平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(5) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からチューインガムの「風と落葉と旅びと」を聞いている。

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)の比較言語学の方法論についての主張への論述である。

 

(3)「人類祖語」の再構成
 

 以前、「「人類祖語」の再構成の試みについて」では、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)によるシュメール語と中国語・朝鮮語・古代日本語との語形比較の例示と、具格接辞*ga-、*ti-、*ma-を組み合わせて使い分けることによる、人称・格標識の形成によって、「人類祖語」の単語が形成されていったことを論述した。

 

 この論述はかなりの分量になるので、「「人類祖語」の再構成の試みについて(62)」の一部を、「平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(3)」に続いて、以下に修正して再掲し、紹介した後で補足の説明をする。なお、他の多くの事例については「「人類祖語」の再構成の試みについて」を参照してほしい。

 

(a)例示

 

 〈表9〉シュメール語と中国語・朝鮮語・古代日本語との語形比較

 

シュメール語  中国語   朝鮮語    古代日本語

 

tu-b「土」  thu「土」     tta-ŋ「土・土地」 tu-ti「土」

        ti「土地」      

 

u「王」    wa-ŋ「王」    ɯ-ttɯ-m「首位」wo-sa 「長」

 

u-r-gi(-r)「犬」  ko-u「犬」   kɛ 「犬」        i-nu「犬」

 

u-r「犬」         tca-n「犬」     i-ri「狼」   

 

u-s「血」       ci-e「血」      cə-c「乳」     tu/ti「血」

                     ru「乳」        mu-l「水」  ti「乳」

                     su-i「水」      jɯ-p「汁」   mi-du 「水」

                     tsi「汁」                          si-ru 「汁」

                     li「力」                            ti-ka-ra「力」

  

(b)説明

 

1)土

 

 近藤論文の例示によると、中国語のthu「土」はシュメール語のtu-b「土」のtuが音転したもので、ti「土地」はthu「土」が音転したものであるので、古代日本語のtu-ti「土」は重複表現であるが、朝鮮語のtta-ŋ「土・土地」のttaも重複表現であるとすれば、ta-ta-ŋとなる。

 

 ここで-ŋがŋ←n←gと音転してきたもので、そのgがda-gのdaが脱落したものであったとすると、朝鮮語のtta-ŋ「土・土地」は、本来はta-ta-da-gであったと考えられる。

 

 ta-ta-da-gの-da-gは「する」という意味なので、taが「手」であるとすると、その意味は、「手で(耕作)した(もの)」という動名詞になり、古代人にとっての「土」や「土地」の本来の意味は、自然なままのものではなく人間の手が加わったものであったと考えられる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

 

 シュメール語のtu-b「土」の-bは朝鮮語の-pと同じであるが、tu-b「土」と朝鮮語のtta-ŋ「土・土地」との対応関係から、-bや-pは-da-gの-gと対応し、その意味は「~する」であったと考えられる。

 

 そうすると、本来の語形のta-ta-da-gの後半が脱落し前半のta-taが音転したものが古代日本語のtu-ti「土」であり、その先頭のtaと最後のgを残して中間が脱落し、残存した先頭と最後が音転したのがシュメール語のtu-b「土」で、先頭のみが残存して音転したものが中国語のthu「土」であったと考えられる。

 

2)王

 

 中国語のwa-ŋ「王」の-ŋは-gが-nを経由して音転したもので、waはwo-aが音転したものであるとすると、wa-ŋ「王」はwo-a-gとなるが、-a-gはda-gが音転したものでありwoはuが音転したものであったとすれば、wa-ŋ「王」は本来はu-da-gであったと考えられる。

 

 朝鮮語のɯ-ttɯ-m「首位」のɯがuが音転したものであり、ttが重複表現であるとするとɯ-ttɯ-m「首位」は、u-t-t-u-mとなるが、-t-t-uが-da-da-gが音転したものであるとすれば、u-da-da-g-mとなる。

 

 古代日本語のwo-sa「長」のwoがuの音転形であるとすると、wo-sa「長」はu-saになるが、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)によれば、「述べる」をPMP(マライ・ポリネシア祖語)では*ucapといい、タガログ語ではusap、フィジー語ではosaといい、古代日本語のu-saと同形となる。

 

 タガログ語のpが朝鮮語のpと同形で、シュメール語のbに対応するとすれば、シュメール語の-da-gと同じになるので、タガログ語のusapを分解してシュメール語に置き換えるとu-sa-da-gとなる。

 

 古代日本語のwo-sa「長」やタガログ語のusap「述べる」の存在から、中国語のwa-ŋ「王」をシュメール語に置き換えたu-da-gは、u-sa-da-gの-saを省略した語形であり、シュメール語のu「王」は、u-sa-da-gの先頭のu以外が脱落した語形であったと考えられる。

 

 古代日本語で「長」をwo-saといい、統治することをwo-su「治す」というので、woがuの音転形であるならば、uは「統治する」という意味であり、saを「説明」とすれば、-da-gが「する」なので、u-sa-da-gの意味は「説明して統治する(人)」であったと考えられる。

 

 「説明する(できる)人」が「統治する人」であったことについて、崎山論文は、「意味的にスピーカーが議長になるのは、いつの世も変わらない。「村ヲサ」には年貢の徴収、治安、治水などの仕事があったが、基本的には巧みな話術によって維持された」というが、妥当な解釈である。

 

 なお、uが「統治する」という意味であるのは、シュメール語のuがu-r-gi(-r)「犬」やu-s「血」のuと共通することから、本来的なものではなく、u-s「血」のuがシュメール語のmu「水」に起源する語彙であることから、u-r-gi(-r)「犬」や「統治する」という意味のuもmu「水」に起源する語彙であったと考えられる。

 

 「水」と「統治」「犬」「血」との関係は、古代の社会では水を制御できるものが支配者になれたのであり、野生の狼に水や餌を与えることで犬が誕生したのであり、体から出る赤い水が血であったのである。

 

 そうすると、シュメール語のu「王」から復元されたmu-sa-da-g「王」には、本来は付加されていた「(水を)制御する」という意味を表わす接頭辞や接尾辞などが省略されていたのだと考えられる。

 

3)犬

 

 シュメール語の「犬」はu-rとu-r-gi(-r)があるが、u-r-gi-rの-gi-rが脱落したもので、本来はu-r-gi-rであったと考えられる。

 

 近藤論文が指摘するように、古代日本語のi-nu「犬」は、「日本語i-nu「往ぬ」の場合と同様に,-nuはシュメール語の-rと対応している」として、i-nuのiがgi-rのiと対応するとすれば、i-nu「犬」はgi-rとなり、u-r-gi-rの前半が脱落し後半が残存した語形であり、朝鮮語のi-ri「狼」もgi-rであったと考えられる。

 

 近藤論文は、中国語のtca-n「犬」の「[tc]音は軟口蓋音の[g/k]音が硬口蓋音化したもの」であるというが、中国語のko-u「犬」や朝鮮語のkɛ 「犬」が[k]音なので、tca-nの-nが-gであったとすると、tca-n「犬」はka-gになり、中国語のko-u「犬」や朝鮮語のkɛ 「犬」と同じような語形になる。

 

 kɛやko-uのko、ka-gのkaのうちで最も本来的なものがkaであったとすると、本来はu-r-gi-rのどこかに、接辞としてkaが付加されていたのだと考えられるが、中国語のko-u「犬」のuがu-r-gi(-r)「犬」のuであったとすると、kaはu-r-gi-rの先頭に付加された接頭辞であるので、その本来の語形はka-u-r-gi-rであったと考えられる。

 

 なお、このkaがku「食う」と同源であるならば、ka「食料」=「餌」となり、uがmu「水」であったとすれば、ka-u-r-gi-rの意味は、「水と餌を与えて(飼育するようになった)狼」ということになる。

 

4)血

 

 シュメール語のa-ma「海」が、a-ma-ga-rであり、その本来の意味が「真の」ma「水」a「である」ga-rであったとすると、シュメール語のu-s「血」のuはmaが音転したmuであり、中国語のci-e「血」や古代日本語のti「血」から、-sは-siの省略形であり、その本来の語形はa-ma-siと復元できる。

 

 中国語のci-e「血」の-eが朝鮮語のmu-l「水」の-lやjɯ-p「汁」の-p、古代日本語のsi-ru 「汁」の-ruと同源語で、「する・なる」という意味のgi-rの-rに起源するとすれば、ci-e「血」のciはgi-rのgiが音転したものであり古代日本語のti「血」も同様であったと考えられる。

 

 そうすると、シュメール語のu-s「血」のa-ma-siはa-ma-gi-rとなり、その意味は「真の水であるもの」ということになるが、それだけでは「血」の意味にはならない。

 

 「血」も「乳」も液体、つまり「水」であるという共通点を持つので、朝鮮語のcə-c「乳」や中国語のru「乳」、古代日本語のti「乳」もa-ma-gi-rから派生したもので、a-ma-gi-rの-rのみが残存して音転したのがruで、a-ma-gi-rの-giのみが残存して音転したのがti、a-ma-gi-rの-gi-rのみが残存して音転したのがcə-cであったと考えられる。

 

 そうすると、「汁」も同様となり、中国語のtsi「汁」は、a-ma-gi-rのgiが音転したもので、古代日本語のsi-ru「汁」や朝鮮語のjɯ-p「汁」は、a-ma-gi-rの-gi-rが音転したものであったと考えられる。

 

 なお、朝鮮語のmu-l「水」はa-ma-gi-rのmaとrのみが残存して音転したものであるが、古代日本語のmi-du「水」は、a-maのmaのみが残存して音転したものに、-du「する・作る」が付加したものであり、その意味は「得られた真の水」というものであったと考えられる。

 

 中国語のsu-i「水」の-iと対応するのは、a-ma-gi-rのgiのi なので、a-ma-gi-rは本来はa-ma-su-gi-rであり、その-suが音転したのが、古代日本語のtu「血」であったと考えられる。

 

 このように、本来は「水」「液体」を意味するa-ma-gi-rに、「血」や「乳」「汁」などを表わす接辞が付加されて、それぞれの語彙が形成されたが、その後の経過の中でそれらの接辞が脱落し、a-ma-gi-rの語形も省略されて、今日伝わっている語彙が誕生したと考えられる。 

 

 なお、近藤論文は、tiが「乳」を指すというが、崎山論文は、オーストロネシア祖語の*tiは身体の突起物とそこから放出される液体を指す言葉であり、本来は男性器を指す言葉であった(「赤んぼ」=赤のもの、との対比で言えば、「ちんぼ」=「「ち」のもの」である)が、おそらくこの*tiは「隠語」として女性の乳房と母乳を指す言葉に転用されたのだという。

 

 この崎山文が指摘する、*tiは身体の突起物とそこから放出される液体を指す言葉であったということは、*tiが「血」をも指すことから、おそらく「人類祖語」では、体から出てくる液体を具格接辞*ti-の付いた長い複合語が省略された結果としての*tiと呼び、そうした初現的な意味から、*tiが男性器や女性器が放出する液体という意味にもなり、また、そうした液体を放出する男性器や女性器も*tiと呼ぶようになったと考えられる。

 

 そうすると、後期旧石器時代から縄文時代にかけての日本語にも「人類祖語」から継承された*tiの、オーストロネシア諸語と同様な用法があって、そこにオーストロネシア諸語の*tiが波及してきたことにより、日本語の*tiの同様な用法が強化されたのだと考えられる。

 

5)まとめ

 

 以上、これまで近藤論文が例示したシュメール語と中国語、朝鮮語、古代日本語との対応関係から、それらの共通祖語の語形を検討するとともに、その共通祖語からのそれぞれの語形の変化の過程も推定してきた。

 

 そうした検討や推定から分かったことは、シュメール語や中国語の語形は本来は存在していたであろう接頭辞や接尾辞が脱落した結果の語形であり、それらの共通祖語は、ゴテゴテと「フジツボ」にように接頭辞や接尾辞などを重ねて付加して形成されていたということであり、そうした接尾辞や接頭辞などの付加の形式には、同じ語彙を重ねる重複表現が非常に多いということであった。

 

(c)複合語として再構成される「人類祖語」

 

1)土、土地

 

 「「人類祖語」の再構成の試みについて(62)」で述べたように、「土」や「土地」という言葉は、当初は一つの固有名詞ではなく、「自然なままのものではなく人間の手が加わったもの」という複合語であり、本来の語形のta-ta-da-gの後半が脱落し前半のta-taが音転したものが古代日本語のtu-ti「土」であり、その先頭のtaと最後のgを残して中間が脱落し、残存した先頭と最後が音転したのがシュメール語のtu-b「土」で、先頭のみが残存して音転したものが中国語のthu「土」であったと考えられる。

 

 そうすると、同じ「人類祖語」であったta-ta-da-gに起源する言語であっても、その残存した部分が異なれば、夫々の最終の語形は異なるので、それらの最終の語形を比較しても、そられの語の共通性を明確にすることはできなくなる。

 

2)王、長

 

 同様に、「王」や「長」という言葉は、当初は一つの固有名詞ではなく、「「説明して統治する(人)」という複合語であり、本来の語形のu-sa-da-gの-saを省略したu-da-gがら出来たのが中国語のwa-ŋ「王」であり、シュメール語のu「王」は、u-sa-da-gの先頭のu以外が脱落した語形であり、古代日本語の「長」のwo-saは、u-sa-da-gの前半が残存したものであったと考えられる。

 

 u-r-gi(-r)「犬」や「統治する」という意味のuもmu「水」に起源する語彙で、「水」と「統治」「犬」「血」との関係は、古代の社会では水を制御できるものが支配者になれたのであり、野生の狼に水や餌を与えることで犬が誕生したのであり、体から出る赤い水が血であった。

 

 そうすると、シュメール語のu「王」から復元されたmu-sa-da-g「王」には、本来は付加されていた「(水を)制御する」という意味を表わす接頭辞や接尾辞などが省略されていたのだと考えられる。

 

 つまり「王」や「長」は、本来は、「(水を)制御する」「「説明して統治する(人)」という複合語であり、同じ「人類祖語」であったmu-sa-da-gに起源する言語であっても、その残存した部分が異なれば、夫々の最終の語形は異なるので、それらの最終の語形を比較しても、そられの語の共通性を明確にすることはできなくなる。

 

3)犬

 

 同様に、中国語のko-u「犬」のuがu-r-gi(-r)「犬」のuであったとすると、kaはu-r-gi-rの先頭に付加された接頭辞であり、このkaがku「食う」と同源であるならば、ka「食料」=「餌」となり、uがmu「水」であったとすれば、ka-u-r-gi-rの意味は、「水と餌を与えて(飼育するようになった)狼」ということになる。

 

 「犬」という言葉は、当初は一つの固有名詞ではなく、「水と餌を与えて(飼育するようになった)狼」という複合語であり、その本来の語形はka-u-r-gi-rであったと考えられる。

 

 古代日本語のi-nu「犬」は、「-nuはシュメール語の-rと対応している」として、i-nuのiがgi-rのiと対応するとすれば、i-nu「犬」はgi-rとなり、本来の語形のka-u-r-gi-rの前半が脱落し後半が残存した語形であり、朝鮮語のi-ri「狼」もgi-rであったと考えられる。

 

4)比較言語学の方法論の致命的欠陥

 

 「土」や「土地」、「王」や「長」、「犬」という固有名詞が、「人類祖語」では接辞を組み合わせた複合語であり、「人類祖語」から分岐した諸言語間で、当初の長い複合語の接辞の組み合わせから残存する部分が異なっていたとすれば、最終段階の夫々の言語の単語の語形を、平子他論文が紹介する比較言語学の方法で比較するだけでは、それらの言語の間の共通性は解明できない。

 

 接辞の組み合わせで言語ができたという理論があって初めて、最終段階の夫々の言語の単語の語形の比較から、夫々の祖語の再建と、最終的な「人類祖語」の再構成をすることが出来るのである。

 

 固有名詞や個別の動詞などが複合語に起源するという例は、他にもある。

 

 以前、「人類祖語」の再構成の試みについて(104)」では以下のように述べた。

 

 アイヌ語のusa-oruspe a-e-yay-ko-tuyma-si-ram-suy-paは単語としては2つであるが、各形態素を直訳すれば、いろいろ-うわさ 私(主語)-について-自分-で-遠く-自分の-心-揺らす-反復となり、意訳すれば「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」という意味になる。

 

 シベリアのチュクチ語の Təmeyŋəlevtpəγtərkən.は1語であるが、分解するとt-ə-meyŋ-ə-levt-pəγt-ə-rkən1人称単数主語-大きな-頭-痛み-1人称現在「私はひどい頭痛がする」というようになる。

 

 これらの複合語が時間の経過とともにある部分が省略されることで、残存した部分が、「思いをめぐらす」という意味の動詞や「ひどい頭痛がする」という意味の動詞となり、また、「思い」や「頭痛」などの名詞も誕生する。

 

 そして、これらの言語を使用していた言語集団が分岐したときに、言語集団ごとにどこの部分を省略するかの差異が生じると、語形だけからはそれらの言語の共通性は不透明になるので、それらの祖語の再建のためには、複合語としての祖語の再建が不可欠になるのである。

 

 平子他論文は、「比較方法を適用し系統関係を確立できるのは、分岐してから6000~7000年までの言語問の関係に限られるという」ので、「日琉語族と系統関係のある言語が仮に存在していたとしても、両者の分岐年代が比較方法の射程を超えるほどの時代に遡るのならば、両者の系統関係を比較方法によって確立することはできない」というが、近藤論文の方法論を適用して、それらの言語に共通する「人類祖語」を再構成することは可能であり、そうすれば、古代日本語がどのようにして形成されてきたのか、そして古代日本語と近隣言語との関係はどうなっているのか、ということを解明することが可能になる。

 

 なお、平子他論文は「分岐から時問が経過すればするほど語彙の共有率は低下する」というが、近藤論文の例示によれば、基礎的な語彙については、複合語の脱落ヶ所の相違や音変化の経過の相違ということはあっても、「人類祖語」に相当する複合語とそれに起源する夫々の言語との関係を解明することℋ可能であるので、その意味では、「共有率の低下」には、財政学での「クラウディング・アウト」のように、これ以上低下しない下限が存在するのだと考えられる。

 

 平子他論文が「できない」というのは、データー量の多寡故のことなどではなく、言語がどのようにして形成されたかという理論と視点の不在による「人類祖語」の復元・再構成の放棄と、それに伴う音変化なども含めた比較対象や比較範囲の限定によるものであり、総じていえば、彼らの比較言語学の方法論の誤りと致命的欠陥によるものであると考えられる。