天下人になる名前 ~「信長」の由来~ | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■天下人になる名前 ~「信長」の由来~■□


1546年(天文15年)      信長 13歳

信長が13歳で元服した折、禅僧の沢彦宗恩(たくげん そうおん)が命名したと言われている。

命名するにあたり、中国の半切(はんせつ)という手法を用いた。
半切とは、上の字の子音と下の字の母音を合わせて一音を構成する。
その合わせて出来た一音の字が、めでたい縁起のいい意味になるように、名前を考える。

信長の場合、信(shin)の「shi」と、長(chou)の「ou」を合わせて、「桑(sou)」になる。

そこで、信長の父の信秀が「桑は蚕の餌となるものだが、それが何故めでたいのか?」と問うと、
沢彦は「桑(桒)という字は、分解すると四十八になり、縁起のいい数と言われている。また、古来、中国では日本の事を”扶桑(ふそう)”と呼んでいたので、いつの日か天下を取るに至る、めでたい名前です。」と答えたので、信秀は大いに喜んだという。

「信長」という名前には、「天下人になる」という意味合いが込められており、信長自身もその名前に込められた想いの通りに、天下人になるに至った。


ところで、何故「桑(桒)」が四十八になり、縁起のよい数字なにかというと、「桒(桑の異字体)」は、十が四つ、そして八という字から成り立っている。
それらを合わせると四十八になり、桑寿という四十八歳の長寿のお祝いが存在する。

当時、人間五十年と言われていた時代なので、四十八歳を無事に迎えられることは大変めでたく、縁起の良い数字だと考えられていたようだ。

これらのことが記されている、『政秀寺古記』を紹介する。


①現代語訳

(前略)
吉法師殿(信長の幼名)が十三歳になり、右に挙げた四人の家老がお供をし、古渡(ふるわたり)の新城で元服し、織田三郎殿となられた。

この時、御判始(はんはじめ・吉書に花押を署した儀式)もあり、未だに御名乗りの覚悟がなかったので、備後守殿(信長の父・信秀)は政秀(信長の傅役・平手政秀)を使者に立てて、我が祖父であり、(政秀寺の)開祖・澤彦(沢彦宗恩)和尚へ尋ねたことは、「反切が”日本”になる名乗りについて聞きたい」との仰せであった。

澤彦が言うには、「(反切が)”日本”になるのは、義朝の反切と太田道灌の反切ですが、この二つの反切は良くないので、このことにより反切というのは、武家にとって最も大切なことです。
(※源義朝も太田道灌も、家臣や主人に謀殺されているため、「この二つの反切は良くない」と言っているものと思われる。)」と。

再び政秀を使者に出して仰せられたことは、「三郎の名乗りの字を澤彦に考えてもらいたい。」とのことであった。
こうして、天文十五年正月十八日、”信長”の二字に反切は”桑”という字を書きつけて進上したところ、備後守殿が言うには、「桑は蚕の食べ物にもなり、様々な木々の中でも良くないのではないか。」と使者が澤彦に伝えた。

澤彦は、「日本のことを”扶桑国(ふそうこく)”」とも言います。
三郎殿が武勇を振ることによって、日本の主になることもあるかもしれない。
また、函谷関(かんこくかん)という所で白い石に篆文で桒という字が刻まれていた。それを解いた者が”四十八”を示す文字だと言った。正符(←何か不明)に帝の在位の年数だということである。これは、帝が位に就いていられる期間が四十八年であろうということを示すめでたい兆しである。
また、桑という字は四十八と分けることができ、反切の字も悪くなく、吉である。」と答えた。

備後守殿が言うには、「四十八年というのは、短くわずかの間ではないか。」と。
澤彦は、「人の一代は、二十年だと考えます。父が四十歳の頃、その子に家を譲って隠遁することが本分でしょう。様々な事柄によって、反切の字はこの上なく吉になります。」と言った。

そして政秀は「もっともなことだ。」と言い、このことを備後守殿へ言上した。
(備後守殿は)とても感動し、名乗りを”信長”に決めて御判始が行なわれた。
その褒美に澤彦は、寺領三百貫を贈られた。
(後略)


②書き下し文

(前略)
吉法師殿十三の御年、右の四老人供奉申、古渡りの新城にて御元服、織田三郎殿にならせ給う。

此時御判始めも有り、未だ御名乗の覚悟なければ備後守殿より政秀御使者として我が祖父の祖師澤彦和尚へ御尋候は、日本にて名乗の返しと申す事被為聞度(聞かせられた)きの旨仰せ候。

澤彦曰く、日本にては義朝の返し太田道灌の返し、此二つ返し悪く候によりて、是より反しと申事武家の専一に候。

又政秀御使者にて被仰(仰せられ)候は三郎名乗の字、澤彦へ被為頼(頼まされ)候旨、角て天文十五年正月十八日、信長の二字に反しは桑と云ふ字を書附て進上候処に、備後守殿曰く、桑は蚕の食物にも成り萬木の中にてもよろしからずやとの御使者あり。

澤彦曰く、日本を扶桑国とも申候。三郎殿被振武勇(武勇振られ)、日本の主人にも成せ給ふ事も可有(有るべき)か、又函谷関と云ふ処にて得白石篆文桑字(白石篆文桑字を得)解者曰く四十八也。正符に帝右位之数と申す事なり。是れは帝王の位にあらせ給ふ事、四十八年たるべしとの瑞氣なり。
又桑と云ふ字を四十八とわけ候。反しの字不悪(悪からず)候吉なりと。

備後守殿曰は、四十八年は短し少しの間なるか。
澤彦曰く、人の一代は二十年宛に勘(かんが)へ申すなり。父の四十歳の頃は其子に家を譲りて隠遁し給う事本分也。彼れ是れ以て反しの字上吉なりけり。

角て政秀尤と申し此旨備後守殿へ言上し給ふ。
御感不斜(斜めならず)、信長に相定められ御判初めあり。
為御褒美(御褒美として)寺領三百貫寄附せられけり。
(後略)


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参考文献

・『南都七大寺縁起 其他 寺志篇』 鷺尾順慶 編纂、国文東方佛教叢書
※この中に収録されている『政秀寺古記』より


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