上差し 2024年2月10日(土)、六義園付近にある東洋文庫ミュージアムで開催されている企画展『キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジアー』へ行ってきました。

 

 

下差し 六義園付近にある東洋文庫ミュージアムとはいっても駒込駅から徒歩で15分くらいの場所にあります。良いお天気に恵まれ、今日はとても有意義な一日を過ごすことができました。アーメン!

 

 

下差し この企画展『キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジアー』は "知る人ぞ知る" 展示会ですので、知らない人は横浜中華街で行われている「横浜春節祭2024」に行ってしまいそうですけどね。敬虔なキリスト者ぶっている私は「横浜春節祭2024」に行ってしまったキリスト教徒を「バカ者!」と呼びたいです。

 

※ 最近の中国は色々と問題がありますからね、動物虐待(子猫虐待グループ)事件が多発していたりしますから。コロナなど悪いことは全て中国から出てくるような気がします。イスラム教徒と同じですね。

 

 

下差し 入場料は大人1人900円でした。しかし、流山おおたかの森から電車で都内まで出るには片道860円かかりバス代を含めると片道1000円になりますからね。この後、次いでに六義園にも行きました。

 

 

下差し 次回、『アジア人物史』の入場料が2割引きになる優待券を頂きました。

 

 

下差し 東洋文庫ミュージアムの館内はそれほど広い訳ではありませんが、珍しい近代的でオシャレな建築様式でとても興味深かったです。

 

 

下差し この階段も下が見えて怖いですが、2階で1日中働いてるガードマンさんはもっと大変だと思いました。

 

 

下差し 能登半島地震以後、建築物にはオシャレな要素とか必要ないと思うようになったんですよね。こんなにオシャレな階段を設置したとしても耐震性はあるのかな?

 

 

下差し オランダ人司祭のルカ・ホルスティンク神父さまが2014年まで暮らしていた京都フランシスコの家があった場所は京都の南蛮寺の跡地でした。そのことについても紹介されていました。

 

 

下差し 京都の南蛮寺は『南蛮堂』と呼ばれていたようです。四条大宮駅から歩いて10分ほどの場所にありますが、詳しい住所を言えば「京都市下京区岩上通り四条下る佐竹町388」ですね。現在では、その老朽化した京都フランシスコの家も壊されて敷地内には小さなチャペルが建っているだけですが。

 

 

下差し でも、この『南蛮堂』の絵を見るとかなり大きな教会だったのだと思います。そうすると、京都フランシスコの家が建っていた敷地だけでなく、佐竹町の一角全てが『南蛮堂』の敷地だったのは明らかです。京都フランシスコの家のお向かいの小林さんの家もそうでしょう。小林さんがおっしゃるには、あの佐竹町の一角全てが染物屋が集まっている村なのだそうです。今でも京町屋が建ち並んでいます。

 

 

下差し ラテン語の讃美歌です。京都のキリシタンたちはオラショとかは歌わなかったんですかね。

 

 

 

下差し 主に、日本での宣教活動の歴史に関わる書籍が展示されていました。2016年に上映された映画『沈黙 -サイレンス-』を観た後、2017年のGWに訪れた大浦天主堂です。その敷地内にある「マキシミリアーノ・マリア・コルベ展示室」について書いた記事がありました。

 

 

大浦天主堂「フランス寺」の正式な聖堂名は「日本二十六聖殉教者聖堂」だそうです。1865年3月17日(元治2年2月12日)に、ここで最初の隠れキリシタン(プティジャン神父の信徒発見)が見つかったんですよね。

 

 

下差し 個人的には、大浦天主堂よりも浦上天主堂の方が美しいと思いました。2017年のGWに訪れた際に聖堂内に「祖先の旅で示した強い信仰に倣いそして子孫に伝えよう」というスローガンが掲げられていたのを思い出します。

 

 

下差し この浦上天主堂は隠れキリシタン弾圧で殺されたキリシタンが多く「浦上崩れ」と呼ばれていますが、それが慶応3年(1867年の浦上四番崩れ(浦上教徒事件)まで続きました。

 

 

下差し 2017年のGWで浦上天主堂で夕方6時から始まるミサに出席した際に私の隣に座っていらっしゃった老婦人の方からこの不思議のメダイを抱きました。多分、私が聖堂内のステンドグラスなどの写真撮影をしていたので未信者と思われたのかも知れません。まあ、カトリック信者でも観光客であれば物珍しさで聖堂内の撮影をしても不思議はないと思いますが。あの頃の思い出として大切に保管しています。

 

 

下差し 戦前からイギリス人宣教師も日本で布教していたようです。生麦事件とかありましたからね。

 

 

下差し 当時、福岡県にあった聖公会の教会の日本人信者がこんなに大勢いたようです。

 

 

下差し 御茶ノ水駅前にある在日ロシア正教会のニコライ堂は1891年からあるんですね。

 

 

下差し 現在のニコライ堂での礼拝の様子です。日本在住のロシア人信者の数もそれほど少なくはないようです。

 

 

下差し WIKI「ニコライ堂」によると [関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る] とのことです。

 

 

下差し 函館にも古い教会が多いですよね。オランダ人司祭のルカ・ホルスティンク神父さまが最初に赴任した場所も北海道の北見市でしたからね。どうして何でもかんでもではないと思いますが、西洋人って北海道が好きなんでしょう?最近ではニセコも日本の中の外国と呼ばれていますしね。

 

 

下差し この北京市内にあるカトリック教会にはまだ行ったことがないですが、上海市内の大聖堂は美しいですよね。スピルバーグ監督の「Empire of the Sun(太陽の帝国)」の舞台になった場所です。

 

 

下差し スピルバーグ監督の「Empire of the Sun(太陽の帝国)」の撮影現場になった上海市内にある大聖堂です。このYOUTUBE動画でも大聖堂の内部を見ることができます。

 

 

下差し 中国というと儒教のイメージがありますが、中国にも4つの大聖堂があったようですというか、現在でもあるようです。

 

 

 

 

下差し 日本で最も有名な聖フランシスコ・ザビエルについて書かれてあります。

 

 

下差し 中国にある聖フランシスコ・ザビエルのご遺体を安置したとされる教会

 

 

下差し 聖フランシスコ・ザビエルって殉教していないけど聖人になれた司祭なんですね。何かの奇跡があったんだろうか?

 

 

下差し 聖フランシスコ・ザビエルの聖遺物がインドの教会に置かれているとのことです。

 

 

下差し やっぱりアジア、主に中国での布教活動をしたイエズス会の宣教師マテオ・リッチ司祭のことを忘れてはならないですよね。

 

何せ、WIKI「開封のユダヤ人」によると、「中国にもユダヤ人コミュニティーが存在していることは、17世紀初めにイタリアイエズス会の司祭、マテオ・リッチが開封出身のユダヤ人に会うまで、広く知られてはいなかった。1605年にリッチは艾田という名の開封出身の若者と出会い、艾田はリッチに自分が一神教の信者であると説明した。また、艾田はキリスト教の幼いイエス・キリストを抱いた聖母マリア像を見て、旧約聖書リベカと、その息子エサウまたはヤコブの像だと信じ込んだとも記録されている。艾田は自分が開封出身で、そこには多くの同胞がいると言明した。リッチは最初に開封へ中国人のイエズス会員を派遣したのをはじめ、その後も多くの会員を派遣した。」とあるようにユダヤ教徒にとっても重要な人物ですからね。

 

 

下差し この画像は、『キリスト教交流史ー宣教師のみた日本、アジアー』の展示室のモニターに映し出されたイエズス会の宣教師マテオ・リッチ司祭の絵です。

 

 

下差し 2015年2月7日(火)にアマゾンで注文した買った東洋文庫から出版された『マッテオ・リッチ伝 I』です。イエズス会の宣教師マテオ・リッチ司祭の中国での布教活動について知りたくて買った訳ではなく、「イスラエルの失われた10支族」の子孫が現在の中華人民共和国河南省開封市内の一角に住んでいることを知り、宗の時代に中国のユダヤ教徒たちがどう暮らしていたのか書かれてあるのではないかと思い買いました。(実際には、中国のユダヤ人についてはそれほど多く書かれていないです。)

 

 

下差し 中国の文化や漢字を完全にマスターしていたので中国人から信頼されていたとのことです。

 

 

下差し 16世紀に南蛮人たちが持っていた日本地図です。北海道(蝦夷地)は当時日本ではなかったんですね。

 

 

下差し 中世時代のラテン語で書かれた聖書(グーテンベルクの印刷機はあった)

 

 

 

下差し 杉田玄白の『解体新書

 

 

下差し 人体についてかなり詳しく書かれています。

 

 

下差し 『解体新書』(かいたいしんしょ、旧字体表記:解體新書)は、日本語で書かれた安永3年(1774年)発行の解剖学書。ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムス医学書 "Anatomische Tabellen "(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語書)である "Ontleedkundige Tafelen "[注 2]1734年刊行。日本語での訛称[5]および通称は『ターヘル・アナトミア』)を主な底本として[7]江戸時代日本人西洋医学書を日本語に翻訳した書物である。(WIKIより

 

 

下差し 著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸日本橋板元須原屋市兵衛の下で刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれている。WIKIより

 

 

下差し 解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen 

 

 

下差し 『Ontleedkundige Tafelen (ターヘル・アナトミア)』、日本語にすると「分析表」

 

 

下差し 江戸時代の日本の様子が描かれています。恐らく、江戸時代の発音は「イェッド(yeddo)」だったのかも知れません。

 

 

 

下差し そして、2階は図書室『モリソン書庫』になっています。

 

 

下差し 実際には展示されているだけで本を手に取って読むことができません。

 

 

下差し 中国滞在20年の間に極東に関する欧文文献を収集し(「モリソン文庫」と称された)、1917年、岩崎久弥に買い取られ、のちの東洋文庫のもととなった。(WIKIより

 

 

下差し 『タイムズ』通信員であったジョージ・アーネスト・モリソン氏は日本に滞在したことがなかったようです。

 

 

下差し 私のマンションの壁も本棚の壁紙が貼られていますけど、こういう本棚に囲まれた部屋って好きなんですよね。オマケに本棚の隠しドアがあればもっと良いです。

 

 

下差し 大地震がきても本棚から落ちないようにボンドで固定されていたりして・・・。

 

 

下差し 恐らくですが、中国語の本ばかりだと思います。