【 「 細川興秋 生存説 」 400年目の真実 】 ( 3 ) | 高山右近研究室のブログ

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            今日 ( 7/27 ) の 見事な夕焼け

 

 

    ※ 「 全国かくれキリシタン研究会 会誌 」 第29号 より

 

 

    『 細川興秋 生存説 』 400年目の真実  ( 髙田重孝 )

 

 

● 細川忠興 ・ 玉の 次男 ・ 興秋 ( 与五郎 ) が、大坂の陣の時に

豊臣方に味方した責任を取らされて、切腹させられたのが、

 元和元年 ( 1615年 ) 6月6日のこと。

 

 天草地方に伝えられている 「 興秋伝承 」

 “ 細川興秋は、熊本より、天草の乱 ( 1637年 ) の前に、天草に

移ってきた。

 天草の乱に際しては、乱徒に組みしないように 説いて回った。”

 

 興秋は、1615年に 切腹したのではなく、

 その後も、ひそかに 生かされていた!

 

 

● そのことを裏付ける 貴重な史料となった、

    「 元和7年 ( 1621年 ) 5月21日付け、

     長岡与五郎宛、 細川忠利書状 」

 

 この 「 忠利書状 」 が書かれたのが、1621年。

 今年は、2021年ですから、実に “ 400年目の真実 ” !

 

・ 興秋が、1615年、大坂の陣の後、切腹したのではないこと

・ これまで 天草で語り継がれてきた 「 興秋伝承 」 が真実であった

 こと

 ━━ が、証明されたのでした。

 

 

 「 忠利書状 」 の内容 ( 髙田重孝さんの本文 )

 

 この 「 忠利の書状 」 を 現代語訳にすると、

 元和7年 ( 1621年 ) 5月以前、興秋 ( 38歳 ) は、どういう病かは断定出来ないが 手足を患い、

 幕府御典医である 「 与安法印 ・ 片山宗哲 」 が、わざわざ江戸より

呼ばれて、興秋の病状を回復させたことが判る書状である。

 

 その後の興秋の病状を回復させるために、与安法印は、湯治を勧める内容まで記されているが、

 人質として匿われている興秋を、湯治に行かせることは難しいと書いている。

 しかし、伊豆野喜助殿に相談の上 決める様にと言っている。

 

 興秋は、人質扱いをされて、厳重な監視下に置かれていたことが判り、

 半左衛門が付き添い、

 興秋の責任者として 伊豆野喜助殿の監視下に置かれていたこと、

 興秋を湯治へ行かせるかどうかの判断は、喜助殿に委ねられている

ことが判る内容になっている。

 

 また、書状に、 「 三斎様と私も在国にて 」 とあるので、

 三斎 ・ 忠興 ( 小倉城 ) と、忠利 ( 中津城 ) が、在国 つまり豊前にいることが判るし、

 

 興秋も、豊前において、人質扱いを受けて 隠蔽されていることが明確に書かれている。

 

 この書状は、忠利から興秋宛に出した秘密裏の書状であるから、

 中津城にいる忠利から、

 香春城の城主で、2歳年下の叔父 ・ 孝之 ( キリシタン ) を経由して、

 香春 ( かわら ) 町採銅所の 「 不可思議寺 」 に、住職として隠棲している興秋へ届けられた書状である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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