||Φ|(T|T|)|Φ||    監獄☆日記    ||Φ|(T|T|)|Φ|| -13ページ目

パンツの穴

 西友でパンツと靴下を買った。

 今まで履いていたパンツは、留置場の中で「男」に貰ったものだ。


 手持ちの枚数では心もとなかったが、誰も面会に来てくれず枚数の追加ができなかった私に、「新品だからこれを使え」と、くれたのである。

 とはいえ、留置場では物のやり取りは禁止であって、それで「男」はどうしたかというと、夜の洗面後の入房のときにうまく自分の着衣の中にしのばせて房に入り、「明日の朝、着替えの振りして、ロッカーに仕舞っちまえばいい」とまで、厄介な面倒を踏んで貰ったものだ。

 

 男には、「次に来た奴に親切にしてやれよ」と言われていた。

 だから私は、ずいぶん後に入ってきた、着衣に困っていた中国人に私の新品のパンツを、男がしたような方法で、中国人にあげた。

 あげると言ったのに、中国人は自分のパンツが差し入れで入ってきたあと、彼が着用したもとは私のパンツを、私に返してきた。

 なんか嫌だなとは思ったが、もったいないので、返してもらって私は履いた。

 

 そのような思い出があるパンツを私は、中でも、帰ってきてからも履き続けていたが、ついに股の部分や太ももの部分がすり切れたり、穴が開いたりして、パンツの用をなさなくなったのだ。

 

 買ったパンツは安物だ。

 とんでもなく手触りのいい、速乾・防臭といった1枚2,000円近いパンツもあったが、私が買ったのは1枚300円のボクサーパンツ、2枚500円のトランクス、2足500円の靴下である。

 とても新素材には手が出ないから、綿のオーソドックスなものだ。

 

 残念だが、「男」に貰ったパンツは、次の燃えるゴミの日に出すことにする。

 

 名前も、年齢も、連絡先も、何も教えてはくれなかったが、貴方から多大な影響を受け、貴方に救われ、貴方に心から感謝を捧げている人間がここにいる。

 どうかどうか、お元気で。

母親に電話をかけられた。

 消してしまおうと思ったが、あえて残すことにした。

 以下は私がすでに用意してあった文章である。

 

* * * * * * *

 

 保護司から、母親に電話が行ったらしい。

 面接日に、私がすっぽかしたからだ。

 何のことはない。忘れて寝ていただけだ。

 

 母親から「保護司さんから電話があった」と留守電が入っていて、折返し電話をしたら「信用問題だからな」と散々文句を言われた。

 早いもので保護観察期間が始まって1年8ヶ月になるが、律儀にも私は2週に1度の面接を、ペースを守ってこなしてきている。

 

 今までは、たまたまそういうことがあったとしても、私の自宅なり携帯なりに当日連絡があった。

 今回留守電に入っていたのは2日後で、代わりに母親に電話をしていたわけだ。

 言ってくれれば起き出してすぐ行ったのに、という思いがある。

 

 だから、たまたま忘れたぐらいで(今までにも割とあった)、それほど慌ててもらわなくてもというわけだが、どうやら保護司の心境のほうに変化があったようだ。

 保護司会で、「面接に来ない人」や、「再び犯罪を犯す人」などの話を、ほかの保護司から聞かされて、心配になっていたようである。

 保護観察所主催の保護司の研修会も定期的にあるということだから、「1年8ヶ月目ぐらいが面接に来なくなる1つの分岐点」という統計があるのかもしれない。

 

 知らん。

 私は、根はときどき自分でも嫌になるぐらいの神経質で、おまけに小心者だから、かなりの高確率で保護観察期間を無事に終えるだろう。

 自分で言うのもなんだが結構まじめなので、残りの人生も犯罪を犯すことなく終えそうな気がする(まあそれでも、何があるのかわからないのが人生だけどさ)。 

 

 しかも私は、いい年をした大人なのだ。

 自分の頭越しに、別居の老母になどチクられたくはない。

 

 前科者カードも2枚目に入った。

 この期間で担当の保護観察官は3人目になった(割と頻繁に異動がある)。

 今度の保護観察官は、保護司によると、「暴走族には厳しい」そうだ。

 「だけどその他の人には普通」だという。

 カードの表書きを、最初の担当者と比べると、若干雑な印象を受ける。

 

 墓参りがてら、会いに行ってみようかな?


 あ、そういえば今日は 2度目の逮捕記念日 でないの。。。

 

 

* * * * * * *


  

 私が釈放されたあと、ほかの兄弟に迷惑を掛けるなというような意味のことを、母親は私に言った。

 そのときの口惜しさを、私は今後も忘れることはできないだろう。

 

 ガキでもあるまいしと、甘ったれて生きていることはよく承知しているが、私本位でないというのは、要するにそういうことだ。

 

 清濁あわせ呑んで、私は今日も生きている。

 

繋がれた、明日。

 人の善意に期待を寄せてあとで裏切られるより、最初から信じないほうがましだった――――――。



 19歳の時に殺人事件を起こした中道隆太は、26歳になり少年刑務所を仮出獄する。

 前科者の雇用を行う協力事業主である解体工事会社の社長以外は、隆太の過去を知らないが、ある日職場に「この男は人殺しです。皆さんもお気をつけて」という内容の写真入りビラが撒かれる。

 保護司と社長は、それでも隆太に職場に残れと勧める。

 そして思ったのが冒頭の言葉で、「繋がれた明日」 という小説の一節だ。


 ミスドでコーヒーを飲みながら読んでいたが、思わず目に涙がにじんだ。 

 私が隆太のように考えて、投げやりで、無気力で、ゆううつな日々を送っていたのは、それほど遠い昔ではない。

 

 そんなことがあった夜、寡黙だった職場の先輩格が、隆太の自宅に手紙を遺す。

 「出ているようなので、これを置いて今日はひとまず帰る。口べたな連中がそろってるから、今朝はうまく気持ちを言えず、君を不安にさせてすまなかった。自慢できる話じゃないが、自分にも恥ずかしい過去があるし、久保田だってたまたま警察の世話にならずにすんだけど、似たようなものだと言っていた。明日は待ってる。なぐさめにならないだろうが、仕事を見れば人がわかると俺は信じてる。 栗山」


 そこまで読んで、私は慌てて店を出た。

 このままでは店内で、私は泣いてしまうと思ったからだ。 

 

 私がもう一度、他人と自分を信じてみようと思うようになれたのは、私一人の力ではなかった。

 とりわけ監獄で、何の見返りも求めずに、私に接してくれた、あの「男」の存在が大きい。

 そして、保護司の存在がある。

 

 本当は今日の文章は、すでに用意してあって、それは「面接の日に忘れて行かなかったら、保護司が私の母親に電話を掛けてきた。私の頭越しに別居の老母に連絡をされたので、私は少し気分を害した」というものだった。

 

 そうではない。私は、釈放されてからのこの1年8ヶ月の間に、どれだけ傲慢になっていたのだろう。

 自分と少し連絡がつかなかっただけで、本当にうろたえてくれる人がいることに、心の底から感謝をすべきなのだ。

 

 折りしも今日、私は逮捕されてから丸2年を迎えた。

 その記念すべき日に、このような気持ちになれたことを、私は幸運に思う。

 自分本位でも他人本位でもなく、私本位に私のことを考えてくれる人がいる心強さという、私がいま手にしている幸運を、だ。

 

 浮かんだ涙はまたたく間に嗚咽に変わってしまった。

 ひとり涙を流す私を、テレビの上から、猫が興味深そうに見つめている。

荒川静香引退。

 私はそれが妥当でクレバーな結論だと思った。

 

 オリンピック選手として、次の4年先までフィジカルとメンタルを維持していくことには、おそらく途方もないエネルギーが必要なのだろう(原田雅彦も、おそらくはそれがもう維持できないと踏んだのだ)。

 特に女性の場合には、「美貌」と「若さ」が重視されるという面がある。それがフィギュアスケートならなおさらだ。

 20代半ばの荒川には、その意味ではこの先待っているのは下り坂だけというわけで、その意味でも本当にいい引き際だ。


 冬季オリンピック金メダリストという肩書きは、プロスケーターになるにしても指導者になるにしても最高の肩書きで、カネの面でも心配はなさそうだ。

 

 みっともないのは安藤美姫で、本番前の記者会見でも「こっちに来てから泣いてばかりいた」とか、そんなに嫌ならやめちまえと言ってやりたくなるほどの体たらくで、しかも本番ではあの有様だった。

 週刊誌では「トリノが終わったら引退して、22才で子供を産む」とか言っていたくせに、終演後またやる?またやる? と問いかける母親(事故で夫を亡くした薄幸なひとというイメージを勝手に抱いていたが、派手好きで太っている嫌ったらしい女だった)に、涙で即座にうなづく始末だった。


 城田憲子という、女子フィギュアスケート界を牛耳ってきた女帝が追放され、後ろ盾を失ったいま、安藤はトヨタの顔としても大学生としてもオリンピック選手としても、これから先は本当に孤独な戦いとなるだろう。

 

 4年またやってもいいけど泣き言を言うな。

 嫌ならやめちまえ。


 それがブサティと言われようがコケティと言われようが、一貫してミキティを応援してきた、このハゲかけたオッサンの偽らざる心境である。


miki


                            がんばれよな

足元見やがって(2)

 カロヤンガッシュ という製品がある。有効成分2倍などといっている代物だ。

 だいたい5,000円ぐらいで売られている。


 実際はなんのことはない、塩化カルプロニウム1%だったものが2%になっただけの話である。


 フロジン液という医薬品がある。

 便所の香水というか爺のポマードというか、なんとも強い芳香があるが、これは塩化カルプロニウム5%だ。

 健保適用で1本300円ぐらいか(ジェネリックならもっと安い)。


 医者に行くのは面倒ではあるが、発毛コストという点で言えば、こっちのほうが比較にならないほど安く済む。


 同じことは目薬や風邪薬、ビタミン剤、整腸剤といったものにもいえる。

 医師は病名さえつければ、健康保険の適用になる。

 価格の7割が保険から出ているから安いのであって、だから政府は自費にしようと言っているわけだ。



hurojin

パクられてはおりません!

 ずいぶん更新の期間が空いたので、ご心配くださったかたもあるかもわかりませんが、パクられてはおりません!ご安心ください。


 ところで大変遺憾なことに、私の頭頂部がハゲてきました。

 治療薬での治療を考えておりますので、今後はそれもアップしていきたいと思っています。




               1日目


            丸坊主を伸ばしてみたら、いつのまにかハゲができていた。

こんなことでいいのか(2)

 このように考えると、「なぜ学級崩壊が起こるのだろうか」ということの答えも、おぼろげながら見えてくる。

 

 学級(クラス)やその最小単位である「班」、部活動、学年、学校。

 これらはすべて「集団」である。

 そして、それを指導する「教師」は、集団の象徴であって、また具体的な存在でもある。

 だからたとえ1人であっても、教師という存在は「個人」ではなく、「集団」の象徴なのである。

 

 「家庭―会社―国」という関係性を、学校教育においても「家庭―学校―国」という形でそのまま持ち込んだことは、前回書いたとおりである。

 そこでは「個人」は、最初から「集団」に対立する存在と考えられていた。

 

 しかしバブル崩壊後の大停滞は、実体経済が主導する形で、今までのありようを変えていった。

 利益に貢献した個人へのインセンティブとともに、常に「個人」としての責任の所在を明確にし、「個人」として働くことを要求したのである。

 さらにそこで明らかになったことは、「もう集団は個人を庇護しない」ということであった。

 国と企業は個人が集団に盲従することを強いてきたが、バブル崩壊で明らかになったことは、国も企業もいざというとき個人を守ってはくれないということだったのである。

 

 実体経済が人間に「個人」として生きることを要請しているのに、公立学校は旧態依然として、個人は集団に対立するものみなし、「集団」に帰属することを要求している。

 それは、個人に不利益を強要していることにほかならない。

 

 これが前回私が書いた、「教師が尊敬されなくなった理由」の1つめである。

こんなことでいいのか

 なぜ教育現場は、こんなに荒廃してしまったのだろうか?

 それを考えるとき私には、「教師が尊敬されなくなったからではないか」という視点に基づく、ひとつの仮説がある。

 

 その昔、教師は聖職と言われていた。

 戦前の軍国教育に協力する見返りに、根拠のない尊敬を与えられていたのである。


 先生は偉いものなのだと、有無を言わさず頭から信じ込まされていた時代に教育を受けた人々が、私たちの祖父や祖母の世代だったとしよう。

 その影響を色濃く受けた子弟の世代が、私たちの父母の世代である。

 そのまた子弟が、われわれの世代というわけだ。

 

 「教師は人格者である」という「幻想」が、祖父母の代から父母の代へと受け継がれたのはわかるが、父母の代からわれわれの代へも、安易にその幻想が受け継がれてしまったのは、どうしたことだろう。

 言い方を変えればわれわれの父母は、なんで教師は人格者で、無条件に尊敬すべきものであるという幻想を、自分の子供に教えたのかということだ。


 私は高度経済成長が背景にあったと考えている。

 われわれの父母の世代は、明るい前途が垣間見えるなか、自分たちが受けた「学校教育」というものに何の検証もしてこなかったのではないか。

 彼らが学校教育に対して目立った異を唱えなかったのをいいことに、国(官僚)は偏差値教育と管理教育を日常生活の隅々にも導入していった。

 本来、「しつけ」を始めとする基礎的な教育権は家庭にもあってしかるべきだが、義務教育はそれすらも家庭から取り上げていった。窮屈な制服や理不尽な校則、生活態度までもを相対評価する通知表、内申書、家庭訪問や二者面談、三者面談という形でだ。

 それはまるでリモートコントロールのようなもので、「学校の規則に従えないのは家庭でのしつけに問題がある」という論法だ。

 

 大多数の生徒は「決められたもの」として従ったが、もちろんそこからはみ出した人も多くいた。

 教育界に残る「荒れた80年代」という表現は、以上の出来事と年代的に符合している。

 だからスクールウォーズに出てくる不良たちは、理由なく暴れたわけではないと思う。

 

 今の状況を考えれば、「生徒は普遍的に教師に従うもの」という前提で物事を考えていた当時の国も日教組も安易で、そのことに対する責任がある。

 しかしそれと同様の責任が、自分たちの受けてきた教育を検証しなかった世代(具体的には80年代近辺に親だった世代)にもあるのだ。

 いまさら言っても仕方のないことだが、今の状況もすべて学校が悪いわけではなく、異を唱えなかった自分たちにも責任があるということは知っておくべきだ。

 

  

                                                      (つづく) 

こんなことがあるのか(3)

 謝恩会という言葉があるが、子供のころから不思議だった。

 謝恩会は保護者(当時は父兄と言ったりもした。母と姉はどうなるのだと話が出てきて、言葉が変わったのだ)が主催するものだが、普段先生と接していない親がなんで恩を知ることができるのだろう?


 N先生は小学校の担任の先生ではあったが、別に私にとっての恩師ではない。

 私は小学校が義務教育だったから行っていたのだし、先生も地方公務員として教師をしていたのだろう。

 それは日本中でみられる関係性であって、恩もヘチマもない(それをいうなら北村庄吾の方がよっぽど恩師だ)。

 

 歳月は、2年間をともに過ごした先生を変えてしまった。

 もちろん私も変わっているだろう。

 私たちが同じ教室で過ごした時間を思い出すとき、懐かしい気持ちになる。


 だが私は、懐かしいという言葉があまり好きではない。

 もちろん懐かしいことは懐かしいのだが、「懐かしい」と言ってしまうと、すでに止まった定点から過去を振り返っているような感じがする。


 ある出来事を懐かしんでしまうと、自分が前に進まず、止まってしまうのではないかという気がして怖い。

 私が過去を懐かしむのは、老人になって大病をして、もう余命いくばくもないというときではないかと思う。

 病院のベッドの上で、いろいろなことを思い出し、「あぁ懐かしいなあ」と思う。

 それが理想だ。

こんなことがあるのか(2)

 この教師はF県の農家の出身で、A学院大学を奨学金を得ながら卒業し、身障者の弟がいたはずだ-------------、少しの時間に、そんなことまで私は思い出していた。

 

 私のクラスで弟が知的障害者の女の子が、それが元でいじめられるというようなことがあった。

 そのときにこの先生は、自分の弟が脳性マヒで車椅子生活をしていること、そしてそういう身障者は健常者に比べて長くは生きられないのだということを、話してくれた。

 身内には結婚差別があるのだということも、遠まわしではあるが話してくれたような気がする。

 12歳の男の子など、精神的には未熟だから、そのときのこの人の言葉をほんとうには理解してはいなかったのかもしれないが、それでもこの年まで記憶に残っている。

 

 周囲に気を使いながら、「学級崩壊ってほんとにあるんですか?」と聞くと、そりゃありますよと小さく答えられた。

 「ほんとに今は体罰ってないんですか?」と聞くと、「昔はうるさくなかったけど今はね…。そんなことしたらクビになっちゃう」と、ことさら声をひそめられた。

 

 今も昔も、教師になるということはそれほど簡単ではない。

 教師になるためには大学で教職課程を履修しなければならないが、履修登録をするのは入学してすぐなので、裏を返せば18やそこらで「将来は教師になる」という方向性を持っていなければならない。

 また教職課程はいっさい卒業単位に算入されないが、そのわりには時間ばかり取られる。

 そのうえ教職課程は、どの学部でもあらかた必修科目の終わった最終時限に開講されていることが多く、(単位的に)何の得にもならないという思いは、疲れた頭と体に追い討ちを掛けることになる。

 そんなわけで、バイトや恋愛といった誘惑に負けて、ドロップアウトしていく学生も多いのである。

 

 やがて電車は先生の降りる駅に着いた。

 教師というだけで誰からも無条件に尊敬される時代ではなくなり、格差を具現化する私立中学への避難的な進学にも歯止めがかからず、公立小学校はどうしようもない混乱のさなかにある。

 また小中一貫だのオンリーワン教育だのネイティブ英会話だのIT化だの犯罪から子供を守れだのと、無理難題を押し付けられた現場教師たちの苦労は、察するに余りある。

 定年まであと6年、それまで頑張ってくださいという意味を込めて、「頑張ってください」と言うと、「いやこちらこそ。頑張ってください」と言い、「失礼します」と頭を下げられた。

 それがどことなく他人行儀で、少し寂しかった。

 

 私と同学年のHと、赤提灯で飲んだという話を先生はした。

 なんとなく先生は、私と飲みたいのだということは感じた。

 それは単に、互いの再会には、とどまらないのだろう。

 自分が教師として歩んだ道を、私のなかに確認したかったのではないか(しかし、昔の教え子が犯罪者になったと知ったら、どう思うだろうか?)。

 

 私は酒が飲めないから、こういう場合の間の取り方がよくない。

 「今度飲みましょうよ! ガハハ」とか、「話はわかった、まず飲もう」 とか、そういう誘いがうまくできないのだ。

 そして警察の厄介になってからそう日が経っていないという事実が、私を人とのかかわりから遠ざけさせる。

 

 来年の正月に年賀状でも出そうか。

 月並みだが、それぐらいしか案が思い浮かばないのだ。