平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からよしだたくろうの「今日までそして明日から」を聞いている。

 

(1)人類祖語

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)の「人類祖語」の存在への疑問についての批判の続きである。

 

(h)現生人類の「出アフリカ」の集団規模

 

1)遺伝的浮動からの推定

 

 スティーヴン・オッペンハイマーの「人類の足跡10万年全史(草思社)」(以下「オッペンハイマー論文」という)は現生人類の「出アフリカ」の集団規模について、以下のようにいう。

 

 全世界の母系遺伝子系統樹の構造によれば、十数の主要なアフリカの母系系統のうち一系統、たった一つの小枝(出アフリカ・イブ)だけが大陸を離れたあとも生きのびて、その他の世界を殖民した。この小さなグループがアフリカの外ですべての現生人類の集団を進化させた。もし出アフリカが一度きりであったなら、彼らはアフリカから出ることが可能な二つの通路のうち、どちらか一方だけを使ったはずである。ただ一つのアフリカ系統がすべての非アフリカ人のもとであるという単純な事実は、いくら強調してもしすぎることはない。


 どのようにアフリカを出たにしろ、始祖となりえる遺伝子的な「イブ」系統は複数交ざっていたはずである。同じことはどのような任意の人類の集団についても言える。しかしそれらの遺伝子系統のうち一つだけが生き残ったのである。

 

 たとえば、一つの集団となってアフリカを離れた、一五の遺伝子的に異なるミトコンドリアDNAの型あるいは系統があったとする。今日でも八万年よりも古いアフリカの母系系統が一五残っている。何世代もたつうちには、これら一五系続からただ一つのミトコンドリア系統だけが出アフリカ・イヴ系統、あるいはその他の世界の祖先となる「母系」となっていく。このランダムな選択と絶滅の過程は遺伝的浮動と呼ばれており、それははじめに交じり合っていた各系統がただ一つの遺伝子型へと「ただよって」いくためだ。


 時には娘が生まれず母系が途絶えることがある。小さな孤立した集団ではそれによって、やがて祖先から生きのびてきたただ一つの系統が残る。小さな集団においては浮動は強い効果をもつ。

 

 オッペンハイマー論文の指摘から、「出アフリカ」をした人間集団が保持していた幾つかの遺伝子系統のうち、ミトコンドリア・イブという一つの遺伝子系統のみが「遺伝的浮動」によって生き残ったということから、「出アフリカ」をした人間集団の集団規模はごく小さかったことが分かる。

 

2)集団規模の推定

 

 ニコラス・ウエイドの「5万年前(イースト・プレス)」(以下「ウエイド論文」という)は、現生人類の「出アフリカ」の集団規模について、以下のようにいう。

 

 5万年前、アフリカ北東部の片隅で、少数の集団が故郷を離れようと準備していた。当時、世界はまだ更新世の氷河時代にあった。アフリカの大部分の地域では人口が減少し、人類の祖先集団はわずか5000人にまで減っていた。


 アフリカを出発しようとしていた集団は、幼児も含めてたった150人程度だったはずだ。なじんでいる環境を見捨てるのは危険きわまりないことだった。

 

 「出アフリカ」をした人間集団の集団規模が「幼児も含めてたった150人程度だった」というウエイド論文の推定は、「出アフリカ」をした人間集団の集団規模はごく小さかったというオッペンハイマー論文の推定と矛盾しない。

 

 また、ウエイド論文のこの集団規模祖推定は、ピーター・ベルウッドの「500万年のオデッセイ(青土社)」(以下「ベルウッド論文」という)による、「前期更新世ホモ」が「民族誌記録での狩猟採集民集団」と同じように、「五〇人から一〇〇人までの在地グループでしばしば集まっていた」という推定とも矛盾しない。

 

 そうであれば、「出アフリカ」をした人間集団の集団規模は150人程度で、おそらく彼らは、彼らの婚姻が、半族や固定された族外婚などのように固定された集団同士で行われたとすれば、半族に区分された一つの集団か、続外婚の対象として固定された二つの集団を形成していたと考えられ、そのどちらの場合でも、新天地への移動過程での困難に対応する必要もあって、集団内あるいは集団間での言語によるコミュニケーションは活発であったと考えられる。 

 

3)少数の集団が現生人類の「出アフリカ」を行った。

 

 「出アフリカ」を行った集団について、オッペンハイマー論文は「小さな孤立した集団」であったといい、ベルウッド論文は、初期ヒト属の集団規模は「五〇人から一〇〇人まで」だったといい、ウエイド論文は、「幼児も含めてたった150人程度だった」という。

 

 例えば、ウエイド論文に依拠して、「出アフリカ」を行った集団の集団規模が150名程度であったとすれば、その集団で話されていた言語は、おそらく一つであり、この一つの言語が、その後の現生人類の初期拡散によって集団が分岐・拡散していくことで、いくつもの言語に変化していったと考えられる。

 

 そうであれば、「出アフリカ」を行った集団で話されていた一つの言語こそが、「人類祖語」であったと考えられる。

 

(i)現生人類の「出アフリカ」の移動ルートと回数

 

 オッペンハイマー論文は、現生人類の「出アフリカ」の移動ルートと回数について以下のようにいう。

 

1)シナイ半島を経由する「北ルート」での移動は途絶した

 今日、アフリカとユーラシア大陸をつなぐ通路は一つしか残っていない。つまり北のシナイ半島だ。サハラとシナイを通ってその他の世界へつながるこの通路は、ふだんは極度に乾燥した砂漠だが、地球の軌道と極軸の傾きの変動により、短い温暖期が生じたときにだけ開く。

 

 地質年代におけるこのつかのまの出来事は、太陽の熱が極地を溶かし、それにつづいて地球が暖かく湿潤になるおよそ一〇万年ごとに起こる。短いながら著しく地表が温暖化し、エデンの門が開くこの時期のことを、地質学者は最大間氷期と呼んでいる。この短いみずみずしい期間は、ふだんは寒く乾燥した氷期にある更新世の状態と対比をなすものだった。
 

 人類が初めて経験した間氷期にも、最初の勇敢な先駆者の集団はアフリカを離れて北に向かい、レバント地方に到着した。そして、彼らがあとにしたサハラの門はゆっくりと閉じていった。


 科学者にはイーミアン、あるいはイプスウィッチアンとして知られるその間氷期は、現生人類が生まれてからすぐの一二万五〇〇〇年前に始まった。
 

 現生人類の早期の軌跡は、残念ながら九万年前ごろにレバント地方で途絶えている。気候記録から、九万年前に短いが壊滅的な地球の氷結と乾燥化かあり、それがレバント地方全体を極砂漠に変えたことがわかっている。

 

 オッペンハイマー論文の指摘から、間氷期にシナイ半島を経由して「出アフリカ」を行いレパント地方に到達したホモ・サピエンスは、その後の氷期のレバント地方付近の砂漠化によって絶滅したと考えられる。

 

2)紅海を渡った「南ルート」の移動で拡散した

 

 氷期は、寒冷な気候と、海からの水分蒸発の減少を意味している。それはさらに砂漠地帯の雨の減少も意味していた。インド洋と紅海のふだんの水の行き来はほとんどなくなるほど海面が下降した。

 

 人類が地上に現れてからこの二〇万年のあいだにこのような出来事が二度あり、そのとき紅海は事実上蒸発し、塩の湖になった。おおかたのプランクトンは死に絶えた。

 

 紅海は実際は不毛だったが、開口部にはまだ非常に細い数キロメートルの水路が、点在するリーフや島のあいだを流れていた。

 

 地球が氷河に覆われているときに通りやすくなる紅海を渡る南ルー卜の移動は一二万五〇〇〇年前の温暖なイーミアン間氷期ではなく、その四万五〇〇〇年後の、長期にわたる氷河作用が始まった時期におこなわれた。


 人類がアフリカから出てインド洋一帯へと拡散していく動機として、最近、最初の現生アフリカ人がとっていた「海岸での採集」という生活様式が考えられている。

 

 地上に登場してから二〇〇万年、人類はほぼずっと、狩猟採集民としてサバンナをさまよってきた。南アフリカのカラハリ族のように、彼らは集団で、栄養価の高い獲物をしとめ、植物の根、果実、葉のサラダで栄養を補完した。

 

 一三万~一九万年前の大規模な氷河作用でサバンナ地域が縮小しはじめると、だれかが浜の貝や海洋生物を採って食べることを思いついた。海岸での採集はもっと前からおこなわれていた可能性もあるが、タンパク質に富むそれらの食物は栄養価が高く、脳によく、また簡単に採ることができた。


 西暦二〇〇〇年に、(アデンとイエメンの間の)〈悲しみの門〉のすぐ北にあたる、紅海西岸のエリトリアのアブドルで、早期の海岸採集の新たな証拠が発見された。イーミアン間氷期のピークにあたる一二万五〇〇〇年前のものと推定されている。


 紅海沿岸にあるこの遺跡は二つの点で興味深い。つまり海岸採集の最古の証拠である点と、出アフリカの南ルートに非常に近い点だ。(現生人類の移動の姿について)その浜だけでは養いきれないほど採集民が増加しては、まだ利用されていない浜への移動をくりかえす、という説得力ある物語ができる。

 

 オッペンハイマー論文の指摘から、間氷期のシナイ半島に替わり、氷期には紅海のアデンとソマリアの間の、いわゆる「悲しみの門」が「出アフリカ」の通路になったことがわかる。

 

 また、紅海を渡って「出アフリカ」をして、初期拡散をしたホモ・サピエンスの生活様式は、「海岸での採集」であったことが分かる。

 

 そうであれば、彼らの、アラビア半島の沿岸からイランの南岸、インドの沿岸とサヘル大陸を形成していたインドシナ半島とインドネシア諸島、そしてオセアニアへの移動過程では、「海岸での採集」に依拠していたと考えられる。

 

 そして、彼らの一部がイラン南部で分岐して内陸の中央アジアに移動していったということは、彼らの一部はそれまでの生活様式を捨てて新天地を開拓したということであったと考えられる。

 

 その結果、「出アフリカ」をしたホモ・サピエンスはイラン南部で、イラン南部に残留した集団群、海岸線をインドに向かった集団群、中央アジアに北上した集団群の三つに分岐したと考えられる。

 

 そしておそらく、この集団群の分岐は、それぞれの言語への「人類祖語」の最初の分岐を伴うものであったと考えられる。

 

3)おそらく短期間の一度限りの紅海の横断

 

 人類の登場以来、〈悲しみの門〉が完全に干上がったことはないが、氷期には海峡はずっとせまくなったので、北端のㇵ二シュ・アルカビルにある浅瀬では、サンゴ礁の島づたいに浅瀬をらくに渡っていけた。

 

 グリーンランド氷床の計測によれば、過去一〇万年で二番めに寒冷だったのは六万~八万年前だ。そのあいだでもっとも寒かった六万五〇〇〇年前、氷河作用によって世界の海面は今より一○四メートルも低かった。

 

 六万五〇〇〇年前の海面低下では紅海の入り囗は完全にはふさがれなかったので、プランクトンは激減したものの完全には消滅しなかった。


 プランクトンの減少は、浅瀬の酸素不足と海水の高温化によっても悪化し、そのようなことはエリトリアのアブドルや紅海の入り囗でも起こった。紅海のプランクトン・レペルの低下はさらに浜の採集民の暮らしにも影響をおよぼしただろう。

 

 それにひきかえ対岸にあるイエメンのアデン湾の浜は、〈悲しみの門〉の外にあって栄養豊富で、インド洋から押し寄せる海水によって酸素が供給された。つまり南アラビアの沿岸では、浜で採集する条件は非常によかったと思われる。


 紅海西岸のとぼしくなる食料、アデン湾の魅力ある海岸、そして避難地に適した涼しく湿ったイエメンの台地が、わたしたちの祖先をきわめて重要な行動へとかりたてたのだろう。

 

 プランクトン・レペルも海水面も、一〇万年前から六万五〇〇〇年前の間、一様に減少していったわけではない。それどころか、どちらも短期間のうちに急激に落ち込んだ。それは八万五〇〇〇年前に起こった。海面は現在より八〇メートルも一気に下降したが、八万三〇〇〇年前、始まった時と同様、劇的に持ち直した。この八万五〇〇〇年前の一時的な海面低下が、われわれの祖先を海岸採集の旅へと強くうながしたのだろう。 

 

 オッペンハイマー論文の指摘から、ホモ・サピエンスの紅海横断による「出アフリカ」は、おそらく短期間の一度限りのものであったと考えられる。

 

 そうであれば、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」は、150人程度の小規模な集団による一回限りのものであり、「人類祖語」となった彼らの話していた言語は一つであったと考えられる。

                                                                                                                                                                                                                  

3)「出アフリカ」した現生人類が話していた「人類祖語」は一つの言語

 

 オッペンハイマー論文の指摘から、現生人類の「出アフリカ」の移動ルートは紅海を横断した「南ルート」であり、その回数は短期間の一度限りのものであったと考えられる。

 

 また、オッペンハイマー論文やべルウッド論文、ウエイド論文の指摘から、現生人類の「出アフリカ」の集団規模が150人程度であったと考えられる。

 

 現生人類の「出アフリカ」は少数の集団が一度だけ行ったもので、彼らが一つの同じ言語を話していたとすれば、「人類祖語」は一つの言語であったと考えられる。

 

(i)「出アフリカ」を行った異なったハプログループの集団の言語は一つ

 

 崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)は、「出アフリカ」を行った現生人類の集団のY染色体ハプログループについて、以下のようにいう。

 

 Y染色体は,現生人類の共通祖型Yから,まずハプログループAおよびBT(Aを除く全て)とが分岐した。そしてBTからハプログループBとCTとが分岐し、CTからハプログループDE, C'Fとが分岐した。ハプログループDEからハプログループDおよびEが,後者のC'FからハプログループCおよびFTが分岐した。

 Y染色体ハプログループAは,最も古いY染色体ハプログループであることを反映して,現生人類誕生の地である東アフリカに発祥したことが推定される。そしてその後南アフリカへ拡大して行った。Y染色体ハプログループAは,言語族として主にコイサン系の広がりと移動の歴史とを反映している。


 それに対してY染色体ハプログループBは,東アフリカで発祥した後,北部への拡大および西への移動を起こし中央アフリカへ達した。Y染色体ハプログループBについては,主にナイル・サハラ系の移動を反映していることが推定される。

 

 現生人類誕生から長い時間を経て,約8万年程前から人類はさらにアフリカ内部に限定された移動と拡大を続けた。それらの一部が出アフリカを果たすのは約6万5000年程前である。

 

 ハプログループDEのうち,パラグループDE*およびハプログループEがアフリカで発祥した。


 Y染色体ハプログループEは,東アフリカで発祥した後,中央アフリカを経て西アフリカへ広かって行った。特にY染色体ハプログループElbla(= YCC 2002: E3a)はニジェール,コンゴ系(その中のバントゥー族)との関連性が強く推定されている。


 Y染色体ハプログループEの一部(Elblb=YCC 2002: E3b)は,東アフリカに留まり,次の出アフリカの準備をした。Y染色体ハプログループElblbは,言語族としてはアフロ・アジア系との関連性が推定されている。 Y染色体ハプログループElblbは,北アフリカにも高い頻度で見られるので,アフリカ内部の移動あるいは再度アフリカへ戻って来たルートの双方が考えられる。


 現生人類の新天地への移動である出アフリカは,紅海-アラビア半島-ユーラシア南部ルートという一つのルートによって比較的短い期間に少数の集団によってなされたことが推定されている。

 

 Y染色体ハプログループにおいて出アフリカを果たしたのは,パラグループCT*[=CT-M168*]から直接分岐した2つのグループ,つまりハプログループDE[DE-MI=DE-YAP]およびC'F[C'F一P143]である。

 

 そして前者からはハプログループD[D-M174]およびE[E-SRY4064]が,後者からハプログループC[C-M130C-RPS4Y7H]およびFT[F-M89]とが分岐した。

 

 いずれもアフリカで発祥したものと考えられるが,その数が少なかったためか,祖型C*, D*, F*はいずれも現在のアフリカには確認されない。

 

 これら出アフリカを果たしたY染色体ハプログループC, D, E, Fは,同じ時期に同時に移動して行った。

 

 崎谷論文の指摘から、「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスの集団のY染色体ハプログループは、ハプログループDEおよびC'Fと、前者から分岐したDおよびE,後者から分岐したCおよびFTであったと考えられる。

 

 また、出アフリカを果たしたY染色体ハプログループC, D, E, Fのうちの「祖型C*, D*, F*はいずれも現在のアフリカには確認されない」のは、彼らの「数が少なかったため」というのは、「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスの集団規模は小さかったという推定と矛盾しない。

 

 ハプログループの違いは人間集団の分離に起源しているので、その人間集団の分離によって、その人間集団の言語も異なっていったと考えられる。

 

 崎谷論文によれば、アフリカ内を移動したY染色体ハプログループAはコイサン系に、Y染色体ハプログループBはナイル・サハラ系ん、Y染色体ハプログループElblaはニジェール,コンゴ系に、Y染色体ハプログループElblbはアフロ・アジア系に、それぞれ集団の移動に伴ってその言語も分岐していったという。

 

 そうであれば、「出アフリカ」をしたホモ・サピエンスの集団が複数のY染色体ハプログループの集団であったとすれば、彼らの当初の言語はY染色体ハプログループの集団ごとに異なっていたと考えられる。

 

 パプア・ニューギアナやアフリカのサン族、オセアニアの先住民、アメリカ大陸の先住民などは狭い範囲をテリトリーとして孤立・分散して生活しているが、彼らの言語は同じ語族の間でも隣接する集団や集落ごとにわずかに異なっている。

 

 彼らの言語が隣接する集団や集落ごとにわずかに異なっているのは、おそらく意識的にそうしているのであり、彼らがそうしている理由は、ある言葉の言い回しや発音などを彼らの集団や集落が共有することで自分たち独自の言語を作って、他の集落や集団と自分たちを、言語で区別するためであったと考えられる。

 

 ジーン・アウルの「大地の子 エイラ(評論社)」が描写している、エイラが洞窟の集落に迎え入れられたときの洞窟の集落の人たちの強い警戒感と恐怖のように、狭い範囲をテリトリーとして孤立・分散して生活している集団にとって、よそ者はテリトリーを侵害して混乱をもたらしかねない危険な存在であったので、身内とよそ者をはっきりと区別するために、他の集団や集落と区別された自分たちの独自の言語を作ろうとしたと考えられる。

 

 単語を発音させることで、外見上では区別できない異民族を区別・判断する方法は良く使用される方法で、最近ではウクライナでロシア人が、発音の違いでロシア人とウクライナ人を区別することに使われ、歴史的にもこうした事例はしばしば散見され、イタリア系住民がフランス系住民を、発音で区別して選別して虐殺した「シチリアの晩鐘」が有名である。

 

 おそらく、東アフリカに拡散していたホモ・サピエンスの諸集団も、彼らとよそ者たちを区別するために、それぞれわずかに異なった言語を持っていたはずである。

 

 そうであれば、「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスのハプログループDE、C'Fの集団の言語や、両者から夫々分岐したD、E、C、FTの集団の言語は、当初はそれぞれ異なっていたと考えられる。

 

 しかし、それらの言語の違いが、それぞれの集団の分離と「よそ者の排除」のためであったとすれば、総体の人数が150人程度の少人数であった「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスの集団では、その150人程度の少人数の集団が「身内の集団」となり相互に緊密な会話が行われたので、当初の彼らの異なった言語も、「出アフリカ」の前後及びアラビア半島沿岸を経由してイラン南部に到達するまでの「出アフリカ」の過程で、次第に一つの言語に収斂していったと考えられる。

 

 つまり、「出アフリカ」こそが、それまでの異なっていた言語から一つの「人類祖語」を誕生させたのだと考えられる。


 そうであれば、異なったハプログループの「出アフリカ」をしたホモ・サピエンスの集団の話した言語は、「出アフリカ」の前後以降は確実に一つの言語であり、その言語は、後のホモ・サピエンスの初期拡散によって誕生した諸言語の共通の祖語である「人類祖語」であったと考えられる。

 

(j)「人類祖語」の復元・再構成

 

 以上の検討から、「すべての言語が1つの共通祖先から分岐したのか否かすら議論の余地が残っている」という平子他論文の主張には従えない。

 

 平子他論文は、「すべての言語の祖先となる言語がどのようなものであったかは明らかにされていない」というが、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)は、具格接辞の転用と組み合わせによる「人類祖語」の復元案を提示している。

 

 近藤論文による「人類祖語」の復元案は、シュメール語と古代中国語、朝鮮語と上代日本語との比較や、その結果を参考にした他の言語との比較によって解明された、それらの間の共通性によるものである。

 

 シュメール語が伝播して上代日本語が誕生したということは考えられないので、近藤論文が指摘するそれらの言語の語彙や語形とその形成方法の共通性は、それらの言語がそれらの言語の共通の祖語から分岐したことによって、それらの言語の共通祖語の痕跡がそれらの言語に残っていることによって生まれているものであると考えられる。

 

 そうであれば、近藤論文が推定しているそれらの言語の共通の祖語こそ、「出アフリカ」をしたホモ・サピエンスの集団の話した言語、つまり「人類祖語」であったと考えられる。

 

 なお、近藤論文が、幼児の言語獲得過程を参考にして推定している言語の発達過程や、世界の言語を比較することによって推定される言語の構築方法と、それらを踏まえた「人類祖語」の具体的な内容については、近藤論文や以前書いた一連の「「人類祖語」の再構成の試み」などのブログ記事を参照してほしい。