男性は、どうかわからないが、
女性にとっては、「ナンパをされる」という行為は、
それを口にするかしないかは別にして、重要な意味を持つ。


私は以前に、柔らかい友人と堅い友人と分けたが、
堅い友人の中には、自分の思いとは関係なく
状況的にそうならざらるを得ないという人もいる。
もっと、簡単に言うと、男性と縁がない、と言うことである。
ナンパされ慣れている柔らかい友人たちとは、
ナンパされるとか、されないで、
競い合うことは、まず、ない。
論点が違う。
ナンパされることは、大前提である。
どれだけ、変わった、おもしろい、興味深いナンパをされるか、
それが、大事なのだ。


堅い友人たちは、まず、ナンパと言う行為が、
まったく、彼女たちの人生に関わりないことが、多い。
そのことを、劣等感とするか、プライドとするか、
彼女たちの性格が、大きく関係している。
一人の友人が言う。
『もし、私が、ナンパされたことがない、って言うたら、
 みんな、信じると思うで。
 けど、アンタが、されたことがない、って言うたら、
 ウソや、と思うやろ。そういうこっちゃ。』
別の友人の友人が言う。
『私なんか、今まで、ナンパなんか、一回もされたことがないわ。
 ナンパされるのは、隙があるからや。
 私は、隙がないから、ナンパなんか、されへん。』
もう一人の友人である。
『今日、初めて、ナンパされてさ。私なんか、ナンパするかぁ。』と嬉しそうである。
『多分、私が油断してたんだよ。』
彼女たちの何人かは、ナンパされない理由として、
自分には、隙や油断がないということにしているらしい。
もちろん、それも一つの理由にあることに、間違いはない。
近所の人である。彼女は、中肉中背で、腰まで髪を伸ばしている。
『後ろからな、”すいません”言うて、声かけてくるから、
 ”ナンパや”思て、後ろ振り向いたんや。
 そしたら、向こうが、こっちの顔見てな、
 ”ゲッェ!もぅ、いいです。”言うて、走って逃げって行ったわ。
 もぉ、ショックやったで。』
A国大使館のスタッフにナンパされたという女性も、その一人である。
あるいは、その他の友人は、反対に自分の方から積極的に男性をナンパしている。
『ナンパするのってさ、ホント、勇気いるんだよぉ。
 だから、ナンパ、断っちゃ、ダメだよ。
 男の人も、必死だと思うよ。
 私、その気持ち、わかるもん。』
私は、ニューヨークが好きだという人たちの集まりに出かけたことがあった。
そこに来た女性の何人かの女性が、日本ではナンパをされたことがないが、
ニューヨークに行けば、ナンパされるので、
ニューヨークが好きだったり、住みたいと思ったりすることだ。
『ほぉ。』私は、びっくりした。
案外、このことは、根が深いのかもしれない。


私は、自分からナンパをすると言う彼女が好きである。
彼女は、いつも、努力をしている。
自分がナンパされないのであれば、自分からナンパすればいい、
と彼女なりにいろいろと考えて、行動に起こしている。
その努力が、他の人から見ていて、馬鹿げているように思えたとしても、
人の非難ばかりして、努力しない人より、よほど、マシである。
例えば、二人目の「自分は隙がないから、ナンパされない」という女性は、
背は高いが、小太りで、やせる努力はいっさいしない。
見た目も、性格的にも、可愛げ気がない。
仕事に行っても、いつも、不満ばかりを漏らし、
自分で何も努力しない。
常に、悪いのは他人であり、自分ではないと、自己正当化している。
だから、私は、彼女と友人になれない。
「友人の友人」と書いたのは、そういう訳である。

一人一人の話を聞いていると、それだけで、
彼女たちが、女性として、どんな人生を歩んできたのかが、わかる。
一人ずつに、短編小説が書けるくらいである。
自分からナンパをする、と言った女性以外は、
私同様、未だに、独り身である。


何故、私がこんなことを書くかと言うと、
私が、Zと知り合ったきっかけも、結局のところ、ナンパだからである。
それは、どう綺麗な飾った言葉で説明しても、一言で済む。
「ナンパ」
だから、出会いは、単純である。