まだ、その頃、田舎に住む私は、友人と二人で、
東京に美術館周りをするために、旅行にやって来た。
金曜日の夜に関西を出発して、
日曜日の夜に戻る短い期間の滞在である。
土曜日の朝になって、友人である修子が
『具合が悪いので、部屋で寝ている』、と言い出した。
私に気を遣って、彼女は、
『休日を無駄にさせたくないから、悪いけど、一人で回ってくれる。』
と頼んだ。
私も側にいられると、却ってゆっくり寝られないだろうと思い、
『ほなら、夕食は一緒に食べよな。それまでには、帰ってくるしな。』
と言い残して、一人、品川のホテルを後にした。
午前中に、ある美術館を訪れ、昼食を取った。
午後には、新宿にある「東郷青児美術館」にあるゴッホの「ひまわり」を
観に行った。
お客さんは、かなり、少なかった。
常設の絵を観ているところに、横から男性の声が聞こえた。
『これは、マチスの影響を受けていますね。』
私は、横を見た。声の主に対して、かなり、冷たい目線であったと、思う。
彼は、私を見て、微笑んだ。
ヨットパーカーに、ジーンズ、スニーカー。
かなり、ラフな服装であるが、一つ一つが高価なものであることは、わかる。
少なくとも、下3桁に980円がつくような代物ではない。
何かしら野望を持っていそうな顔立ちである。
優しいとか、穏やかと言った類の顔ではない。
けれど、知的で、軽薄そうな印象は受けなかった。
Zである。
『はぁ。』私は、それ以上、返事せずに、次の絵に進んだ。
彼は、その私の後を付いてきて、また、絵の説明を始めた。
私は、返事をしなかった。彼は、一人で話している体である。
東郷青児の絵の前を、私は素通りした。
チラとも観ずに、次のブースに進んだ。
彼は、まだ、私の横にいた。
『何故、東郷青児の絵を、観ないんですか?』
と彼は、私に尋ねた。
答える必要は、なかった。
『何故?』しつこく、訊いてくる。
私は、迷惑そうなため息をひとつ、ついた。
『はぁぁ。好きじゃないからです。』
『何故、好きじゃないの?聞きたいな。』
説明を聞くまでは、引き下がらないという強い調子である。
仕方がない。
『東郷青児の絵って、誰かの絵に似てると思いませんか?』
私は、反対に質問してみた。
『さぁ。思い浮かばないな。』
『竹久夢二とマリー・ローランサン、です。』
『なるほど。それで、竹久夢二とマリー・ローランサンの絵は、きらい?』
『そうじゃ、ないんです。
東郷青児は、竹久夢二の妻であるたまきが経営していた絵葉書屋で、働いていました。
竹久夢二は、旅行から帰ってこない。竹久夢二の絵葉書は、好評ですぐ売れる。
そこで、当時、東郷青児がゴーストライターとして、代わりに描いていた、
言われていました。
それに、東郷青児のフランス留学のお金もたまきが出したと言われています。
東郷青児は、フランスに渡り、マリー・ローランサンが注目されていることを知って、
竹久夢二とマリー・ローランサンの良いとこどり、したんです。
確かに、竹久夢二とマリー・ローランサンの絵って、共通項は多いです。
そういう嗅覚だけは、東郷青児と言う人は、働くんです。
私は、そう感じます。
確かに、ある程度の計算は、仕方ないと思います。
けど、計算だけで、描かれた絵は、好きになれないんです。』
彼は、改めて、私を見た。
『申し訳なかった。
あなたに、馬鹿みたいに、いろいろ言ったけど、
絵に詳しかったんですね。』