今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からシング・アウトの「涙をこえて」を聞いている。
平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)の内的再建についての主張の批判である。
(5)内的再建
平子他論文は「内的再建」について、以下のようにいう。
(b)内的再建の適用例
3)露出形と被覆形
接辞*-i「について、以前、ブログ記事「日本語の起源について(51)」では以下のように述べた。
崎山理の「日本語形成論 日本語史における系統と混合(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、以下のようにいう。
「動詞「見る」(上一段)は、オーストロネシア語*mata「目」に由来する語幹*ma-「目」の交替形*mi-(ただし、母音交替規則は不明)にオーストロネシア語の後置詞イ*-iが付いて未然形・連用形*mi-i>mii-見-(関西方言・新聞見-見-ご飯を食べる)」となり、また、「据える、植える」(下二段)はオーストロネシア語*suwan「掘棒」に由来する語幹*suwa-に語尾*-iが付いて未然形・連用形*suwë「据ゑ(乙類)」とその二次形*uwë「植ゑ」を派生し、「に掘棒で据(植)える」を意味した」
他にも、「*labuq「落ちる」から*tafu-ra-i>tahurë「倒れ」(ラ行)、*patay「死ぬ」から*fata-i>fatë「果て」(夕行)、*maN-tiru「編す」から*mana-i>manë「真似」(ナ行)、*ñamñiam(PMP)「味わう」から*nama-i>namë「嘗め」(マ行)、*wakaq「割る」から*waka-i>wakë(力行)などのような下二段活用の未然形・連用形が得られる」
「古代日本語の動詞活用の中心は連用形で、後の終止形、命令形のほか連体形の機能すらもっており、また、未然形と已然形の区別はなく、已然形の成立はもっとも遅れたと言われる」
また、ブログ記事「日本語の起源について(56)」では以下のように述べた。
「京都方言のテー「手」、メー「目」、ケー「食べ物(古語)」という形は、1群の*taŋan「手」、*mata「目」、*kaən「食べる」の語頭部分に限定的後置詞*-iが付いた*ta-i、*ma-i、ka-iという派生語に由来するが、単音節要素は、夕なこころ「手の心=掌」、マなこ「目の子=眼」・マなかひ「目の交=眼間」、力なへ「食物の器=鼎」、動詞とともに夕もつ「手持つ=保つ」、夕おる「手折る」、マだたく「目叩く=瞬く」・マもる「目盛る=守る」、力しく「炊、饗=飯をたく」「名義抄」のように複合語のなかで保たれている」
これらのブログ記事「日本語の起源について」での指摘から、直接的にはオーストロネシア諸語に起源する接辞*-iは、オーストロネシア諸語、朝鮮語、上代日本語で、きわめて多様に使用されていることが分かるが、その本源的な意味は、場所、対象の限定であり、名詞の語尾に賦課される場合には、場所、対象を限定する限定後置詞として使用されたと考えられる。
だから、平子他論文が例示した酒、木、月は、語根+対象限定後置詞としての接辞*-iであったと考えられる。
語根+対象限定後置詞としての接辞*-iの負荷に伴う音変化について、崎山論文はこのような指摘をしている。
「語幹*ma-「目」の交替形*mi-にオーストロネシア語の後置詞イ*-iが付いて未然形・連用形*mi-i>mii-見-(ミー)」、「「京都方言のテー「手」」は「*taŋan「手」の語頭部分」の*taに「限定的後置詞*-iが付いたta-iという派生語に由来する」
そうであれば、平子他論文の事例はこのように分解される。
a.酒*sakai →*saka-i
b.木*kai →*ka-i
c.月*tukui →*tuku-i
なお、「木」は古代には長母音でkii(キー)と発音されていたのは確かであるが、同時に「木」は,
「木立(こだち)」や「木枯らし(こがらし)」という言葉がある用意、複数形でkoとも発音されていた。
崎山論文は、「木」*kiや*ki:、*koは、マライ・ポリネシア祖語の*kahyuが変化した*kəiや*koiに起源するというが、そうであれば、*kahyuの*kaにオーストロネシア諸語の限定の接辞*-iが付加されたものが、「木」*kiの当初の語形であったと考えられる。
そうすると、これらの崎山論文の指摘から、*ta-iがteとなり、*mi-iがmiiとなり、*kəiがkiやki:になったのだとすれば、音便による変化を想定した、以下の音変化がより自然であると考えられる。
a.酒 *saka→*saka-i→*sake-i
b.木*kahyu→ *ka-i → *kə-i →*ki-i →*kii
c.月 *tuku→*tuku-i→*tuki-i
なお、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)による、言語は*ga-、*ti-、*ma-という三種類の具格接辞が酌み交わされて構成されたという指摘を参考にすれば、*saは*sa←*si-ga←*ti-ga、*kaは*ka←*ga、*tuは*tu←*ti-ga-r、*kuは*ku←*ka-ru←*ga-r(-rはツングース語族の-re、-raに残存している、「する」という意味の動詞化接辞)という音変化によって形成されたと考えられる。
そして、そうであれば、「木」の音変化は、おそらく以下に様なものが妥当だと考えられる。
b.木*ga-ti →*ka-ti→(*kahyu)→*ka-i→ *kə-i →*ki-i→*kii
また、崎山論文は「目」に由来する語幹*ma-「目」の交替形*mi-(ただし、母音交替規則は不明)」というが、近藤論文を参考にすれば、具格接辞*ma-に具格接辞ti‐が付加されることによる、*ma-ti→*ma-i*mi-という音変化が想定できる。
接辞*-iは日本語の古文では有名であるし、そうした日本の古文の接辞*-iと朝鮮語の接辞*-iの共通点も以前から言及されていて、崎山論文によればオーストロネシア諸語の接辞*-iも豊富な事例を持っている。
それなのに、平子他論文がこの接辞*-iと接辞*-iを付加させた語形の形成について、全く触れようとしないのは、よく理解できない。
おそらく、平子他論文の比較言語学の比較方法論や内的再建の方法論自体に、こうした語形の形成の理由への無関心、無理解が内在しているのだと考えられる。
(c)内的再建の限界
1)過度の一般化
内的再建によって再建されうるのは、体系・構造をなす言語のある一部分に過ぎないことを理解する必要がある。つまり、内的再建によって見出された規則性・均衡性は、言語体系全体のうち、それが関係する一部分にのみ再建されるものである。その規則を言語体系全体にまで一般化することは基本的にはできないと考えておくべきだろう。
一方、比較方法は、すでに見たように比較される複数言語間における規則的な対応に基づくものであり、比較方法によれば、祖語の「体系」を再建することができるのである。
もちろん、同系と証明された言語/方言がなく、さらに時代を遡る文献資料もない場合には内的再建が唯一の言語史再建の手段となる。また、日本語史研究に限ってみても内的再建によってもたらされた成果は数多くある。その有効性と限界との両方を理解しておく必要がある。
平子他論文は、内的再建の限界として、「内的再建によって再建されうるのは、体系・構造をなす言語のある一部分に過ぎ」ず、「内的再建によって見出された規則性・均衡性は、言語体系全体のうち、それが関係する一部分にのみ再建されるものである」という。
平子他論文のここでのこの指摘は妥当なものである。
しかし、こうした内的再建の限界は、表面定な単純な言語比較では克服はできないと考えられる。
比較言語学が、言語がどのようにして現在の形になったのか、変化する前の言語の形はどのようなものであったのか、その言語が変化した理由と経過はどのようなものであったのか、その最も初期の言語の形はどのようなものであったのか、その言語と他の言語との関係はどのようなものであったのか、などの疑問の答えることを目的とするのであれば、言語が人間集団に伴うものであるのならば、人間集団の移動や変化がその言語の変化に要員であるので、まず人間集団の移動がどのようなものであったのかを復元・再構成すべきである。
また、言語の発達過程が幼児の言語習得過程に類似しているという理解のもとに、言語がどのように発展してきたのかという言語発展の道筋を明らかにすることで、初期の言語の形とその初期の言語から現在の言語がどのように生成してきたのかということを推定し、現在の諸言語に残存する初期の言語の痕跡を見つけ出すことで、それらから最初期の「人類祖語」の語形を推定すべきである。
こうした、最初期の「人類祖語」の語形の復元・再構成をすることで初めて、諸言語の比較と、そうした比較を踏まえた、言語の発展過程の中での諸言語の位置を明確にすることが可能となる。
そして、こうした基本的な道筋を明らかにして初めて、その道筋の過程での諸言語相互の影響について確定することが出来る。
この「大きな物語」を構想するための部分的な材料こそ、言語の比較と内的再建の議論であり、これらはそこで活用することで大きな成果を生むのだと考えられる。
主要なもののみを一部例示すれば、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)は、「人類祖語」の復元・再構成の貴重な材料を提供し、崎山論文は、オーストロネシア諸語の日本語や琉球語への影響について豊富な事例を提供し、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」同「新北海道史(同)」同「DNAでたどる日本人10万年の旅(昭和堂)」(これらを「崎谷論文1、2,3」という)は、ホモ・サピエンスの初期拡散と世界の言語の成立や北海道や琉球諸島の言語の形成過程についての、最新の情報を提供し、松本克己の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は、東アジアの言語の歴史とそこにおける日本語の位置についての貴重な検討材料を提示している。
これらの著作に言及せずに、日本語の形成過程を復元・再構成することは出来ない。
しかし、平子他論文がこれらの著作に言及して議論を進めた形跡はない。
特に、平子他論文が日本語と琉球諸語の関係とそれらの言語の共通祖語であるとする「日琉祖語」について検討しようとしているのに、琉球諸語に決定的な影響を与えたオーストロネシア諸語の日本列島への波及と弱酸について無関心で、崎山論文言言及せずにいることは全く理解できない。
平子他論文がいう比較言語学とは、言語の語形の部分的な形式的な検討だけしていればいいということなのだろうか?
2)内的再建と「発達史」観
内的再建による再建は、異形態の分析を重視し、体系・構造中の不規則性に着目する。そして、その不規則性は元来存在しなかった、つまり、元来はその体系・構造は規則的で、均衡のとれたものであったということが前提となっていることには注意したい。そこでは、いわば、その規則性・均衡性を復元するで再建が行われる。
このような規則性と均衡性を復元し、より「単純な」体として文献以前の言語を再建するという内的再建の営みは、時代を遡るほどに言語は単純で原初的なものであり、それが合理性を得る中で複雑化していったという、「発達史」的な言語史観につながりやすいと考えられる。
平子他論文は、「発達史」的な言語史観は「言語は時代を遡るほどに言語は単純で原初的なものであり、それが合理性を得る中で複雑化していったという」ものであるという。
しかし、近藤論文が指摘しているように、初期の言語が言語としての形成の歩みを始めて、ある程度の言語の形ができたころの言語は、人称接辞や時制接辞、動詞化接辞や名詞化接辞などをごてごて付加した長く複雑な語形をもっていたと考えられる。
例えば、固有名詞もなく、その意味を長い語形で説明した名詞句が、その固有名詞の初期の姿であり、その長い名詞句が煩雑に使用されていく過程で、そこから脱落する部分が出てきて、やがて、その名詞句のごく一部だけが固有名詞となっていったと考えられる。
また、文法的な性の存在や時制、複数形などによる不規則な動詞の活用・変化、動詞の分割と一部の移動も、人称接辞や時制接辞、複数接辞などをごてごてと付加した、初期の語形の名残である。
ただし、平子他論文がいう「発達史」的な言語史観自体は誤りであるが、諸言語が初期の「人類祖語」から変化してきたこと、その過程で、諸言語相互の影響がによって諸言語が変化してきたこと、そういう言語の「形成」過程を復元・再構成することは重要な意味を持っていると考えられる。
言語の「人類祖語」からの歴史的な変化と言語相互の影響による形成という視点は、言語を理解するうえで避けては通れない課題である。
(d)内的再建と比較方法
内的再建による再建が、ある1つの共時体系における不規則性に注目して、一時代前の体系を再建するのに対して、比較方法による再建は、2つ以上の同系の言語/方言の共通の祖先にあたる祖語を再建する。
内的再建の結果と比較再建の結果が一致することもあるが、内的再建で再建されるものが比較方法によっても再建できるとは限らず、比較方法によって再建されるものが内的再建によっても再建できるとは隕らない。
その意味で、両者は相補う関係にあるべきもので、一方が他方を退けるような関係にあるものではない。
平子他論文が主張するように、「内的再建による再建が、ある1つの共時体系における不規則性に注目して、一時代前の体系を再建するのに対して、比較方法による再建は、2つ以上の同系の言語/方言の共通の祖先にあたる祖語を再建する」ものであり、「両者は相補う関係にあるべきもの」であることはそのとおりである。
しかし、世界の諸言語が共通の「人類祖語」から分岐して派生したものであり、言語の変化が人間集団の移動に伴うものであるならば、「人類祖語」の復元・再構成と人間集団に移動過程の再現・推定は、言語比較の対象・範囲の選定とその視点の確立のための前提条件であると考えられる。
そうであれば、そうした前提条件を欠いた内的再建による再建や比較方法による再建からは妥当な結論・結果を得ることは困難であり、仮に何かの有効な結果が得られてとしても、そこで得られるものは少ないんだと考えられる。
つまり、これは、おそらく、言語発生学や歴史学、人類学などと結合せずに、単なる語形の音変化などを比較・推定するだけの比較言語学の学知しての限界性ということなのかもしれない。