平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(6) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」から五輪真弓の「少女」を聞いている。

 

 (4)「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語について以下のようにいう。

 

(a)日本語と系統関係のある言語が古代朝鮮半島で用いられていた可能性

 

 7世紀以前の朝鮮半島の歴史を記録する「三国史記」(1145年成立)などに記された西暦757年以前の朝鮮半島の地名には、日本語と音と意味が類似した諳が見つかることが知られている。ここから、日本語と系統関係のある言語が古代朝鮮半島で用いられていた可能性が古くから指摘されており、現在に至るまで研究が続けられている。この言語を表す定まった学術用語はないが、大陸倭語あるいはPeninsular Japonicなどと呼ばれている。「三国史記」は「A一云B」のような形で、同一の地名がAとBとで二重に表記されている

 

 「七重賢一云難隠別」では、Aにあたる[七重縣]は県(行政区分)の名として中国語で理解可能であるが、Bにあたる「難隠別」はそうではない。ここからAは意味をBは音を意味していると推測できる。すなわち「七重」という意味を「難隠別」という音で表していた言語が古代朝鮮半島に存在していたと仮定できる。

 

 「難隱別」という漢字はnananpietと発音されていたと再建でき、これは吃垂」の日琉祖語形*nanapia (上代語nanape)によく似ている。

 

 このような語が、例えば「三」「五」「十」「谷」「水」「囗」「兎」「鉛」など、数語見つかる。


 このような記録が日琉諸語と系統関係にある言語を反映するものであると断言するのは拙速だろう。この言語をめぐる研究の一部には方法論上の問題点が指摘されていることを考慮すると、今後さらに精密な研究が行われることが望まれる。いずれにせよ、この言語はすでに消滅しており、現在の朝鮮半島には残っていない。

 

(b)「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語は「人類祖語」に起源する語である

 

 平子他論文がいう「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語については、以前、「伊藤英人「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」を読んで(2)(3)」で論述した。

 

 長田俊樹編「日本語「起源論」の歴史と展望(三省堂)」所収の伊藤英人「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」(以下「伊藤論文」という)は、「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した地名、いわゆる「高句麗地名」について、「日本語に類似した言語がかつて朝鮮半島に存在した事実の反映と看做すことが出来」、「大陸倭語」の仮称を用いる」が、「新羅、百済、伽耶の地名にも大陸倭語要素が認められる」という。

 

 「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」を読んで(2)(3)」ではこれらの地名について、朝鮮半島に拡散した濊人の言語に由来するもので、濊人は、弥生時代後期後半から同終末期、古墳時代初期にかけて日本列島に移住して墳丘墓と初期の古墳をもたらしたので、濊人の言語が弥生時代に日本列島に流入したと推定した。

 

 平子他論文がいう「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語の例示の「七重賢一云難隠別」については、以前「日本語の数詞の起源について(4)」で、他の数詞の検討と共に、以下のように述べて、それらの数詞や音の類似した言葉は、濊人の言語が流入したものに起源するものだけではなく、朝鮮半島と日本列島に移動してきた後期旧石器時代の人たちが話していた「人類祖語」に起源するものであったと指摘した。

 

 数詞についていえば、ここまでの検討から、「濊人の日本列島への流入と、彼らと当時の日本列島の言語集団の基層集団の言語接触によって、日本列島にもたらされてものであった」という判断は誤りであり、それらは、共通の人類祖語に起源するもので、「濊人の日本列島への流入」の前に、既に日本列島には、濊人の数詞と同じような数詞が存在していたのだと考えられる。

 

 さらに、女真語と高句麗語、上代日本語の数詞が、それらの共通祖語である人類祖語に起源するものであったとすれば、当然のことながら、そうした数詞以外の言語についての類似性も、それらの共通祖語である人類祖語に起源するものであったということになる。

 

 そうすると、伊藤論文が指摘する高句麗語と上代日本語との類似性とは、高句麗語またはそれに類似した言語を話す人たちが日本列島に流入してきたことによって、上代日本語に高句麗語との類似性が生まれたのではなく、それらの共通祖語である人類祖語が高句麗語と上代日本語にともに残存することで、両者に類似性が生まれたのであると考えられる。

 

 だから、確かに、弥生時代後期以降、濊人は日本列島に流入・定住し、上古中国語の語音とともに濊人の言語を日本列島に伝来させたのではあるが、そうした伝来のもっと前から、濊人の言葉と倭人の言葉には、類似性があったのであったと考えられるのである。

 

 そして、ベックウイズなどが主張している、高句麗語と日本語の類似から、両者が共通の「語族」であるという主張も、そうした「類似」が人類祖語に起源するもので、「類似」自体は、シュメール語や中国語、朝鮮語との間にも存在するということから、誤りであると考えられる。

 

 なお、ここでは「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」を読んで(2)(3)」で指摘した「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語の具体的な検討と「日本語の数詞の起源について(1)から(5)」で指摘した、上代日本語と女真語、高句麗語、古代中国語、中期朝鮮語、シュメール語、オーストロネシア祖語の数詞との具体的な関係の検討については省略しているので、関心がある方は、「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」を読んで」と「日本語の数詞の起源について」を参照されたい。

 

 平子他論文は、「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語の存在について、「このような記録が日琉諸語と系統関係にある言語を反映するものであると断言するのは拙速」であるといい、「この言語をめぐる研究の一部には方法論上の問題点が指摘されていることを考慮すると、今後さらに精密な研究が行われることが望まれる」というが、その具体的な内容は論述してはいない。

 

(c)「人類祖語」から「別々の歴史を辿ってきた」高句麗語と古代日本語

 

 平子他論文がいう「三国史記」に記載された日本語と音と意味が類似した語とは、具体的には濊人の言語であったと考えられるので、「このような記録が日琉諸語と系統関係にある言語を反映するものである」と考えるということは、濊人の言語と古代あるいは上代日本語との系統関係を検討するということである。

 

 平子他論文がいう「この言語をめぐる研究の一部に」あるとされる「方法論上の問題点」が具体的に何なのかは分からないが、濊人は、弥生時代後期以降、日本列島に流入・定住し、上古中国語の語音とともに濊人の言語を日本列島に伝来させるとともに、古墳時代中期以降に日本列島に流入して、渡来人のうちの漢氏の中核部分となったと考えられる。

 

 このように、弥生時代後期以降、古墳時代を通じて、濊人の言語は日本列島に流入し、後期旧石器時代以降に日本列島に移動してきて最古層の日本人となっていった人たちの言語、最古層の「古代」日本語に大きな影響を与えたと考えられるが、両者の関係は直接的な系統関係ではなく、いわば借用関係に近いものであったと考えられる。

 

 だから、濊人の言語と古代日本語の系統関係を、濊人の言語が古代日本語に変化したと考えるならば、その「方法論上の問題点が指摘されている」ということも理解できる。

 

 濊人の言語は古代日本語の文法や構文などは変えずに、古代日本語に新しい語彙や単語の新しい発音を持ち込んだのであっただけであると考えられる。

 

(d)日本語の中央語と非中央語との関係

 

 平子他論文は、日本語の中央語と非中央語との関係について以下のようにいう。

 

 非中央語の資料的価値を理解するためには、中央語も非中央語も共通の祖語に遡るとは言え、別々の言語体系であることをまず認識する必要がある。祖語から分岐した後、中央語と非中央語は別々の歴史を辿ってきたのであるから、非中央語の資料が中央語の文献上の空白を直接埋めることはありえない。

 

 ここで中央語を上代日本語、非中央語を濊人の言語(いわゆる「大陸倭語」「高句麗語」)とすれば、両者は「(人類)祖語から分岐した後」、「別々の歴史を辿ってきたのであ」り、それでも類似している言語は、両者の共通の祖語である「人類祖語」の残滓であると考えられる。

 

 そして、「人類祖語」から、個別の言語が形成される過程は、「人類祖語」を話していた現生人類が、その初期拡散の過程で各地に拡散することで、初期の人間集団が分岐・隔離され、その分岐・隔離された人間集団ごとに「人類祖語」が変化していく過程であったと考えられる。

 

 だから、異なる言語集団の言語の相互関係は、初期拡散した現生人類の集団の話していた言語、つまり「人類祖語」の再構成と、その言語集団が、初期拡散した現生人類の集団のどのような分岐・移動によって形成されたのかということの理解抜きには、明らかにすることはできない。

 

 なお、この、初期拡散した現生人類の集団の話していた言語、つまり「人類祖語」の再構成と、その言語集団が、初期拡散した現生人類の集団のどのような分岐・移動によって形成されたのかということについては、以前「「人類祖語」の再構成の試み」で詳論したので、ここでは再論はしないので、関心がある方は参照してほしい。

 

 以上のように、「人類祖語」の存在と言語集団の移動によるその変化という視点を欠落させた平子他論文の方法論では、日本語がどのように形成されてきたのかということや、日本語の近隣言語との関係について、解明することはできないのである。

 

(e)基層の日本語とその変化の経過

 

 後期旧石器時代に日本列島に移動してきた集団のうち、朝鮮半島から南下してきた集団は、中央アジアから華北平原に移動してきて中国大陸と朝鮮半島に拡散したY染色体ハプログループD2の集団で、北海道に移動して来た集団は、中央アジアからシベリア南部に移動してきてアムール川流域からサハリンを経由してきたY染色体ハプログループC3の集団で、古代日本人の最古層を形成しているのがY染色体ハプログループD2の集団で、アイヌ人の最古層を形成しているのがY染色体ハプログループC3の集団であったと考えられる。

 

 Y染色体ハプログループC3の集団は何度も北海道に流入し、氷期には細石刃文化を流入させたが、アムール川流域から朝鮮半島を南下して北西九州に流入したC3の集団もあった。

 

 また、後期旧石器時代には、中国大陸の沿岸部を北上してきたと考えられるY染色体ハプログループC1の集団も、日本列島に流入し、太平洋沿岸に拡散した。

 

 最終最大氷期には、東北アジアの広範囲から比較的温暖であった日本列島を避難地として、雑多なY染色体ハプログループの集団が日本列島に流入してきて、その痕跡は日本人のY染色体ハプログループの集団の多様性に残っている。

 

 縄文時代後期にはフィリピン方面からY染色体ハプログループO1の集団であるオーストネシア語族が北上し、焼畑の稲作を日本列島に伝播させ、以降、弥生時代から古墳時代に至るまで、何度も波状的に、琉球列島から九州、西日本に海民として拡散し、古墳時代に北上し、南九州に流入してきた人たちは、いわゆる「隼人」となった。

 

 縄文時代に相当する朝鮮半島の櫛目文土器時代には、遼河流域の農耕文化に起源するアワ・ヒエなどの雑穀農耕が、遼河流域を本拠地とするY染色体ハプログループN1の集団によって、朝鮮半島を経由して日本列島に流入してきた。

 

 縄文時代晩期には、黄海沿岸から朝鮮半島中西部に移動して朝鮮半島南半部に拡散した、揚子江中流域を原郷とするオーストロアジア語族の一派のY染色体ハプログループO2の集団が、日本列島に水田耕作の稲作を伝播させ、弥生時代以降、主にY染色体ハプログループD2の集団を基層集団とする、いわゆる「縄文人」と混血しながら日本列島に拡散していった。

 

 弥生時代後期には、朝鮮半島から主にY染色体ハプログループC3の集団である濊人が南下し日本列島に墳丘墓を伝え、朝鮮半島の楽浪郡などから日本列島に交易のために流入してきたY染色体ハプログループO3の集団である古代中国人は、日本列島に漢字の日本語の訓読みの元となる古代中国語の発音を伝えた。

 

 古墳時代中期には、朝鮮半島南部から、主にY染色体ハプログループC3の集団である濊人が漢氏として、主にY染色体ハプログループO2bの集団である韓人が秦氏として、またY染色体ハプログループO3の集団である中国系の渡来人が、それぞれ日本列島に移住してきて、須恵器製造や鉄器生産、養蚕の技術、文字などの渡来系文化を日本列島に伝播させた。

 

 このように、それぞれの時代ごとに日本列島に流入してきた多様なY染色体ハプログループの集団は、それぞれ異なった言語を持っていて、彼らはその言語を日本列島に持ち込んできたので、古代日本語もそれらの言語の影響を、語彙と単語の発音の点で、大きく受けて変化してきたと考えられる。

 

 しかし、それぞれの時代ごとに日本列島に流入してきた多様なY染色体ハプログループの集団も後期旧石器時代に日本列島に流入してきて古代日本人の最古層を形成したY染色体ハプログループD2の集団も、「出アフリカ」を行った150人の人たちの子孫であり、彼らの言語は同じ「人類祖語」から変化したものであったと考えられる。

 

 だから、彼ら相互の言語では基礎的な単語は似通っていたと考えられるので、夫々の時代ごとに日本列島に流入してきた多様なY染色体ハプログループの集団によって持ち込まれた言語によって上書きされても、日本列島に流入してきて古代日本人の最古層を形成したY染色体ハプログループD2の集団の言語の基礎的な単語は、大きくは変わらなかったと考えられる。

 

 そうであれば、それぞれの時代ごとに日本列島に流入してきた多様なY染色体ハプログループの集団によって持ち込まれた言語と古代日本語とを直接的に結び付ける日本語系統論は、一面的なものに終わる考えられる。

 

 必要なのは、そういう日本語の「系統論」ではなく、「人類祖語」と日本語の関係論による日本語の基層の言語の推定と、日本列島に流入して基層の言語に影響を与えてきた夫々の言語の影響の解明によって、基層の言語がどのように変化してきたのかという推定である。

 

 なお、この「人類祖語」と日本語の関係論については、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」を、日本列島に流入して基層の言語に影響を与えてきた夫々の言語の解明と、その言語の流入によって基層の言語がどのように変化してきたのかについては、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」、小林昭美の「「やまとことば」の来た道」、埼谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」、同「新北海道史(勉誠出版)」とブログ記事「日本語の起源について」「「人類祖語」の再構成の試みについて」「ツングース語の日本語への影響について」などを、数詞に限定した議論については、松本克己の「世界言語の視座(三省堂)」やブログ記事「日本語の数詞の起源について」を、それぞれ参照してほしい。