国立近代美術館の常設展で麗子生誕110年所にちなみ、岸田劉生作品及び岸田家からの寄贈品を一挙公開!
道路と土手と塀(切通之写生)1915(大正14)年 23歳 油彩・キャンバス
約100年前の代々木の風景。石塀は山内侯爵家のもの。(土佐二十三万石の大名山之内一豊公の江戸下屋敷。現在はない。)
「石塀と道が接するあたりでは、道が手前にまくれあがってくるように見えます。劉生は、むき出しの土が持つエネルギーを捉えたかった、と述べています。この言葉通り、急な坂道は、奥へと遠ざかる遠近法の力に逆らって、観るものに向かい立ち上がるようです。ちなみに、この坂道を更に上からおさえつけるように横切る二本の黒い棒の正体は?答えは画面右外にある電柱の影です。」
解説のわかりやすさ!絵を見てから解説を読んでまた絵を見て。一枚の絵をじっくり味わえる気がする。
作品の艶がすごい!こんなに艶々しい絵だったのか、とびっくりする。空のあたり、その艶がわかるだろうか?
絵の具の盛り上がりで石のごつごつした質感を。
このあたりの土の盛り上がりの絵の具の重なりも見惚れてしまう。
自画像1913(大正2)年 21歳 油彩・キャンバス
岸田劉生っぽくないな~、こんなぽわぽわな絵も描いていたの?と驚きつつ、解説を見ると・・・
「柳(宗悦)の家へはじめて行き、またここで沢山のゴオホやセザンヌや、ゴーガン、マチス等に驚いた。全くその時分はただただ驚嘆の時代だった。絵を見て、ウンウン云って興奮した。涙ぐむ程興奮しあったものだ。画も全く、後印象派の感化というより、模倣に近いほど変わった。露骨にゴオホ風な描き方をしたものだ。」劉生が「第二の誕生」と呼ぶ、1911(明治44)年頃の様子です。実物ではなく複製図版をみた反応なのに、いまからはちょっと想像できない興奮ぶりです。この時新しく劉生の中に「誕生」し、しばしば自画像の姿で示されたものこそ、どこまでも自由に拡張する「わたし=自我」でした。」
・・・・柳(宗悦)?・・・まさか~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。岸田劉生、柳先生と懇意だったの?!!うわ~~~~~~・・・。やめてほしい、全く心の準備もせずに、推しのすごいエピソードをぶっこんでくるとは・・。私の方が「想像できない興奮ぶり」になってしまうではないか・・・!しかも解説の文章で悶絶して泣きそう・・。(マスク手離せない)
1911年、柳先生は帝国大学で心理学を専攻され、「白樺」はその前年に創刊しているから、白樺に載せる為のゴッホやセザンヌやゴーガン、マチスの複製図版が手元にあったのだろう。岸田劉生も21歳・・。(自画像、30代くらいに見えるけど。)柳先生、帝国大学時代はどこにお住まいだったのだろうなぁ。下宿の部屋に沢山の本があって、若い二人の青年が感極まって早口で喋ったり、悶絶して押し黙ってウンウン言ったり、涙ぐんだり・・・。想像すると胸が熱くなって涙ぐみそうである。
白樺に掲載されたゴッホのひまわりが、若き棟方志功に「わだばゴッホになる!」と決意させたというし、当時の若者たちにとっては大興奮するしかない、感極まるものだったのだろうなぁ・・・。
部分をみてもゴッホ風。
自画像1914(大正3)年 4月9日 22歳 油彩・キャンバス
長女・麗子が生まれる前日に描いていて、制作中に奥さまがうめき声をあげるといらだって怒鳴りつけたそう!!(おいおい・・それって、産気づいてたってことだよね?あの時貴方私を怒鳴りつけましたわね?って、ネチネチあとからず~っと言われてしまいそうな案件。)
きました!麗子像!麗子肖像(麗子五歳之像) 1918(大正7)年 26歳 油彩・キャンバス
細密描写時代のもので、娘麗子を描くシリーズの記念すべき第一作!
上にアーチ状の額が描かれていて、よく見ると全体が「額に入った麗子の絵」を描いた絵というだまし絵になっているそう。
当時岸田劉生がハマっていたのは中世のデューラー。山田五郎さんの解説で知ってからず~っと見てみたいと思っていた一枚。
手にあかまんまを持っているポーズや、絵に描いた額や背景に字が書きこまれているのも、デューラーの影響大なのだそう。
麗子・五歳・娘の父
劉生はデューラーに影響を受けたものの、絶望的な気持ちになったり、そこから何度でも挑戦しようと気持ちを新たに絵に向かい、描きながら表現したいものをどう表現するか、ある進歩を見出したそうだ。
『白樺』1919年4月号への寄稿「思ひ出及今度の展覧会に際して」
「麗子の肖像をかいてから、僕は又一段或る進み方をした事を自覚する。今迄のものはこれ以後にくらべると唯物的な美が主で、これより以後のものはより唯心的な域が多くなつてゐる。即ち形に即した美以上のものその物の持つ精神の美、全体から来る無形の美、顔や眼にやどる心の美、一口に云へば深さ、この事を僕はこの子供の小さい肖像を描きながら或る処まで会得した。この事はレオナルドに教へられる処が多かつた」。
これを見て麗子像を見たいなと思うように↑
麗子六歳之像 1919(大正8)年 27歳 水彩・紙
麗子鬼を打つの図 鬼退治する麗子!!鬼の表情や、麗子の真面目な顔がおかしい!!
戯画(おはなの風船)1919(大正8)年頃 27歳 鉛筆、水彩・紙
こんな漫画みたいなものまで!麗子がはなちょうちんをボールにして遊んで、われてしまい、おかおが風船みたいになっておしまい。かわいい!おもしろすぎる!
奥さまや麗子さんの貴重な写真。
麗子さんは画家になられたそうだけれど、幼い頃の絵が飾られていて、それに岸田劉生の解説がついているのが最高!
「想像でかいた自像風、童女増であるが、写生画と対比すると、ずつと想像風の美がでてゐて、顔など理想的な美しさが出てゐる。しかも中々生きてゐて、構図もよろしい。第一に色のトンが中々美しく鉛筆の色も悪くない。毛糸のショールをかけてゐるが、これは私がしばしば童女像や村嫁像に用ひたものであつて、それを真似たものだが中々その美のこつをよくつかみ生かしてゐる。」 岸田劉生「図画教育論」改造社 1925年
・・・・たった一枚のこの絵に対して褒め褒めの褒めまくり!「図画教育論」という本の原稿なのだが・・すごい。それも何枚も何枚もあり、どれも「これこれが中々よくかけている。美しい」ばかり!!すごい~~~!
岸田麗子 静物 1921(大正10)年
確かに8歳でこの静物画、すごい!
「静物の水彩写生である。これは私の描いた材料を写生したものであるが、幼稚乍ら中々美しい。ことにギヤマンの瓶の口のところ等、美しく描けてゐる。」
岸田麗子 美人図 1924(大正13)年 11歳
「一体私は、いゝ画を求めた時とか何かさういふ機会があるごとに、麗子に示し強ひない程度で実にいゝと賞めて聞かせる様にしてゐる。それが決して外面的に云ふのでなく、自分も関心のあまりに発する嘆声なのだから子どもの心にそれが適ふものと思つてゐる。・・・元禄風の髪のゆい方をいつの間にか、絵をみる事によつて覚へてゐる。顔、形、色、模様、等中々に美くしい。」
何連発もの娘愛の最後にこの作品と解説で、不覚にも目頭が熱くなってしまった。これだけつぶさに娘の描くものを見て、中々いゝ!と感嘆の声をあげて褒めて褒めて・・それはどんどん伸びるだろうなぁ、子どもにとっては何よりの環境だったのではないだろうか。(岸田劉生さん、歌舞伎や骨董にハマってしまったり一家を支える家人としてはいろいろ大変そうではあったけれど。)
麗子さんのアルバム。可愛い!美しい方でお母様にそっくりに。
左が麗子さん。素敵な婦人画家に!
岸田劉生の日記。細かい~!
壺の上に林檎が載って在る 1916(大正5)年 油彩・板
ファン・ゴッホの影響から脱して、細密描写期に。
「劉生は、厚塗り時代にはすぐ仕上がったのに、下の絵の具の乾きを待って次を描く『細密描写』だと制作に時間がかかる、と述べています。そこにあらわされる感情の激しさも沈静化したようです。ただし、画家の内面が関与していないかというとそうではなく、劉生は自然のかたちと画家の『内なる美』が一致したときにはじめて写実の美は現れる、と考えていました。」
この作品は2018(平成30)年に修復をおこなって、画家が描いた当初の色彩や壺やりんごの質感と立体感がいっそうわかるようになった、と解説に書かれていた。つやっつや、昨日塗って乾いたばかりのような瑞々しさ。そんなに大きな作品ではないのに、会場で目を引いていた。修復ってすごい!
とかもかく解説がすごい!より深く作品を理解できるけれどもわかりやすく平易に。本当に考えられていて、学芸員さん達の努力が偲ばれる・・。
こんな動画を発見!
岸田劉生のお孫さん、岸田奈津子さんから柳先生が岸田劉生を白樺派の面々と引き合わせたエピソードが語られる!柳先生と岸田劉生の出会いはわからなかったけれど、貴重なお話。