「天下布武」の本当の意味 | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■「天下布武」の本当の意味■□


1567年(永禄10年)       信長  34歳

 
  

 
「天下布武」といえば、信長が自身の印章に用いた文言として有名である。
彼が世の中に示した、公約のようなものである。

一般的に、「天下を武力で平定する」というような意味で捉えられがちだが、本当は武力の「武」ではない。

「武」とは本来、「戦いを止める」という意味を持つ。

武という漢字を分解してみると、「戈(ほこ)」と「止」から成る。
戈は、戦で使われる武器であり、戦いを表す。
それを止めるのが、「武」である。

また、武は「七徳の武」のことであると言われている。
古代中国の古典『春秋左氏伝』には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とある。

その七つの目的とは...

①暴を禁じる。(暴力を禁じる)
②戦を止める
③大を保つ(大国を保つ?)
④功を定める(功績を成し遂げる)
⑤民を安んじる(民を安心させる)
⑥衆を和す(大衆を仲良くさせる)
⑦財を豊かにする(経済を豊かにする)


こうして見ると、「天下布武」の本当の意味は、

「天下に七徳の武を布く」という、天下泰平の世を創る決意表明だったのだ。

また、「天下布武」の四文字は、このブログでも度々紹介した、信長の名付け親でもあり、「岐阜」という地名の候補を出した、沢彦和尚が贈ったものである。


信長は、この四文字を「自分の理想に合う言葉である」と言って喜んだ、という記述が以下に紹介する『政秀寺古記』に記されている。

ちなみに、今日紹介する部分は「岐阜の由来」の文の続きになっている。

信長は、沢彦に「岐阜の地名の他にまだ聞きたいことがあるが、ひとまず寺に戻ると良い。その時になったら、また迎えの者を送る。」と言っている。

その”聞きたいこと”というのが、朱印のことだったようだ。


①現代語訳

(前略)
また五、六ヶ月ほど過ぎ、お迎えが来るや否や、沢彦は岐阜へ向かった。
小侍将(こじじゅう)の宿所に着き、登城すると、信長卿は殊のほか喜び、
「私が天下を治めた時、朱印が必要になる。前もってご朱印の字を頼みたい。」と命じた。
沢彦は再三断ったものの、堅く請われたので、断り切れず、”布武天下”という字を書き付けて、進上した。

信長卿は、「寒空の季節に滞在していただき、朱印の字が整ったとのこと。私の考えそのものの字である。ただ、文字の数が四つなのは、いかがなものか。」と言った。
沢彦は、「大明国は皆、四字です。日本では四字が嫌われておりますが、ご自身の不確かな風説で御座います。」と答えた。

信長卿は、殊のほか喜色を浮かべ、花井伝右衛門を呼び、「朱印の字について沢彦と話し合ったから、黄金で判屋に彫らせよ。」と仰せ付けられた。
花井は油断なく判屋を呼び寄せて、朱印を彫らせ、早速出来上がったので、信長卿の御目に掛け、朱の押し墨で判を押してみたものの、薄くついただけだったので、再び銅と金を混ぜて彫らせ、判を押してみると、はっきりと押せた。
(後略)


②書き下し文

(前略)
又五六箇月ほど過て、御迎(おむかえ)来るや否、澤彦岐阜へ進発し給ふ。
小侍従(こじじゅう)が宿所へつき給ひて登城候へば、信長卿事の外御感にて曰ふは、我天下をも治めん時は朱印可入(入るべく)候。
兼て御朱印の字、被為頼(頼ませらる)に候との鈞命(きんめい)なり。
角(かく)て澤彦再三拒辞せられ候へども堅く請ふ。
依て不得輟(やめえず)して布武天下の字書付(かきつけ)被進上(進上され)けり。

信長卿曰は、寒天の時分、滞在候て朱印の字調ひ候事、思召の儘の字なり。
しかれども文字の数四つ字はいかが候とぞ御意なり。
澤彦曰は、大明国は皆四の字なり。
日本にて四つ字を嫌ひ申す事、自己の惑説に候とぞ。

信長卿、事の外御氣色喜び給て、花井伝右衛門を被召(召され)曰ふは、朱印の字澤彦へ対談いたし、以黄金(黄金を以て)判屋に彫せ候へと被仰付(仰せ付けられ)候。
花井油断なく判屋を呼び寄せほらせ候て、早速出来して掛御目(御目に掛け)候へば即ち朱にて押し墨にて押し給へども、うすくつき候により、又銅金交へてほり候へて、をし候へば分明に候とぞ。
(後略)



以下は、『春秋左氏伝 宣公十二年』の「七徳の武」について書かれた箇所を掲載するが、かなり簡単にあらすじを紹介する。

古代中国の「楚(そ)」という国と「晋(しん)」という国の国境付近で両軍が局地戦を展開し、楚軍が勝った。
すると、楚子の家臣の潘党(ばんとう)という者が「晋の兵の亡骸を積んで小山を作って、楚の強さを見せつけるものを作りましょう」と言ったのを聞いて、楚子が七徳の武について語り、家臣を諌めている。

書き下し文は、漢字が難しいので、現代語訳のみを載せる。


①現代語訳

(前略)
翌丙辰(ひのえたつ)の日、楚の輜重(しちょう)隊が邲(ひつ)に到着し、ついで衡雍(こうよう)に駐屯した。
潘党(ばんとう)が、「晋軍の屍骸を集めて、〔戦勝記念の〕京観(けいかん・大きな築山)を築き、標識を立てられてはいかがですか。敵を撃破したときは、子孫に記念を残して、武功を忘れぬようにする、とわたくしは聞いております。」と言うと、楚子は言った。

「汝はわかっておらぬな。そもそも「武」という字は戈(軍事)を止める意味である。周の武王が商を撃破した際に作られた『詩』の周頒には、

干戈(たてほこ)を収納し、弓矢を袋に入れよ。
我は美徳を求めて、この夏楽(かがく)を奏し、
王業を成して天下をば保たん。     (時邁)

とあり、同じく〔周頒の〕「武」の終章には、
汝が功をば強固にせん。

その第三章には、
先王の徳をばひろめ、我、征(ゆ)きて安きを求めん。

その第六章には、
万邦を安んじ、つねに稔(みの)りあり。
とある。

「武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの。
故に子孫に武功を忘れさせぬようにするのだ。

しかるに今、我(じぶん)は楚・晋二国の士兵の骨を戦場にさらさせた。
これは暴だ。兵力を誇示して諸侯を威圧した。
これでは戦を止めたことにはならぬ。
暴にして戦を止めずにいては、大を保つのは到底無理だ。
晋が存在している以上、功を定めるのは覚束なく、民の望みに背くことが多くては、民は安んずるはずがない。
徳もないのに無理に諸侯と争っても、衆を和するには程遠く、人の危機に乗じ、人の乱を幸いとして、己れの繁栄を考えていては、財を豊かにするのは不可能だ。

「武」の七つの目的のうち、我(じぶん)には一つも備わっておらず、子孫に残せるものなどありはせぬ。
先君の廟をつくって、戦勝を申し上げれば十分で、「武」は吾が功とは無縁である。

その昔、聖明なる王は不敬の国を攻め、その首魁を捕えるや、上に塚を盛り上げて処刑を果された。
この時以来、不敬の輩を懲らしめるための京観が始まったのである。
しかるに今、〔晋には〕さしたる罪過はなくなく、しかも民はみな忠誠を尽して君命に生命を捧げている。京観を築くことなど許されようか。」

楚子は黄河の神を祀り、先君の廟をつくり、戦勝を報告して引き揚げた。
(後略)


※書き下し文を読まれたい方は、柏木恒彦さまのサイト、
『〈稲葉黙斎と上総道学〉黙斎と語る』に掲載されている。
http://mokusai-web.com/index.html


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参考文献

・『南都七大寺縁起 其他 寺志篇』 鷲尾 順慶 編纂、国文東方佛教叢書
※この中に収録されている『政秀寺古記』より
・『春秋左氏伝(上)』 小倉芳彦 訳、岩波書店、1988年

 

 

 

 

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