平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(3) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からガロの「学生街の喫茶店」を聞いている。

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)の「人類祖語」の存在への疑問についての批判の続きである。

 

(2)「人類祖語」の再建・再構成
 

 平子他論文は、「すべての言語の祖先となる言語がどのようなものであったかは明らかにされていない」というが、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)によれば、「人類祖語」と近似していると推定されるシュメール語と、古代中国語、朝鮮語、上代日本語などの言語は、共通の語形と共通の語形の形成方法をもっており、それらから、それらの言語の「共通祖語」、つまり「人類祖語」の復元・再構成を行うことが出来ると考えられる。

 

 以前、「「人類祖語」の再構成の試みについて」では、近藤論文によるシュメール語と中国語・朝鮮語・古代日本語との語形比較の例示と、それらの語形が、具格接辞*ga-、*ti-、*ma-を組み合わせて使い分けることによる人称・格標識の形成と付加によって、「人類祖語」の単語が形成されていったことを論述した。

 

 そこで、「「人類祖語」の再構成の試みについて」の例示を以下に紹介していきたい。

 

 なお、ここでいう「人類祖語」とは、「出アフリカ」をした集団の言語であって、その言語とアフリカ内部で拡散した諸言語の「祖語」であり、Y染色体ハプログループAの集団の言語の存在が想定でき、その言語が、アフリカを含めた世界の諸言語に対する「人類祖語」であると考えられる。

 

 ここでは、「出アフリカ」をした集団の言語の祖語を「人類祖語」として議論を進めるが、アフリカの言語とユーラシアやアメリカ、オセアニアの言語に大きな違いがないので、Y染色体ハプログループAの集団の言語はある程度完成していて、その言語と「出アフリカ」をした集団の言語である「人類祖語」とはそれほど異なってはいなかったと考えられる。

 

 松本克己の「世界言語の人称代名詞とその系譜(三省堂)」による世界の諸言語の比較の議論もあるが、アフリカの諸言語とユーラシア、アメリカ、アセアニアの諸言語の比較と、それらの共通の「人類祖語」の復元・再構成を行うための検討は厳密にはまだ十分ではないので、以降の議論の対象は、「出アフリカ」をした集団の言語の「人類祖語」に限定する。

 

 「人類祖語」の再構成の試みについて(64)」では、シュメール人と隣接してその影響を強く受けたエラム人の言語であったエラム語とシュメール語、中国語や朝鮮語、古代日本語の間だけではなく、それらの言語とチベット語やモンゴル語、トルコ語、ツングース語、ブナン語などとの間でも対応関係があること、それらの対応関係からそれらの言語の「共通祖語」、つまる「人類祖語」の語形を復元・再構成できることを指摘した。

 

 なお、以降の義論では、シュメール語から復元される、シュメール語の元となった語形が「人類祖語」に近似しているという仮定を前提として、「人類祖語」の再建・再構成の試みを行う。

 

(a)

 

 「人類祖語」の再構成の試みについて(64)」では、以下のように述べた。なお、一部修正した。

 

a)

 

 シュメールとエラムが隣接し、交易関係で深く繋がっていて、互いに占領したり占領されたりを繰り返していたことで、エラム語は長期間の「言語接触」によってシュメール語から大きな影響を受けたと考えられるので、エラム語がシュメール語と類似しているのは、いわば「あたりまえ」のことであると考えられる。

 

 だから、エラム語の語彙がシュメール語と同じように中国語や朝鮮語、古代日本語と類似していて、同源の言語であるという指摘は、シュメール語が中国語や朝鮮語、古代日本語と同源の言語であるということの傍証にしかならないのであるが、近藤論文による語彙の例示は、シュメール語やエラム語と中国語や朝鮮語、古代日本語の「共通祖語」の語形を推定するための材料を提供しているのだと考えられる。

 

 なお、近藤論文の語彙の例示には、モンゴル語やトルコ語、ツングース語なども含まれていて、それらの言語と、エラム語の語彙が類似していて、同源の言語であるという指摘は、松本克巳の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)が主張している、中国語や朝鮮語、古代日本語の環太平洋言語圏の言語に対立するというモンゴル語やトルコ語、ツングース語のユーラシア内陸言語圏の言語の語彙にも、エラム語やシュメール語との「共通祖語」に起源する語彙が存在することを証明するものである。

 

 そこで、以下、それらの言語の語彙とエラム語の語彙を比較しながら、それらの「共通祖語」の語彙の語形を推定していきたい。

 

b)

 

 近藤論文は、以下のようにいい、エラム語とシュメール語,古代日本語,朝鮮語,中国語,モンゴル語などとの語彙の語形の比較を行っていく。

 

 「ハロックの「ペルセポリス城砦文書」の語彙集に記載されている限られた語に関して,それらと同源と見なされる語をシュメール語,古代日本語,朝鮮語,中国語,モンゴル語などから抜き出す」

 

1)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

a-m-ma「母」→シュメール語:a-ma「母」,

          ビルマ語:?a-mi「母」,

          ツオナー・モンパ語:a-ma「母」,

          チベット語文語:ma「母」,

          モンゴル語:a-na「母」,

          トルコ語:a-n-na 「母」

          中国語:mu「母」,

          朝鮮語:ə-m-ma 「母」,

          琉球語:?a-n-ma 「母」

      cf.満州語文語:a-ma 「父」, e-ni-ye 「毋」

 

 ビルマ語、ツオナー・モンパ語、チベット語文語、中国語はチベット。ビルマ語族の言語であるが、シュメール語のa-ma「母」とビルマ語:?a-mi「母」,ツオナー・モンパ語:a-ma「母」,チベット語文語:ma「母」、中国語:mu「母」はよく似ていて、ビルマ語の?a-miはa-maの音転形、チベット語文語:maはa-maのaが脱落したもので、中国語:muはチベット語文語:maの音転形である。

 

 モンゴル語とトルコ語は「アルタイ語族」の言語であるが、モンゴル語:a-na、トルコ語:a-n-na「母」もシュメール語のa-ma「母」とよく似ていて、モンゴル語のa-naはa-maの音転形であるが、トルコ語:a-n-na「母」は、aと-maの音転形の-naに挟まれた-nが異なっている。

 

 このトルコ語:a-n-na「母」と同じような語形が朝鮮語:ə-m-ma「母」であり、両者はよく似ているが、この語形はエラム語のa-m-ma「母」ともよく似ていて、それらの中ではエラム語が最も古い言語であるので、エラム語のa-m-ma「母」はより初源的な語形であったと考えられる。

 

 そうすると、エラム語のa-m-ma「母」はシュメール語のa-ma「母」の語形の中間の後から-mが挿入されたのではなく、シュメール語とエラム語の共通祖語はエラム語のa-m-ma「母」という語形であって、その語形をトルコ語の:a-n-na「母」や朝鮮語のə-m-ma「母」が継承したのだと考えられる。

 

 エラム語のa-m-ma「母」のa-は、近藤論文が指摘するように「a-は属格接辞*-gaの反映形であり,本来は「私の」という意味を表した」ものであったと考えられるが、a-m-ma「母」の-mは何を意味したのだろうか?

 

 エラム語のa-m-ma「母」が本来はa-ma-ma「母」であったとすると、ツングース語族の満州語文語では「父」をa-ma「父」と言っているので、a-ma-ma「母」のうち、「母」を意味しているのは最後の-maだけで、中間の-maは「父」ともその意味を共通にする何かであった、と考えられ、エラム語とシュメール語の共通祖語では、a-ma-ma「母」とa-ma-(何か)「父」がセットになっていたと考えられる。

 

2)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

a-ni「~な(禁止)」→朝鮮語:a-n-「~ない(否定)」

           古代日本語:a-ni「豈」

           (「決して」「どうして」の意)

 

 エラム語のa-ni「~な(禁止)」と朝鮮語:a-n-「~ない(否定)」や古代日本語:a-ni「豈」(「決して」「どうして」の意)の語形はよく似ており、古代日本語:a-ni「豈」の「決して」「どうして」の意味も、エラム語のa-ni「~な(禁止)」の意味から派生した意味であると考えられるので、a-ni「~な(禁止)」の語形は、それらの言語の共通祖語にも存在したものであったと考えられる。

 

3)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

ba-te-「放牧する」→中国語:fa-ŋ「放牧する」

          古代日本語:φa-na-tu「放つ」

 

 中国語:fa-ŋ「放牧する」の-ŋは、-g→-n→-ŋという変化と、-gがシュメール語の-da-g「ある」の省略形であったということから、fa-da-gと復元でき、さらに中国語のfa-ŋがエラム語のba-te-と対応するので、本来はba-da-gであったと考えられる。

 

 シュメール語でbaは「分ける」でありba-lは「離す」であるので、ba-da-gとは、「分ける」ことを「する」、つまり「放つ」という意味であったと考えられる。

 

 「放牧」とは、普段は歩かせるときには首などにまいた手綱を手に握っていた羊や牛を、その手綱を「手から離して」放し飼いにして自由に歩かせことであるので、古代日本語のφa-na-tu「放つ」のφa-naが中国語から復元されたba-daに対応するならば、φa-na-tu「放つ」の-tuはエラム語のba-te-「放牧する」の-te-に対応し、それはシュメール語のta「手」の音転形であったと考えられる。

 

 そうすると、エラム語と中国語、古代日本語の共通祖語の語形は、ba-da-g-taとなり、その意味は「手を離す」ということになるが、「手を離す」ことが「放牧する」ことになるためには、何から手を離すのかが示されなくれはいけないので、その本来の語形は、ba-da-g-ta-(羊)または(羊をつなぐ綱)などであったと考えられる。

 

 なお、エラム語や中国語と古代日本語の語形を比較すると、古代日本語の方に、意味変化しながらも、本来の語形が残存していると考えられる。

 

4)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

da-「置く・送る」→朝鮮語:tu-「置く」

 

 エラム語のda-「置く・送る」のda-は、おそらくda-g「する」のda-であり、朝鮮語のtu-「置く」のtuは、おそらくta「手」の音転形であり、その本来の語形は、おそらくda-g-ta-(何か)であって、その意味は、おそらく「手で(何かを)する」ということであったと考えられる。

 

 そして、エラム語のda-「置く・送る」と朝鮮語のtu-「置く」は、それらの共通祖語のda-g-ta-(何か)のそれぞれ別の個所の残存形であったと考えられる。

 

5)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

du-k-ka「育てる?」→中国語:yu「育てる」,

           古代日本語:so-da-tu 「育つ」

 

 エラム語のdu-k-ka「育てる?」のdu-をシュメール語のdu「行く」だとし、kをシュメール語のka-r「引き離す」のkaだとすると、こどもが親に依存している状態から自立するように「引き離して行く」のが「育てる」ということなので、du-k-kaはdu-k-ka-rとなる。

 

 古代日本語のso-da-tuの-tu がシュメール語のrに対応し、そのrが-ka-rの省略形であるとすれば、so-da-tuはso-da-ka-rとなり、その-daがエラム語の復元形のdu-k-ka-rのduと対応しているとすれば、so-du-ka-rとなる。

 

 ここから、エラム語と古代日本語の共通祖語の語形を推定するとso-du-k-ka-rとなり、soがシュメール語のsu「肉体」の意味で、-kが仮に「こども」の意味であったとすると、共通祖語の「育てる」の語形の意味は、「こどもの肉体(=身体)を(親から)引き離して行く」ということであったと考えられる。

 

 なお、満州語文語で「父」をa-ma 「父」、「毋」を e-ni-yeというが、中国語のyu「育てる」が満州語文語のe-ni-ye「母」の-yeと対応しているとすれば、それはdu-k-ka-rのduに起源するものであると考えられる。

 

6)

 

〈表10〉エラム語と他言語との語形比較

 

da-nu-「与える」→シュメール語:si-m「与える」

            プナン語:da-「与える」

            中国語:tshi「賜る」

            朝鮮語:cu-「与える」

            古代日本語:a-ta-φu「与ふ」

 

 ここでいうプナン語とはボルネオ島にやマレー半島住むプナン人の言語でありオーストロネシア語族の言語である。

 

 エラム語のda-nu-「与える」とシュメール語のsi-m「与える」はあまり似てはいないが、プナン語:da-「与える」とは似ている。

 

 古代日本語のa-ta-φu「与ふ」のφが本来はgであったとすればφuはguであり、さらにguをga-rの省略形とすれば、a-ta-φu「与ふ」はa-ta-ga-rとなり、エラム語のda-nu-「与える」やプナン語:da-「与える」のdaをta「手」の音転形とし、エラム語のda-nu-の-nuはシュメール語のni-「~ない(否定)と同じ否定形だとすると、a-ta-ga-r-nuの意味は、aが「私」なので、「私の手にはない(ようにする)」ということになり、それは本来は、「(あるものを)自分の手からなくして(誰かに渡す)」という意味であったと考えられる。

 

 そうすると、朝鮮語のcu-「与える」は、a-ta-ga-r-nuのga-rの省略形のguの音転形であると考えられる。

 

 シュメール語のsi-m「与える」のsiの音転形が中国語のtshi「賜る」であるが、「「人類祖語」の再構成の試みについて(59)」で述べたように、シュメール語のsiが本来はsi-a-oであり、古代日本語のa-ta-φu「与ふ」が本来はsi-a-o-taであり、si-a-oが「目」」の意味であったとすると、a-ta-ga-r-nuの前には本来はsi-a-oが付加されていて、si-a-o-a-ta-ga-r-nuで「与える」という意味を表し、その本来の意味は「私の手で触ったり目で見たりしない(ようにする)」ということであったと考えられる。

 

 シュメール語のsi-m「与える」のmがni-「~ない(否定)音転形であったとすると、si-a-o-a-ta-ga-r-nuの先頭と最後の語彙からシュメール語のsi-m「与える」が形成され、その反対に、先頭と最後の語彙を除外した語形から古代日本語のa-ta-φu「与ふ」が形成されたことになる。ここでも、si-a-o-a-ta-ga-r-nuの語形をより保持しているのは、古代日本語であったと考えられる。

 

(b)

 

 「人類祖語」の再構成の試みについて(64)」での指摘から以下のことが言える。

 

a)

 

 古代日本語には復元・再構成された「人類祖語」の当初の長い語形が他の言語よりもより多く残存している。

 

 これは、後期旧石器時代に日本列島に朝鮮半島から南下してきたY染色体ハプログループD2の集団が、日本列島で孤立していたことによるものであったと考えられる。

 

 その後、後期旧石器時代に日本列島に流入したY染色体ハプログループC1の集団やY染色体ハプログループC3の集団、縄文時代前期に日本列島に流入したY染色体ハプログループN1の集団、縄文時代後期に日本列島に流入したY染色体ハプログループO1の集団、縄文時代晩期に日本列島に流入したY染色体ハプログループO2bの集団、弥生時代後期に日本列島に流入したY染色体ハプログループC3、O3の集団、古墳時代中期以降に日本列島に流入したY染色体ハプログループC3、O3、O2bの集団などが断続的に日本列島の流入してきて、彼らの言語が日本列島に流入し、基層集団であったY染色体ハプログループD2の集団の言語の上に上書きされていったと考えられる。

 

 にもかかわらず、古代日本語には復元・再構成された「人類祖語」の当初の長い語形が他の言語よりもより多く残存しているのは、流入してきた集団の言語も同じ「人類祖語」に起源する言語であったことから、基礎的な語彙や語法などの共通性があったことと、流入してきた集団の一回の流入の集団規模が小さかったことと彼らの流入が比較的散発的なものであったことで、流入してきた集団の言語がその時点の日本列島の既存の言語の基礎的な語彙や語法などに大きな影響を与えなかったからであったと考えられる。

 

b)

 

 「人類祖語」の再構成の試みについて(64)」で紹介した、復元・再構成された「人類祖語」の語形とその当初の意味は以下のとおりである。

 

 「母」→a-ma-ma「私の親である女」

 

 「父」→a-ma-(何か)「私の親である(男?)」

 

 「放牧する」→ba-da-g-ta-(羊)または(羊をつなぐ綱)「「(羊または羊をつなぐ綱から)手を離す」

 

 「置く・送る」→da-g-ta-(何か)「手で(何かを)する」

 

 「育てる」→du-k-ka-r「こどもの肉体(=身体)を(親から)引き離して行く」

 

 「与える」→si-a-o-a-ta-ga-r-nu「私の手で触ったり目で見たりしない(ようにする)」

 

 これらの例示から、「人類祖語」の段階の初期の言語では、「母」「父」「放牧する」「置く・送る」「育てる」「与える」などの固有名詞は存在しておらず、それらの固有名詞に相当していたのは、その意味を説明した長い語形であったと考えられる。

 

 そして、そうした長い語形が、繰り返し使用されていく過程で、その長い語形から脱落する部分が生まれ、その長い語形の省略形として固有名詞が誕生したと考えられる。

 

 さらに、こうした脱落が、ホモ・サピエンスがその初期拡散によって諸集団に分岐していった後に生じたものであったとすれば、それらの集団ごとにその脱落ヶ所が変わっていったことで、諸言語の表演的な類似や共通性が不明確になっていったと考えられる。

 

 しかし、「人類祖語」をこうした長い複合語の語形で復元すれば、諸言語がこの「人類祖語」から分岐したことは明確になると考えられる。

 

 これまで諸言語と「人類祖語」との具体的な関係や対応関係が不明確だったのは、言語がどのように発展してきたのかということの理解の不足のために、「人類祖語」の長い語形を復元・再構成できなかあったからであり、その長い語形の異なった部分が異なった言語に継承されてたため、それぞれの言語の語形間での共通性が見出しずらかったったことによるものだと考えられる。

 

 また、後期旧石器時代に日本列島に流入してきて日本人の基層集団となったY染色体ハプログループD2の集団の言語に残存している「人類祖語」の残存を、同じ「人類祖語」から別のルートで発展した他の諸言語の特徴の影響であると一面的に判断し、日本語の起源をそれらの諸言語に恣意的に求める結果を生んだのだと考えられる。

 

 もちろん、基層集団の言語の上にその後に日本列島の流入してきた諸集団の言語が上書きされていったのは事実ではあるが、それらの諸集団の言語自体が「人類祖語」から分岐したもので、それらの諸言語の中にも「人類祖語」の痕跡が残存しているので、それらの諸集団の言語の影響とは、「人類祖語」の諸特徴のその時点時点での要素の強調ということであったと考えられる。

 

 そうであれば、日本語の「起源」について論じるということは、「人類祖語」の復元・再構成を前提として、その「人類祖語」と日本語との関係を解明することであり、そこで復元された当初の日本語が、諸集団と彼らの言語の日本列島へに流入によってどのように影響を受けて変わっていったのかということ、つまり現在の日本語がどのように形成されたのかということを解明することであると考えられる。

 

 こうした理解に立てば、日本語と「人類祖語」との対応関係とそれを前提とした日本語と他の諸言語との対応関係を無視して、日本語の「起源」を日本語と琉球諸語の「祖語」だという「日琉祖語」の復元に限定・矮小化する平子他論文の主張は、その方法論が誤りであって従えない。

 

 なお、日本語の「起源」を日本語と琉球諸語の「祖語」だという「日琉祖語」の復元に限定・矮小化する平子他論文の主張は、上代日本語と琉球諸語を比較して行われる。

 

 しかし、上代日本語は縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて日本列島の各地で形成された多様な日本語のうちのほんの一部の、九州語の進化形であり、その上代日本語と、それ以降に上代日本語やその後の中古京都などの影響を受けて変化した九州語が南下して形成された琉球諸語を比較しても、後期旧石器時代から縄文時代にかけて話されていた日本語の復元・再構成にはあまり繋がらないと考えられる。

 

 なお、琉球諸語と変化後の九州語が分岐したのは紀元後一一~一二世紀のことであり、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐したのは弥生時代の初期のことであった。

 

 平子他論文などの「日琉祖語」論者たちは、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐して以降変化していった九州語を「琉球祖語」と呼ぶが、この言語は縄文時代の九州語から平安時代や鎌倉時代の九州語に変化していった九州の言語であり、あくまで九州語である。

 

 平子他論文などの「日琉祖語」論者たちが、「琉球祖語」の成立時期を、平安・鎌倉時代の九州語が琉球列島の流入した時点ではなく、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐した時点に置こうとするのは、放浪論的に誤りであり従えない。

 

 「琉球祖語」とは、正しくは、琉球列島で琉球諸語が分岐する直前の言語のことであり、具体的には、琉球列島の流入した平安・鎌倉時代の九州語のことである。