平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(4) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」から本田路津子の「秋でもないのに」を聞いている。

 

 (3)比較言語学の方法論

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、比較言語学の方法論について以下のようにいう。

 

(a)比較再建と内的再建


 ある特定の言語群がそこから分かれ出た共通の祖先は祖語と呼ばれる。ある言語群が祖語に遡る場合、それらの言語の間には系統関係があると言う。言い換えれば、系統関係のある諦言語、あるいは同系の諸言語とは、時代を遡れば1つの言語であったことが確認されている諸言語ということである。系統関係のある諸言語は語族と呼ばれる。

 

 日本列島の諸言語に関して言えば、日本語と琉球諸語には系統関係が確立されている。これらは日琉祖語に遡り、日琉語族と呼ばれる。それに対して、同じく日本列島の言語であるアイヌ語はいかなる言語とも系統関係が確立されていない孤立言語である。


 系統関係を証明する手法は比較方法と呼ばれる。系統関係のある諸言語の共通の祖語の体系を再現することを再建、あるいは再構と言う。再建のために利用される手法は、比較方法のほかに内的再建がある。比較再建、内的再建は比較言語学で行われる。

 

1)比較言語学の目的

 

 比較言語学の目的は次の5点に要約できる。

 

  a.2つ以上の言語に系統関係があるか否かを解明する。


  b.系統関係のある言語・方言の共通祖先である祖語を再建する。


  c.各言語が祖語の状態からどのように変化してきたかを解明する。


  d.過去に起こった変化を推定することによって在証される諸言語の状態を説明する。


  e.言語変化の普遍的な傾向・法則を確立する。

 

2)祖語の再建


 祖語の再建とは、同系の言語の状態を歴史の結果として説明するためのモデルである。祖語という1つの状態を想定し、祖語から、在証される諸言語の状態へとどのように変化してきたかをモデル化する。祖語の再建の真の目的は、失われた言語の復元それ自体にはなく、歴史的な変化をもって言語のあり方を説明する過程で、その変化の出発点を立てることにある。


 祖語の体系がどのようなものか、祖語からの変化がどのようなものかに関する仮説は、自然性、経済性、一般性の観点から評価される。

 

 世界の諸言語のどれとも似ていない体系を再建したり、生じることが報告されていない変化を想定するような仮説は、そうでない仮説より自然性の点で劣っている。

 

 祖語の状態から現在の状態への変化の数が多い仮訛は、それが少ない仮説より経済性の点で劣っている。

 

 個別の現象を説明するために特有の変化を仮定する仮説は、1つの変化だけで複数の現象を統一的に説明できる仮説より一般性の点で劣っている。


 比較言語学の限界や弱点はその方法それ自体ではなくデータにある。過去から現在に至るまでの時間が長ければ長いほど、現在までに継承される過去の形町の量は減少する。この時間の経過に伴う情報の消失は、必然的に過去の再現に限界をもたらす。

 

3)記録のない時代の言語を再建する


 比較言語学は、文献だけではわからない言語の歴史を明らかにし、最古の文献の時代より古い時代の言語の姿を再建することができる。比較言語学は、文献や現代の諸言語・諸方言に在証される形式を比較することを通じて祖語を再建するが、再建される形式は必ずしも在証される形式と一致するとは限らない。この手法を用いてこそ、文献を超えた時代の言語の姿をよみがえらせることが可能となる。


 年代的に古い文献に記録された形式が言語的に古いとは限らない。比較言語学では、在証されるか否かにかかわらず、過去から現在に至るまでの変化を矛盾なく説明できる形式が再建される。

 非中央語の資料的価値を理解するためには、中央語も非中央語も共通の祖語に遡るとは言え、別々の言語体系であることをまず認識する必要がある。祖語から分岐した後、中央語と非中央語は別々の歴史を辿ってきたのであるから、非中央語の資料が中央語の文献上の空白を直接埋めることはありえない。


 単体の言語資料は、いかに古いものであっても、ある時代の言語体系の共時的記述である。単体の言語資料は、内的再建の手法を適用することによって、資料に記録された言語体系のより古い姿を再建することを可能としうる。しかし、もし内的再建を行わない、またはそれができないのであれば、中央語資料も非中央語資料も、単体では言語史の解明の役に立たない。

 

 中央語は非中央語と比較されることで、非中央語は中央語と(あるいは他の非中央語と)比較されることで、言語史の解明に有用な資料となる。具体的には、比較方法を適用することによって、中央語と非中央語の共通祖語の再建が可能となり、祖語から中央語への変化、祖語から非中央語への変化の推定が可能となる。したがって、中央語資料も非中央語資料も価値の上では等価である。中央語資料と比較された非中央語資料には、両者の共通祖語の再建、祖語から非中央語への変化の歴史の解明、祖語から中央語への変化の歴史の解明につながるという価値がある。


 比較言語学は文献の時代より古い時代の言語の姿を再建することができる。古い文献は言語の歴史的研究において重要であるが、最古の文献に記録された言語の姿が、その言語の最古の姿ではない。文献は他の資料との比較を通じて言語史の解明に役立てることができる。日本語が本格的に記録されたのは8世紀(奈良時代)であることから、「奈良時代以前の日本語の姿は謎に包まれている」といった発言が時には言語学者からもなされることがあるが、これは正しくない。

 

(b)系統関係の確立

 

 1)系統関係と借用関係


 2つの言語に音と意味の双方が類似する語が繰り返し見つかるとき、その2言語に歴史的なつながりがあると推測するのは自然である。実際に、2言語に系統関係があるか否かを検討する際に最初に行う作業は、2言語間で音と意味の双方が類似した語を引き合わせることである。

 

 歴史的なっながりの有無にかかわらず2言語の語が偶然似てしまうこともあるが、音と意味が偶然に似通った語は語彙全体から見れば少ない。これは言語には言語記号の恣意性という性質があるためである。言語記号の恣意性とは、語の音と意味は必然的なつながりを欠くという性質である。似通った語が2言語の語彙の中に偶然をはるかに上回る頻度で見つかるのならば、問題の2言語の間に何らかの歴史的なつながりが疑われる。


 言語Aと言語Bが共通の祖語から分岐したのであれば、両言語は祖語の語彙を継承し、一定の割合でそれを維持し続けることになる。したがって、2言語間には意味と音の双方において類似する語が見つかることとなる。

 

 共通の語源をもつ語を同源語と呼ぶ。言語間の歴史的なつながりには系統関係のほかに借用関係がある。比較言語学では、両者を区別することは極めて重要である。借用は系統とは無関係に行われる。


 系統関係の有無を論じる際は、言語間の類似性が借用に起因するものか、あるいは祖語の語彙の継承に起因するものかを峻別することが重要となるが、両者の区別は容易とは隕らない。

 

2)音対応


 類似した語を列挙しただけでは系統関係を確立したことにならない。系統関係を裏付けるのは、比較方法を用いて確立される音対応にほかならない。


 音対応とは、2つ以上の言語/方言間に繰り返し体扣剞こ観察される、同源語における音の類似性のことである。

 

 音対応は、同系の諸言語の祖語に遡る語を比較する限り観察される。なぜ系統関係のある諸言語間には音対応が観察されるのであろうか。それは音変化の規則性という性質のためである。音変化の規則性とは、音変化は、変化を起こす条件を満たすすべての語に例外なく生じるという性質である。


 音変化には例外がないと仮定したうえで音対応を検討すると、祖語に遡らない語を特定できることがある。音変化の規則既は、言語/方言間で類似する語の中に含まれる借用語の特定にも役立つ。ただし規則的な音対応を示すことに基づいて、ある語が借用語でないと断言することはできないので注意が必要である。

 

3)音変化の規則性
 

 例外のない音の変化を仮定することで、表面的な類似と真の同源語とを区別できるようになる。しかし実際には、音変化の例外になるような事例が観察される。そのような場合、それをただの例外として処理せずに、説明を追究しなければならない。音対応が不規則になる原因には、次のような、借用、オノマトペ、類推、個別的な語彙変化の場合がある。 

 

 ある音変化が生じた後に、その音変化が適用される音を含む語が借用された場合、その語には問題の音変化が適用されないので、音対応に例外が生じる。


 擬態語、擬声語などのオノマトペは音変化の適用外になることがある。


 類推とは、ある語形が、音あるいは意味の上で共通点のある別の語形に類似していく変化のことである。この類推変化を経験した方言は、疑問詞のアクセント型の音対応が不規則になる。

 

 個別的な語彙変化とは、特定の語に散発的に生じた音の変化のことを指す。これは音変化とは異なり、同じ条件をもつすべての語に生じる音の変化ではないので、特定の語が別の語に置き換わる語彙変化と解釈される。

 

(c)日琉語族と他の諸言語との系統関係

 

 日琉語族はいつの時代から日本列島で話されるようになったのだろうか。3世紀末の日本列島の様子を記録した「魏志倭人伝」に登場する地名、人名、官名に、日本語の語彙に属する名詞(コ「子」、ヤマ「山」、マツ「松」など)が見出されることから、遅くとも3世紀末には日本列島で日琉語系統の言語が用いられていたことがうかがえる。


 明治時代に近代的な言語学が日本へ輸入されて以来、日本語の系統を探求する研究者は、日本語は日本列島の外側からの移住者によってもたらされたと仮定して、その証拠を列島内外の諸言語の中に見出そうとしてきた。

 

 地球上のあらゆる言語の中に日本語と同系の言語を探し出す努力がなされたが、日本列島の外側で現在用いられている言語との問に系統関係が確立されることはなかった。

 

 アイヌ語は列島内の言語であるが、やはり日本語との系統関係は確立されていない。日本語と系統関係が確立できた言語は琉球諸語と八丈語のみである。


 有名な仮説の1つにアルタイ語族(チュルク諳語、モンゴル諸語、ツングース諳語、時には朝鮮語も入る)との系統関係を仮定するものがある。しかし、アルタイ諸語の間に見られる類似のすべてを接触・借用によるものとし、アルタイ語族の存在すら否定している言語学者も多い。

 

 朝鮮語との系統関係を仮定する仮説はより真っ当なものと思われるが、アルタイ語説と同様に、表面的な類似を除くと、文法形式の一致がほとんどなく、類似する語彙の多くは借用語と説明できる。

 

 その他にタミル語説やオーストロネシア語族説は問題が多く妥当な仮説ではない。オーストロネシア・アルタイ混合説はなおさら説得力を欠く。

 

 現在用いられている諸言語に関する限り、日本語と系統関係の確立されている言語は琉球諸語と八丈語を措いて他にない。


 琉球諸語と八丈語を除いて、日本語と系統関係の確立できる言語がないのはなぜだろうか。その理由は日琉語族と他語族との分岐年代の古さにあると言えるだろう。系統関係は同源語における音対応に基づいて確立されるが、同源語は同系の言語間で永久に維持されるわけではない。系統の近い日本語と琉球諸謡の間であっても基礎語彙の共有率は70%程度である。分岐から時問が経過すればするほど語彙の共有率は低下する。分岐から極めて長い時間が経過した言語間では、数少ない語に基づいて系統関係が論じられるので、その議論は信頼性の低いものとならざるをえない。


 一説によると、比較方法を適用し系統関係を確立できるのは、分岐してから6000~7000年までの言語問の関係に限られるという。日琉語族と系統関係のある言語が仮に存在していたとしても、両者の分岐年代が比較方法の射程を超えるほどの時代に遡るのならば、両者の系統関係を比較方法によって確立することはできない。

 

(d)日本語は「人類祖語」に起源する「孤立言語」
 

 平子他論文は、「3世紀末の日本列島の様子を記録した「魏志倭人伝」に登場する地名、人名、官名に、日本語の語彙に属する名詞(コ「子」、ヤマ「山」、マツ「松」など)が見出される」として、これらの言語は日琉語系統の言語であったという。

 

 平子他論文がここで例示している単語のうち、マツ「松」について、崎山理の「日本語「形成」論(以下「崎山論文」という)は、マライ・ポリネシア祖語のnatuq「アカテツ」が、マレー語でnatoh、タガログ語,セブ語でnato、マダカスカル語でnatuと音変化し、日本列島では「マツ」となったという。

 

 そして、オーストロネシア諸語ではフィリピン、インドネシア、マダカスカルの植生の「アカテツ」についての名称であったが、オーストロネシア諸語が日本列島に流入したときに、日本列島の植生であった「松」の名称に転用されたという。

 

 そうであれば、「魏志倭人伝」に登場するマツ「松」は、オーストロネシア諸語に起源する言葉であったと考えられる。

 

 平子他論文がここで例示している単語のうち、ヤマ「山」については以前、「「人類祖語」の再構成の試みについて(56)・(57)」で、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)に依拠して、以下のように論述した。 

 

 なお、近藤論文に依拠した論述では、他の諸言語の語形との共通性から、シュメール語から再建・再構成される語形を、「人類祖語」に近似しているものだと仮定して議論を進める。

 

〈表9〉シュメール語と中国語・朝鮮語・古代日本語との語形比較

 

シュメール語      中国語    朝鮮語 古代日本語

 

ga-n「原・原野」 tpu-n「郡」 ko-ra-ŋ「畔」

                                                       no-ɸa-ru 「野原」

 

gu/gu-n「地・国土」pu「圃」   pə-l「原」

                                                       no-be「野辺」

 

ba-r「荒野」   pu「地名成分」 pə-l-pha-n「野原」

                      gu-ro 「叢」

                                ya-ma「山」

                                      ku-ma「隈」

 

 古代日本語のya-ma「山」は「シュメール語のga-nやgu-n,中国語yu-a-n,日本語ku-ma,そして琉球語ya-n-ba-ru「山原」のya-n-などと同源で,祖形はおそらく*gu-maないしは*ga-maであったと推定される」

 

 近藤論文によれば古代日本語のya-ma「山」はシュメール語のga-nやgu-nと同源で、その「祖型はおそらく*gu-maないしは*ga-maであったと推定される」というが、シュメール語のga-nやgu-nの本来の意味は「原野」「地」であり、古代中国語のyu-a-nも「原」という意味であったので、シュメール語のga-nやgu-nは古代日本語で「原野」から「山」」に意味変化をしたと考えられる。

 

 そうした意味変化の理由は、シュメール人や古代中国人、または彼らの祖先であった後期旧石器時代人にとっての「山」とは、例えばコーカサス山脈やアルタイ山脈などのような峻険な山脈のことであり、日本列島に南下してきた後期旧石器時代人は日本列島の山を「原野」として認識したことによると考えられる。

 

 吉田金彦編「日本語の語源を学ぶ人のために(世界思想社)」所収の板橋義三の「日本語とアルタイ諸言語(以下「板橋論文」という)」によれば、古代日本語のtake「岳・山」は、チュルク祖語の*tagやアゼルバイジャン語、トルコ語、トルクメン語のday、カザク語、タタール語のtaw,ウイグル語のtagh、ウズベグ語のtogなどのチュルク諸語と同源であるというが、これらの言葉はシュメール語の「山」を意味する言葉と同源の言葉であったと考えられる。

 

 畑井弘の「天皇と鍛冶王の伝承(現代思潮社)」(以下「畑井論文1」という)によれば、朝鮮語で「野」はtw:lであり、朝鮮では、tʌl(原義は山)からくる達(タル)・月(タル)・突(タル)・霊(タル)・済(タラ)などのつく地名が多いが、いずれも、国・国土・原野・都邑の意であるという。

 

 こうした板橋論文や畑井論文1の指摘から、朝鮮語のtw:lやtʌl、高句麗の言語のsulは共通の祖語から分化した言葉であり、その祖語はチュルク祖語の*tagとも対応しており、それら共通祖語は、さらにシュメール語で「山」を意味する言葉であったと考えられる。

 

 そうすると、古代日本語にはya-maとtakeという、出自を異にする二種類の「山」を意味する言葉があったことになるが、シュメール語のga-nやgu-nに対応するya-maがより古層の言葉であり、その後、シュメール語の「山」に対応するチュルク祖語の*tagに対応する朝鮮語のtw:lやtʌlが伝播してtakeとなったと考えられる。

 

 なお、富士山の麓の国を意味する駿河国(スル+ガ))という国名となったsulは、「三国史記」での高句麗地名の読みかえから、朝鮮語のtw:lやtʌlとは別に、それらに遅れて日本列島に伝播してきたのだと考えられる。

 

 畑井弘の「物部氏の伝承(吉川弘文館)」(以下「畑井論文2」という)は、日本語の「ツルギ(剣)」の語源について、以下のようにいう。

 

 朝鮮語では、「山脈」をsan-tʃulgi、「水柱」をmul-tʃulgiという。sanは山、mulは水、そしてtʃulgiは、幹・茎・柱という意味であり、形容語尾tʃhadaがついてtʃulgi-tʃhadaといえば、「雄々しい・力強い」の意になる。

 

 日本語の「ツルギ(剣)」は、朝鮮語のtʃulgiからきているのであり、神を一柱・二柱と数えるように、tʃulgiは剣と神とを意味した。

 

 こうした畑井論文2の指摘から、朝鮮語で幹・茎・柱、そして剣と神の意味であるtʃulgiのtʃulは高句麗の言語のsulや朝鮮語のtw:lやtʌlと同源の言葉であり、チュルク祖語の*tagやシュメール語の「山」を意味する言葉と同源の言葉で、それらの共通の意味は「そそり立つ」「直立する」などであったと考えられる。

 

 また、金思燁の「古代朝鮮語と日本語(講談社)」(以下「金論文」という)によれば、朝鮮語で「山・岳」をmojといい、その音転形がma-lu/mo-loであり、谷那鉄山などの朝鮮の山名を「日本書紀」では「ムレ」と訓読しているという。

 

 そうすると、mojやma-lu/mo-loのmoやmaは古代日本語のya-ma「山」のmaと対応しており、シュメール語の「原野」ga-n、gu-nの祖型の*gu-maないしは*ga-maの語頭の*guや*gaが脱落したものであったと考えられる。

 

 こうした検討から以下のように考えられる。

 

 古代日本語のya-ma「山」はシュメール語のga-nやgu-nと同源で、その祖型はおそらく*gu-maないしは*ga-maであり、朝鮮語のmojやma-lu/mo-loのmoやmaは古代日本語のya-ma「山」のmaと対応しており、シュメール語の「原野」ga-n、gu-nの祖型の*gu-maないしは*ga-maの語頭の*guや*gaが脱落したものであったと考えられる。

 

 そうすると、古代朝鮮語の「山」を意味する言葉のmora、mura、mure、mori及びmoro、mɐrɐのmoやmuやmoやmɐはみな、シュメール語の「原野」ga-n、gu-nの祖型の*gu-maないしは*ga-maの語頭の*guや*gaが脱落したものであり、その*maが音変化したmoやmuやmoやmɐにrが付加されて音変化したものであり、*gu-maないしは*ga-maの語頭の*guや*gaが脱落しないで残存して音変化したものが古代日本語のya-maであったと考えられる。

 

 そして、mora、mura、mure、mori及びmoro、mɐrɐの語形から、本来の祖語の語形は*ga-ma-rまたは*ga-ma-ga-rであり、前半の*ga-maが残存して音変化したものが古代日本語のya-maで、*ga-ma-ga-rの*gaが脱落して音変化したものが古代朝鮮語のmuraであったと考えられる。

 

 また、両者が共通の*gu-ma-ga-rないしは*ga-ma-ga-rに起源するもので、moriやmoroが古代日本語であったとすれば、*gu-ma-ga-rないしは*ga-ma-ga-rの*ga-maが古代日本語のya-maになり、「山の森」や「山の峰」」を「山」と区別するための言葉として*ma-ga-rが古代日本語でも残存したことから、古代日本語のmoriやmoroが誕生したと考えられる。

 

 そして、その結果、同じmoriという語形が、古代朝鮮語では山の意味になり、古代日本語では森の意味になったと考えられる。

 

 そこから、古代朝鮮語と古代日本語の山という意味の言葉が、共通の*gu-ma-ga-rないしは*ga-ma-ga-rに起源し、かつ*r*や*gu、*gaの脱落で区別されるならば、その共通の*gu-ma-ga-rないしは*ga-ma-ga-rは、日本人と朝鮮人の共通の基層集団であるY染色体DNAのハプログループD2の集団の言語、つまり「人類祖語」に起源するものであり、古代日本語と古代朝鮮語は「人類祖語」から分岐して別個に発展した言語であったと考えられる。

 

 これまで見てきたように、古代日本語のya-ma「山」が、シュメール語の「原野」ga-n、gu-nの祖型の*gu-maないしは*ga-maが音転したものであったとすると、古代日本語のya-maは祖型の古い語形を残しているものであり、この語形を日本列島に伝えたY染色体DNAのハプログループD2の集団が、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したことを考えると、弥鳥邪馬国の邪馬は古代日本語のya-maと同じもので、シュメール語の「原野」ga-n、gu-nの祖型の*gu-maないしは*ga-maを伝えているものであったと考えられる。

 

 また、近藤論文によると、日本語の「息子」mu-su-koの語形は、「人類祖語」の語形を良く残存させていて、「娘」mu-su-meとセットになっているが、シュメール語では、muは「女」、suは「人」であり、mu-suで、「人の(=を生んだ)女」となり、そこに「男」の場合はkoが、女の場合はmeが付加されて、「人の(=を生んだ)女」の(生んだ)「男」=「息子」、「人の(=を生んだ)女」の(生んだ)「女」=「娘」という複合語が形成されているという。

 

 なお、中国語の「息子」ci/tsiや、ナシ語のsaは、「人」を意味するmu-su-koのsuのみが残存した語形であり、エラム語の「息子」sa-kは、mu-su-koの語頭のmuが脱落して-su-koが音変化しtものであったという。

 

 そうであれば、古代日本語の「子」koは複合語の「人類祖語」に起源するもので、「息子」mu-su-koと同じような、「人類祖語」の長い語形が省略された結果として形成されたものだったと考えられる。

 

 以上のような、「「人類祖語」の再構成の試みについて(56)・(57)」での論述や崎山論文、近藤論文の指摘から、平子他論文がいう「日琉語系統の言語」とは、後期旧石器時代に日本列島に移動してきたY染色体ハプログループD2の集団の言語を最古の基層とし、その上に、例えば、Y染色体ハプログループO1の集団の言語であるオーストロネシア諸語などが重なっていった言語であり、その基層言語は「人類祖語」に起源する言語であったと考えられる。

 

 平子他論文は、「現在用いられている諸言語に関する限り、日本語と系統関係の確立されている言語は琉球諸語と八丈語を措いて他にない」というが、「ある特定の言語群がそこから分かれ出た共通の祖先は祖語と呼ばれ」、「ある言語群が祖語に遡る場合、それらの言語の間には系統関係があると言う」のであれば、平子他論文がいう「日琉語系統の言語」の「祖語」と言えるものは、「出アフリカ」を行った現生人類の「人類祖語」だけがそれに該当することになる。

 

 日本語の変化の過程は、最も基層のY染色体ハプログループD2の集団の言語に、その後に日本列島に移動・流入してきたY染色体ハプログループO1や同O2b、同O3、同C3、同C1、同N1などの諸集団の言語が影響を与えていった過程であり、それらの言語と日本語との関係は、いわゆる「系統関係」にはないと考えられる。

 

 これまで見てきたように、「魏志倭人伝」に出てくる日本語の言葉が「人類祖語」に起源する言葉であったりオーストロネシア諸語に起源する言葉であったとすれば、日本語の系統や起源について議論するのであればば、まず、これらの「人類祖語」との関係やオーストロネシア祖語の影響について解明すべきであると考える。

 

 平子他論文のように「琉球祖語」と上代日本語が「日琉祖語」から分岐したと主張する人たちは、その分岐が起こった時期を弥生時代に、その分岐が起こった場所を九州に置く。

 

 そして、「琉球祖語」は九州で滞留した後、紀元後一一世紀~一二世紀ごろに琉球列島に流入したと主張するが、もしもそうであれば、彼らのいう「日琉祖語」とは、九州語のことであると考えられる。

 

 弥生時代の開始を紀元前八世紀としても、紀元前八世紀から紀元後一一~一二世紀までの間、「琉球祖語」=九州語が畿内の政権の影響を受けて変化することがなかったという想定は非現実的であり、九州語に古い日本語の特徴が残存していたという可能性もあるが、琉球列島の流入してきた「琉球祖語」=九州語は、長い期間を経て変化した九州語であったと考えられる。

 

 九州語=「琉球祖語」と上代日本語とを比較して「日琉祖語」が再建・再構成されるという主張は、上代日本語の祖語が九州語の祖語と分岐して以降、九州語の祖語が大きく変わらないまま琉球列島に流入してきたということを前提にしている。

 

 また、「琉球諸語」は流入してきた九州語=「琉球祖語」が、琉球列島の基層言語の影響で変化して形成されたものである。

 

 そうであれば、琉球列島の基層言語とその影響の推定抜きに、「琉球祖語」からの琉球諸語の諸方言の形成とその規則性の再建・再構成もできないと考えられる。

 

 琉球列島に流入してきた九州語=「琉球祖語」が多くの変化を被った新しい言語であったとすれば、その新しい言語を再建・再構成しても、その新しい九州語が古い九州語からどのように変化してきたのか、どのような言語の影響を受けて変化してきたのかということを解明しなければ、その古い九州語を再建・再構成するこはできないと考えられる。

 

 上代日本語の祖語と琉球諸語の遠い祖語が弥生時代に古い九州語から分岐したとすれば、その分岐前の言語=「日琉祖語」の再建が、それらの言語の遠い子孫になる上代日本語と新しい九州語=「琉球祖語」を比較することで可能となるはずもない。

 

 なお、縄文時代の九州語の一部の博多湾沿岸、そのしてその後には筑後平野の付近の言語が、朝鮮半島から弥生文化とともに流入してきた言語の語形や発音の影響を受けて変化した言語が、弥生文化の瀬戸内海沿岸とそこを経由した畿内に伝播・拡散することで、古い関西語が形成され、そこから後世の上代日本語が誕生したとすれば、縄文時代の九州語と上代日本語との関係は、「分岐」というよりも「派生」なのであり、新しい九州語が琉球列島に流入することで琉球語が誕生したのだとすれば、新しい九州語から琉球語が「分岐」したのではなく、「派生」したのだというのが正しい表で言であると考えられる。

 

 正しくは「派生」というべきところを「分岐」と言ってしまうと、その「分岐」によって誕生した二つの言語は、「分岐」前の言語とは異なった言語であるというふうに誤解して受け取られかねない。

 

 九州語の本流から異なった時代に派生した上代日本語と琉球語を、その間の九州語の変化の過程を捨象して比較することで、両者の「祖語」だとする「日琉祖語」が再建・再構成できるという主張も、非現実的で極端な主張である。

 

 平子他論文の「琉球祖語」や「日琉祖語」の再建・再構築の議論は、方法論的に誤っていて、無意味な議論であると考えられる。

 

 基層言語である日本祖語の再建・再構築。および、その基層言語の変化による日本語の形成過程の解明は、上代日本語と「琉球祖語」の比較などではなく、日本列島の流入した諸言語の推定と、その基層集団の言語=「人類祖語」の再建・再構築から初めるべきだと考える。

 

 なお、平子他論文は、「アイヌ語はいかなる言語とも系統関係が確立されていない孤立言語である」というが、アイヌ語は日本列島の九州、四国、本州の日本語とは別に、北海道で形成されてきた言語であり、日本語と同じように孤立して継承されてきた言語なので、日本語と同じように、その系統関係は「人類祖語」との間でしか存在しない。

 

 系統関係が「人類祖語」との間でしか存在しない言語が「孤立言語」であるとするならば、アイヌ語と同じように日本語も「孤立言語」であり、その事情は、基層言語についていえば朝鮮語も同じであると考えられる。

 

 なお、アイヌ語については崎谷満の「新北海道史(勉誠出版)」を、琉球諸語については崎谷満の「DNAでたどる日本人10万年の旅(昭和堂)」を参照してほしい。