平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からふきのとうの「白い冬」を聞いている。

 

(1)人類祖語

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、人類祖語について以下のようにいう。

 

 世界には5000ともア000とも言われる言語があり、それぞれが互いに異なっている。比較言語学における最も基本的な仮説は、諸言語は、それらの共通の祖先である1つの言語から分かれ出たというものである。残念ながら、すべての言語の祖先となる言語がどのようなものであったかは明らかにされていない。それどころか、すべての言語が1つの共通祖先から分岐したのか否かすら議論の余地が残っている。しかしながら、いくつかの言語群はそれぞれの共通祖先に遡ることが明らかにされている。

 

 平子他論文は、「すべての言語が1つの共通祖先から分岐したのか否かすら議論の余地が残っている」というが、現生人類の初期拡散が東アジアのアデン付近から黄海を横断してアラビア半島に渡った「出アフリカ」に起源しているのであれば、その「出アフリカ」を行った人間集団は言語を持っていたのであり、その言語はおそらく一つであったと考えられる。

 

 「出アフリカ」を行った人間集団はその初期拡散でユーラシア大陸とアメリカ大陸、オセアニアに拡散したが、その拡散によって彼らの言語も分岐・拡散したとすれば、アフリカの先住民の言語を除く世界の言語は、その「出アフリカ」を行った集団の言語から派生したのであったと考えられるので、「諸言語は、それらの共通の祖先である1つの言語から分かれ出た」と考えられる。

 

 そこで、まず、「出アフリカ」を行った人間集団は言語を持っていたのか・ということと、そうであればその言語ℋどのようなものだったのか?ということを以下で検討していきたい。

 

(a)人類のチンパンジーからの分岐

 

 ピーター・ベルウッドの「500万年のオデッセイ(青土社)」(以下「ベルウッド論文」という)は、人類のチンパンジーからの分岐について、以下のようにいう。

 

1)コンゴ川を渡ったヒト族祖先

 

 今日、チンパンジー属二種のうちチンパンジーは、コンゴ川の北の中央アフリカと西アフリカに分かれて分布している。彼らと近い関係にあるボノボは、コンゴ川の南というさらに限られた地域で暮らしている。明らかにコンゴ川は、一七〇万年前頃にこれら二種を共通祖先から分岐させるに至った地理的障壁であった。


 チンパンジー属祖先とヒト族祖先がついに分岐し、もはや遺伝子プールの交換を行わず、かくて新種形成へというそれぞれ独立した過程をたどるまでに至ったのは、熱帯アフリカの後期中新世の森で、チンパンジー属とヒト族の共通祖先のある集団が、近縁グループと物理的に隔離されるようになったというものだろう。

 

 たぶん彼らの一部が、ちょうど一七〇万年以上前の乾燥した時代が長引いた時にコンゴ川を何とか渡りきってチンパンジーとは別の新種を形成したように、幅の広い川を何とか渡ったのだ。チンパンジーは、水中をほとんど泳がない。最初のヒト族も、同様に泳がなかったとすれば、この推定は十分確かな説明になるだろう。

 

 突然変異、自然淘汰、遺伝的浮動を伴った進化の過程は、隔離された集団の間で、ついには次の世代を産める子どもの繁殖を遺伝的に不可能にしてしまうだろう。たとえ彼らの子孫の一部が、ある日再び出合うことかあったとしても。こうして交雑による繁殖か不可能になった二つの種は、共通祖先の一つの種から誕生することになっただろう。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、チンパンジー属祖先とヒト族祖先の共通祖先が分布していたのはコンゴ川の北の中央アフリカと西アフリカであり、ヒト族祖先の化石の多くが東アフリカの大地溝帯から発見されているので、ヒト族祖先は、コンゴ川の北の中央アフリカと西アフリカからコンゴ川を渡って東アフリカの大地溝帯に移動・分岐し、そこで直立二本足歩行を開始することで形成されたと考えられる。

 

2)隔離と再交雑のたぶん一〇〇万年以上にわたる連続


 ヒト族祖先とチンパンジー属祖先の一度だけの分岐かたまたまあった可能性は一般には低いと考えられ、環境上の障壁が熱帯アフリカの景観を通じて現れたり消えたりして、むしろ遺伝子プールの分離と断続的な遺伝的再混合が交互に起こる出来事の長期に及ぶ繰り返しかあっただろう。

 

 切れ問のないテリトリー内でのそうした「同所性の」種分化過程の中で、隔離と再交雑のたぶん一〇〇万年以上にわたる連続があり、一つから、二つ、または三つ以上の繁殖上の分離された遺伝子プールが間欠的に作られ、生殖障壁か堅固になるのに十分に長かったために遺伝的混合がもはや不可能になった時に、ついには交郊できない分離に至ったのだろう。

 

 それゆえ上述のようにヒト族とチンパンジー属の分岐にはおよそ三〇〇万年間(九六〇万~六五〇万年前)がかかったと推定している。そう推定できるのは、最近の遺伝的、統計学的モデル化のおかげである。

 

 化石記録によれば、祖先のヒト族集団は、遅くとも五〇〇万年前までには大型類人猿のいとこと明確に分岐していた。地質時代の鮮新世の初め頃だ(鮮新世は、年代にすれば五三〇万~二六〇万年前)。

 

 同定された最古のヒト族たちに関しての最も基本的な知識は、熱帯の東アフリカの、特に五〇〇万~三五〇万年前の時期に由来する。三七〇万年前までには、南アフリカにもヒト族は現れていた。


 匕卜族クラブの祖先の最初のメンバーの可能性のあるのが、後期中新世の二種、サヘラントロプス・チャデンシスとオロリン・ツゲネンシスである。両種は、それぞれチャドとケニアで五〇〇万年以上前に暮らしていた。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、ヒト族とチンパンジー属の分岐によるヒト族の形成は、およそ三〇〇万年間という長期間の過程であったことがわかる。この長期間の過程でその分岐と並行して、おそらくそのころのヒト族の生活していた環境への適用として、直立歩行とそれに伴う手の使用の機会が次第に増加していったと考えられる。

 

(b)アウストラロピテクス属の脳容量の増加


 舞台に登場する次の役者は、引き続く中新世後期と鮮新世の二つの属、アルディピテクス(二種のうちの古い方)とその後のアウストラロピテクスである。最初に出現したアルディピテクス属(種としてカダッパとラミダスの二種)は、その化石がエチオピアの遺跡から報告されていて、巧みな木登り屋であった。

 

 エチオピア、アファール地域のクゴフソソ=ミル発見の三八〇万年前と年代推定されたアウストラロピテクス・アナメンシス頭蓋は、なお脳容量はたった三七〇立方センチメートルしかなかった。しかし三六〇万年前頃の南アフリカ、ステルクフォンテイン出土のアウストラロピテクス頭蓋は、四〇八立方センチに達していた。二五〇万年前には、一部のアウストラロピテクス(あるいは初期ホモ属)の脳容量は、四五〇立方センチに到達していた。その数値は、現生のチンパンジー属の平均三五〇立方センチを十分に上回っている。


 アウストラロピテクス属は、腕よりも長い脚で闊歩する完全な二足歩行者でもあった。ただし足の形態には多くの変異があった。彼らの手は、私たちのものと非常に良く似た形をしていて、私たち現代人的な精密な把握に徐々に近付く能力を発達させていた。しかしそれでも彼らはなお、手と足の両方とも類人猿のように物を掴む能力を維持していた。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、ヒト族とチンパンジー属の分岐によるヒト族の形成過程での、直立歩行とそれに伴う手の使用の機会の増加は、アウストラロピテクス属の段階で彼らの脳容量の増加をもたらしたことが分かるが、この脳容量の増加は、後期アウストラロピテクス属による言語の獲得の物質的な基盤となったと考えられる。

 

(c)石器を使用・製作した後期アウストラロピテクス属

 

 後期のアウストラロピテクス属の間で見られるようになった一つの明確なヒト的活動は、おそらく石器の製作だった。ケニア、トゥルカナ湮近くの口メクウィという遺跡で、最古の石器群の一つが出土した。それらの石器の年代は、三三〇万年前頃だと主張されている。その年代が正しげれば、石器がアウストラロピテクス属によるのはほぼ確かだ。


 石器の初めての恒常的使用は、二六〇万年前頃の考古記録に現れた。例えばエチオピアのボコル・ドラー遺跡とゴナ遺跡だ。ゴナから出土した動物骨の一部には、肉を引き剥がしたことを示唆する剥片石器で付けられた力ットマーク(切り傷)が見られる。ロカレレイから出土した剥片石器は、実際に接合して薄片が打ち欠かれた元の石核に復元でき。そうした「接合」の最近の研究から、教える者と教えられる者による実験と複製品作りが必要な石器製作技術の伝達を可能にしていたことを推定させる。


 石器使用に関して、鋭利な刃のついたナイフとして使われた剥片石器は、骨から肉を切り取りたいと願ったヒト族にとって明確な必需品であっただろう。しかし最初の石器は、ナイフとしてよりもハンマーや打器であった可能性か高いとするジェシカ・トンプソンらの推定もある。石器製作者は、動物の骨と頭蓋を石器で打ち付けて中の脂肪と蛋白質に富んだ骨髄を抽出するのに使っただろうという。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、後期のアウストラロピテクス属は、当初はハンマーや打器として使用された石器を工夫・加工してナイフとして使用するようになり、そのナイフの使用・製作方法を集団内で伝達・継承していたことがわかるが、彼らが石器の製作技術の伝達・継承していたということから、彼らが言語を使用していたということを推定することができる。

 

(d)道具や火を使用した「前期更新世ホモ」

 

 二〇〇万年前頃にヒト族の諸特徴は、古人類学者たちが満足するレベルで一致して認める後期アウストラロピテクス属の中に十分に表されるようになっていた。突然の、はっきりした進化的変化が伴っていたわけではないけれど、二〇〇万年前頃に起こった変化は、その前の三〇〇万年間の変化よりも急激だった。これが起こった地域に関しては、東アフリカと南アフリカの両地域が双璧であった。


 最近の古人類学者は、東アフリカと南アフリカの約二六〇万~一六〇万年前に生息していた早期ホモ属の中に、いくつかの種を認定している。それにはホモ・ルドルフェンシス、ホモ・ハビリス、ホモ・エルガスター、ホモ・エレクトスが含まれる。私はこれらをすべて「前期更新世ホモ」と呼ぶ。

 

 前期更新世ホモは、三〇%ほど大きな平均体サイズと平均脳サイズを持つことにより、アウストラロピテクス属と区別された。二〇〇万年前頃、ホモ・ハビリスとホモ・ルドルフェンシスと呼ばれる種のメンバーは、脳容量を五一〇立方センチから八〇〇立方センチまでの増加を経験した。なお今、私たち現代人の平均脳容量は、個体差に大きな幅があるけれど、約一三五〇立方センチである。


 物質文化、特に石器の使用がホモ属の初期の脳の大きなメンバーを創り出す助けになったかもしれないという魅力的な考えも、強い支持者を集めてきた。このことは、肉を切り取り、骨髄を抽出するために石器を使用することを(そしておそらくは火の使用も)通じてばかりでなく、助けを得られない赤ん坊を運ぶために繊維の抱っこひもの使用を通じても、このように幼児の脳を母親の子宮の外で安全に発達できるようになったことを通しても起こったかもしれない。現代人の脳の大きさは涎生から十分に成長するまでおよそ三五〇立方センチから一四〇〇立方センチに、すなわち四倍に増える。人間の幼児は、これを考えれば、乳児の脳が大きすぎるために発達過程の早い段階で母親の骨盤を通過して生まれなければならない。したがって人間の幼児は、大型類人猿の幼体よりも長期に及ぶ、十分な物質的な世話が必要なのである。


 単純な石器とは別に、この年代の深さからまだほとんど何も直接の証拠もないけれども、理屈の上では重要な問題である別の技術的な進歩もある。人の手、腕、肩を使ってかなりの正確さで放てる、木の柄を付けたような飛び道具は、地中にある塊茎やその他の美味な小食物を掘り出すための掘り棒と共に、群れに以前より多くの食物をもたらす助けとなっただろう。また食物や水を運ぶための獣皮製の容器も、重要だったろう。食物を以前より入手しやすくなったことは、母体の保健を改善させ、したがって妊娠の成功率と頻度を高めて、出生率の向上を促したに違いない。


 火は、必要とされる素材とその扱い方を一度理解すれば、比較的容易に使いこなせる。火の扱い方を知ってさえいれば、容易に火を絶やさないようにすることもできる。進化生物学者のリチャード・ランガムは、火は前期更新世ホモに使用されたと推定してきた。ランガムが指摘するように、大きな犬歯を持たず、比較的小さく平坦な表面の人間の歯と短い腸は、恍いた肉や澱粉質の植物を含む調理済みの食物を食べ、消化するのに適応している。私たちは生肉を食べる肉食獣ではないし、その歯列からも匕卜族祖先のどの種にもない。調理は食物を消化しやすくし、次に脳の生長のための蛋白質と炭水化物のエネルギーを摂りやすくする。火はまた、暗くなった後、野営地の火の周りで肉食獣に追い詰められることなく食物を食べられるようにする。こうして社会化がさらに促された。さらに適度な焚き火は、寒い夜にヒト族を暖かく保てただろう。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、道具や火を使用した「前期更新世ホモ」は、初めて言語を使用したと推定できる後期のアウストラロピテクス属よりも、より高度な言語を使用していた個地が推定できる。

 

(e)群れレベルでの協力と食物分配をしていた「前期更新世ホモ」


 実際の群れの大きさに関しては、民族誌記録での狩猟採集民集団は、五〇人から一〇〇人までの在地グループでしばしば集まっていた。民族誌記録を二〇〇万年前の人間行動の解釈にそのまま当てはめることはできないが、少なくとも可能性についてなにがしかの考えを与えてくれる。考古学者のジョン・ゴーレットは、前期更新世ホモの群れのテリトリー面積は、考古遺跡で使われた石器の石材の移動を基に、おそらく八〇~一五〇平方キロほどだったと推計した。多数の考古学者も、石器と廃棄された獣骨の集積を通して認知できる、居住地での集まりの配置はこのテリトリー内に存在していたと考えている。


 もし匕卜が直接彼らを狩猟していたとすれば、腐った肉を食べなければならないのを避けるため、六、七人ですぐに新鮮な肉を分配し合う必要があっただろう。食物分配を通じた協力か、肉を得る報酬だったに違いない。

 

 考古学者のグリン・アイザックは、クービ・フォラでの自分の経験からペース・キャンプとそれに伴った行動について、一九八一年に次のような一つの仮説を提示した。

 

 (初期ヒト族の)食物分配仮説は、重要なこととして、次の事項を予測していいだろう。すなわち石器、食物の運搬、肉の消費、植物食の採集、分業、そして一つの社会グループのメンバが少なくとも一日かそこらで再結集し、廃棄される石器と食物ゴミが集積する場所の存在、である。オルドヶヅアイ(タンザユア)とクービ・フォラ(ケニア)で観察された考古学的な配置は、こうした予測の多くに適合している。

 

 この見通しから分かる、ヒト族、特にホモ属の成功の背後にある非生物学的な重要点は、彼らの日常活動を支援する石器使用の意義の高まりだけでなく、群れレベルでの協力と食物分配であった。

 

 ベルウッド論文はの指摘から、「群れレベルでの協力と食物分配」を行うことは、その過程での彼ら相互のコミュニケーションと意思疎通を活発化させ、言語の発達を促したと考えられるので、この点からも、「前期更新世ホモ」は、初めて言語を使用したと推定できる後期のアウストラロピテクス属よりも、より高度な言語を使用していた個地が推定できる。、

 

(f)後期アウストラロピテクス属は、最も原始的な言語を話していた

 

 ベルウッド論文が指摘している脳容量の増加と石器の使用と製作、およびその製作技術の継承の開始が原始的な言語の誕生と並行するものであったのであれば、おそらく後期のアウストラロピテクス属は、最も原始的な言語を話していたと考えられる。

 

 近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)が指摘するように、言語の誕生過程が幼児の言語習得過程と似ているのならば、最も原始的な言語は、身振り手振りと併用された一語文で、その単語の発音の声の大きさや強弱と身振り手振りや発音のときの表情などによって、その言語の意味を補足していたと考えられる。

 

 言語の発達過程では、当初の一語文が二語文になり、動詞と名詞が区分され、自動詞から他動詞が生まれ、二語文に付加された接辞などが意味変化して目的語が登場し三語文が誕生し、名詞や動詞から形容詞や副詞が、接辞を伴った形容詞句、副詞句として形成され、時制や構文が発達していくというように変化・発達していったと考えられる。

 

 後期アウストラロピテクス属に続く、火と道具を使用し、群れレベルでの協力と食物分配をしていた「前期更新世ホモ」は、後期アウストラロピテクス属が話していた最も原始的な言語よりもより発達した言語を話していたと考えられる。

 

(g)中期更新世後葉の「重要な三つ」の種と「出アフリカ」

 広範囲に分布し、中期更新世後葉のアフリカとユーラシアの大半を支配した、密接に関連する三つの種は、ヨーロッパと西アジアのネアンデルタール人、シベリアと東アジアの謎めいた「デューソヴア人」、そして化石記録とDNA分子時計によれば初めてアフリカに現れた早期ホモ・サピエンスである。


 三種間でのDNA比較に基づいた分子時計の計算によると、広い編年の許容範囲内だが、彼らがたぶん頭蓋の形態比較による見方からの推定よりもいくぶん古い、七〇万~五〇万年前に生息していた共通の祖先集団の子孫であったことは明確だ。

 

 ホモ・サピエンスは三十万年前より前にアフリカで進化した。

 

 共通祖先の道で最初の遺伝的分岐は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人/デューソヴア人共通系統とを分けた。おそらく後者がアフリカから出て行き、ユーラシアに入っていった一方、サピエンスの祖先はアフリカに留まった。その後、ネアンデルタール人とデューソヴア人の共通祖先は、ユーラシア大陸に広かっていくにつれ、二種に分岐した。


 考古学の観点では、サピエンスと未分化のネアンデルタール人/デューソヴア人との二方向のゲノムの分岐は、アシューリアンの後に現れ、そこから発展したと思われる石器インダストリーと関係かあった。これらは、ルヴァロアジアン(ルヴァロワ文化)とムステリアン(ムスチェ文化)として知られる。

 

 何人かの遺伝学者たちは、(ホモ・サピエンスの)出アフリカの移住に対して六万五〇〇〇年前にまで遡る年代を与えている。しかし分子時計は、出アフリカの移動に関する限り、一般にこの年代の近辺で線を引く。
 

 ベルウッド論文の指摘から、ネアンデルタール人、デューソヴア人、早期ホモ・サピエンスという中期更新世後葉の「重要な三つ」の種は、文化を形成していたので、彼らは「前期更新世ホモ」よりも高度な言語を話していたと考えられる。

 

 中期更新世後葉の「重要な三つ」の種の共通祖先から早期ホモ・サピエンスが分岐したのが三十万年前で、ホモ・サピエンスが「出アフリカ」を行ったのが六万五〇〇〇年前であったとすれば、「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスは、早期ホモ・サピエンスよりもかなり進化していたと考えられる。

 

 そうであれば、言語が進化に並行して発達するとすれば、「出アフリカ」を行ったホモ・サピエンスの言語はかなり発達していたと考えられる。