★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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織田信長の人柄や精神面に
焦点を当てた逸話や記事を書いておりまする★

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□■「予と同じ誕生日の者よ、出て来よ!」by信長■□


年代不明


今日紹介するエピソードは、信長が天下をほぼ手中に収めた頃、信長が清須に赴いた時、自らの領内に「自分と同じ誕生日の者がいるならば、出て来い!」という触れを出し、その該当者に実際会ってみたという話である。

「自分は天下人となったが、自分と同年同月日同時刻に生まれた人は、どのような境遇で、どのようなことをしている人物なのか」ということに興味津々の信長が描かれている。

その人物は、極貧の禅僧であった。

実際にその禅僧と対面してみる信長。

同じ誕生日なのに、何故こんなにも境遇が違うのか不思議がる信長に禅僧は、気の利いた返答をして彼を唸らせる。

簡単にまとめると、
「人生いつ何時、幸福や不幸が舞い込んでくるか分からない。
今は幸福でも、次の日には不幸になるかもしれないし、またその逆もありゆる。」

というようなことを述べている。

詳しくは、現代語訳をお読みいただければと思う。


ちなみにこのエピソードは、大正時代に書かれた『落葉の籠』という本に載っていた話だが、なかなか面白いので紹介することにした。

もっと古い書物が出典なのかもしれないが、今のところよく分からない。
見付け次第、追記しようと思う。



①現代語訳

「信長公と貧乏和尚」

信長公が尾張の清洲より出て、徐々に国内を攻略し、一時覇を天下に称して天晴れ名将軍となりすまし、大威張りであった頃、ある時自分の生まれ故郷、清洲に帰省された。
その時、領内に触れを出して言うには、「自分と同年同月同日同刻に生まれた者がいるならば、出て来い」ということであった。

広い領内に同月同日同時刻に生まれた者は、ただ一人の禅寺の老僧しかいなかった。
その老僧はまたとない極貧の和尚であるが、しかし御意とあるからには仕方がない。
当時、威力と権力が著しかった信長公の御前に罷り出ることになった。

信長公は、「さて、どんな男だろうか。天下の将軍は自分一人であるが、仮にも自分と同年同月同日同刻に生まれた者とあれば、少なくとも郡の役人か、又は庄屋くらいの身分ある者であろう。」と一人推量しておられたが、何はともあれ逢ってみると想像と違い、水鼻垂らした貧乏和尚であった。

信長公はこの者に引見するや、その和尚に言った。

おぉ、そなたが自分と同年同月同日同時刻に生まれた男か!
しかし見れば、うちくたびれた極貧の様子。
今自分は天下の将軍であるが、同じ年同じ月日、同じ時刻に生まれながらも、人にはこれ程の隔たりがあるものか
」と心中いささか不憫に思われた様子があった。

するとその和尚は少しも憂えた気配もなく、呵々(かか)と打ち笑って、「いかにも仰せはごもっともであるが、しかし、私とあなたとはわずかに一日違うのみです。」と言った。

「一日違う?」
信長公はさっぱり合点がいかないので、「それはまたどういう訳か?」とお訊ねになると、貧乏和尚が言うには、「あなたは今日では天下の大将軍であるから、幸福もこの上ありませぬが、しかし世の中は一寸先は暗闇であるから、明日の日になれば、またどんな不幸に遭うかもしれませぬ。
私も今日でこそ貧乏寺のすっからかんの貧乏僧でありますが、明日になれば棚から牡丹餅のどんな好運が向いて来ぬとも保証は出来ませぬ。
昨日までのことは、早済んだこと、嬉しかったというのも、辛かったというのも皆夢であります。
明日から後のことは、その日になってみなければ、分かりませぬ。

そうして見れば、将軍様というのも、乞食坊主というのも、わずか今日一日だけのことであって、詮じ詰めれば、わずかに一日だけの相違ではありませんか」と言った。

これを聞き終わった信長公は、手を打って感心し、「そなたは見掛けにも似合わぬ中々の味を言うわい。」と言って、大層称賛され、御褒美として佐和山の御手許金を頂戴したという話がある。

その後、信長公は光秀の殺虐に遭い、件の貧乏和尚は不意に大金にありついて、永く安楽なる余生を送ったということだ。

結局は、信長公よりこの貧乏和尚の方が幸福であった。


②原文

信長公が尾張の清洲より出でて、漸次(ぜんじ)国内を攻略し、一時覇を天下に称して天晴名将軍となりすまし、大威張であつた頃、或時自分の生まれ故郷清洲に帰省された。

其時領内に布令を出して曰く、自分と同年同月同日同刻に生れた者があるならば出て来い」と云ふことであったが、広い領内にて同月同日同時刻に生まれた者とては唯一人の禅寺の老僧しかない、その老僧は又となき極貧の和尚であるが、併(しか)し御意とあるからには仕方がない、当時威権赫々(いけんかっかく)たる信長公の御前にまかり出ることになった。

公はさてどんな男か知ら、天下の将軍とては自分一人であるが、苟(いやし)くも自分と同年同月同日同刻に生まれた者とあれば、、少くとも郡の役人か又庄屋位の身分あるものであろうと獨(ひとり)推量しておられたが、何がさて逢って見れば、案に相違の水洟(みずはな)垂らした貧乏和尚である。

信長公は之を引見するや其の和尚に言って曰く、
「オオ、其方が自分と同年同月同日同時刻に生まれた男か、然(しか)し見れば、尾羽打ち枯らした極貧の様子、今自分は天下の将軍であるが、同じ年同じ月日、同じ時刻に生まれながらも、人にはこれ程の隔たりがあるか喃(のう)」と心中聊(いささ)か不憫に思はれた様子があった。

然るに其の和尚は少しも悄(う)れたる気色なく、呵々(かか)と打ち笑って、「いかにも仰せ御尤(もっと)もであるが、併(しか)し、私とアナタとは僅かに一日違ふのみです」といふ。

一日違う?
信長公は薩張(さっぱり)合点がゆかないので、「それは又何ういふ譯(わけ)か?」お訊ねになる、

貧乏和尚曰く「アナタは今日では天下の大将軍であるから、幸福も此の上ありませぬが併し世の中は一寸先は暗闇であるから、明日の日になれば、又どんな不幸に遭ふかも知れませぬ、私も今日でこそ貧乏寺の素寒僧でありますが、明日になれば棚から牡丹餅のどんな好運が向いて来ぬとも保証は出来ませぬ。
昨日までのことは、早済んだ事、嬉しかったといふのも、辛かったといふのも皆夢であります。
明日から後の事は、その日に成て見なければ分かりませぬ。

シテ見れば、将軍様といふのも、乞食坊主といふのも僅か今日一日丈の事であって、詮じ詰めれば僅かに一日だけの相違ではありませんか」と云った。

之を聞き終った信長公は、手を拍って感心し、「其方は見かけにも似合わぬ中々の味をいふわいと言って、大層称賛され、御褒美として澤山の御手許金を頂戴したという話がある、

其後、信長公は光秀の殺虐に遭い、件の貧乏和尚は不意に大金に有りついて、永く安楽なる余生を送ったといふことだ。

結局は信長公よりこの貧乏和尚の方が幸福であった。

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参考文献

・『落葉の籠』 円山賢詳 編、1926年

 

 

 

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□■馬印を派手にしたのは信長発祥か!?■□


年代不明


戦国時代頃から戦場において、自軍の大将の所在を示すために作られたものが馬印である。

馬印は軍旗や幟、指物と違って、旗の形をしていないもので、大将の馬の横に立てたため、「馬印(馬験、馬標とも書く)」という。

信長は、「金の唐傘(下図1)」と「南蛮笠(下図2)」を馬印として使用していた。


 ブログ「戦国武将「肖像・家紋」大辞典」様より


これらを採用した由来は不明だが、信長のことだから「金の唐傘は、日除けとしても使えるから」とか、「南蛮笠は、いざとなったら被れるから」など実用面も重視していたとしたら面白い。(笑)

今日紹介する『信長記』には、「永禄の頃までは、馬験というものはなく、元亀の頃より始まった。」と書かれており、「おっ!これは信長発祥か!?」と一瞬思ったものの、色々と調べてみると、そうでもなかった。


1546年(天文15年)に北条氏康の家臣の大道寺正繁が敵将・本間近江守を討ち取り、その指物である「金の提灯」を「九つ提灯」に変化させて自らの馬印にしたのが始まりだと言われている。

上杉謙信も「紺地に朱の丸扇」の馬印を使用していた。
 
ブログ「WTFM CLAN 風林火山文部省」様より
 

これは私の勝手な憶測だが、「馬印」を金キラでド派手にする流れを作ったのは、信長ではないかと思っている。

それは、彼の家臣団の馬印を見ていると、とても派手だからである。



『歴史群像シリーズ【戦国セレクション】 激震 織田信長』 より

  
以下、『信長記』のその部分を紹介する。


①現代語訳

『信長記』
「馬験の事」

永禄の頃までは、馬験というものはなかった。
元亀の頃より始まり、次第に長じて、今では印の要となっている。

信長公の旗は、一幅(約37.8cm)の黄絹に永楽銭を付け、招きには南無妙法蓮華経のはね題目(※1)を書き付けた九本(?)である。
武田入道信玄の旗は、白い絹五幅(約189cm)の折掛(※2)に黒い割菱を付けた五本(?)である。

この頃までは、旗も大きくなく小指物も極小で、甲(かぶと)の前立ては水牛の角か唐かぶりである。
大きな前立てというものも、鍬型(すきがた)で半月の二尺(約60.6cm)に満たないものだった。
小さなものは、動きやすくて利がある。

旗の数が多く、指物や前立てなどが大きくなったのも、世の実情が薄くなってきたことによるもので、このようになって行ったように見える。

一、升形(ますがた)に金のきりさき  信忠卿
一、金の傘                 信雄卿
一、金の杵(きね)              三七殿(信孝)        
一、瓢箪に金のきりさき         秀吉卿
一、白き吹貫(ふきぬき)               佐久間右衛門尉信盛
一、絵鶴竹に金の短冊         丹羽五郎左衛門長秀
一、金の御幣(ごへい)           柴田修理亮勝家
一、金の三ッ団子                               滝川左近将監一益
一、金の分銅               大和の太守筒井順慶
一、菅笠三葢(さんがい)         佐々内蔵助
一、金のつり傘              河尻肥前守
一、白紙のしでしなひ           明智日向守

この他にも多数あるが、同じことなので割愛する。
信盛の吹き貫きは、ここに書くことはいかがなものかと思ったが、大臣なのでここに記した。


※1 はね題目→ 「南無妙法蓮華経」の七字の「法」以外の六字の筆端を髭のように伸ばして書いたもの
※2 折掛(おりかけ)→ 旗竿の先に横手をつけて、四半をつけた旗




②書き下し文


永禄の比(ころ)までは、馬験と云ふ事なかりき。
元亀の比より初まり、次第に長じて、今はしるしの要とす。

信長公の旗は、一幅の黄絹(ききぬ)に永楽の銭を付け、招きには南無妙法蓮華経のはね題目を書付たる九本なり。
武田入道信玄の旗は、白き絹五幅の折掛に黒き割菱付けたる五本なり。

此の比までは、旗も多からず小指物も極小に、甲(かぶと)の立物は水牛の角、或いは唐かぶりなり。
大立物と云ひしも、鍬形半月二尺に足らざるものにて有りき。
小なるは、働きやすき利あり。

旗数多く、指物立物などの大成りしも、世の実情うすく成り来たるに応じて、斯く成り行くとぞ見えしなり。

一、升形(ますがた)に金のきりさき  信忠卿
一、金の傘                 信雄卿
一、金の杵(きね)              三七殿(信孝)        
一、瓢箪に金のきりさき         秀吉卿
一、白き吹貫(ふきぬき)               佐久間右衛門尉信盛
一、絵鶴竹に金の短冊         丹羽五郎左衛門長秀
一、金の御幣(ごへい)           柴田修理亮勝家
一、金の三ッ団子                               滝川左近将監一益
一、金の分銅               大和の太守筒井順慶
一、菅笠三葢(さんがい)         佐々内蔵助
一、金のつり傘              河尻肥前守
一、白紙のしでしなひ           明智日向守

此の外数多有りつれども、同篇なるは之を閣(さしお)く。
信盛の吹きぬきさへ、爰に及ぶ事おかがなれども、大臣なれば之を記す。


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参考文献

・『信長記 下』 神郡周 著、小瀬甫庵 編集、現代思潮社、1981年
・『歴史群像シリーズ【戦国セレクション】 激震 織田信長』 学習研究社、2001年

 

 

 

 

 

 


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□■汝は予の言うことのみを行い、汝の欲する所にいるがよい!■□


1569年(永禄12年)               信長   36歳


今日紹介する記事は、ブログ記事「岐阜城を見せるのを恥ずかしがる信長」の後の話であり、「信長とルイス・フロイスのファッションショー ~in岐阜城~」へと続いていく。


簡単にあらすじを書くと、ルイスは、信長から都での布教や滞在許可の朱印状を貰ったものの、キリシタン達を毛嫌いする日乗上人(信長の命で朝廷との交渉などをしている僧)の妨害に合う。

日乗上人は、天皇から「キリシタンを殺してもよい」という許可を貰い、それをダシにルイスやルイスを保護する和田惟政を脅しに掛かってきていた。

信長はその頃、岐阜城に戻ってきてしまっていたので、身の危険を感じたルイスと修道士のロレンソは信長に保護を求めるべく、岐阜に赴いた。

そこで、信長から岐阜城の山麓の屋敷を案内され、歓迎される。


そして今日紹介する部分では、信長が内裏と足利義昭にもルイス達を庇護することをお願いする書状を書いてくれた。

この時、信長はルイスと場に居合わせた都の貴人に向かって信長らしい一言を言い放っている。

「いっさいは予の力のもとにあるが故、内裏も公方様も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい」

この時点で信長は、「天下は自分が動かしている」という自負があることが感じられる。


また、ルイスとロレンソが帰ろうと信長に挨拶すると、信長は彼らを引き留め、「翌朝、山の上の城を見せたいので、帰還を延ばすように」と命じ、「信長とルイス・フロイスのファッションショー ~in岐阜城~」へと話は続いていく。

信長の自分のお城自慢は岐阜城時代辺りから始まるようだ。(笑)


以下、その一節を紹介していく。


①翻訳文

「1569年7月12日付、ルイス・フロイス師が都より、豊後のベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」


私がこのキリシタンを美濃から都へ出発させた翌日、藤吉郎殿と称する件の貴人が私の問題を解決するため国主のもとに行き、公方様(※足利義昭のこと)が我らを庇護するため私がロレンソと一緒に作成しておいた四、五行の覚書を彼に届けた。

彼は、覚書は短く、己れの意に適わないと言うと、さっそく、秘書を呼び寄せた。

秘書は彼の面前に跪いて、内裏と公方様に私を庇護することを請う、遙かに長い書状をしたためた。
藤吉郎殿はこの書状に国主の印を付して私に与え、彼自らは和田殿と日乗上人にそれぞれ書状をしたため、国主が私に対して示した深い愛情と好意を説いて、私を大いに庇護していることを伝えた。

彼はそのまま時をおかずに戦さに戻ったので、私は柴田殿の家に行き、書状について国主の手に接吻(して感謝)し、別れの挨拶をするため、殿下に会わせてくれるよう請うた。

柴田殿は自邸において再び我らを和田殿に劣らぬもてなしをもって迎えた後、国主のもとに赴き、私は再度彼と語らった。
彼は都の多数の貴人の前で、「いっさいは予の力のもとにあるが故、内裏と公方様も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい」と言い、私はいつ帰るのかと尋ねた。

(私の問題は)すでに殿下により決裁されたので翌朝(出発する)と言うと、これに対して私の帰還はいとも急なことだと答え、翌朝、私に城を見せたいので帰還を二日延ばすようにと言った。

すぐさま彼は重立った貴人の一人を呼び、翌朝、私と都の貴人七、八名を十分に饗応し、食事が終わったら柴田殿が私を城の上に案内すべきことを伝え、公家の日野殿の一子(日野輝資)には、彼(信長)の代わりに私と午餐を共にするように言った。

私は尊師に事実を申し上げるが、信長の高貴な人々や、都および諸国から用務のため政庁に来ていた数多の貴人は驚嘆し、私とロレンソに対して、信長が私に種々の恩恵を授けるというような、かくも尋常ならざることが何に起因するのか判らず頭が混乱すると述べた。

(後略)

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参考文献

・『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第3巻』  松田毅一 監訳、同朋舎、1998年
※この中の、「一五六九年七月一二日付、ルイス・フロイス師が都より、豊後のベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」に収録されています。

 

 

 

 

 


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□■信長のファッションショー ~鷹狩り装束編~■□


1577年(天正5年)11月18日                信長 44歳


今日紹介するのは、ブログ記事「飛び去った鷹の発見者に御礼する信長」の直前の部分である。

信長は、様々な場面でキレイな衣装を着てファッションショーのようなパフォーマンスをするのが好きなようだ。


以下のブログ記事参照のこと。
天女コスプレに女踊り、領民に茶を勧める信長★ 」
信長、○禁衣装で行列!!(笑) 」
信長とルイス・フロイスのファッションショー ~in岐阜城~



さて、この時、信長は鷹狩り衣装を着用し、鷹を腕に据え、同じくきらびやかに着飾った小姓衆・弓衆・年寄衆・馬廻衆やお供の衆と共に天皇に披露した。

お供の衆はみな、面白い頭巾を被っていたという。
一体どんなものだったのか、気になる所である。

弓衆は信長から貰った虎革の靫(うつぼ・弓を収納する筒)を背負い、年寄衆は14羽の鷹を据えていた。
小姓衆や馬廻衆もそれぞれお洒落をし、京都の市民は信長のこの趣向に驚き、喜んだ。
そして、信長御一行は天皇にお披露目した後、すぐさま東山に鷹狩りに出掛けたという。


様々な逸話を読んでいて思うが、信長は独自のファッションセンスを持ちつつも、お洒落で目立ちたがり屋で、自分がしたことで人を驚かせるのが好きなのだなと感じる。(笑)


以下、『信長公記 巻十』のその箇所をを紹介する。


①現代語訳

『信長公記 巻十』
「御鷹山猟、御参内の事」

霜月(十一月)十八日、(信長は)鷹狩り装束で参内した。
(供に従う者は)いずれも思い思いに着飾り、面白い形をした頭巾が興を添えていた。
皆、狩杖などにまで金銀で彩色され、その素晴らしさは言葉に出来ないほどであった。

先手の一番目は弓衆が百人ばかりで、各々が(信長から)贈られた虎皮のうつぼをみな同じように付けており、二番目は年寄衆であり、この一団の中に鷹を十四羽据えさせた。
信長公も鷹を据え、前後を小姓衆、馬廻衆に囲ませ、彼らも光耀き、ありとあらゆる華やかで風流なものを我も我もと競い合い着飾った。

このことは言葉にしがたいほどの趣のあることであったので京都の貴賤も耳目を驚かせた。

さて、一行は内裏の日華門より入り、畏れ多くも小御所の御局の中まで馬廻衆を引き連れたが、この時、弓衆は(内裏より)折箱をありがたく頂戴した。



②書き下し文

霜月十八日、御鷹山猟としてご参内。
何れも思ひ思ひの御出立。
有興(興ある)頭巾催一興(一興を催し)、皆、狩杖(かりづえ)等迄金銀に濃(だみ)せられ、御結構之次第、無申計(申すばかりなし)。

御先一段、御弓衆百計各被下(百ばかり各々下され)候、虎皮之うつぼ一様に付けられ、二段御年寄衆、此の中御鷹十四足(もと)居えさせられ候へし御衆にて候也。

信長公、是も御鷹居えさせられ前後ハ御小姓衆、御馬廻衆、光耀き、有りとあらゆる花車(きゃしゃ)風流我も我もと一手宛、美々敷(うつくしく)御出立。
心ことば及びかたく面白き御遊覧、京都之貴賤驚耳目(耳目を驚かし)候へき。

抑(そもそ)も、内裡、日之御門より被入(入られ)、忝(かたじけなく)も小御所御局之内迄、御馬廻衆計り被召列(召しつれらる)。
其の時、御折を御弓衆に被下(下され)忝く頂戴。
(後略)

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↓弓衆が持っていた靫(空穂、靭とも)
上部のモフモフの部分が虎皮バージョンのものを持っていた。
 
『図説 日本合戦武具事典』より
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参考文献

・『史籍集覧 19』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1902~1926年
※この中に収録されている『信長公記 巻十二』 太田牛一 著より
・『現代語訳 信長公記』 太田牛一著、中川太古 訳、中経出版、2013年
・『図説 日本合戦武具事典』 笹間良彦 著、柏書房、2004年

 

 

 

 

 

 

 


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□■信長の愛刀 ~圧し切り長谷部~■□


今日は、信長の愛刀の中でも、かなり有名な「圧し切り長谷部」について紹介する。


①刀工名:長谷部国重(はせべくにしげ)
通称は、長兵衛。

②国:山城国(京都府)

③時代:鎌倉末期~南北朝時代 建武頃(1334~1336年)

④現在の所在:福岡市博物館
1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定。

⑤圧し切り長谷部の特徴

  
 
・刀 銘は無銘
金象嵌で表に「黒田筑前守」
裏に「長谷部国重本阿(光徳の花押)」

・刃長 二尺一寸四分(64.8cm)

・反り 三分余り(0.9cm)

・造り込み 鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)、身幅広く、重ねやや薄い、反り浅い、大切先

 
 上部の三角の部分が庵棟

 
 
 
  
・鍛え 板目流れでよく詰み、地沸(じにえ)つき、地景(ちけい)入る
 

・刃文 皆焼(ひたつら)
下半分は大乱れの皆焼、上半分はのたれに小乱れが交じった皆焼
 
皆焼刃

・帽子 乱れ込んで丸く返る
 

・彫物 棒樋

・茎(なかご) 大磨上(おおすりあげ)、先刃上栗尻、鑢目(やすりめ)は切り、目釘穴 四(その内、三穴は埋められている)


⑥信長の元に来た経緯や逸話

・経緯は不明

・ある時、観内(かんない)という茶坊主が信長に刃向かい、信長はその者を手打ちにしようとした。
観内は台所のお膳の棚の下に隠れた為、信長は刀を振れず、棚の上から刀を差し入れて成敗したという。
このことにより、この刀は「圧切(へしきり)」と名付けられた。

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『黒田家御重宝故実』

1.現代語訳

圧切の御刀、二尺一寸四分、長谷部国重、一名半阿弥(?)。
信長公はある時、カンナイという茶坊主を手打ちにした。
このことにより、圧切と名付けられた。
信長公より黒田如水へ遣わされたという。
本阿弥の名物記にも長政公が拝領したとのことである。


2.書き下し文

圧切 御刀 弐尺壱寸四分 長谷部国重 一名半阿弥
信長公御時クワンナイと云(云う)茶道坊主を手打にし給ふ、是より圧切と名付けらる。
信長公より如水へ被遣(遣わさるる)と云々、本阿弥の名物記にも長政公御拝之(ママ)由也。

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『名物三作(本阿弥正三郎の1845年(弘化2年)の写し)』


1.現代語訳

松平筑前守殿、ヘし切り長谷部、長さ弐尺壱寸四分、無料で入手、五百貫の価値、信長公所持。

茶道の観内という者が(信長公に)敵対したことにより、御手打ちにされた。
お膳の棚の下へ隠れたところ、ヘし切りにされたことにより名付けられた。
大いに切れる刀である。

羽柴筑前守様と奉じ申す?時の秀吉公より、黒田長政殿が拝領した重宝である。

(以下、後世の附箋)

ヘし切り国重は、小寺政職の使いとして黒田孝高公が信長に面会した時、中国征伐の献策を賞して与えられたものである。
秀吉より長政公が拝領したものではない。(本阿弥家の誤伝である)


2.書き下し文

松平筑前守殿、ヘシ切長谷部、長サ弐尺壱寸四分、無代(ママ)、五百貫代付、信長公所持。
御茶道観内ト申者、御敵対仕事有之(つかまつる事これ有る)ニヨリ御手討に被成(成され)、御膳棚の下へ隠レケルヲヘシ切二被成(成され)候故、名付け大切物也。
羽柴筑前守様ト奉申(奉じ申す)時、秀吉公より被進(進ぜられ)黒田長政殿拝領重宝也。

(以下、後世の附箋)

ヘシ切国重ハ小寺政職ノ使トシテ孝高公、信長二面会ノ時、中国征伐ノ献策ヲ賞シ与ヘラレタルモノニテ秀吉ヨリ長政公拝領ニハアラス(本阿弥家ノ誤伝ナリ)



⑦信長以降の持ち主

二説ある。

・信長→黒田孝高→黒田家代々の重宝→福岡市博物館
・信長→秀吉→長政→黒田家代々の重宝→福岡市博物館



⑧長谷部国重の刀の主な特徴

・岡崎五郎入道正宗の弟子であり、正宗十哲の一人とされる。相州伝を鍛える。

・相模国の新藤五国光が長谷部を名乗っていることから、国重は新藤五系の刀工であるともされている。

・元は相州鎌倉の鍛冶であったが、鎌倉幕府の滅亡後は京の五条坊門猪熊に移住し、作刀した。

・国重の在銘太刀は現存しない。
ほとんどが短刀や寸延び短刀。

・作風は、刃文は相伝皆焼、互の目、のたれに互の目まじり。
刃中がよく働き、足、葉が入って砂流しや金筋がかかる。
帽子は乱れ込んで丸く焼き詰まるか、又は掃きかけて尖りこころに返る。

 

・沸(にえ)本位

・肌は細かく大肌が交じり、柾目肌が現れる。
 


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私もこの刀を今年の1月に拝見したが、美しくて感動したほどの名刀だった。

福岡市博物館で冬季に展示されるのみなので、行く場合は事前に調べていくことをお勧めする。
ちなみに来年2016年の展示は、1月5日(火)~1月31日(日)となっている。

わざわざ足を運んで見に行く価値は大いにある。
 
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参考文献

・『日本刀の掟と特徴』 本阿彌公遜 著、美術倶楽部刀剣部、1955年(昭和30年)
・『新日本刀の鑑定入門 ~刃文と銘と真偽~』 広井雄一、飯田一雄 著、刀剣春秋、2010年
福岡市博物館HP
(※圧し切り長谷部の画像も見れます)

 

 

 

 

 


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