ抱いていなければ、
私たちは、いい友人になれたと思う。
本来ならば、私はこんな風に「線からはずれた人間」は、好きなのだから。
でも、それは、恋愛感情には、つながらない。