平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(8) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からシング・アウトの「涙をこえて」を聞いている。

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)の内的再建についての主張の批判である。

 

 (5)内的再建

 

 平子他論文は「内的再建」について、以下のようにいう。

 

 (b)内的再建の適用例

 

3)露出形と被覆形


 上代語においては、(5)のような交替現象が認められる。

 

(5)a.酒サケ乙ー酒壷サカッボ
      b.木キ乙ー木末コ乙ヌレ
     c.月ツキ乙~月夜ツクヨ甲

 

 このうち、左側の形は[語根の終の母音が語の末尾に露出する場合に用ゐられ得るものである]ので「露出形」と呼ばれ、右側の形は[語根の終の母音が何か他の要素に被はれてゐる場合にのみ用ゐられるものである]から「被覆形」と呼ばれる。まさに、同一形態素の異形態の交替現象である。


 内的再建においては、(5)のような特定環境下における異形態の交替は本来的なものでなく、当該言語の先史において起こった変化によってもたらされたものだと考える。すなわち、元来は露出形と被覆形の交替はなかったと考え、(5)のような異形態の交替が生じるに至ったことの説明を歴史変化に求めるのである。


 さて、上記(5)の3つの交替現象に共通しているのは、露出形の末尾がイ列・エ列音節という前舌母音を含む音節である一方、被覆形の末尾音節は前舌母音を含まないということである。ここから、露出形と被覆形は前舌的な要素の有り・無しによって区別されていた段階を想定することができる。


 露出形の末尾母音は前舌性をもっが被覆形はそうでないこと、また、(5)の汗節交替(母音交替)が、形態素末に偏って見られることなどから、露出形は陂覆形の末尾に*-iという要素が付加されたものとする説がある。この説によれば、(5)に示した露出形の一時代前の形は、それぞれ(6)のような形であったと推定される。(*aは上代特殊仮名遣におけるオ列乙類音節の母音にあたる。)

 

 ここで平子他論文が指摘しているように、平子他論文がいう「内的再建」の議論によって解明できるのは、その言葉の「一時代前の形」でしかなく、長期間にわたる変化の過程を解明することはできないのだと考えられる。

 

(6)a.酒*sakai
      b.木*kai
        c.月*tukui

 

 露出形を被覆形の末尾に*-iという要素が付加されたものだとする阪倉などの説は、(7)のような上代語における母音融合現象からも支持される。

 

 (7) a. naga (長)十ikii (息) > nageki(歎き)
    b. opo(大)十isi (石)> opisi

 

 しかしながら、被覆形は露出形に*-iを付加したものであるとする説には、問題の*-iに一定の意味的・統語的機能を認めることができないという問題があることが指摘されている。

 

 この問題は、前舌的要素を*-iのような別の形態素に求めるのではなく、語根自体が前舌的要素をもっていたと仮定することで解消される。

 

 すなわち、(6)のような、語末に母音*iをもつ形式を一時代前の語根とみなし、上代語における露出形はこの形式が(語末において)忠実に実現された形式に由来し、被覆形は(非語末において)末尾母音が脱落した形式に由来すると仮定するのである。  

 

 露出形と被覆形の交替現象から音形としては(6)のような形式が再建されることは、これまでにも多くの研究者が主張してきた。

 

 どの説であれ、露出形は*iで終わり、被覆形はそうではないという体系が上代語以前の体系として再建される点は変わらない。

 

 この段階においては、2つの交替形が母音*iの有無で区別されるという点で、形式と機能の間の関係がより明示的であった。

 

   *ai > e(エ列乙類)、*si > i (イ列乙類)、*ui > i (イ列乙類)という音変化が、上代語よりも前の段階(先上代語)で起こったことによって、上代語の段階にはそれが明示的ではなくなった。このように考えることで、露出形においては同じイ列乙類音節を語末にもつ「木」と「月」が、被覆形になると形態素末音節の母音を異とするということに対しても無理なく説明を与えることができるようになる。

 

 平子他論文は、「*ai > e(エ列乙類)、*si > i (イ列乙類)、*ui > i (イ列乙類)という音変化が、上代語よりも前の段階(先上代語)で起こった」といい、「語末に母音*iをもつ形式を一時代前の語根とみなし、上代語における露出形はこの形式が(語末において)忠実に実現された形式に由来し、被覆形は(非語末において)末尾母音が脱落した形式に由来すると仮定する」

 

 しかし、「一時代前の語根」とする「語末に母音*iをもつ形式」が、どのように形成されたのか、その持つ意味は何なのか、については説明していない。

 

 平子他論文がこの説明をしないのは、おそらく、「*-iに一定の意味的・統語的機能を認めることができないという問題がある」ということから。この*-iが何なのか、何を意味しているのか、について理解できないからであると考えられる。

 

 このように、比較言語学の「内的再建」の議論では、その語形の変化自体は指摘できても、その語形変化がどのようにして生起したのか、また、その語形変化の持つ意味は何なのか、などについて解明することは出来ない。

 

 それでは、この*-iは何なのだろうか?

 

4)接辞の*-i

  

 結論をいえば、この*-iは限定後置接辞であり、多様な機能を持った接辞の*-iは、上代日本語にも朝鮮語にも存在しており、それらは、オーストロネシア諸語の場所、対象の限定の接辞*-iに直接的に起源していると考えられるが、同様の機能を持った接辞*-eがアイヌ語に存在しているので、オーストロネシア人の日本列島や朝鮮半島南部への渡来に伴うオーストロネシア諸語の日本列島や朝鮮半島南部への流入以前に、朝鮮半島や日本列島には、同様の接辞*-iが存在していたと考えられる。

 

 そうであれば、その本来的な接辞*-iは、日本列島や朝鮮半島には、後期旧石器時代のY染色体ハプログループDの集団の移動に伴って流入したもので、おそらく「人類祖語」に起源するものであったと考えられ、オーストロネシア諸語に伴って、その上に、オーストロネシア諸語で進化した接辞*-iが上書きされていったのだと考えられる。

 

 そして、接辞*-iが「人類祖語」に起源するものであったとすると、それは、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」での指摘から、*-ti→*-si→*-iという音変化を経て、具格接辞*-tiから誕生したものであったと考えられる。

 

 この接辞*-iについて、以前ブログ記事「日本語の起源について(105)(106)(107)」では、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)に依拠して、以下のように述べた。

 

 崎山論文の語例(6)*iの機能

 

 「オセアニア祖語の*iと上代日本語のイとの間には、意味的集約性と機能的分化において明瞭な並行性が認められ」、「*iの機能全般について、とくにソロモン諸語の全体に上代日本語との共通点が見出せるが、以下ではブゴトゥ語(Bug : Bugotu)の例によってそれを示す」

 

(a)人称冠詞

 

 代名詞の強調形i-goe「2人称単数」、ii-a「3人称単数」、i-gita「1人称複数(包括)」、i-gami「1人称複数(排除)」、i-gamu「2人称複数」、ii-ra「3人称複数」

 

 「上代日本語では、イは人称代名詞として「2人称・卑下的」の独立的用法がある」

 

 「イが作り仕へ奉れる大殿の内には意礼(おれ)先づ入りて其の仕へ奉らむとする状を明かし白せ」(お前が作ってお仕え申しあげる御殿の内には、お前がまず入ってお仕え申そうとする様を明らかにせよ)「古事記」

 

(b)主格への転用

 

 「*i-「3人称単数」としての前方照応的用法については」、「体言を述語につなぐ際に、体言と照応(反復)して文法的主語を表すと定義するべきである」

 

「枚方ゆ笛吹き上る、近江のや、毛野の若子イ笛吹き上る」(枚方から笛を吹きながら近江へ、毛野の若様[彼が][葬送の舟上で]笛を吹きながら川を上って行く)「日本書紀」

 

「最初の「笛吹き」にイが接頭されていないのは、受けるべき主語が明示されていないからである」

 

(c)処格 i taba 「海岸で」(Bug)

 

 「上代日本語では、場所の後置詞としての用法もある」

 

 「此の国土イ経を弘むるに頼る故に安穏豊楽にして違脳無からしむ」にの地域に仏の教えを広めることで[人々は]平穏で豊かになり惑いがなくなる)「金光明最勝王経平安初期点」

 

(d)属格 dathe i botho 「子供・の・ブタ=子ブタ」(Bug)

 

 「上代日本語では、連体修飾語に付く間投助詞・限定助詞の用法がある」

 

 「玉の緒の絶えじイ妹と結びてし言は果さず」([玉の緒の]また二人の仲は  絶えることはないね(妻に)固く約束したことは、果たし得ず)「万葉集」

 

(e)道具 i-dather木の実をつぶす石杵」(Bug)、i-tina「本の実をつぶすための石臼」(Bug)

 

 「上代日本語では、道具を示す接頭辞」で、「かかり「掛」・イかり「碇」、イ(斎)杭、イ垣、などがある」

 

(f)地名 ソロモン諸島の地名I-njo, I-tina, I-riri

 

 「上代日本語では、イ岐佐(佐賀・生佐)、イ朽(兵庫・生田)、イ沢(山梨・石和)、など(「古地辞」)」

 

 「イ(i)をもつ地名がとくに集中するのは、鹿児島、沖縄で、さらに台湾蘭嶼、フィリピンから西はマダガスカル、オセアニアへはマリアナ諸島を経てソロモン諸島、ヴァヌアトウに至っている」

 

(g)場所・時間 i-Vei/vei「どこに」(Bug)、i-ngiha-ngiha「いつ」(Bug)

 

 「上代日本語では、どこ「何処」・イづこがある」

 

 「動詞に付いて、動作の対象・場所を明示する接頭辞として、イます「有」、イ懸る、イ副う、イ継く、イ出す「名義抄」などがある」

 

「また、まさご「真砂」に対してイさご「砂」は、「砂のあるところ」の意味であ」る。

 

(h)方向 

 

 「この用法は、現在、生産的ではないが、*sele「ナイフで切る」(フィジー語seleからの借用語)i-sile「入れ墨をする」(Bug)、i-mboro[底」・i-mboro「挺をかます」(Ngg)にその痕跡が認められる」

 

 「上代日本語では、動詞に付いて動作の及ぶ場所ないし対象を示す接頭辞として、のりと「祝詞」・イのり「祈」、イ向う、イ行く、イ抱く「懐」、イツ「出」、イ張る(威張るの威は当て字)「名義抄」などの用法がある」

 

 「上代日本語のイヅには、イが落ちたヅの交替形の例、「船己蔡出=船漕ぎヅ(終止形)」「万葉集」、「伊弊乎於毛比塵=家を思ひデ(連用形)」「万葉集」がすでにあり、鎌倉時代以降イをともなわない形が一般的となり、デは現代語のデル(出)へとつながる」

 

「ただし、現在も地名には出水の読みに、でみず(和歌山)とイでみず(千葉)の両方が行われる」

 

(i)限定詞

 

 「この用法はヴァヌアトウの諸言語に残るが、ソロモン諸語では属格として定着した」が、「この-iは、身体部位、親族、物の部分や位置を表わす語に付き、これをともなう語が「独立名詞」と呼ばれることがある」

 

 「古代日本語でも、*-iをともなった同じ語構成法が存在し、身体部位を表わす語テ「手」は*ta-i>テー、メ「目」は*ma-i>メー「目」のように、また、ムナ「牟那=胸」「古事記」(歌謡)、muna-i>ムネ「胸」のような派生語を生んだ」

 

 「自然界に関係する語では、アマ「天」*ama-i>アメ「雨」夕力「高」*taka-i>タケ「岳、丈、竹」、ムラ「村」*mura-i>ムレ「叢、群れ」の例がある」

 

(j)後置冠詞

 

 「ソロモン諸語では報告されていないが、インドネシア・パプア州のオセアニア諸語に属するビアク語など、周辺に残存する用法で、次の用例に類似する」

 

 「みつみつし久米の子らが頭椎イ石椎イもち撃ちてし止まむ」([みつみつし]久米の人々が頭槌の太刀や石槌[それで]もって打ち破るぞ)[古事記]

 

 「不変化詞イは、対象となる人・物や、それが置かれる、現われる、あるいは行われる位置や場所を指示する機能をもっていた」が、これは、「この語源となったPAN*i-*-iは、PANの独立的小辞*iと無関係ではな」く、「そのすべてに共通するのは、場所・対象指示(代名詞的)機能である」

 

 「このようにイは、その意味的関連性からみて、元来は同じ語(あるいは小辞)であったと考えられる」が、「奈良時代の言語使用者の意識では、すでにその間の語源的・意味的なつながりは薄れかかっていた」

 

 現代朝鮮語の基礎となったのが古代朝鮮の新羅語や百済語であったとすると、代日本語と古代朝鮮語は。古層の環日本海言語圈の言語の上にオーストロネシア語とツングース語が重なり、さらに古代中国語の影響を受けて形成されたという共通の形成過程を経て形成された言語であった。

 

 朝鮮語の動詞の活用語尾や助詞、代名詞などの語法・文法が日本語と共通しているのは、こうした形成過程の共通性のためでもあり、金思華の「古代日本語と朝鮮語(講談社」(以下「金論文」という)によれば、崎山論文が列挙する、例えば下記の(a)(b)(g)(i)などの、上代日本語のイの用法と同じ用法の古代朝鮮語のi(漢字表記は「伊」)がある。

 

(a)人称冠詞

 

 金論文は以下のようにいう。

 

 「現代語では人代名詞としてki-i(彼)、ce-i(あの人)のように使われているが、中世語、古代語では人代名詞だけではな<、抽象名詞として「事」、「者」とを広<さす意に使われている」

 

 「日本語の対応語は、対称の人代名詞「い(伊)」である」

 

 ここで金論文が例示しているのは「い(伊)が作り仕え奉れるを(古事記)」という、崎山論文も例示している文である。 

 

(b)主格への転用

 

 金論文は上代日本語の助詞イと古代朝鮮語の主格助詞iとの関係について、以下のようにいう。

 

 金論文が例示している上代日本語のイの用例は、「紀伊の関守い留めてかも(万葉集)」と「近江のや毛野の若子い笛吹き上がる(日本書紀)」であるが、後者は崎山論文が「主格への転用」の例文としてあげているものである。

 

 「この「い」は朝鮮語の主格助詞「i」とまったく同じもので」、「郷歌には「伊・是・亦」吏分には「亦」の字が使われている。

 

 郷歌の用例  脚伊四是良羅(処容歌)

 吏独文の用例 郡百姓光賢亦(浄兜寺石塔記)

 

 「この主格助詞は、日本では奈良朝以後次第に姿を消していったが、朝鮮では現代まで使われている」

 

 金論文によれば、金沢庄三郎の「日韓両国語同系論」 (以下金沢論文という)は、上代日本語の助詞イと古代朝鮮語の主格助詞iとの関係について、以下のようにいう。

 

 用例

 

 「mur(水)→mur-i(水が)」

 「târk(鶏)→târk-i(鶏が)」

 「kas(帽)→kas-i(帽が)」

 

 ここで金沢論文が例示している「けなの若子い」は金論文が例示した「近江のや毛野の若子い笛吹き上がる(日本書紀)」であるが、これは崎山論文が「主格への転用」の例文としてあげているものである。

 

(g)場所・時間と(h)方向

 

 崎山論文がいう上代日本語のイの用法は、場所・時間が「動詞に付いて、動作の対象・場所を明示する接頭辞」であり、方向が「動詞に付いて動作の及ぶ場所ないし対象を示す接頭辞」であるので、両者の意味は変わらないと考えられる。  

 

 上代日本語のイに対応する古代朝鮮語について、金論文は以下のようにいう。

 

 朝鮮語   ə-t í ə-tÏ-li

 古代日本語 いつ(i-tu、(何処)、いつれ(i-tu-rei-du-re)(何、何時、何処)

 

 「「いつ」は「の」を伴って連体格に.「と」を伴って不定不明の時間を表す」

 

 「また「ら」を伴って「伊豆良(i-du-ra)」となり、不定の場所を、「く」(処)と接して「いづく」(伊豆久)(i-du-ku)となって場所を、「ち・し」と接して「伊豆智・伊豆史」(i-du-t íi-du-si)となって方向をそれぞれ表す」

 

 「また「いつれ(伊都礼)は「の」を伴って連体格に立ち、格助詞を伴って補格に立ち、「何処・何時」の両義に使われている」

 

 「朝鮮語の「何時・何処」の義の語は」、「中世・古代にわたってə -tlj、ə-tʌj、ə-ti-liなどである」

 

 「ə-t íj」・「ə-ti-l í」は「ə-tÏí」の中間に」jl「音が音便上介入した形であるが、朝鮮語の場合「ə」は「何」、「tijtʌj」は「所・処」の義を持つ抽象名詞「ta」の方位格形である」ので、「何時」の意味はない」

 

 日本語の「i-tu」に古代朝鮮語の「ə-tí」が、同じく「i-tu-re」に「ə-t í-l í」が対応し、古代朝鮮語の「ə -tí」は現代朝鮮語では「öt」(何)となる。

 

 金論文によれば、この「öt」について、金沢論文は以下のようにいう。

 

 「国語idsu-ko(何処)、idsu-chi(何方)、itsu(何時)などに通じたるidsuに相当する韓語ötあり」

 

 「此も亦我国に於ける如<、時・処等を示す語と複合して、öt-chi(如何)の如き用法存せり」

 

 こうした金論文や金沢論文の指摘から、以下のように考えられる。

 

 上代日本語のiと古代朝鮮語のəが対応し、日本語の「いつ」(i-tu)のもとの形は古代日本語の「いづ」(i-du)であるので、dからtへの変化が朝鮮語でも起こったと考えられる。

 

 朝鮮語の場合「ə」は「何」、「tijtʌj」は「所・処」の義を持つ抽象名詞「ta」の方位格形であるのは、変容した後の形で、本来は、オーストロネシア諸語の接頭辞iに起源する接頭辞の「ə」は、「動詞に付いて、動作の対象・場所を明示する接頭辞」として、動詞の前に付けられていたと考えられる。

 

 崎山論文はiの用法として(f)地名をあげ、接頭辞iを持つ地名を列挙しているが、これらの地名にはまずその元となる言葉があり、その後にその言葉が地名として付けられたと考えられる。

 

 古代日本語の「いつれ」は「いづれ」が古い形であるが、この「いづ(i-du)」は接頭辞i十動詞duで、「出る」という意味であると考えると、日本にはi-duを含む地名が散見する。

 

 金論文は「伊都」を「いと」ではなく「いつ」と読んでいるが、「いつ」の古い形は「いづ(i-du)」であるので、「魏志倭人伝」に書かれた伊都国は、本来は「いづ」国と呼ばれていたと考えられる。

 

 金論文は「いづ」を「伊豆」と書いているが、「伊都」が「いづ」なら、「伊豆」と「伊都」は、漢字表記が異なるだけで同じ「いづ」という言葉であったと考えられる。

 

 この「いづ」が「出る」と意味であるならば、伊都国があった糸島半島と伊豆国があった伊豆半島は、同じ半島であるとともに、伊都国が朝鮮半島南部との交易の拠点であり、伊豆国が関東地方への海上交通の拠点であったという、海上交通の拠点としての共通点を持っていたと考えられる。

 

 そして、こうした共通点から、船が「出る」(港のある)国という意味で、それぞれ「伊都国」「伊豆国」と呼ばれたと考えられる。

 

 「伊都」の地名は和歌山県の紀の川の中流域にもあるが、そこは紀ノ川の河川交通の拠点であったので、船が「出る」(港のある)国という意味で、「い出(づ)」=伊都郡と呼ばれたと考えられる。

 

 接辞*-iについては次回にも後述する。