雨に打たれ もののあはれや 白芙蓉
上に同じと あさがおの君
「 大白芙蓉 」 ( 銘 浮舟 ) 直径25cm
※ 「 ロレンソ了斎と 諸田賢順 」 ( 髙田重孝 ・ 著 )
を 見ていきましょう。
● 1549年8月15日、日本に キリスト教を伝えるためにやって来たのは、フランシスコ ・ ザビエル神父、コスメ ・ トーレス神父、ジョアン ・
フェルナンデス修道士の3人でした。
ザビエルは、 鹿児島 ➡ 平戸 ➡ 山口 ➡ 府内 ( 豊後 ) で宣教の働きをしましたが、
日本宣教のためには、日本に大きな影響を与えている 中国 ( 明 )
への宣教が不可欠であると考えて、その準備のために インドに帰って行きましたので、実際には 2年3か月の日本滞在でした。
山口で ザビエルから洗礼を授けられた ロレンソでしたが、
ザビエルが日本を離れた後、
信仰の面で、ロレンソの 大事な時期を 共にいて、指導 ・ 訓練して
いったのは、トーレス神父でした。
このあとの ロレンソの 大切な働きの基礎を、しっかりと 築いていかれたのでした。
トーレス神父は、ザビエル神父が抱いていた 日本宣教の大志を実現させるべく、 ザビエルのあとを継ぐ “ イエズス会日本布教区 ” の
第2代目の長 として、21年間を 日本に滞在して、
1570年10月2日に、天草 志岐で 召天していかれました。
● トーレス神父について 記された文を、見ておきましょう。
「 すでに 老年であり、仕事や贖罪によって 体が弱っているにもかかわらず、コスメ ・ デ ・ トーレス神父の生活は、その多くが、心の祈りにあてられ、そのために 毎日 何時間もが費やされた。
太っているし 身長も高いのに、食事は非常に質素で、常に粗末で
味のない物を食べていたが、
それは、他の人にとっては、絶えざる断食として役立つほどのもので
あった。
日本の寒気は、非常に厳しいものであるのに、彼が 体を暖めるために 火に近づくのを 誰も見たことがないし、
貴人を訪ねる時のほかは、ほとんどいつも、帽子をかぶらず、素足でいた。」
「 決して 昼間 眠ったことがなく、常に なすべき仕事をしていた。
夜は、連祷や 聖務日課をとなえて 黙想した後に、イルマンと共に、
小麦を挽いた。
家の仕事をする時、一番先に 棒や石を運ぶのは 彼であり、こういう
仕事で示す 彼の力は、二人分 あった。」
「 豊後の修院で、夜の9時半以後、全員が 良心の糾明を行っている時に、トーレス神父は、翌日観想すべき点を イルマンに指示した。
皆が眠ったと思われる頃、毎夜 欠かさず、火を点じた燭台を持って
静かに自分の部屋を出て、修院で教育を受けている 少年同宿の部屋を訪ね、風邪をひかないように 彼らに寝具をかけた。
それから 台所へ行って、召使いの不注意で 鍋やフライパンが汚れたままになっていたり、瀬戸物類が洗われていないと、井戸から水を運んで、これらをことごとく洗った後、それぞれの場所に収めて、台所を掃除した。
それから、木材や そのほか修院に必要なものを運搬する 一、二頭の馬のいる馬小屋へ行って、もし 汚れていれば 掃除し、夜の飼料を与え、水を運んで飲ませた。
それから、修院内の各所や 扉を見回った後に、自分の部屋に戻った。
こうした仕事にもかかわらず、祈りのために起床するのは、早朝で
あった。」
「 あらゆる 愛の仕事に適した 偉大な心の所有者であると同様に、
たびたび 彼に加えられた侮辱、不名誉、軽蔑を耐え忍ぶのに、特別な忍耐を持っていた。
人々から加えられる 不当、理不尽なことにも 顔色を変えなかった。
キリシタンが しばしば、彼らの風習として、取るに足らないことを 長々と、理屈を並べて、はなはだしく煩わしい思いをさせたが、それを
楽しげに聞いて、彼らを喜ばせるように 努力した。」
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お茶タイム 「 大白芙蓉 ・ 浮舟 & きんつば 」