2023年7月9日(日)に長野県佐久市内にある佐久カトリック教会を訪れた際に2015年から主任司祭をされているルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまから「日の沈む国から日の昇る国へ」という自叙伝を頂きました。因みに、これは大阪にあるフランシスコ会の日本支部が独自に製本したものですので書店で販売されていません。

 

 
 
下差し ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまの経歴と詳細については以下の通りで京都河原町教会の月報で紹介されていました。
 
この自叙伝「日の沈む国から日の昇る国へ」には、1931年10月12日生まれのオランダ人司祭であるルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまが1958年12月29日(月)にアベケルク号でフランスのカレー港を出てジブラルタル海峡を通ってインド周りでシンガポールから神戸港へ辿り着くまで船酔いで寝込ん日々のことなどの珍道中を繰り広げながら約2か月間(1959年2月8日(日)来日)の船旅を経て日本へやってくるまでのことが書かれてありました。
 
十字架 大抵の場合、カトリック教会と全く関係のない生活をされている日本人であればカトリック教会のシステムについて全くご存じないかも知れませんが、何かあった時の為に1つの教会に2人のカトリック司祭が暮らし修道生活をしています。例えば、私が受洗した金沢市内にあるカトリック広坂教会カルメル会所属)には当時6人のイタリア人司祭が一緒に暮らしながら当番制で聖霊修道院や県内にある幾つかの司祭不在のカトリック教会へ出向いて日曜日以外も毎朝ミサを挙げて下さっています。現在でもカトリック広坂教会には6人の日本人とベトナム人司祭が生活されています。
 

 

下差し そして、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父が京都市内にある京町家を買い取って「京都フランシスコの家」というキリスト教文化資料館を始められた際にもう一人のオランダ人司祭であるゲラルド・サレミンク神父さまもいらっしゃいました。いつも物静かな神父さまでしたが、こうして1997年4月に亡くなられるまで戦争時代にオランダ人捕虜として日本軍により強制労働をさせられ虐待を受け戦争で負った心のケアに尽力されオランダと日本の和解の為に人生を捧げて下さいました。

 

本当は、個人的には、このゲラルド・サレミンク神父さまについても功績が歴史に残るように私が代わって自叙伝を書いて差し上げることができたら良かったと思いました。しかし、残念ながら、私が知っているゲラルド・サレミンク神父さまというのはご病気で毎日のように健康維持の為にヨーグルトきのこを食べては、それに牛乳を少し足して食器棚に仕舞い込んでいるお姿だけでした。そして、1997年8月に私が夏休みにドイツから一時帰国した際に「京都フランシスコの家」を訪れた時、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父が小声で呟きました・・・、「ゲラルド、死んじゃった(涙)。」と。その時、ヨーグルトきのこを食べても健康になれないことが分かったのでした。

 

(画像提供:「十字架の塔」の整備と献花式)

 


下差し この写真は、私がまだ18歳の頃に「京都フランシスコの家」に撮影したものです。当時、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまが55歳の時でした。あの頃は、まだゲラルド・サレミンク神父さまもいらっしゃいましたし、スペイン人で冗談ばかり言っていたゲル修道士(ゲルさんと呼んでいた)もいらっしゃいました。

 

しかし、そのゲル修道士(ゲルさんと呼んでいた)は、当時の奈良女子大学でスペイン語の講師のアルバイトをされていて、バイクに乗り奈良へ行く途中で事故にあい亡くなってしまいました。

 

 

 

 

上差し その点では、行き過ぎた環境保護が当たり前となっているオランダ育ちのお二人の神父さまたちはオランダから持参した自転車を移動手段としていたので安心でした。しかし、そのオランダ製の自転車はサドルが高い位置にあり、オマケにブレーキはハンドルに付いておらずペダルを逆に回すと止まるシステムの少々不便な自転車でした。四条高倉にある大丸百貨店の地下街のドンクでライ麦パンを買うのが私の役目でしたが、「京都フランシスコの家」がある四条堀川から四条高倉まで信号機がいくつもあり赤信号で止まる際には足が地面につかないのでブレーキを使わずに自転車に乗ったまま電柱につかまって止まることにしていました。

 
※ 因みに、そのブレーキのことを英語で「フット・ブレイク(foot breaks)」や「バック・ペダル・ブレイク(back-padal breaks)」や「コースター・ブレイク(coaster brakes)」と呼ぶとのことです。

 

 

上差し 上の写真は、京町家式になっている「京都フランシスコの家」の中庭を背景に撮影しました。

 

下差し ↓の写真は、「京都フランシスコの家」の客間で撮影しました。毎年、春休みになると2週間の予定で「京都フランシスコの家」に滞在しドイツ語を学んでいました。全くお化粧はしない人でした。爆笑

 

当時、大学生だった私も緑の党に憧れていて、その大学のドイツ語教授だった田村光彰先生(あだ名は「タムラ氏」)とカトリック広坂教会で事務員で加賀藩隠れキリシタン研究者の木越邦子さんが志賀原子力発電所建設反対グループの属していた為、彼らにその志賀原子力発電所建設反対グループのイベントに連れて行かれて一緒になって「明日は手弁当ですから頑張りましょう!」とエイエイオーをして、その後でまた飲み会に連れて行かれて頭の中は「エコロジー」の合言葉一色になっていました。そんな化粧をしないエコロジー的で飾らないありのままの自分がカッコいいと思い込んでいました。爆笑  これもまた、行き過ぎた勘違いな環境保護だったのかも知れません。

 

 

下差し こちらの下の写真は、私に洗礼を授けて下さったイタリア人司祭のクリストフォロ・ジョヴァンニ・カワルザン神父さまが2019年4月6日(土)に亡くなられる2年前に撮影しました。

 

 

 

このクリストフォロ・ジョヴァンニ・カワルザン神父さまも同じ頃に来日され、1959年2月からルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまと共にフランシスコ会が主催する六本木日本語学校に通い日本語の学習をされました。そして、丁度、1987年2月に北海道の北見教会から「京都フランシスコの家」に赴任された次の年にカトリック広坂教会での黙想会の指導をして下さったのでした。その時、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまと初対面でした。

 

因みに、当時というか戦後に初めてアメリカ進駐軍によって開校された日本語学校である「長沼スクール東京日本語学校」が現在でもありますが、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまのお話によると「長沼じゃないよ!カトリック司祭専用のフランシスコ会の日本語学校だよ!」とのことでした。

 

 

 

下差し こちらは、私が作成した「京都フランシスコの家」の見取り図です。フランシスコ会がこの物件を買い取るまでは染物職人のご家族が住んでいらっしゃいました。ここが日本26聖人発祥の地とされる根拠は、江戸時代にこの場所に広大な南蛮寺(キリスト教会の聖堂)があったことに由来するそうです。

 

因みに、この見取り図は私が記憶している2006年までの間取りを再現したものです。それ以後は、日本各地から日本26聖人に関わる遺品が寄付され飾る場所がなくなった為、恐らく、この染物店の店舗だった部分の壁がぶち抜かれて展示室として大部屋にリノベーションされた可能性があります。詳しいことが分かり次第再び修正したいと思います。

 

 

 

下差し こちらは、「京都フランシスコの家」の2階の見取り図です。染物職人の店舗だった部分の2階はルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまとゲラルド・サレミンク神父さまがリノベーションされ、外国人旅行客の為の民宿として使用されていました。

 

とにかく、ここは外国人バックパッカー専用の民宿でしたので1泊3000円ほどでしたが、2階にある給湯室にはオーブントースターがあるだけで調理はできませんでした。それでも英語が通じて京町家に滞在できることは外国人にとって最高のことだったと思います。

 

あれは・・・、春休みのことだったか忘れましたが、私がドイツから一時帰国した際に関西空港からドイツへ戻る時に「京都フランシスコの家」に立ち寄りました。そうしたら、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまが若いドイツ人男性たちのバックパッカー2人を連れて帰ってきました、「大雨の中、公園でキャンプしてたから連れて来たよ!」と。そして、少しだけ私がドイツ語で話し相手をしたら彼らの緊張もほぐれたようでした。きっと、あの時は宿代は貰わなかったような気がします。

 

※ しかし、「京都フランシスコの家」の2階の和室で死にそうな真夏の夜を過ごして以来、私は毎回、京都駅付近の九条にあるエアコン完備の「J-HOPPERS」というモダンな民宿に泊まっていました。

 

 

 

下差し 「京都フランシスコの家」の2階にもこのような手すりが付いていました。ここから中庭を眺めることができます。しかし、京都の夏はとても蒸し暑く、「京都フランシスコの家」の2階にはエアコンが設置されていませんでしたのでここから中庭を眺めてもロマンティックな気分になれなかったです。

 

(画像提供:町家リノベーション

 

 

下差し 京町家では一般的なことなのかも知れませんが、「京都フランシスコの家」の階段も例外ではなく傾斜75度くらいの昔ながらの伝統的な階段でした。

 

最初、上がるのも下るのも怖かったのですが、一週間も滞在していれば慣れてくるものです。しかし、滑ると困るので裸足で下る訳ですが、昔の人々は足袋を履いたままこの急な階段を上がり降りしていたなんて考えただけで恐ろしくなります。

 

(画像提供:京町家といえば隠し階段。階段が急なのは、収納スペースを確保するため)

 

 

下差し あれは確か、ゲラルド・サレミンク神父さまが亡くなられた次の年の夏休みのことだったと思います。夏休みが終わって再び関西空港からドイツへ帰る際に「京都フランシスコの家」に立ち寄りました。そしたら、アキコさんという40歳くらいの女性が「京都フランシスコの家」でお手伝いさんとして働いていました。彼女は「京都フランシスコの家」の電話番もしお掃除もし何でも屋さんでした。現在、「京都フランシスコの家」が解体された後、大阪のフィリピン系修道院でお手伝いさんとして働いていらっしゃるようです。

 

(画像提供:GOOGLE MAP カトリック小山教会 京都市北区小山上初音町12-1)

 

そもそも・・・、このアキコさんというのは最初はカトリック信者でなかったもののご結婚されていてDV夫から逃げて「京都フランシスコの家」へ女の駆け込み寺のように住む込みで働くようになりました。しかし、「京都フランシスコの家」は観光客などの人の出入りが激しいので隠れ家的な小山教会(上の写真)に一人で住んでいました。当時、この小山教会には司祭は住んでおらずルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまが毎週日曜日にミサを挙げに通っていらっしゃいました。確かに、この小山教会ならば彼女のDV夫も探せるはずはないし、彼女が使用していた部屋があった司祭館の2階に上がるには隠された階段を使わなければ行けない場所にありました。まるで「アンネの日記」の隠れ家的な場所でした。それから2年後くらいにアキコさんも受洗されカトリック信者になりました。

 

下差し 2013年に解体された「京都フランシスコの家」の跡地に新しく2階建ての小さな家が建っています。その内部の殆どが聖堂として使用される為、人間が住めるスペースはかなり狭いです。しかし、恐らく、これもルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまが困っている人々を救うことができるように意図的に建てられた家だと私は考えています。

 

(画像提供:ameblo-umezawa 「京都フランシスコの家の跡地を訪れて」)

 

 

 

下差し こちらが、大阪にあるフランシスコ会の日本支部が独自に製本されたルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまの自叙伝「日の沈む国から日の昇る国へ」(非売品)です。

 

※ 一応、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまから直接お聞きしたお話によると、今年11月にオランダから作家が佐久カトリック教会へやって来てインタビューに答えると、そのオランダ人作家がルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまの自叙伝をオランダ語で書いて下さるとのことでした。

 

 

下差し しかし・・・、この写真、どう考えてみてもゲラルド・サレミンク神父さまにしか見えないんですよね。

 

(画像提供:日の沈む国から日の昇国へ)

 

下差し もう36年の間、ルカ・ヘンドリクス・ホルスティンク神父さまと仲良くして頂いていますが・・・、今までにレーシック手術を受けられたというお話は聞いたことがありません。オマケに聖職者がご自分の眼をレーシック手術する為に支払う資金があれば、それを諦めて恵まれない子供たちに寄付するのがキリスト教徒の正しい道だと思うのです。だから、これ、どう考えてもゲラルド・サレミンク神父さまですよ。そして、実際に知っている私としても、このお二人、どう見ても似ていないのですが。

 

(画像提供:日の沈む国から日の昇国へ)