||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ|| -18ページ目

泳ぐ。

 市役所のプールに、週2度ほど行く。

 夜7時から9時までの2時間、水中ウォーキングをしたり、泳いだりする。

 

 腰椎ヘルニアと脊椎間狭窄(腰椎変性から進んでしまった)があって、腰が痛くてしょうがないのだが、最近になって硬膜外ブロック というのを病院でやってもらっているので、かなり楽になった。

 腰への麻酔が効いているうちに、泳いでいる。

 

 実は私はほとんど泳げないので、必死だ。

 壁を蹴ったら10メートルそのまま進み、息継ぎをする。

 5メートル進むことにまた息継ぎ。

 

 大変だが、泳ぐことは好きである。

 次の息継ぎのことだけ考えて、雑念を沸かせなくて済む、その集中が好きなのだ。

 

陰極まって陽になる

 オーラ、気、波動などと呼んだりするが、そういうものは実在すると思う。

 

 「陰極まって陽になる」という言葉は陰陽の格言で、陰陽で言うところの「陰気」が極まると、いわゆるポールシフトが起こり、陽気に転じるのだという。

 

 逮捕の数年前から当時にかけての私は、陰極まっていた。

 この時期どうにも不思議だったのは、食堂でもトイレでも喫茶店でも、およそ人が集まるところに私が入ったときには超満員で、私が入ったとたんに、まるで潮が引くように人が減り、閑散としてしまったことであった。

 毎度毎度超満員で並ぶときに店に入り、用が済んだときには閑散としてしまうのだから、タイミングの悪さといったらなく、本当に困っていた。

 

 それが釈放されてシャバに出てからというもの、180度違うことが起きている。

 店員に今日すいてるねなんて挨拶をして席についたとたんに、それまでガラガラだった店内に客が満ち、あっという間に満席になる。

 22時の閉店まであと10分というときに客のいない店に入って、席についてタバコを1本吸ううちに、レジに行列ができてバイトの子がてんてこまいということもあった。

 最後の1席によく座れるし、今までまるで当たらなかった懸賞にも当たるようになり、食べたいと思っていたものは人が持ってきてくれて、ほしいなと思っていたものはよく手に入る。

 

 陰極まって陽になったのだ。

 

 お読みになっている普通の方はうらやましいと思われるかもしれないが、私は自慢しているわけではないし、うらやましいと思っていただきたくもない。

 陰気に振り切った振り子が、陽気になって戻ってきている。私はそれを楽しんでいていい思いもしているが、それは淡々と受け止めている。

 逮捕前の10数年間は、心のうちに深い深い地獄を、抱え込んでいたからですよ。

 息も絶え絶えだったその時期、私は中庸こそがうらやましかった。

 

 以上の話を、みなさんは信じるだろうか。

 しかしこういった話は、オカルト研究者ではなく、むしろ経営というナマモノを扱う人こそに、信じてもらえると思う。例えば船井総研の船井幸雄の著作は、そういったことの連続である。

 第2の船井幸雄、金鉱水先案内人、カリスマ錬金術師、挫折を知らない人生マスター。

 私の尊敬する北村庄吾だったら、そういうこともあるかもね、と言ってくれそうな気がする。

 

 保護観察中の子供さんを持たれる方から、コメントいただきました。

 ご心配でしょうけど、もしかしたらお子さんは、そういう理由で近々陽に転ずるかもしれません。

 そうなれば、自動的に人生の全てが良いほうに向かっていきます。

 悲観せず、希望を捨てないでくださいね。

 

鳥インフルエンザについて知ろう。

 「知る」ということは、重要なことである。

 無用なパニックを、回避できるかもしれない。

 

 まずインフルエンザについて言えば、ほぼ10年周期で新株が発生している。

 従来のウイルスが変異したり、キャリア(ヒト・鳥・豚など)内で変化して、種をまたいで人間に発生したりするものだ。

 

 今回の鳥インフルエンザ(H5N1)も、基本的にはこれと変わりがない。

 異なる点はまだワクチンがないから、ワクチン抗体という点で手が打てないということぐらいだ。

 

 報道ステーションで、医療ジャーナリストなる人間が、「毒性が強い」と言っていたが、毒性とはどういうことだろう?

 O157やボツリヌス菌のようにベロ毒素を出すわけではないし、だいいち細菌ではなくてウイルスなのだから、直接の毒素は出さない。

 せいぜい、「インフルエンザ症状が強い」という程度の意味だろう。

 そう考えれば、別にペストや炭そ菌のような、特別な恐れ方をしなくてよいものだということが分かる。

 

 個人レベルでは、どのような手が打てるだろう?

 外出から帰ったらうがい手洗いの励行。

 あとは室内を十分に加湿すること(高湿度ではウイルスは生存できない)。

 これでとりあえずは十分だろう。

 

 かかってしまったら、一刻も早く医療機関を受診し、抗インフルエンザ薬「タミフル」か「リレンザ」を手に入れる(48時間以内に飲まないと効果がない)。

 

 私はこの冬、これで鳥インフルエンザと戦う。

 

 WHOでは新型インフルエンザの最初の発生国を、「東南アジアのどこか」と予測しているが、私はずばりあの国ではないかと考えている。

 それは、ベトナムだ。

保護観察(7)

 番組に出てきた僧侶の男性保護司は、家に上げず玄関先で面接を済ませていた(寺だから玄関といっても広いが)。

 お茶も出さず、やや雑な印象を受けたが、ベテラン保護司で5人を受け持っているそうで、もしかしたらこちらのほうが保護観察のスタンダードなのかもしれない。

 

 私の保護司さんは私が初めての受け持ちだから、よけい丁寧なのだろうか。

 前回は柿を出してくれた。せんべいとお茶はいつもあって、コーヒーをおみやげに持たせてくれた。

 もらってばかりでは悪いと思い、ちょうどあったミスタードーナツのポンデライオンのパスタ皿を差し上げたら、とても喜んでくれた。

 

 せっかく歓待してくれているのに早く帰ったら悪いな、という妙な気遣いもあって、小1時間ぐらいはいるようにしている。

 応接間での面接だが、次の間にはご亭主が一人で待っておられるわけで、その手持ちぶさたを考えると、どうも申し訳ないなという気持ちがしてしまうのである。

 

 僧侶はどうにも説教臭かったが(坊主だからか)、私の保護司さんは、人生訓めいたことは何も言わない。

 制度や法律についてや、犯罪心理学、一般心理学的な知識も私のほうが詳しい。

 うーんこれでいいのかな、とか、ちょっと頼りないなという気もすることがあるが、しかし今の私にとって(たぶん保護観察を受ける多くにとっても)、この人の存在はかなり大きなものだ。

 その理由は次回。

保護観察(6)

 なんだか前回は、ずいぶん宗教くさかった。

 私には取り立てて信仰もないから、不思議なことである。

 私が語るからインチキ宗教になるのであって、人格者が語ればいい話だったりして。


 番組に出てきた保護司は、63歳の僧侶だった。

 対象者の家庭環境を把握するために、家を訪問するのだという。


 本人宅訪問は、保護司の重要な仕事のひとつだ。 

 僧侶は言う。

 「その子が家庭内でどの地位にあるか、どういう待遇を受けているかを保護司が熟知しておくことは、非常に重要なんです」。

 

 犯罪を起こした家族を、「おーよくやったねー!」と迎える家族はいない。

 鼻つまみ者、顔に泥を塗った者、厄介者…。

 家族間の序列では、そのような地位に置かれることが多い。

 その居心地の悪さは本人をある種の開き直り、居直りに追い込み、居心地のよさを求めてかつての悪友と集い、再び犯罪に走らせる可能性がある。

 

 「本人は更生のために努力していますから、見守ってあげてください」。

 この僧侶は、そういったことを、家族に言い残していくのだろう。

 

 保護司には「裏切りがつきもの」なのだそうだ。

 番組では、面接予定の人間が面接に来ない「バックレ」を取り上げていたが、これは私は何度も何度も、申し訳ないぐらいやったことがある。

 最近少しマシになってきたが、最初のころは期日の変更ばかりお願いしていた。

 私が謝ると、「来てくれるだけいいの」と、嫌な顔ひとつされなかった。

 

 番組の後半になって、19歳の保護観察者が荒み始めた。

 旧友に出くわしたのを皮切りに、せっかく入った就職先の無断欠勤が続き、ついには解雇された。

 このままヤケにならなければいいのだが…。

 

 「保護司さんに心配かけるなよ」と、彼に念じている自分に気がついた。

 俺も頑張るからな…。

メンタルタフネス。

 逮捕され釈放されるまでの私は、気が小さく、しつこく、過ぎたことをいつまでもクヨクヨと思い悩み引きずってしまう人間だった。

 すぐ腹に来て、よく神経性の下痢をしていた。

 そういう自分に嫌悪感を抱いてすらいた。

 

 しかしどうも、今の自分は違うようなのである。

 たとえ、バカアホチビハゲヒステリー持ちという相手でも、こちらの言うべきところは言って、譲歩できるところは譲歩し、謝るべきところは謝り、妥協点を見つける努力をするようになった。

 そして、それで分かり合えない相手ならば、それはもう「仕方がない」と、割り切れるようになった。

 以前ならば、周囲にとらわれるあまりにクヨクヨイジイジといつまでも思い悩むところでも、あまり長い時間考えることが少なくなった。

 

 俺は刑事法廷に独りで立ったのだ、という妙な自信が、私を下支えしているのを感じる。

 逮捕という、自分以外には誰一人とて信じられるもののない状況を、自分は生き延びたのだという経験である。

 不安材料とたわむれられるほどタフではないが、少しだけ心が打たれ強くなった。

 

 「おたがいさま」という言葉の意味も、今ならわかる。

 

 先日、ゴミを出したの出さないのと、婆様同士が騒いでいた。

 カラスが散らかしたのあたしが片付けたんだからね! と、86歳で達者な婆様が、74歳の糖尿で体の弱った婆様を、居丈高に怒鳴りつけていたのだ。

 なんでそうなれるんだろう、と、私は不思議に思った。

 

 生きていれば、間違うことや迷惑を掛けることは、誰にだってあるだろう。

 病気をしたり事故に遭ったり逮捕されたり(?)、一方的に誰かに厄介を掛けたり、誰かの世話になる可能性は誰にだってあるわけで、その可能性を考えるから、人は誰かを一方的に断罪することをためらうし、誰かの面倒を見たりするのだろう。

 目の前の相手は未来の自分を映しているのかもしれないわけで、相手の失敗を許すことは、過去と現在と未来における自分の失敗を許してもらうこととイコールだ。

 もしかしたらそれが、「おたがいさま」の意味なのではないか。

 

 自分はそういう不完全な存在なのだから、「許す」なんて、おこがましいのかもしれない。

 許すも許さないも、私はそんなにえらくないのだから。

 私だって毎日を、他の誰かに、不完全であることを許していただきながら、生活しているのだから。 


 気の利いた中学生ならもう分かっていそうなことを、私は一から考えている。

 そしてそれはあまり楽しいことではなく、取り戻すことのできない長い時間と、それに伴う感傷との隣りあわせだ。

 

 こんなことを考えてしまう夜、私はたまらなく、名も知らないあの「男」に思いを馳せる。

 正真正銘のタフネスだったあの「男」は、まだまだ甘っちょろい私の考えを聞いたら、いったいどのような顔をするだろうか?

 

保護観察(5)

 前回書いた報道ステーションの保護観察特集の冒頭部分は、「保護観察中の再犯が相次いでいて、それは保護観察制度の限界によるものではないか」という問題提起だった。

  

 例として自分を王子と呼ばせていた監禁魔や、スーパーで幼児を刺し殺した男と、あと何かもうひとつぐらい挙げられていて、これだけ見るとたしかに、「保護観察制度が機能していないのではないか」という錯覚に陥りそうになる。

 しかしこれは、あくまでも錯覚だ。

 

 仮に「保護観察中の再犯」と「保護観察期間を終えた後の再犯」、「保護観察がつかなかった場合の再犯」を比べたら、再犯率という点ではあまり変わらない数字になるだろう。

 そしてそのことは、「保護観察と再犯には相関がない」、つまり「再犯する人間は、どういう状態でも再犯する」し、「再犯しない人間は、どういう状態でも再犯しない」ということの、間接的な証左になる。


 そこでむしろ「保護観察中は再犯率が低い」という結果になれば(あるいは「保護観察中の再犯率は他と比べて必ずしも高いとはいえない」という結果になれば)、それは間違いなく保護観察制度の直接の成果と言えるだろう。

 

 何やら回りくどい話になってしまったが、ちょっと事件が起こるたびに問題点をあげつらって、正義の代表者のような顔をしたマスコミに、だまされてはいけないということである。

保護観察(4)

 報道ステーションで、保護観察の特集をやっていた。

 保護観察を付されてから1年を経過した私にとっては、もはや日常になりつつあるが、外から保護観察制度はこう見えているのかという感慨をあらたにした。

 

 「保護司のなり手がいない」のだそうだ。

 番組は家族の反対があったり、人ひとりと寄り添う任務の過酷さという点でのみ、その理由を説明しようとしていたが、それは二次的な問題で、本質には社会構造の変化がある。

 

 番組は、保護司の選任を「保護観察所が推薦→法務省が委嘱」と、簡単にしか説明していなかったが、その推薦こそがかなり狭い門戸らしい。

 これは以前保護観察官から聞いた話だが、「まず今の日本で転勤がなく、ずっとその土地に住んでいる人がいったいどれくらいいるか」「その中から例えば前科がないだとか、一定の条件を満たす人ってことになると、さらに限られてくる」ということだった。

 そうした理由から、本質的にまずは、「保護司が出にくい社会」になっているのである。

 

 先にも書いたが、推薦されたあとに実際に保護司となる段になって辞退となるのは、「家族の反対」が大きいらしい。

 番組では反対の理由を明らかにしてはいなかったが、「犯罪者に危険にさらされるのではないか」とか、「大変な思いばかりするのではないか」とか、そういった理由だろうなと何となく想像がつく。

 

 私の保護司さんも、夫婦関係よりも保護司の守秘義務を優先させていて、対象者のことは一切ご亭主に話したことはないと言っていた。

 数十年を共に過ごしてきた、もはや何も秘密はないだろう2人住まいの老人が、今さら隠し事をしながら生活するというのはおそらく困難なはずで、そういう話を聞くと、何だか申し訳ないような気持ちになる。

 保護司さんが保護司の職務に就いているとき、ご亭主がおそらく感じているであろう「疎外感」という寂しさを、私も何となく感じてしまうからだ。

 

 私が以前、「他者からの無償の善意」という陳腐な言葉でしか表現できなかった保護観察制度の本質を、古舘伊知郎は「膨大な非効率」「そこらじゅうにいる神さま」と表現していた。

 

 「他者からの無償の善意」や「信ずるに足るもの」が、「世の中にはあるのだということ」。

 それを膨大な非効率において示し、さらには触れさせ感じさせる。

 自分と他人への信頼を、もう一度取り戻させるためだ。

 そこに保護観察制度の本質はあるのではないかと、最近の私はそう感じている。

アメリカ産牛肉。

 アメリカは相当前から20月齢以下の牛は出さないと言っているし、そのうえで特定危険部位も除去すると言っているわけで、日本が強硬に入れないと主張する理由は、もとからなかった。

 

 輸入再開をダラダラ先延ばしにして、国産牛業者に一息つかせているのでは…という勘繰りをしていたのだが、私のその考えも、あながち間違いではなかったのではないか?

 

 コメを入れた細川政権以来、もう与党が変わっても、農政は失墜したといっていい。

 自民党は都市部はおろか、農村部の固定票を押さえておく必要があった。

 

 選挙が終わったらすぐだもんね、解禁…。

刑務所考

 私は刑務所に行ったことがないけれども、報道される範囲内でも容易に想像できることがある。

 刑務所不足で、とんでもなく「過密」であるということだ。

 

 3人の房に5人が入る。独房に2人が入る。

 ベッドの上に棚のようなベッドを作って、だ。

 

 独房なんて、2畳もあればいいのではないか。

 そこに成人男子が2人だ。

 それはどう考えても、刑罰の域を超えている。

 司法行政の怠慢だ。

 

 香港は、啓徳国際空港の跡地を、ボーリング場にした。

 ならば日本は関西国際空港を、刑務所にしてしまえばいい。

 どうせ赤字ばっかり出しているのだ。

 

 海上だから、警備は簡単になるだろう。

 陸地への交通手段も完備されているから、職員は容易に通勤できる。

 いいことづくめだ。

 

 ニッポンのアルカトラズ。

 それぐらいアクロバティックな政策があってもいい。

 

 ところで、全国の刑務所で暴動騒ぎが起き出してから、政府はようやく刑務所の新設に本腰を入れだしたようだ。約半世紀ぶりのことである。
 この騒ぎが表面化する前は、法務省は「刑務所を新設する予定はない」と言い続けていたのだから、いかに受刑者の人権が軽んじられているかというものだ。

 
 全国の自治体も、職員の居住による税収増や地域経済の活性化に期待して、刑務所誘致にかなり乗り気のようだ。
 これには、脱獄や脱獄囚による凶悪犯罪が日本ではまず起きないことが背景にあるとみられる。

 
 近所に墓場や火葬場があると土地の値段が下がるというので、これらは建設自体が忌み嫌われ、よく地元住民との間でトラブルになったりもするが、刑務所はどうやらそうではないようで、私は少し驚いている。