信長と鷹狩り ~白鷹を貰ってルンルンの信長~ | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■信長と鷹狩り ~白鷹を貰ってルンルンの信長~■□


1579年(天正7年)~1580年(天正8年)       信長  46~47歳


1579年7月、岩手県の遠野の領主・遠野孫次郎が雪のように白く美しい鷹を信長に贈った。

信長は、その白鷹を余程気に入ったのか、この白鷹と鷹狩りをしたという記述が信長公記に沢山ある。
この白鷹以外で、特定の鷹と鷹狩りをしたという記述がほぼないことからも、相当のお気に入りだったようだ。

この年の11月、二条の新邸を誠仁親王に献上するために上洛した折、信長は白鷹をつれて京都に向かったのだが、その途中の瀬田で泊った時、お番の者に見せたり、訪ねてきた人々に見せている。

「どうじゃ、素晴らしい鷹であろう!」と嬉しそうに自慢している姿が目に浮かぶ。

またその翌年、信長が石山本願寺との和睦の件で上洛した時も、白鷹を連れて鷹狩りをしたり、安土城の近くの長命寺で鷹狩りをした時には、白鷹の評判を聞きつけて、見物人が集まったとのことである。

様々な大名から多くの鷹を贈られた信長だが、その中でもとりわけ、この白鷹に胸を踊らせたようだ。
白鷹を献上した、遠野孫次郎に宛てた信長の手紙にも、そのことが記されている。
お礼の品も豪華だ。

その信長のルンルンな様子を想像してみると面白い。


以下、白鷹が出てくる『信長公記 巻十二、巻十三』の記述をまとめて紹介すると共に、遠野孫次郎への礼状も紹介する。


■現代語訳■

① 『信長公記 巻十二』

赤井悪右衛門が退散した事について

(前略)
七月二十五日、奥州の遠野孫次郎という人が白い鷹を献上した。
鷹匠の石田主計が北国から海路ではるばる、風波を凌いでやってきて進上したのである。
誠に雪のように白く、姿も優れていて、見事な鷹で、見物していた身分の高い人々も低い人々も耳目を驚かせ、信長はこれをとても大切にした。

また、出羽の千福(仙北)という所の前田薩摩(前田利信)がこれも鷹を持参してやってきた。
信長に挨拶をして進上した。

七月廿六日、石田主計と前田薩摩の両人は呼ばれ、堀久太郎(堀秀政)の邸で饗応を受けるよう言い付けた。
相席したのは、津軽の南部宮内少輔(南部政直)である。
(安土城の)天主を見物して、「これほど素晴らしいお城は昔も今も見たことがありません。一生の思い出となるもので、ありがたいことで御座います。」と言った。

遠野孫次郎へまず、取り敢えずの挨拶として、
一、衣服十重(かさね) 誠に素晴らしいもので織田家の紋が織り出してあり、色は十色。裏地もこれまた十色。
一、ヤクの尾 二本
一、虎革 二枚
以上の三種が贈られた。

使者の石田主計には、
一、衣服五重に路銀として黄金が下賜され、ありがたく拝領した。
前田薩摩守へは、
一、衣服五重と黄金を添えて賜わり、ありがたいことと感動して帰って行った。
(後略)


②遠野孫次郎へのお礼状

『遠野古事記』より

これまでお付き合いがなかったところに、書状をいただき、嬉しく思います。
さて、白鷹は数多く贈られましたが、これほど雪のように白い鷹は今まで見たことがなく、非常に珍しいものです。かねてからの願いが叶いました。
この鷹をとても気に入っております。

恐々謹言。

七月廿日   信長
遠野孫次郎殿


③ 『信長公記  巻十二』

北条氏政が甲州方面へ出陣した事について

(前略)
十一月三日、信長公が上洛した。
その日、瀬田橋の茶屋にお泊りになった。
番をしていた人々やご機嫌伺いに参上した人々に白鷹を見せ、次の日、京へ向かった。
(中略)
十一月六日、白鷹を携えて、北野の辺りで鶉(うずら)狩りをした。
十一月八日、東山から一乗寺まで白鷹で鷹狩りをし、初めて獲物を獲った。
(後略)



④ 『信長公記 巻十三』

小三郎(別所長治)の妻の歌

(前略)
二月二十一日、信長公は上洛し、妙覚寺に入った。
二月二十四日、白鷹を使って、一乗寺、修学寺、松ヶ崎山で終日鷹狩りをし、多くの獲物を獲った。
(中略)
二月二九日・三十日の両日、山崎の西山で、白鷹を使って鷹狩り。
(中略)
(三月十日)その日、信長公は京都を出立し、大津の松ヶ崎辺りで白鷹で狩りをし、日暮れにまで及び、舟に乗り、矢橋(草津市)に上って、安土へ帰城した。
(中略)
三月一五日、奥の島山で鷹狩りをするべく、舟に乗り、長命寺善林坊に行き、ここを宿所とした。
三月一九日まで五日間逗留され、白鷹に対する信長の愛着といい、羽ぶりも特に優れていることや、その珍しさを聞き及び、あちらこちらから鷹狩りを見物する人々が集まってきた。

乱取という鷹は、優れた飛翔力で獲物を沢山獲った。
一九日に安土に帰城した。



■書き下し文■

①赤井悪右衛門退散の事

(前略)
七月廿五日、奥州の遠野孫次郎と申す人、しろの御鷹、進上。
御鷹居石田主計、北国辺舟路にて、はるばるの風波凌ぎ罷り上り、進献。
誠に、雪しろ容儀勝れて、見事なる御鷹、見物の貴賤、耳目えお驚かし、御秘蔵、斜ならず。

又、出羽の千福と申す処の前田薩摩、是れも御鷹居させ、罷り上り、御礼申し上げ、進上。
七月廿六日、石田主計、前田薩摩、両人召し寄せられ、堀久太郎所にて御振舞仰せ付けられ候。
相伴は、津軽の南部宮内少輔なり。
御天主見物仕り候て、か様に御結構の様(ためし)、古今承り及ばず生前の思い出、忝き由候へき。

遠野孫次郎かたへ、先(まず)、当座の御音信として、
一、御服拾(如何にも御結構。御紋織付き、色は十色なり。御裏布、是れ又、十色なり)、
一、白熊二付き
一、虎革二枚
以上三種。

一、御服五ツ、幷に黄金路銭として、使の石田主計に下され、忝く拝領候なり。
一、御服五ツ、黄金相添へ、前田薩摩へ下され、忝き仕合せにて、罷り下り候へき。
(後略)


②遠野孫次郎宛て、信長書状

未だ申し通ぜず候処、音問祝着せしめ候。
そもそも白鷹、数多く到来せしと雖も、雪白の鷹、未だ見及ばず候。
希有の儀、本懐相叶い、自愛他無く候。
恐々謹言。

七月廿日  信長
遠野孫次郎殿


③氏政甲州表へ働きの事

(前略)
十一月三日、信長公、御上洛。
其の日、瀬田橋御茶屋に御泊り。
御番衆、御伺候の御衆へ、しろの御鷹見せさせられ、次の日、御出京。
(中略)
十一月六日、しろの御鷹居えさせられ、北野うちの辺鶉つかはされ。
十一月八日、東山より一乗寺まで、しろの御鷹つかはされ、初めて御取飼ひ。
(後略)


④小三郎女房の歌

(前略)
二月廿一日、信長公御上洛、妙覚寺御成り。
二月廿四日、しろの御鷹、一乗寺、修学寺、松ヶ崎山、終日御鷹つかはされ、物かず仕り候。
(中略)
二月廿九日、晦日両日、山崎西山にて、しろの御鷹つかはされ。
(中略)
(三月十日)其の日、信長公御下り、大津松ヶ崎辺にて、しろの御鷹つかはされ、晩に及び、御舟にめされ、矢橋へ御上りなされ、安土へ御帰城。
(中略)
三月一五日、奥の島山に御鷹遣はさるべきにて、御舟にめされ、長命寺善林坊に至りて、御座なさる。
三月一九日まで、五日御逗留なされ、しろの御鷹、御自愛、羽ふり、事に勝れ、希有の由、承り及び、方々より御鷹野の見物、群集仕り候なり。

乱取と申す御鷹、すぐれたる羽飛にて、物かず仰せ付けられ、一九日に安土に至りて御帰城なり。

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ウズラ狩りの狩り場になった、北野周辺の地図
今では信じられないが、当時この辺りは田園風景の広がる郊外だったようだ。



安土城近くの「長命寺」がキレイな写真とともに紹介されているブログ「奈良に住んでみました」様のURL
http://small-life.com/archives/09/10/2822.php

長命寺の地図(長命寺山の所)
琵琶湖湖畔の山にあって、眺めが良さそうな場所である。

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参考文献

・『史籍集覧 19』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1902~1926年
 ※この中に収録されている『信長公記 巻十二、巻十三』より
・『現代語訳 信長公記』 太田牛一 著、中川太古 訳、中経出版、2013年
・『国書総目録 第6巻』 岩波書店、1969年
 ※この中に収録されている『遠野古事記』 宇夫方広隆 著 より


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