侯家荘西北岡大型墓の造営順序と被葬者について(5) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」からシモンズの「恋人もいないのに」を聞いている。

 

 これまでの検討結果と、飯島武次の「中国殷王朝考古学研究(同成社)」(以下「飯島論文」という)、朱鳳瀚の「股墟西北岡大墓年代序列再探討」(以下「朱論文」という)、溝口孝司氏・内田純子氏による“The Anyang XibeigangShang royal tombs revisited: a social archaeological approach”(以下「溝口・内田論文」という)の主張との相違点、以前の「甲骨文の誕生と漢語の形成について(37)」の主張との相違点は、以下のとおりである。

 

(6)今回の検討結果と飯島論文、朱論文、溝口・内田論文の主張との相違点

 

(a)飯島論文

 

1)「第1表 殷王室世系表(「史記」・董作賓による)」に従った場合

 

 飯島論文は、以下のようにいう。

 

 M1001号墓の墓主は武丁と推定される。M1400 ・ M1550 号墓のいずれかの墓の墓主として祖庚と祖甲が推定される。M1004 ・M1002 ・ M1003 ・ M1500 号墓のそれぞの墓の墓主として順次、廩辛・庚丁・武乙・太丁の4人が推定される。M1217号墓の墓主は帝乙と推定される。 1567方形壙の墓主はいない。さらに中字型墓の50WKGM1 (武官大墓)の墓主は武丁の長男・祖己である。

 

 ここでの推定との相違点は、M1400号墓の被葬者を28祖己としたことと、50WKGM1 (武官大墓)の墓主を27武丁の妃としたこと、35帝乙を架空の殷王としたこと、その結果、29祖庚以降の大型墓の比定が繰り下がり、M1217号墓の墓主が34文武丁とされたことである。

 

 なお、張光直の「中国青銅時代(平凡社)」(以下「張論文」という)が指摘するように、殷王の王位継承は、現王の姉妹と現王の組連合とは違う組連合の王族との間の子に継承されるので、祖己が武丁の実子で、即位しなかった人物であったとしたら、大型墓が彼のために王陵区に築造される理由はない。

 

 また、祖己が即位しなかったとすれば、彼が武丁の「子」として扱われる理由もなくなる。

 

 武丁以降の殷王の大型墓の形式が亜字型であったとすれば、即位した祖己の大型墓は亜字型であったはずなので、中字型墓の50WKGM1 (武官大墓)の墓主は武丁の長男・祖己であるという飯島論文の主張には従えない。

 

2)「第2表 殷王室世系表(島邦男による)」に従った場合

 

 飯島論文は、以下のようにいう。

 

 廩辛は甲骨文に殷王として存在しないので、当然王陵はなく、M1002 ・ M1003 ・ M1500号墓の被葬者を順次、康丁・武乙・文武丁と推定する。

 

 廩辛が先王祭祀の卜辞に見られない理由については、以前「甲骨文の誕生と漢語の形成について(38)」で以下のように述べた。

 

 島邦男による「表3 先王・先妣祀序表」を載せる。

 

 そのうち、表3の甲、乙、丙、丁などの十干と第一旬からの祀日ごとの先王の序は、以下のとおりである。

 

 なお、先公以外で配妣が五祀を受ける直系王には下線を付した。

 

第一旬 甲 工典

第二旬 甲 上甲 乙 報乙 丙 報丙 丁 報丁 壬 示壬 癸 示癸

第三旬 乙 大乙 丁 大丁

第四旬 甲 大甲 丙 卜丙 庚 大庚

第五旬 甲 小甲 戌 大戌 己 雍己

第六旬 丁 中丁 壬 卜壬

第七旬 甲 戔甲 乙 祖乙 辛 祖辛

第八旬 甲 沃甲 丁 祖丁 庚 南庚

第九旬 甲 陽甲 庚 盤庚 辛 小辛

第十旬 乙 小乙 丁 武丁 己 祖己 庚 祖庚

第十一旬 甲 祖甲 丁 康丁 

第十二旬 乙 武乙 丁 文武丁

 

 表3の構造は、以下のとおりである。

 

1)基本的に一旬に2世代の王が祭られているが、第五旬、第六旬はそれぞれ一世代のみの王が祭られており、第八旬と第九旬は、合わせて一世代の王が祭られている。

 

2)各旬に記載されている王の記載順は、基本的にその即位順であるが、その即位順が甲・乙・丙・丁などの十干の祭日順と異なるときは、その王の祭日は、本来の旬の次の旬に繰り下げられるか、1)の場合の第五旬と第六旬のように、本来の二世代の旬が、一世代ごとに二つに分離される。

 

 繰り下げの例は③卜丙で、第一旬は①大乙と②大丁の2世代の王が祭祀されているが、「史記」の殷王系譜では大丁と同じ世代の卜丙をここに入れようとすると、①大乙と②大丁の間に来てしまい、それらの即位順は①→③→②となってしまうので、③卜丙を次の第四旬に下げたのである。

 

 分離の例は⑨大戌と⑪中丁で、第五旬と第六旬を統合したままにすると、十干の祭日順では⑨大戌の前に⑪中丁の祭日が来てしまうので、王をその即位順に従ってその属する祭日に祭祀するということができなくなるので、第五旬と第六旬は分離されているのである。

 

 また、「史記」の殷王系譜では⑬戔甲は⑪中丁の同世代の王であるが、⑬戔甲の祭日を⑪中丁と同じ第六旬にすると、それらの祭祀順は⑬戔甲→⑪中丁となって、それらの即位順の⑪中丁→⑬戔甲と異なってしまうので、⑬戔甲は第七旬に下げられている。

 

 そして、「史記」の殷王系譜によれば、㉒小乙は⑲陽甲、⑳盤庚、㉑小辛と同世代であるが、本来の第九旬ではなく、次の第十旬に祭日がある。

 

 これは、㉒小乙を第九旬に持ってくると、第九旬の祭祀順が⑲陽甲→㉒小乙→⑳盤庚となって、「史記」の殷王系譜の、⑲陽甲→⑳盤庚→㉑小辛→㉒小乙という即位順と異なってしまうからであった。

 

 また、「史記」の殷王系譜では㉕廩辛と廩辛の弟㉖康丁は同世代の王であるが、㉖康丁の祭祀日のある第十一旬に㉕廩辛の祭祀日を設定すると、その祭祀順は㉖康丁→㉕廩辛となって、それらの即位順の㉕廩辛→㉖康丁と異なってしまうが、㉕廩辛の祭祀日を第十二旬に繰り下げると、その祭祀順は㉗武乙→㉘文武丁→㉕廩辛となって、それらの即位順の㉕廩辛→㉗武乙→㉘文武丁と異なってしまう。

 

 その結果、㉕廩辛は表3から削除されたのだと考えられる。

 

 「甲骨文の誕生と漢語の形成について(38)」での指摘から、廩辛の祭祀日の設定が上手に出来なかったので先王祭祀自体が行われなかったことで、そうした先王祭祀に係る廩辛の卜辞は存在しなかったが、先王祭祀とは別に継承されていた殷王の地位継承次第の伝承やその文字資料が残されていたので、「史記」殷本紀は廩辛を即位した殷王としたのだと考えられる。

 

 そうすると、卜辞に登場しないということだけを根拠として、廩辛の殷王としての即位を否定することはできないと考えられる。

 

 そして、31廩辛の王陵は、傍系王で中立、B組代位ということと、その測位順からM1002号墓に比定できると考えられる。 

 

(7)今回の検討結果と「甲骨文の誕生と漢語の形成について(37)」での主張との相違点

 

(a)「甲骨文の誕生と漢語の形成について(37)」での主張。

 

1)侯家荘大墓の東区は武丁とその家族の墓域

 

 「図説中国文明史2 殷周 文明の原点(創元社)」(以下「中国文明史2」論文という)の指摘から、武丁の墓は東区にあることが分かるので、西区の1001号墓が西区では、最も古い墓で武丁の墓であるという主張には従えない。

 

2)盤庚が遷都した都は殷墟の近くの「浜北商城」

 

 松丸道雄の「甲骨文の話(大修館書店、あじあブックス079)(以下「松丸論文」という)は、盤庚が遷都した都は殷墟ではなく、新たに発見された殷墟の近くの「浜北商城」であったいう。

 

 陵墓の地が都の近くに営まれたとすると、殷墟の近くの侯家荘大墓には、武丁の前代の盤庚・小辛・小乙の墓はなかったと考えられる。

 

3)侯家荘大墓の西区の8基の王墓の築造順

 

 1550墓が先に築造されたとすると、侯家荘大墓の西区の8基の王墓の東側の四つの築造順は、1001墓→1550墓→1002墓→1004墓となる。

 

4)侯家荘大墓の西区の8基の王墓の被葬者

 

 そうすると、侯家荘大墓の西区の8基の王墓の被葬者は、武丁の墓が東区にあるとすると、武丁の次代の殷王であったと考えられる。

 

5)殷の王族の支族連合の墓域と王墓の被葬者

 

 張光直の「中国青銅時代(平凡社)」(以下「張論文」という)が指摘するように、殷の王族の10支族が乙組と丁組と中立派の三つのグループに分かれていたのなら、そうしたグループに出自した殷王の墓も三つの墓域に分かれて築造されたと考えられる。

 

 そこで、真ん中のグループの1567墓が紂王帝辛の墓であるとすると、彼は「中立派」の辛支族の出自であったので、真ん中のグループのもうひとつの墓である1003墓も中立派の殷王の墓であったとすると、卜辞の殷王系譜からすると、その1003墓は紂王帝辛と同じ辛氏族に属する廩辛の墓であったと考えられる。

 

 卜辞の殷王系譜を見ると、丁組に属する殷王は庚丁と文武丁の二人であり、それらの殷王の承継順は庚丁→文武丁の順なので、西側の1550墓が庚丁の、同じく1217墓が文武丁の墓であったと考えられる。

 

 また、卜辞の殷王系譜を見ると乙組に属する殷王は、帝乙を虚構の殷王とすると、祖己、祖庚、祖甲、武乙の四人であり、それらの殷王の承継順は祖己→祖庚→祖甲→武乙の順なので、西側の1001墓が祖己の墓であり、1004墓が武乙の墓であったと考えられる。

 

 そして、古代日本の弥生時代の方形周溝墓が継続して築造されるときに、それらが一部重なって築造される理由が、先に築造された方形周溝墓と後から築造された方形周溝墓が継承関係にあることを示すことであったと考えられるが、それと同じことが殷王の墓の重なりにもいえるとすると、1004墓が1002墓に一部重なっているので、殷王系譜の祖甲→武乙の継承関係から、1002墓は祖甲の墓であったと考えられる。

 

 祖己、祖、祖甲の殷王の系譜上で「兄弟」とされており、祖己の墓が1001墓で、祖甲の墓が1002墓なので、祖庚の墓は1550墓となる。

 

 なお、張論文によれば、庚支族は辛支族とともに「中立派」とされているが、その意味は、張論文よれば、「甲、乙、丁と自由に結び合うもの」であるとされており、祖己、祖庚、祖甲の「兄弟」は乙組の世代に属しているので、ここでは、「中立派」の祖庚は、乙組と結びあったので、乙組の殷王の墓域にその墓を築造したのだと考えられる。

 

 そうすると、帝乙が虚構の殷王であったとすれば、帝辛は乙組の世代に属することになり、「中立派」の帝辛が、乙組と結びあったので、乙組の殷王の墓域にその墓を築造したとすると、1567墓は、乙組の墓域に築造された墓であったと考えられる。

 

 そして、もう一人の「中立派」の殷王の廩辛は、卜辞の系譜では庚丁の兄となっているので丁組の世代に属しているので、「中立派」の廩辛が、丁組と結びあったので、丁組の殷王の墓域にその墓を築造したとすると、侯家荘大墓の西区は、大きくは、丁組の殷王の墓域と乙組の殷王の墓域に分かれていたと考えられる。

 

 そうすると、こうしうた墓域の設定は、殷王が二つの支族連合から交互に選出されたという張論文の指摘が、その「中立派」の支族の動向も含めて、妥当なものであるとする根拠となるものであると考えられる。

 

6)武官村大墓の被葬者

 

 侯家荘大墓の東区は武丁とその家族の墓とだと考えられるが、武丁の墓から少し離れて、平行に築造されている武官村大墓は、武丁の妻の墓でもないし、武丁の二人の子の墓とされる二つの墓よりも大分大きい墓である。

 

 この武官村大墓は、武丁に関わる人物の墓であると考えられるが、それでは、いったい誰の墓なのだろうか?

 

 殷王の継承関係は、卜辞の系譜から同世代内継承を除けば、武丁→祖甲→庚丁となり、張論文のいう乙組と丁組の政権交代ということからすると、武丁の孫の代で丁組に政権が移動し、張論文がいう、殷王の叔父から甥への継承ということからすると、祖甲の姉妹の夫が武丁の子で、その間に生まれた子が庚丁だったということになる。

 

 そうすると、武丁の子で庚丁の父であった人物は、殷王の父とならなかった他の武丁の子よりも、より重視されたと考えられるので、彼の墓こそ武官村大墓であったと考えられる。

 

(b)「甲骨文の誕生と漢語の形成について(37)」での主張への批判

 

1)

 

 飯島論文が指摘するように、出土した青銅器などから、M1001号墓が27武丁の王陵であったのは動かせず、それ以外の大型墓の築造時期や築造順は、架空の殷王であった35帝乙を含むことなどの部分的な修正を行えば、おおむね妥当である。

 

 よって、(a)の1)2)3)4)の主張はすべて成り立たない。

 

2)

 

 殷の王族の10支族が乙組と丁組と中立派の三つのグループに分かれていたのなら、そうしたグループに出自した殷王の墓も三つの墓域に分かれて築造されたという考え方は、飯島論文が指摘した侯家荘大墓の西区の築造順と整合しない。

 

 よって、(a)の5)の主張は成り立たない。

 

3)

 

 祖甲の姉妹の夫が武丁の子で、その間に生まれた子が庚丁だったという想定は妥当なものではあるが、武丁の子で庚丁の父であった人物は、殷王の父とならなかった他の武丁の子よりも、より重視されたと考えられるので、彼の墓こそ武官村大墓であったと考えられるという主張は、武丁の王陵がM1400号墓であったということを前提としている。

 

 しかし、M1400号墓は武丁の次代の祖己の王陵であったと推定されるので、(a)の6)の主張も成り立たない。

 

 なお、自分の即位していない実子の墓を、殷の王陵に匹敵するような大型墓として殷王の王陵区に築造するという例はなく、こうした想定自体が根拠のない非現実的な想定であると考えられる。

 

5)

 

 「甲骨文の誕生と漢語の形成について(37)」での主張は、「図説中国文明史2 殷周 文明の原点(創元社)」(以下「中国文明史2」論文という)による侯家荘大墓の編年に依拠したものでもあったが、中国文明史2は、侯家荘大墓を以下のように編年していた。

 

 起源前14世紀の盤庚の遷殷と紀元前13世紀の武丁の中興までの間にに、まずM1217号墓が、続いてM1550号墓が築造され、武丁の中興以降、まずM1400号墓が、続いてM1001号墓が、続いてM1002号墓が、続いてM1004号墓が、続いてM1003号墓が、最後にM1500号墓が、それぞれ順次築造されていった。

 

 この中国文明史2の理解では、M1217号墓の被葬者は盤庚、M1400号墓の被葬者は武丁、未完成のM1567号墓盤被葬者は紂王帝辛とされていたと考えられるが、これまで見てきたように、大型墓の切り合い関係や大型墓から出土した青銅器などによる築造年代や直造順の推定とは整合しないもので、根拠に欠ける推定であったと考えられる。