★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす -2ページ目

★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

織田信長の人柄や精神面に
焦点を当てた逸話や記事を書いておりまする★


□■ならば予は、第六天魔王じゃ!■□


1573年(天正元年)                   信長    40歳


信長は現代において本やテレビなどで紹介される時、よく「魔王」だの「第六天魔王」だの言われてしまっているが、そもそも何故そのように呼ばれるようになったのか。

今日はその出典を紹介して行こうと思う。
「1573年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」にその由来となるエピソードが記されている。


それは、1571年の比叡山延暦寺の焼き討ちの後、当時の延暦寺の座主・覚恕法親王(かくじょほうしんのう)は難を逃れ、仏教に帰依すること並々ではない、甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。

そしてその後、信玄の軍勢は信長包囲網を形成し上洛を目指すべく、徳川領である遠江や三河に進出して来ていた。

その時の信玄から信長への書状の署名に、「天台座主沙門信玄」とあった。
「天台座主」とは、天台宗のトップのことであり、「沙門」は出家して修行をしている人のことを指すので、総合すると「天台宗のトップでもあり、修行の身でもある信玄」という意味か。

信長が行った、比叡山の焼き討ちに対する非難と許容しないという意思が込められている。


それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名したとのことである。

「第六天魔王」とは、仏道修行者を色や欲で惑わし、修行を妨げる魔のことをいう。
仏教のこの世や天界の概念である「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが、「第六天魔王」である。

ちなみに欲界は、地獄や人間界、欲望に捉われる6つの天界(六欲天)がある。
色界は、食欲・淫欲を断じ、男女の区別はなく、光明を食するが、情欲・色欲のある天界。
無色界は、欲望も物質的なものも超越し、精神作用にのみ住む天界。



「そっちが仏教界の長の一人の天台座主ならば、こっちは仏教界の敵の第六天魔王じゃ!」と半分本気で半分冗談と皮肉を込めて書いたのではないだろうか。(笑)

しかし、この「第六天魔王信長」という署名が一人歩きをし、信長の一般的に流布してしまっている怖いイメージと相まって、現代でも「魔王、魔王」と言われるようになった由縁であるようだ。

信長も、ひょんなキッカケで書いた署名が、こんなに広まってしまうとは思っていなかっただろう。


以下、「ルイス・フロイスの書簡」のその一節を紹介していこうと思う。


①翻訳文

「1573年4月20日付、ルイス・フロイス師が都より、インドの管区長アントニオ・デ・クアドゥロス師に宛てた書簡」

(前略)
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白いことがあった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己れの名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。

すなわち、天台座主沙門信玄(てんだいのざすしゃもん・しんげん)と。
これは天台宗の教えの家(の)最高位者にして修道者なる信玄を意味する。

これに対して信長は、第六天の魔王信長、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。

というのも、提婆(だいば)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本のすべての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
然して今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。

だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本において彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。
(後略)

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また、この最後の部分に信長が「我こそが生きた神仏である!」と言っているのが興味深い。
この年あたりから、そのように自らを神だと公言していたようである。

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参考文献

・『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第4巻』 松田毅一 監訳、同朋舎、1998年

 

 

 

 

 

 


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□■名笛の由来が気になる信長■□


1573年(天正元年)             信長 40歳


この年、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺から信長の元に「青葉の笛」という名品と小笛が届けられた。

信長は、これらの笛が元々誰のものだったのか、どのような経緯で宝厳寺に伝わったのかを問い合わせた手紙が二通残っている。

一通目は、浅井家の旧臣である磯野員昌に命じてその旨尋ねさせたものと、信長自身が直接宝厳寺に問い合わせたものである。

後者の手紙には、二本の笛の由来を尋ねるとともに、寺に伝わっている静御前所持の小鼓もいつの日か見てみたいと書いており、笛もしばらく手元に置いた後、お返しするという内容である。

その8年後の1581年(天正9年)に、信長は実際に竹生島を訪れているので、この時に参拝がてら小鼓も見に行ったのかもしれない。


ちなみに二本の笛も小鼓も現存している。

青葉の笛と小笛は、滋賀県彦根市の「彦根城博物館(※画像も見れます)」にある。

信長が手紙に記したように二本の笛はいつ返却されたのかは不明だが、宝厳寺に返されている。
その後、1845年(弘化2年)に当時の彦根藩主・井伊直亮の希望により、竹生島から献上された。
この二本の笛(竜笛と狛笛)は、源義経所持と伝わるものであったので、井伊直亮は銘を「青葉の笛」から「義経丸」に改めたという。


また、静御前所持と伝わる雷雲の蒔絵の小鼓「初音」は現在、滋賀県甲賀市「ミホミュージアム(※画像も見れます)」に所蔵されている。
小鼓とあるが、実際のものは大鼓の胴である。

この大鼓の胴の内側に書かれた銘によると、「永享二年(1430年)六月廿一日、源左京大夫持信 奉寄進 竹生島 御宝前」とあり、室町幕府六代将軍義教の側近である、一色左京大夫持信が奉納したものだという。

以下、信長の手紙二通を紹介する。



■近江磯野員昌宛書状 (『竹生島文書』)■

①現代語訳

青葉の笛が届いたが、名物である。
以前は誰の所持だったのか、どのような子細があって竹生島に寄進されたのか。
小笛も添えられていたが、これも必ず子細があるだろう。

よくよく尋ねて、知っていることを具に書き付けて報告するように。
恐々謹言。

九月六日       信長(花押)
磯野丹波守殿


②書き下し文

青葉之笛持せ被越(持たせ越され)候、名物二候、前々誰之所持候て、何とある子細に依て竹生嶋へ寄進候哉、小笛添(添え)候、是も定子細可有之(定めて子細有るべく)候、
能々相尋候て、存知之躰を具書付(具に書き付け)候て、可被越(越さるべく)候、恐々謹言、

九月六日        信長(花押)
磯野丹波守殿


■近江竹生島惣山宛朱印状 (『竹生島文書』)■

①現代語訳

青葉の笛が到来した。
誠に見事な名物である。
今少し留め置き、見たのちに返そうと思っている。

この笛が当山へ寄進された子細と、誰の所持だったのか。
小笛も添えられていたが、この由来などについても知っていることを書き付けて報告するように。

次に静の所持という小鼓の胴の蒔絵は雷だと聞いた。
見てみたいものだ。

猶、(詳細は)磯野に申しておく。
恐々謹言。

九月六日         信長(朱印)
竹生島
  惣山中


②書き下し文

青葉之笛到来候、寔(まこと)名物見事候、今少留置(今少し留め置き)、遂一覧之(一覧を遂げ)、可令返進(返進せしむべく)候、此笛当山へ寄附候子細、誰之随身候つる哉、小笛相添候、此由来等慥(たしか)に存知之□□(躰を)書付□□□(可被越)候、

次(次に)静か所持候□□(由之)小鼓□(胴)之蒔絵ハ雷にて候由候、可披見(披見すべく)候、
猶磯野可申(申すべく)候、恐々謹言、

九月六日       信長(朱印)
竹生島 
  惣山中

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余談だが、今日紹介した「青葉の笛」以外にも「青葉の笛」と呼ばれている笛が存在する。
それは、信長が大好きな『敦盛』が所持していた笛がそれである。

この敦盛が所持していた笛も兵庫県神戸市須磨区にある「須磨寺(※画像も見れます)」に現存している。

よく今日紹介した竹生島の笛と混同されるが、信長が見たのは義経の笛である。

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参考文献

・『増訂 織田信長文書の研究 上巻』 奥野高廣 著、吉川弘文館、1988年
・大本山 須磨寺 HP
・彦根城博物館 HP
・文化遺産オンライン

 

 

 

 

 


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□■飛び去った鷹の発見者に御礼する信長■□


1577年(天正5年)                信長 44歳


この日、信長はきらびやかな鷹狩り装束で、小姓衆、馬廻衆、年寄衆とともに参内した。
全員が思う思いの美しい衣装で着飾り、京都の人々もこの美しい行列に感動したという。
(詳しくは、後日別記事にて)

天皇に鷹をご覧に入れたのち、信長は早速、東山で鷹狩りをした。
すると、急に大雪が降り始め、風も出てきて、信長のお気に入りの鷹は奈良方面に飛ばされて行方不明となってしまった。
方々を探させたものの、その日は見付からず、その次の日、大和国の者は鷹を発見し、持ってきてくれたという。

大切にしていた鷹が無事に見付かったことが余程嬉しかったのか、御褒美と御礼を兼て、衣服や秘蔵の馬、さらに「何か望みのことがあれば、叶えよう」と太っ腹な申し出をしている。(笑)
発見者は、その御蔭で没収された領地を再び手に入れることができた。

以下、このことが記されている『信長公記 巻十』を紹介する。



①現代語訳

『信長公記 巻十』
「御鷹山猟、御参内の事」

十一月十八日

(中略)
天皇がご覧になった後、(信長は)達智門から退出され、すぐさま東山で鷹狩りをされていた所、急に大雪が降り出し、鷹は風に流され、大和国(奈良県)の郡まで飛んで行ってしまった。
(信長の)秘蔵の鷹であったので、方々を探させた。

次の日、大和国の越智玄蕃という者が、鷹を捕らえて進上し、(信長は)大変喜んだ。

すなわち、御褒美として衣服一重(ひとかさね)、秘蔵の駮毛(ぶちげ)の馬を贈った。
その上、「望みのことがあれば、仰せ付けるよう」と言ったところ、(越智玄蕃は)「長年、知行していた領地を没収され、無足(★)となってしまいました。」と申し上げると、これまた所領を安堵する御朱印を下された。

そのかたじけなさは、語り尽くせるものではなかった。
「災難と幸福は天のみぞ知る」とはこのことである。


★無足...所領がなく、米・金の俸禄のみを受けている下級の家臣のこと。



②書き下し文

霜月十八日

(中略)
御叡覧後、達智門へ出でさせられ、直ちに東山御鷹つかはされ折節、俄かに大雪降り来て、御鷹風におとされ、大和国内之郡まで飛び行く。
御秘蔵之御鷹候間、萬方被成御尋(御尋ね成され)候。

次日大和国、越智玄蕃と云ふ者、御鷹居え上げ進上仕り候。
御機嫌不斜(斜めならず)。

則ち為御褒美(御褒美として)御服一重、御秘蔵之駁之御馬被下(下され)、其の上年来奮領之知行、闕所に罷り成り無足仕り候を、望み之儀候はば、可被仰付(仰せ付けらるべし)と上意候間、右之趣申上げ候処に是又安堵之被成下御朱印(安堵の御朱印下し成され)、忝き次第不申足(申すに足らず)、只、禍福は在于天(天に在り)とハ此節也。


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参考文献

・『史籍集覧 19』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1902~1926年
※この中に収録されている『信長公記 巻十二』 太田牛一 著より
・『現代語訳 信長公記』 太田牛一著、中川太古 訳、中経出版、2013年

 

 

 

 

 


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□■発明家・織田信長 ~お弁当編~■□


1576年(天正4年)頃                       信長 43歳


信長は、その発想力、想像力の豊さから様々なものを生み出したり、行なったりした。

木造の安宅船を鉄甲で覆い、焙烙玉や火矢の攻撃を防いだ巨大安宅船の造船、槍を長くし鉄砲を活用した戦法、石垣を使った築城法、楽市楽座、茶の湯を家臣の褒美に使用したなどなど…

まだこのブログではこれらのことは紹介していないが、追々紹介していこうと思う。


さて、今日取り上げるのは、信長の発明品の一つと言われている「弁当」である。

平安時代から持ち運び携帯食は存在していたが、現在の弁当のように色取り取りのおかずやご飯が入った弁当箱のようなものではなく、乾米のような簡素なものである。

1600年代に書かれた『老人雑話』によると、今の弁当のスタイルを考えたのは、信長だという。
「小芋くらいの大きさの箱に様々なものが入っていた」というから、まさに弁当箱である。


ちなみに弁当の語源は、南宋時代(1127~1279年)の中国の言葉で「好都合、便利」という意味を持つ「便當」だと言われており、それが日本に伝わってのち、「(そな)えて用にてる」の意味から「弁当(辨當)」になったとか。


以下、『老人雑話』の一節と、その後に書かれた同じような内容の『常山紀談』の2つを紹介する。


①『老人雑話』

■現代語訳■

信長の頃は、弁当という物はなかった。
安土に「出来し弁当」というものがあり、小芋程度の大きさの(箱の)内に様々な道具が収まっているという。
嘘だと思って信じない者もいたという。

また、狭箱(★)という物はなく、狭竹という物を用いていた。
狭筥は大坂の津田長門守(津田信成)が初めて作製したと言われている。

★大名の衣装や日用品を収納する箱
 

■書き下し文■

信長の時分ハ、辨當と云物なし、
安土に出来し辨當と云物あり、
小芋程の内に諸道具をさまると云、偽(いつわり)ならんとて信ぜぬ者ありしとぞ、
又狭箱と云ふ物なし、狭竹と云物を用ひたる也、
狭筥ハ大坂の津田長門守初て製するとなり。



②『常山紀談』
  「秤(はかり)御定(おさだめ)の事 附 一歩金辨當狭箱始まりの事」

■現代語訳■

(前略)
また、信長の時、今辨當というものは、安土より始まった。
その始めは、小芋ほどの(箱の)中に、「どのようにして色々な物を(その中に)入れられるのか」と言って、人々は信じなかったという。

狭箱も同じ頃に作り始められたという。
また、大阪の津田長門守が(狭箱を)初めて作り出したとも言われている。


■書き下し文■

(前略)
又信長の時、今の辨當といふものは、安土より始まれり。
其の始は小芋ほどの中に、いかで色々の物入れられんとて、人信ぜざりきと云へり、挟箱も同じ頃造り始めたりと云ふ。

又大阪の津田長門守始めて造り出すとも云へり。

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また、「安土より始った」と書かれているので、もしかしたら安土城建設の時に「まかない弁当」として配られていたらと想像すると面白い。(笑)

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参考文献

・『改定 史籍集覧 第十冊 纂録類 自第三十六 至第四十三』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1901年
※その中に収録されている「老人雑話」より
・『日本名著文庫 常山紀談 後編』 湯浅元禎 編録、聚栄堂、1921年(大正10年)
 

 

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□■信長、大興奮!! ~弥介の肌の色~■□


1581年(天正9年)2月23日                                信長48歳
1582年(天正10年)4月19日              信長49歳


この年、巡察師のヴァリニャーニは、黒人の奴隷を伴い、日本を訪れた。

初めて見る黒い肌を持つ人に、日本人は興味津々で、行く先々で一目見ようと怪我人が出るほどの大騒ぎであったという。

この頃、ヴァリニャーニと例の黒人奴隷は京都に滞在しており、京都でも同様に大変な騒ぎとなり、彼らの滞在先には群集が群がっていた。
それを聞きつけた信長は、「是非とも、その人物を見てみたい」と彼を呼び寄せた。

信長も初めて見る黒人に驚嘆し、その肌の色が炭で細工されていると思っていて、まさか自然の色だとなかなか信じなかったという。
その肌の色に関しては、かなり不思議がっていたそうだ。(笑)


信長は彼のことを気に入り、「弥介(弥助、彌介、彌助とも)」と名付け、家臣として召し抱えた。

実際、『家忠日記』に翌年の武田家征伐に信長と共に行軍していたという文章が残っている。
その後、本能寺の変の折も信長の近くに仕えていたようで、変後の混乱の最中、光秀の家臣に見付かったものの逃がされ、以降の消息は不明となっている。


今日は弥介のことが記されている、宣教師の書簡を3種類、『信長公記』と『家忠日記』の一節を紹介していく。



①「1581年4月14日付、ルイス・フロイス師が同日本に在留する一司祭に宛て都より送った書簡」

■翻訳文■

復活祭日に続く週の月曜日、信長はこの都にいたが、多数の人々が黒人を見ようとして我らの(修道院)門前に詰め掛けたため、これが騒ぎの発端となって投石による負傷者や瀕死者が出た。
門を警護する者が大勢いたにもかかわらず、人々が門を破ろうとするのを容易には抑えることができなかった。

皆が言うには、もし金儲けをするために(黒人を)見せ物にしたならば、少なくとも一人の者が短期間に八千乃至一万クルザード(の金)をいともたやすく稼ぐであろうとのことである

信長(もまた)黒人を見ることを切望し、彼を呼び寄せ、オルガンティーノ師が彼の許に連れて行った。
信長は大変な騒ぎようで(黒人の)腰から上の衣服を脱がせたが、それ(膚の色)が自然であって人工のものではないことを信じなかった。

信長の息子たちもまた黒人を呼び寄せ、皆大いに喜んだ。
今は大坂の指揮官である信長の甥も黒人を見て非常に喜び、これに銭一万を与えた。

彼らの見物を得たために、彼らには非常に多忙なことであった。



②「1581年10月8日付、府内発信、ロレンソ・メシア師がペロ(ペドゥロ)・ダ・フォンセカ師に宛てた書簡」

■翻訳文■

司祭は黒人を一人同伴していたが、都においては初めて目にするものであったがため、誰もが驚嘆し、彼を見に来た人は無数であった。

信長自身、彼を見て驚き、生まれつき(膚が)黒いので墨による細工でないことを納得しなかった。
たびたび、彼を観、幾らか日本語を解したので彼と話して飽くことなく、また黒人は非常に力がありいくらかの芸ができたので信長は大いに喜んだ。
今では彼を厚く庇護しており、その旨を諸人に知らせるため、腹心の家臣一人を付けて市中を巡らせた。


人々が言うには、(信長は)彼を殿にするであろうとのことである。



③「1582年11月5日付、口之津発信、ルイス・フロイス師のイエズス会総長宛、信長の死に関する報告書

■翻訳文■

(前略)
信長の求めによって巡察師が彼の許に残していった黒人(カフル)が信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていたので我らは少なからず心配していたが、明智の一家臣が彼に近づき、恐れずに刀を(棄てるよう)求めたところ、彼はこれを差し出した。

別の家臣が明智の許に行き、黒人をいかにすべきか問うたところ、その黒人は動物(ベスティアル)であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。
(後略)

 

④『信長公記 巻十四』
  「御爆竹の事」

■現代語訳■

(前略)
二月二十三日、キリシタンの国より黒坊主がやってきた。
年齢は二十六、七歳くらいと見え、全身が牛のように黒い。
この男は壮健な身体をしていた。
その上、力も強く十人力以上であった。
伴天連が彼を連れてきて、(信長公に)挨拶をさせたのである。

信長公の御威光により、古今見ることの出来ないような三国の名物や、これほどまでに珍しい者達が細々(こまごま)と拝見できて、ありがたい事である。
(後略)


■書き下し文■

(前略)
二月廿三日、きりしたん国より、黒坊主参り候。
年之齢廿六七と見えたり。
惣之身の黒き事、牛之如し。
彼の男、健(すく)やかに器量也。
爾(しか)も強力十之人に勝たり。

伴天連召し列れ参り、御礼申し上げ、誠以て御威光古今不及承(承り及ばず)、三国之名物か様に希有之物共細々拝見難有(有難き)御事也。
(後略)



⑤『家忠日記』

■現代語訳■

天正十四年四月

十九日、丁未、雨降る。
上様(信長)が御扶持を与え、宣教師が進上したという、黒男を御連れしていた。
身は墨のようで、背丈は六尺二分(約187cm)、名前は彌介という。


■書き下し文■

十九日、丁未、雨降、
上様御ふち候、大うす進上申候、くろ男御つれ候、
身ハすミノコトク、タケハ六尺二分、名ハ彌介と云、

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南蛮船でアクロバティック芸!(笑)

 
虎を運ぶ黒人奴隷たち
両図とも『南蛮図屏風(右雙)』の一部 

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参考文献

・『十六・七世紀、イエズス会日本報告集 第Ⅲ 第5巻 1577-1581年』
松田毅一 監訳、同朋舎、1992年
・『史籍集覧 19』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1902~1926年
※この中に収録されている『信長公記 巻十二』 太田牛一 著より
・『現代語訳 信長公記』 太田牛一著、中川太古 訳、中経出版、2013年
・『増補 續史料大成 第十九巻(家忠日記)』 臨川書店、昭和56年
 

 

 

 

 

 

 


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