岐阜の由来 | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■岐阜の由来■□


1567年(永禄10年)       信長 34歳


齋藤龍興がこもる稲葉山城を攻め、降伏させ、龍興を美濃から追放したのち、信長は稲葉山城に居城を移した。

当時、その地は「井ノ口」と呼ばれていたが、信長はその名を気に入らず、彼の名付け親でもありブレーンでもあった、禅僧の沢彦宗恩(たくげんそうおん)に地名の候補を挙げさせた。

沢彦は「岐阜」「岐陽」「岐山」の3つを提示し、信長は「岐阜」を選んだ。

この地名にも験が担がれている。

岐阜のは、「古代中国の周の文王は山の麓から起こり、中国の天下統一を成し遂げた」という故事から取り、岐阜のは、孔子が生まれた「曲」という地名から一字を取ったという。


「周の文王が岐山より中国の天下統一を果たしたように、私もこの岐阜の地より日本の天下統一を果たす」

という信長の意気込みが感じられる。

また、信長の行動を孔子の『論語』と照らし合わせて見てみると、『論語』に書かれている五常(仁・義・礼・智・信)を取り入れて実践している面もあるので、孔子にもあやかって曲阜の「阜」を入れたのかもしれない。

以下、『政秀寺古記』という文献にある、岐阜の由来が記載されている部分を紹介する。


①現代語訳

(前略)
美濃の国、齋藤右兵衛太夫龍興の代になり、とんでもない無法地帯になってきていた頃、(信長は)武略を廻らせ、わずか一日の間に井の口の城を二重三重に取り巻いた。
龍興は降伏し、逃亡した。

未だ国の仕置きもなされていない頃、澤彦(沢彦)の元へ(信長より)使者が来た。

「美濃の国は武略により、手に入った。ところで、政秀(平手政秀。信長の傅役だった重臣)が生きていた時、井の口の城は名前として悪いと言っていたことを覚えている。こちらに来ていただき、名前を変えていただけたら嬉しい。」とのことであった。

澤彦は時を移さず、越境して対面すると、信長卿は「井の口という名は悪いと政秀が語り置いていたことを思い出し、貴僧を呼んで来させた。」とのことであった。
前もって、澤彦の宿所については、小侍従という者に仰せつけていた。

「岐山、岐陽、岐阜の三つの内、お好みの名をお選び下さい。」と言上した。
信長卿が言うには、「諸々の人達が言いやすい名は、ただ岐阜である。」と仰せられ、「祝語もあれば聞きたい。」との使者があった。

澤彦が登城すると、信長卿は「天下への望みを成し得る名であるか」と尋ねた。
澤彦は、「”文王が岐山より起こり、天下を定めた”という故事があります。この故事のように、岐阜と名付ければ、天下もほどなくして手に入るでしょう。」と言上すると、信長卿は非常に喜び、褒美として額の名盆に黄金十枚を積み、下された。
澤彦は、それらを頂戴した。

信長卿が言うには、「黄金は世の中に多くある。盆は豊後の国主が進上してきたもので秘蔵のものだ。」とのことである。
また、信長卿は「まだ聞きたいことがあるのだが、ひとまず寺に帰るのがよい。その時にまた迎えの者を送る。」と言って暇乞いをした。
(後略)


②書き下し文

(前略)
美濃の国、齋藤右兵衛太夫龍興代に至り、以の外、無法度になり行き候時分、被廻武略(武略廻され)、一日片時の間に井の口の城を二重三重に取巻かれ候。
龍興は降人となって逃散しなり。

未だ国の御仕置も不被成(成されず)候に澤彦へ御使者有り。
美濃の国以武略(武略以て)手に入り候。
しかるに政秀世にありし時、井の口は城の名に悪く候と云し事覚之(これ覚え)候。
来過(来駕)候て名を易(かえ)て給らば可為御感(御感たるべし)の旨也。

澤彦不移時日(時日移さず)、越境そろて対面せしに信長卿曰、井の口と云名悪く候と政秀が語りをき候事思食出し、貴僧を呼び越候との儀也。
兼て澤彦の宿所は小侍従と云う者に仰せ付けられけり。

岐山岐陽岐阜など三つの内御好み次第と言上なり。
信長卿曰は諸人等云ひよき名はただ岐阜なりと被仰(仰せられ)そろて祝語も候はば、被為聞度(聞かせられたく)との使者あり。

澤彦登城候へば信長卿曰は、ひとたび天下を望み候に能名にて候かと仰せ候と也。
澤彦曰く、文王起岐山定天下(文王岐山に起こり、天下を定む)之古語あり。
此語を以て岐阜と名付候へば、天下もほどなく御手に入り候はんと言上候へば、御感不斜(斜めならず)、為御褒美(御褒美として)額の名盆に黄金十枚被積(積まれ)下し給ふ。
澤彦頂戴せられ候。

信長卿曰ふは、黄金は世間に多く可有(有るべし)、盆は豊後の屋形進上、秘蔵可有(有るべし)と御挨拶と也。
信長卿曰、猶御用の事候へども先づ帰寺尤なり。
迎を可進(進むべく)との御暇乞なり。
(後略)


※返り点(レ点と一二三点)のある文章だったが、返り点を入力できなかったので、返り点を抜かしたそのままの文章を掲載した。

※(  )内に返り点のある箇所の読み方を記載したが、自信のないところもあるので、もし間違っていたらお知らせいただければ嬉しい。


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信長が褒美として沢彦に贈った「額の名盆」
この盆の上に黄金10枚が積まれて沢彦に贈られた。

名古屋市 政秀寺蔵
南宋時代(13世紀)の堆黒の彫漆器で、見込みに赤壁賦図、外側に蓮・椿・牡丹などが彫られている。

 
『歴史群像シリーズ 【戦国】セレクション 激震 織田信長』より

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参考文献

・『信長とは何か』 小島道裕、講談社、2006年
・『南都七大寺縁起 其他 寺志篇』 鷲尾順慶 編纂、国文東方佛教叢書
※この中に『政秀寺古記』が収録されている。


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