平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(7) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」から森山良子の「さとうきび畑」を聞いている。

 

 (5)内的再建

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、内的再建について以下のようにいう。

 

 比較方法によって明らかにされる言語の歴史は、文献資料に在証されるよりも前の段階の歴史であるが、文献以前の言語の歴史を再建するもう1つの有力な方法として、内的再建と呼ばれる方法論が知られている。
 

(a)異形態の交替

 

 内的再建においては、1つの言語/方言における共時態のみが手がかりとなる。そこで重要な役割を果たすのは、形態論的な交替、つまり、異形態の分析である。形態論的な交替はなんの理由もなくいきなり生まれるものではなく、多くの場合は音変化の結果である。つまり、その背景にはもともと同じ音だったものが異なる環境において異なる音変化を遂げて生じたという過程がある。形態論的な交替は音変化の名残と言える。そして、それは音変化を再建する重要な材料ともなる。


 日本語共通語の過去時制を表す接辞/-ta/は、-ta (kai-ta 「書いた」)と-da「kai-da 「嗅いだ」)という2つの異なる形で現れる。母語話者の直感からしても、kai-ta「書いた」の-taと、kai-da 「嗅いだ」の-daとは、同じ過去を表す形式であると考えられる。こうした同一の意味を表すもの(形態)であるにもかかわらず、環境によって実現する形式が交替するものを、同一形態素の異形態と呼ぶ。


 -taと-daという2つの異形態のうち、どちらが現れるかは予測可能であることはよく知られている。まず、母音語幹動詞(下一段・上一段動詞)および「来る」[する]に、この接辞が付加される場合には、「起きた」「来た」「しか」など、一貫して-taの形で現れる。一方、子音語幹動詞(五段動詞)に付加される場合には、語幹末子音がk(書く)、t(持つ)、s(指す)、w(買う)、r(走る)であれば-taで、g(嗅ぐ), b(呼ぶ)、n(死ぬ)、m(読む)であれば-daで現れる。


 内的再建を用いる場合、上述のような特定環境下における異形態の交替を、当該言語の先史において条件変化が起こったことによってもたらされたものだと考える。すなわち、元来は異形態の交替はなかったという前提の下に、異形態の交替が生じるに至ったことの説明を歴史変化に求めるというのが、内的再建の基本的な考え方である。

 

 平子他論文がここで例示している「内的再建」の事例は、日本語共通語の過去時制を表す接辞/-ta/が-ta (kai-ta 「書いた」)と-da「kai-da 「嗅いだ」)という2つの異なる形で現れる現象が日本語共通語が過去に、異形態の交替が生じるに至った条件変化が起こったことによってもたらされたものであり、そこから過去の日本語共通語を復元できるというものである。

 

 しかし、こうした変化で捉えられる関係は、日本語の長い形成の過程の、おそらく一局面に過ぎないと考えられる。

 

(b)内的再建の適用例

 

1)連濁とハ行子音


 日本語共通語における清濁の対立が、夕・ダ行やカ・ガ行の場合には、その音節の頭子音の有声性の対立と捉えられる一方で、ハ行(清音)とハ行(濁音)の場合に、前者が[h](ハ・へ・ホ]、[ç](ヒ)、[φ](フ)であるのに対し、後者が[b]であり、有声性のみならず、調音方法([h]などが摩擦音であるのに対し、[b]は破裂音である)も、調音位置(bが両唇音である一方で、[h]や[ç]は両唇音でない)も異なることに基づき、ハ行子音が過去のある共時態においては[b]に対応する無声音[p]であったと考えられる。

 

 例えば、以下の(1)に示すように、日本語には、「連濁」と呼ばれる、複合語が形成される際、その後部要素の最初の音が「清音」から「濁音」へと交替する現象が見られる((帽は交替を示す)。

 

(1)a.kama「鎌」ーoogama「大鎌」

         b.  tama「玉」ーakadama「赤玉」

 

 

(2)a.hama「花」ーkusabana「草花」

 

 (1a)ではkがgに、(1b)ではtがdにそれぞれ交替している。ともに連濁匚よって、語頭の無声音が、調音位置・調音方法を同じくし、有声性のみが異なる有声音に交替していると考えられる。共時的な規則としては、形態素境界における無声阻害音の有声化、と言うことができる。


 一方、(2)では、hがbに交替している。hとbとでは、有声性のみならず、調音位置・調音方法までもが異なるため、(2)を、先に仮定しか「形態素境界における無声阻害音の有声化」という規則では説明することができない。

 

 この(1)および(2)に示した現代日本語共通語の連濁現象に見られるような不均衡性・不規則性が認められたとき、内的再建による先史の再建の可能性が生まれる。すなわち、ある過去の共時態においてはこのような不規則性は存在せず、連濁現象はすべて「形態素境界における無声阻害音の有声化」という規則が適用された結果であったと仮定する。そして、仮に連濁が起こるすべての場合について「形態素境界における無声阻害音の有声化」という規則が適用されていた時代があったとして、その時代の言語はどのような姿をしていたか、と考えるのである。


 結論から言えば、仮に(2)における「花」が、かつては*panaであったと考えれば、「形態素境界における無声阻害音の有声化」という規則に従い、pがその対応する有声音bに交替することになり、全体としての均衡が保たれる。つまり、連濁現象すべてについて、「形態素境界における無声阻害音の有声化」という規則が適用されていた時代があったとして、その時代においては、ハ行音は*pであり、それが、現代までに*p>hという変化を経て、hに変化したと考えるのである。   

                          
 なお、比較方法によって再建された形式は「祖形」と呼ばれ、また、比較方法によって再建された言語体系は「祖語)」と呼ばれる一方、内的再建によって再建された段階の言語は「先○○語」と呼んで、それと区別する慣習がある。

 

 平子他論文がここで例示している「内的再建」の事例は、日本語共通語では、かつてハ行音は*pであり、それが、現代までに*p>hという変化を経て、hに変化したというものであるが、これも日本語の変化のほんの一局面に過ぎないものであると考えられる。

 

 平子他論文は、比較方法によって再建された形式は「祖形」と呼ばれ、また、比較方法によって再建された言語体系は「祖語)」と呼ばれる一方、内的再建によって再建された段階の言語は「先○○語」と呼ぶというが、その変化の過程の解明の射程は、基層言語の上に様々な言語層が後期旧石器時代以降の長期間にわたって累積することで形成されてきた日本語の形成過程の、やはりほんの一局面を解明するものでしかないと考えられる。

 

 そして、こうした長期間に渡る変化を受けてきた言語の初期段階に遡及するような「祖語」を解明するためには、その長期間の過程を経ても残存したいた語彙や語法を、その初期の「人類祖語」の残存としての「祖語」として解明することが不可欠であると考えられる。

 

 そうした「人類祖語」の解明を前提や媒介にしないで設定された「祖語」は、より短期間の変化を解明した結果、場合によっては任意に設定できるもので、おそらくそれは「祖語」とは言えないものなのだと考えられる。

 

2)音便と清濁


 現代日本語共通語において子音語幹動詞の語幹末子音として現れる子音は,b, t, s, k, g, m, n, r, wの9つであるが,このうちt, s, k, r, wを語幹末子音とする動詞の場合,その音便の有無やそのあり方は(3)のように様々でも,続くta/は、-taで現れる。

 

 (3)a. tat-u「立つ」→tat-ta 「立った」

    b. tas-u「足す」→tasi-ta 「足した」

            c. tak-u「炊く」→tai-ta「炊いた」
            d. hasir-u「走る」→hasit-ta「F走った」
           e.omo(w)-u「思う」→omot-ta「思った」

 

 一方,語幹末子音がb, g, n, mである場合には、 /-ta/は-daで実現する。

 

 (4) a. job-u[呼ぶ]→jon-da 「呼んだ」
         b. kog-u「漕ぐ」→koi-da「漕いだ」
         c. sin-u「死ぬ」→sin-da 「死んだJ
         d. jom-u「読む」→jon-da「読んだ」

 

 交替のような現象を記述する規則は、その現象に関与する音のみに共通する特徴に言及することではじめて一般性をもつ。このような、特徴を独占的に共有する音のグループのことを自然音類と呼ぶ。 -taと-daの交替には、それを共時的に記述する限り、自然音類を定義することができない。

 

 (4a)job-「呼ぶ」とjon-da「呼んだ」の場合、動詞語幹末子音bには鼻骨陸がないにもかかわらず、夕形は撥音便形であるjon-daとなり、語幹末子音が鼻音性をもつ子音音素(撥音)に交替する。音声学的に考えれば、これは不自然な交替である。そこで、仮にハ行子音がかつては鼻音性を有していたとしよう。つまり、「呼ぶ」などハ行五段動詞(b語幹動詞)の音便形が撥音便形となるのは、音便現象が生じた当時においては、ハ行子音にも鼻音性があったためだと仮定するのである。そして、その後、ハ行子音の鼻音性は現代に至るまでに失われたと考える。

 

 このように考えるということは、現代日本語の共時態において鼻音性がないbを語幹末にもつb語幹動詞の語幹異形態の末尾に、撥音(鼻音)が現れるという不規則性に対する説明を、歴史変化に求めるということである。これは、まさに内的再建による言語史再建の1つの例と言える。


 さらにこの考えを拡大して、現代日本語共通語において/b/と同じく有声阻害音である/d, z, g/についても、同じように鼻骨匪を帯びていた時代があったはずだと考えることができる。

 

 このように考えれば、過去接辞/-ta/の異形態として-daが現れる動詞の語幹末には、音便現象が生じた当時、鼻音性をもった子音があったという説明が可能となる。そして、音便現象が生じた当時の体系においては、現在-daが現れる動詞の語幹末子音すべてが「鼻音性をもつ子音」という自然音類をなし、異形態-taと-daの交替を一般性のある規則で記述することが可能となる。

 

 また、現在の体系において問題の子音が自然音類をなさないのは、音変化によって/b, d, z, g/が鼻音性を失ったためだということになる。

 

 ここでの平子他論文の議論も、日本語の変化の一局面の解明という点では意味があるものではあるが、これまで指摘してきたように、日本語の比較的短期間の変化の解明に対応したものであり、それは、日本語が基層言語からどのように変化してきたのかという、長期間にわたる過程の解明を前提として、それを媒介にしてのみ、日本語の歴史の解明に寄与できるものであると考えられる。

 

 具体的には、「人類祖語」が、シュメール語やエラム語、古代中国語や朝鮮語、上代日本語、トルコ語やモンゴル語、ツングース語、チベット・ビルマ語族の言語やオーストロネシア語族の言語などに、どのようにして変化していったのかということを、「内的再建」の方法を利用することで解明していくことも可能となるのだと考えられる。

 

 また、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)が指摘しているように、オーストロネシア諸語の上代日本語への影響の具体的な内容は、オーストロネシア祖語とそこから派生したオーストロネシア諸語が上代日本語の一部になっていることや、オーストロネシア諸語がその祖語からどのように変化してきたのかということを含めて、言語の比較と内的再建によって解明することができると考えられる。

 

 そして、そうしたオーストロネシア諸語は琉球列島の基層言語となって、琉球語に大きな影響を与えているのである。

 

 そうであれば、オーストロネシア諸語の影響抜きに日本語の形成は語れないし、その事情は琉球諸語の形成も同じである。

 

 オーストロネシア諸語の上代日本語の影響については、以前、崎山論文を援用してブログ記事「日本語の起源について」で詳述したが、平子他論文は、日本語の系統論としての「オーストロネシア語族説は問題が多く妥当な仮説ではない」という。

 

 確かに、日本語の系統論としてはそうであるが、崎山論文が詳述しているように、オーストロネシア諸語の影響抜きに日本語の形成は語れないのであって、その影響を正当に評価すべきである。

 

 例えば、以前ブログ記事「日本語の起源について(99)(100)」では以下のように述べた。

 

 琉球開閥神話は以下のようにいう。

 

 「天地のはじめに日神が下界をみおろして、アマミキョ・シネリキョに島を作るように命じた。作られた島じまには、アマミキョ・シネリキョの子孫ではなく、日神の子である霊力をもつ男女を下した」(「おもしろさうし」)

 

 「ブラストは、オーストロネシア祖語に「ヤドカリ」*qumaŋ」(二次形は*kumaŋ)を再構成する」

 

 「パラオ語の? əmaŋ/?amaŋ、ヤップ語の?umaŋ/?amaŋのような不安定な語形は、西部ミクロネシア地域で、*(k)umaŋから第二末尾音節の弱まった二次形*[q] əmaŋが発生したことを物語っている」

 

 「琉球諸語にはこの*[q] əmaŋに由来する形が保持され、琉球祖語形として*[q]amaŋが建てられる」

 

 「現在、琉球諸語のヤドカリを表す語と、神話上の名称であるアマミキョ、アマミヤとの間には、共時的に意味的連関は存在しない」が、「琉球神話の神アマミク(「おもろさうし」ではアマミキョ)は、首里方言でアマンチュー?amaN(-cuu)(=アマミ[キョ])と発音される」ので、「琉球諸語のアマン(アーマン)にこそ、ヤドカリの原意が留められていると考えられる」

 

 「地表の小さな生物ヤドカリへの比喩は、琉球では古来、アマミヤが天井に存するとは観ぜられず、国土と同一の平面上にあると信じられていたが、道教の広通によって天の思想へと発達したという指摘への説明としても成り立つ」

 

 奄美諸島の「奄美」もヤドカリや日神の「アマン」「アマミ」から名付けられたものであり、それを名付けたのはオーストロネシア人であったとすると、崎山論文が指摘するように、「アマン」の北限は奄美諸島であり、日本列島の本土には「アマン」は波及してはいない。

 

 崎山論文はオーストロネシア人の日本列島への移住は何度も波状的に行われたとしつつ、縄文期代後期の第一期、縄文時代晩期から弥生時代前期初頭の第二期、古墳時代の第三期という大きな波及の波があったといい、「アマン」が琉球列島までしか波及していないのは、九州が日本列島の本土の文化に統合されていたからであって、その時期は古墳時代であったという。

 

 また、鹿児島県や熊本県南部、宮崎県南部の南九州は、古墳時代に隼人や熊襲の国であったが、隼人や熊襲は西日本の古墳時代人とは言語や文化が異なっていたオーストロネシア人であり、隼人がオーストロネシア祖語で「エイ」から「南」を意味するようになった「ハイ」の人=「ハヰト」→「ハヤト」に起源することから、彼らが南九州に拠点を形成し始めたのは、縄文時代後期であったと考えられる。

 

 そうすると、「アマン」が琉球列島や奄美諸島から北上しなかったのは、南九州には隼人や熊襲という先住のオーストロネシア人がいたからであり、「アマン」が琉球列島や奄美諸島に波及してきたのは、遅<とも弥生時代後期ごろであったと考えられ、ここから、崎山論文がいうオーストロネシア第三期とは弥生時代後期ごろのことであったと考えられる。 

 

 「黒潮本流に沿って位置する琉球列島へ容易に渡来し得たのは、航海に関する優れた知識と技術をもち、近年までミクロネシアやオセアニアへの航海の起点となったフィリピンの民族ではなかったかと思われる」

 

 「ただし、当時はフィリピン、ミクロネシアといった地域名や国名は存在しないから、「ヌサンタオ=島嶼民族」(PMP*nusa-ñ-tao「島の人」」と考古学者ゾルハイムが名付けた、東南アジア大陸部を起源地とし、紀元前5,000~3,000年にインドネシア島嶼部、フィリピン、台湾、南中国、ヴェトナム北部、朝鮮半島南部、南九州に拡散した海上交易民である民族集団がそれに当てはまる)

 

 「日本に稲作(焼き畑)を伝えたのも、このヌサンタオであったと考えるのが合理的であ」り、「山地民族が大きな危険のともなう洋上へ、海岸でわざわざ慣れない小舟をこしらえて漕ぎ出していく可能性はきわめて小さい」

 

 また、以前ブログ記事「日本語の起源について(75)」では以下のように述べた。

 

 崎山論文の語例(57)

 

 *tawu(PMP)「人」>tao(Tag):tau(Nga):(i-)tau「友」(Fij):tau(tai)()人」(Sam)

 

 古日*töö>上日ひ卜「比登=人」「古事記」(歌謡)、「比騰=人」「日本書紀」(歌謡)、「比等=人」「万葉集」、ヒト「人、者」「名義抄」

 

 「ひ卜の前部要素「比」は甲類で、ひ卜「人」は複合語である」が、「「ひ」の語源は不明である」

 

 「はゐ卜「南の人」の卜は*tawu>*tau*tööに由来するが、長母音の卜-は後部要素となったため単音節化した」

 

 「PANでは*Cauと再構される」が、「この形を継承すれば、古代日本語では*sööとなるはずであり、くまソ「熊曾=熊襲」のソ(乙類)にその可能性があ」り、「その意味は、熊者(くまモン)である」

 

 「ソは、卜と時期を違えて上代日本語に入った二重語であるが、村山は、この卜とソを方言差とみなす」

 

 「ヒト」の「ヒ」の語源は分からないが、「ト」はオーストロネシア諸語の*tawu(PMP)「人」が変化した「ト」であるが、単独では「トー」と発音され、複合語では「ト」と発音された。

 

 「隼人」は「ハゐト」=「南の人」であり、「人」は「ト」であるが、オーストロネシア諸語の*tawu(PMP)「人」からは、「熊襲=クマソ」の「襲=ソ」が別ルートで変化しており、「ソ」と「ト」は同じ意味であった。

 

 熊襲の分布は熊本県で隼人の分布は鹿児島県だとすると、有明海沿岸には熊襲が分布していて、鹿児島湾沿岸には隼人が分布していたが、有明海沿岸の方が鹿児島湾沿岸よりも早く文明化していたので、熊襲の進出と在地化の方が隼人の進出よりも早かったと考えられる。

 

 南九州を「襲」の国ということもあるが、その意味は、「ソ」の人たちがいたところという意味であり、それは、南九州にいたオーストロネシア人たちは、自分たちのことを「ソ」と言っていたから名付けられたと考えられる。

 

 なお、「熊襲」の「クマ」にも、オーストロネシア諸語に由来するような意味があったはずである。

 

 また、熊襲はその後、肥人と呼ばれるようになったが、この「ヒ」は阿蘇山の噴火の「ヒ=火」であり、南九州に進出した古墳時代の人たちが、有明海や八代海の沿岸にいたオーストロネシア人たちを「火人」と呼び、その後「火」を好字の「肥」に変えて表記するようになったと考えられる。

 

 筑紫の枕言葉であり、有明海・八代海に係るとされている「不知火(シラヌイ)」の「シラ」は、崎山論文によれば古代日本語の「白=シラ」と同じように、オーストロネシア祖語の「*silak「光線、輝き」に起源するという。

 

 そして、「不知火(シラヌイ)」は、「シラ=白」「ヌ=の」「ヒ=日」であり、「日光」という意味であるという。

 

 こうした崎山論文の指摘から、筑紫の枕言葉が「不知火」であるのと「古事記」が筑紫を「白日別」というのは、同じことを言っていることになり、どちらの言葉もオーストロネシア語の「*silak「光線、輝き」に起源した言葉であったと考えられる。

 

 そうすると、オーストラネシア人が住んでいた南九州の沿岸部にも本来はこうした地名があったと考えら、それが残存して「古事記」の「不知火」の起源説話になったと考えられる。

 

 こうした「日本語の起源について(75)(99)(100)」での論述から、オーストロネシア人は、縄文時代後期から何度か波状的に日本列島に流入・拡散し、その波状のたびに拡散範囲を狭めていき、上代日本語に大きな影響を与えるとともに、琉球諸語により大きな影響を与えたと考えられる。

 

 なお、「ヒト」という言葉自体がオーストロネシア諸語の流入によって初めて日本列島に誕生したのではなく、後期旧石器時代に流入したY染色体ハプログループD2の集団の言語にも同様の言葉があり、そこにオーストロネシア諸語の「ヒト」という言葉が流入して上書き・強調されたのだと考えられる。

 

 また、オーストロネシア諸語の影響を強く受けた、日本列島から九州語が流入する以前の琉球諸語は、以下のように、本土の言語との意思疎通が困難なっていたと考えられる。

 

 「推古天皇24(616)年のころの琉球語は、日本語とのあいだにかなり開きがあったといわれ」、「平安時代の歌にも、「おぼつかなうるまの島の人なれや、わが恨むるを知らず顔なる(藤原公任「公任集」)」のように、「うるま島人」と言葉が通じないことを詠んでいる」

 

 そして、こうしたオーストロネシア諸語の影響は、以下のような崎山論文の指摘から、現在の琉球諸語にも強く残存していると考えられる。

 

 「日本語の語源では解けない琉球語のなかのかなりの語彙にオーストロネシア諸語が入り込んでいると考えてよ」く、「オーストロネシア諸語の影響が及んだ範囲が琉球語圏内までという場合もあり得るわけで、当然、これは奈良時代の言語資料には反映されない」

 

 「ミクロネシアの民族は、現在の地域よりも広くインドネシア東部、フィリピン南部にかけてもその交流範囲をもっていたようで、自然名や生物名を主とする以下の例に見るとおり、八重山・宮古島方言にその名残りがいっそう強く認められるのは、その接触地域からして当然であ」る。

 

 「生物名も、琉球列島の島々に取り残されたオーストロネシア系語彙であり、語形からみて偶然の一致とは言えない」

 

 これらの指摘はほんの一部であるが、上代日本語と琉球諸語の形成史は、オーストロネシア諸語の影響を抜きにしては語れず、その影響の大きさは、上代日本語と琉球諸語の比較と両者の共通祖語の内的再建だけでは把握できないと考えられる。

 

 なお、オーストロネシア諸語の琉球列島への流入は縄文時代後期以降であるので、その流入以前に琉球列島で話されていた言語が存在したはずである。

 

 琉球列島への人の集団の流入の経過からすると、おそらくのその言語は、後期旧石器時代に南方から中国大陸の沿岸を北上して南琉球(先島諸島)に、そしてその後、北琉球(沖縄諸島以北)にも流入し、日本列島の太平洋岸に拡散していったきたY染色体ハプログループC1の集団の言語や、縄文時代前期に朝鮮半島から北部九州を経由して北琉球(沖縄諸島以北)に流入したY染色体ハプログループN1の集団の言語や、N1の集団の流入に伴って九州から南下してきたY染色体ハプログループC3の集団の言語や同D2の集団の言語であったと考えられる。

 

 そして、それらの言語が重なり合っていった上にオーストロネシア諸語が広範に拡散していったのだと考えられる。 

 

 その意味では、琉球列島への諸言語の流入の歴史経過とその影響の検討抜きの、上代日本語と琉球諸語の比較と両者の共通祖語の内的再建の議論には、大きな限界性と制約が存在していると考えられる。

 

 なお、言語の比較や内的再建の方法は、経済学で言えばミクロ経済学で、「人類祖語」の復元・再構成とそこからの変化の過程の再構成は、経済学で言えばマクロ経済学に祖等すると考えられる。

 

 そうであれば、マクロ経済学がミクロ経済学の論理とは相対的に独立した論理を持っているように、日本語が「人類祖語」から変化してきた長い過程の解明も、言語の比較や「内的再建」だけではなく、日本列島への人の集団の流入の解明を前提とした、「人類祖語」との関係での長期の分析が不可欠になってくると考えられる。

 

 この意味で、平子他論文の主張は、短期的、局所的な議論としては間違っているわけではないが、大きな限界性と制約を持つものであると考えられ、その限界性を十分認識した上での議論が必要になると考えられる。