平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(10) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」から赤い鳥の「翼をください」を聞いている。

 

 (7)系統樹の推定

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、系統樹の推定について以下のようにいう。

 

(a)類型分類と系統分類

 

 分類は目的や方法によってその結果が大きく異なる。言語の分類は、大きく分けると、音韻体系や文法構造の類似性に基づく共時的な類型分類と、歴史的な関係と変化に基づく通時的な系統分類とに分かれる。


 類型分類は共時的な分類であり、歴史的な関係を直接解明できない。ある形質が共通の柤先に由来することを相同と呼ぶのに対して、機能的・形態的に類似している形質が別々の由来をもつことを相似と呼ぶ。系統を反映する形質は相同であって相似ではない。

 

 類型分類で用いられる類型論的な形質の中には相同も含まれうるが、相似による形質が用いられることが少なくない。つまり類型分類では、外見は似ているが共通の祖先に由来しない形質も用いられる。


 いかなる言語であれ、それに恒常的な本質はないので、類型論的な形質は変化することがある。したがって分類の結果が変わる可能性がある。類型論的な形質は歴史研究には不適格であり、系統分類に使えない。

 

 平子他論文が指摘するように、「類型論的な形質」についての研究は「歴史研究には不適格」であり、そうした現状の「類型論的な形質」の持つ意味とその分布が示すものが何なのか、どのようにしてそうした「類型論的な形質」が成立しその分布状況が誕生したのか、ということは、言語学だけでは解明することは出来ない。

 

 そして、その言語集団の生成と移動の過程を、歴史学や人類学などの他の学問分野の研究成果を活用することで明らかにし、言語集団の生成・移動とその「類型論的な形質」の分布状況を重ね合わせることで、その「類型論的な形質」の生成過程を解明することをつうじて、初めてその「類型論的な形質」から、言語の変化の歴史過程を復元・再構成することが可能となる。

 

 松本克己の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)による言語の「類型論的な形質」についての研究は言語の歴史過程の考察についての貴重な材料を提供しているが、松本論文が指摘している「類型論的な形質」の内容とその「類型論的な形質」の分布状況だけからは、その「類型論的な形質」が形成されてきた歴史過程を復元・再構成はできない。

 

(b)派生形質の共有に基づく系統分類

 

 類型分類とは異なり、系統分類はもっぱら相同、すなわち共通の祖先に由来する形質に基づく。相同はさらに原始形質と派生形質とに分けられる。

 

 原始形質とは、すべての分類群の祖先より受け継がれ、変化していない形質である。それに対して派生形質とは分類群の一部のみに共有され、それらの最も近い共通柤先に起こった変化に由来する形質である。

 

 原始形質は保持、派生形質は改新とも呼ばれる。この2種類の相同は歴史的な性格が異なる。


 系統分類は後者の派生形質のみによって行われる。共有派生形質は歴史的な変化の共有を意味する。

 

 何らかの種Sに派生形質Tが生じた場合、種Sの子孫たちは派生形質Tを継承することになる。したがって、派生形質Tを共有する種は共通祖先Sに遡るとみなすことができる。

 

 それに対して、派生形質Tを共有していない種は、種Sに派生形質Tが発生するより前にすでに分岐しており、種Sを祖先としていないとみなすことができる。

 

 例えば鳥類とワニは、砂嚢などの派生形質を共有しているのに対して、トカゲやヘビはそれを共有していない。したがって鳥類とワニは互いに近い系統関係にあるが、トカゲやヘビとはより遠い関係にあるとみなされる。


 このように、派生形質の共有は種の系統分類に利用することができるが、原始形質の共有はそうではない。原始形質の共有は無変化を意味し、歴史的変化の共有を意味しない。系統分類は変化を伴う継承に基づく分類であるので、原始形質の共有は系統分類に利用することができない。


 原始形質と派生形質の区別は相対的なものである。

 

 平子他論文は、「類型分類とは異なり、系統分類はもっぱら相同、すなわち共通の祖先に由来する形質に基づ」き、「相同はさらに原始形質と派生形質とに分けられる」が、「原始形質とは、すべての分類群の祖先より受け継がれ、変化していない形質であ」り、「派生形質とは分類群の一部のみに共有され、それらの最も近い共通柤先に起こった変化に由来する形質である」という。

 

 そして、「派生形質の共有は種の系統分類に利用することができるが」、「原始形質の共有は無変化を意味し、歴史的変化の共有を意味」せじ、「系統分類は変化を伴う継承に基づく分類であるので、原始形質の共有は系統分類に利用することができない」という。

 

 平子他論文がいう、ある言語の「共通の祖先に由来する形質」の存在は、ある派生的な言語が別の本源的な言語に由来していること、その本源的な言語が変化することでその派生的な言語が形成されたことを前提としている。

 

 そうであれば、そうした「言語の系統論」は、ある言語と別の言語が本源的な言語と派生的な言語という直接的な関係にあることを前提としているので、両者がそうした関係に無ければ、両者間での「言語の系統論」は無意味な議論となる。

 

 初期拡散してきたホモ・サピエンスの一部のY染色体ハプログループD2の集団が、後期旧石器時代に朝鮮半島を経由して日本列島の流入してきたことで、彼らの言語の「人類祖語」が日本列島に流入し、その後の様々な言語集団の日本列島への流入にも拘らず、上代日本語の基層言語となった。

 

 そうであれば、上代日本語を派生的な言語とした場合の本源的な言語とは「人類祖語」でしかありえない。

 

 古アジア語族の言語もオーストロアジア語族の言語もオーストロネシア語族の言語もチベット・ビルマ語族の言語もツングース語族の言語も、上代日本語と同様に「人類祖語」から派生した言語であり、それらの言語と上代日本語とは「兄弟関係」にあり、「親子関係」にはない。

 

 そうであれば、オーストロネシア諸語やツングース諸語、古代中国語や朝鮮語などのそれらの言語から上代日本語やその前代の古代日本語、更に遡及した先日本語、その先日本語が分岐する前の古い九州語が、それぞれの段階で大きな影響を受けてきたとしても、それは例えば「借用関係」と言えるもので、「系統関係」ではないので、それらの言語とその時代ごとの日本語との「系統関係」の研究は、そもそも方法論として無理があるのである。

 

 必要なことは、「人類祖語」として推定されるY染色体ハプログループD2集団の日本列島への流入当初の言語の再建・再構築であり、その言語が上代日本語に変化していく過程の再構成であって、新しい九州語=「琉球祖語」の再建・再構成は、そうした日本語の変化の過程からすれば、付加的で、それほど意味がないことであると考えられる。

 

 なお、この課題に対して一つの回答を提示したのが、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)であり、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)であるので、関心がある方は参照してほしい。

 

(c)距離行列法による「系統分類」

 

 系統分類は系統関係に由来する派生形質のみに基づく。ところが、派生形質と原始形質とを区別しない言語の分類が「系統分類」の名の下で行われることがあるので注意が必要である。このような「系統分類」では典型的に距離行列法が用いられる。


 派生形質と原始形質とを区別しない言語の分類は、言語間の歴史的関係を表すのに適していない。たとえそれが「系統分類」と呼ばれていたとしても、また、分類の結果が樹形図によって表されていたとしても、本書での系統分類とは異なる。

 

(d)琉球諸語の系統分類


 派生形質に基づいた諸言語の系統分類が実際にどのように行われているかを、日琉諸語の系統分類を例に取って示そう。日本語諸方言の系統分類に関する研究は未発達なので、ここでは比較的詳細な研究が行われている琉球諸語を例にとる。
 

1)琉球諸語の系統分類

 

 琉球諸語の系統分類は次図の通りである。なお、記載された系統図を修正して表示する。

 

 琉球祖語ー北琉球祖語ー奄美語

           ー沖縄語

     ー南琉球祖語ー広域八重山祖語ー八重山語

                   ー与那国語

           ー宮古語

 

 この図のように、比較言語学では同一の語族に属する言語/方言間の系統関係を、枝葉を伸ばす木を逆転させたような図で表すのが普通である。このような図を系統樹と呼ぶ。

 

 枝が上から下へ広がる系統樹と、枝が左から右へ広がる系統樹があるが、この方向は意味をもたない。また、便宜上、言語を北から南の順に並べてあるが、系統分類上jよ特に意味をもたない。例えば奄美語と沖縄語の位置を入れ替えてもよい。系統樹は時間軸をもち、樹の根にあたる節(最も上に位置する節)が言語の最古の状態を表し、樹の葉にあたる末端節(最も下に位置する節)が最近の状態を表す。


 系統樹は、言語の分岐の頽序によって定義される諸言語間の系統的な近縁性を表現する。この系統樹では、奄美語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の5つの言語が、最古の時代において1つの言語であったこと、この1つの言語が時間の経過に従って最終的に5つの娘言語へと分岐したことを表している。

 

 2つ以上の言語の共通祖先となる言語のことを祖語と呼ぶ。奄美語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語は琉球祖語に遡る。


 この系統樹が表す言語の歴史的関係は、5言語が祖語に遡るという事実のみではない。

 

 この系統樹は、根と末端節の間に位置する内部節を含んでいる。例えば、奄美語と沖縄語は北琉球祖語と名付けられた内部節にまとめ上げられ、宮古語、八重山語、与那国語は南琉球祖語と名付けられた内部節にまとめ上げられている。このことは、琉球祖語が歴史上のある時点で、北琉球祖語と南琉球祖語という2つの言語へと分岐したことを表現している。

 

 奄美語と沖縄語は北琉球祖語という共通祖先をもち、宮古語、八重山語、与那国語は南琉球祖語という共通祖先をもつ。このように、系統樹の内部節で表されるような、系統関係のある諸言語の一部のみを含む共通祖先を中間祖語と呼ぶ。中間祖語を定義する過程は下位分類と呼ばれる。


 下位分類を行った系統樹は、それぞれの言語が共有してきた(あるいは共有してこなかった)歴史を表現する。例えば与那国語を中心に見てみると、与那国語と八重山語の最も近い共通祖先は広域八重山祖語となり、与那国語と宮古語の最も近い共通祖先は南琉球祖語となる。

 

 このことは、現在与那国語を話す集団が現在宮古語を話す集団と同一の言語(南琉球祖語)を共有していた時代は、現在与那国語を話す集団が現在八重山語を話す集団と同一の言語(広域八重山祖語)を共有していた時代より古い時代であることを意味する。

 

 言い換えれば、与那国語にとって宮古語は八重山語より遠い親戚である。与那国語と沖黽譖の最も近い共通祖先は琉球祖語である。したがって、現在与那国語と沖縄訃をそれぞれ諳す集団が同一の言語を話していた時代は最も古い時代にまで遡る。与那国語にとって沖縄語は(奄美語とともに)最も系統的に遠い言語である。


 系統的な下位分類の唯一の基準は派生形質の共有である。比較言語学では一般的に派生形質を改新、原始形質を保持と呼ぶので、以降、改新・保持という用語を一貫して用いる。琉球諳語はどのような改新に基づいて下位分類されているのだろうか。


 沖縄語と奄美語を子孫にもつ中間祖語である北琉球祖語を定義する改新は、例えば、「行く」を意味する動詞(琉球祖語*ik-)の接続形(「行って」)における補充形(*in-[往ぬ]に由来)の使用や、「竹」を意味する名詞(琉球祖語*take)の語頭子音の有声化である。これらの改新は宮古語、八重山語、与耶国語のいずれにも存在しないので、北琉球祖語に生じた改新と解釈できる。

 

 北琉球祖語は奄美語と沖縄語とに分岐する。沖縄語を定義する改新は、「亀」の第1音節の母音の不規則な長母音や「鳩」の第1音節の母音の不規則な変化(*a > o:)、琉球祖語*pago「不昧い」の意味変化([不昧い]>「汚い」) などがある。これらの改新は奄美諸に存在していないので、沖縄祖語に生じた改新であると解釈できる。


 宮古語、八重山語、与那国語を子孫にもつ中間祖語である南琉球祖語を定義する改新は、例えば、「庭」を意味する特別の名詞、「額」を意味する名詞(琉球祖語*pitae)の第1母音の不規則変化*i > uなどである。これらの改新は奄美語と沖縄語は共有していないので、南琉球祖語に生じた改新と解釈できる。

 

 南琉球祖語はさらに、八重山語と与那国語を子孫にもつ広域八重山祖語と、宮古語とに分岐する。広域八重山祖語を定義づける共通改新としては、例えば「知る」を意味する動詞の可能を意味する助動詞への文法化、「芽」を表す特別の名詞、「うれしい」を意味する形容詞、などが挙げられる。これらは宮古語に観察されないので、広域八重山祖語に生じた改新と解釈できる。 

 

  平子他論文はこのように、ある時点で琉球祖語が北琉球祖語と南琉球祖語に分岐し、さらにその後、北琉球祖語が沖縄語と奄美語に、南琉球祖語が広域八重山祖語と宮古語に、広域八重山祖語が八重山語と与那国語にそれぞれ分岐したと主張する。

 

 しかし、平子他論文の分析はここまであり、そうした分岐がいつごろ起こったのか、何でそうした分岐が起こったのかについては解明は出来ていない。

 

 また、琉球祖語がいつごろから存在したどんな言語であったのか、についても解明は出来ていない。

 

 これらは、琉球列島の現状の言語の比較とそこからの内的再建による祖語の再建だけからは決して解明は出来ないものである。

 

2)琉球民族と琉球諸語の形成化経過

 

 崎谷満の「DNAでたどる日本人10万年の旅(昭和堂)」(以下「崎谷論文」という)は、琉球民族と琉球諸語の形成化経過について以下のようにいう。

 

 日本列島には北からアイヌ語、日本語、琉球語の三つの言語圈が存在する。
 

 琉球語圈については、沖縄県だけに留まらず、鹿児島県に編入されてしまった奄美諸島も琉球語圈に加えるのが一般的である。したがって琉球語圈には、北から奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島の四つの地域が含まれる。相互疎通性を欠く別言語としての琉球語諸語の分類にはいろいろな提案があるようであるが、ひとつの例として以下の分類が考えられる。


  I、北琉球語
     I、奄美語一奄美諸島
     2、北部沖縄語‥沖縄諸島北部
     3、中南部沖縄語‥沖縄諸島中南部
 

  Ⅱ、南琉球語
     4、宮古語‥宮古諸島
     5、八重山語‥八重山諸島

     6、与那国語‥与那国島

 

 琉球諸島は、本来琉球王国という別個の国家を形成し琉球語という固有言語の地域であったものであり、一八七九年の琉球処分による日本国への併合によって日本語圈が拡大したものである。


 これら日本列島諸言語にあって、琉球語と日本語とは同じ系統の言語、同じ言語族に所属するものであることがわかっている。

 

 音韻対応をみると、琉球語と日本語とは音韻対応が明確であり、共通祖語に由来する言語がお互いに変異することで現在の姿になったものであることがわかる。

 

 琉球語の「h」/[p]は現代関西語や西九州語の[h]と、また上代奈良語の[p]と対応する。琉球語の一部(北沖縄語、八重山語など)では古来の[p]を保持していることが想定できる。また上代奈良語の「əi」対「i」の対立が琉球語の一部で「ɨ」対「i」の対立として維持されている。琉球語と日本語との間にはこのように多くの音声対応が確認される。

 

 文法などの言語学的特徴(言語学的類型論)からみても、琉球語と日本語は以下のような共通性をもち同系統であることが理解できる一膠着語、従属部提示言語、対格言語、動詞に人称辞を欠く、動詞に単数複数の区別を欠く、名詞にも人称辞を欠く、不分離所有形を欠く、一人称複数は包括・除外の区別を欠く。

  

 日本列島中間部の日本語地域において、現実には複数の地域言語に分かれている。大まかな分類として、以下のようなものが挙げられる。


 ・九州語一西九州語、南九州語、北東部九州語
 ・西部日本語‥山陽山陰語、四国語、関西語、出雲語、北陸語、中京語
 ・東部日本語‥東海東山語、関東語、八丈島語、東北語


 この中で、九州語は三つの言語地域相互の言語学的差異が大きい。また西九州語の内部においても相互疎通性をとるのに苦労するほどの差異が認められる場合がある。一般に言語的差異が大きい地域は言語発祥の地とみなされ、日本語の成立において九州、とくに西九州の重要性が注目されている。

 

 琉球における先史時代は、日本列島中間部とはかなり異なる状況を示している。まず、北琉球の先史時代は約七〇〇〇年前から始まる貝塚文化に代表される。これに対して、南琉球には本質的に異なる先島先史文化が約四〇〇〇年前から興ってくる。そして、紀元後一一世紀~一二世紀ごろから共通するグスク時代へと移っていき、北琉球、南琉球を含む琉球諸島全体がひとつの文化圏へと統合されていった。その後、一四世紀から沖縄本島に三つの政治勢力が起こり対立した後、一四二九年に統一王朝へと移っていった。


 約六三〇〇年前の鬼界カルデラの噴火によって南九州の貝文文化が滅亡した後、北部九州の曾畑式土器などの縄文文化が南九州へ広がっていったが、その流れが一部北琉球まで及んだようである。しかし北琉球は本質的に縄文文化とは異なり、漁撈を中心とする独自の貝塚文化が続くことになった。


 この北琉球における先史時代人である貝塚文化人について、まだはっきりしたことがわからない。南方系と考えられるY染色体C1系統はその可能性が考えられるが、北琉球ではC1系統が四パーセント確認される。形質人類学の立場からも、この貝塚文化人は九州・四国・本州の縄人(つまりY染色体D2系統)とは異なることが指摘されている。もしそうであるならば、南九州では貝文文化を起こしたヒト集団が北琉球では貝塚文化を展開したことになるが、両者の文化的違いや時代の相違など、まだ不確実な点が残る。その他には、南方島嶼部に特徴的な他のC系統やM系統あるいはK系統などのヒト集団の可能性も排除できない。

 

 南琉球の先島先史文化人については、台湾やフィリピンなどのオーストロネシア系文化の影響下にあったことが推定されているので、Y染色O1系統もその可能性が高い。

 

 オーストロネシア系文化(01系統)が台湾に出現するのが約五五〇〇年前、フィリピンには約四五〇〇年前と推定されている。いずれも南琉球先史時代の開始よりも以前の出現であり、このオーストロネシア系文化の波及が台湾の北に隣接する南琉球にまで及んだことが推定される。

 

 ただし先島諸島におけるO1系統の分析がまだ行なわれていないので、現時点では推定するだけに留まっている。しかし現在でもオーストロネシア系文化が先島諸島に色濃く残っていることは、オーストロネシア系文化・ヒト集団の重要性を示しているものと思われる。

 

 また貝文文化人であるC1系統が先島先史文化にも関係していた可能性も同時に想定できる。


 なお貝文文化の消滅はこのオーストロネシア系集団が台湾へ移動するよりも以前の約六三〇〇年前なので、貝文文化人がオーストロネシア系であった可能性は非常に低い。


 このように北琉球においても南琉球においても琉球諸島の先史時代における先住民は、九州・四国・本州の縄文人であるD2系統集団とは異なる、C1系統およびO1系統の集団が想定される。

 

 このような状況はグスク時代の到来とともに完全に様変わりしてしまう。形質人類学からは、先史時代とは異なり、グスク時代の琉球諸島のヒト集団は日本列島中間部の集団とあまり相違しないという報告がなされている。このように先史時代とグスク時代とでは琉球諸島においてヒト集団の大きな交替が起きていることが形質人類学の立場から指摘されている。

 

 このことはDNA多型分析からも支持される。つまり北琉球において、先史時代のC1系統から、グスク時代以降のD2系統、02b系統、03系統へと、おもなヒト集団の交替があったことが推定される。


 琉球における先史時代とその後のグスク時代との間に、このようなヒト集団の交替が起きたのには理由がある。グスク時代において、西九州・長崎産の石鍋が北琉球および南琉球の全域で流通するようになり、加えて徳之島に亀焼窯が設置され、石鍋とともに亀焼が流通する経済圏が琉球諸島全体で形成されるようになった。この変化は、琉球内部の発展というよりも、九州からの人の流れが決定的な役割を果たしたことが推定される。

 

 それと同時に、先史時代の非琉球語から、九州よりもたらされた日本語系の琉球語への転換も同時に引き起こされた。その流れは北琉球に留まらず、南琉球を含む琉球諸島全域にまで及んだようである。このグスク時代の変動はこの地に農耕文化の開始をも引き起こした。


 このようなグスク時代の本質的な変化を考えると、まず、形質人類学から指摘されていたヒト集団の劇的な変化は、九州由来の縄文系(D2系統)、渡来系弥生人(長江文明起源の02b系統)、黄河文明起源の漢民族系統(03系統)のそれぞれに由来する複数のヒト集団が九州における比率で北琉球へ到達したことが推定される。

 

 琉球諸島へ到達した一一世紀ないし一二世紀には、縄文人としてではなく、九州系ヒト集団として移ってきた。この九州系ヒト集団が琉球語の成立に重要な役割を果たしている。


 琉球語諸方言は、本土の日本語諸方言のうちでは、音韻、文法、語彙の各方面からみて、九州方言にもっとも多くの類似点を見出す。このことから、琉球語が、いつとは確定しにくいにせよ、古い時代の九州方言から分岐したものであることは確実とみてよいであろう。

 

 琉球語諸語の形成における九州語の影響については、西九州語の動詞の変化の全般にわたるアスペクト形成辞であるyorおよびtorが、いずれも琉球語においても動詞の変化の全般に取り入れられていることからも推定される。そして、このyorは関西語にみられないことなどから、かっての中央語であった関西語が直接琉球語の形成に関わったとは考えにくい。

 

 むしろ、地理的にも近く、また考古学的記録によって証明される九州民族の南下によって、古代九州語が琉球語祖語の形成に関わったと考えるのがより蓋然性が高い。ただしその時期についてはまだ検討の余地がある。九州・四国・本州の古墳時代以降平安時代までに相当する北琉球の貝塚時代後期に、九州から琉球への言語の流入が細いながらもあったのかどうかが興味を惹かれる問題である。

 

 崎谷論文の指摘から、現代の琉球諸語は、紀元後一一世紀~一二世紀ごろに琉球列島のグスク時代を開始させた九州人の南下によって、当時の九州語が琉球列島に持ち込まれてきたことで形成されたものであると考えられる。

 

 そして、琉球列島の統一王権の形成が、一四世紀から沖縄本島に三つの政治勢力が起こり対立した後、一四二九年に統一王朝へと移っていき、その過程で八重山・宮古の実効支配が開始するという経過で行われたことも大きな要因として、九州語の影響の波及に時間と程度の差があり、先琉球諸語の残存の大きさの違いから、琉球諸語の方言が成立していったと考えられる。

 

 こうした歴史的な過程から、平子他論文による「琉球祖語」とは紀元後一一世紀~一二世紀ごろの九州語のことで、琉球祖語の諸方言への分岐とは、オーストロネシア諸語やその波及以前の琉球列島の基層語の、北琉球と南琉球、奄美大島と沖縄本島、八重山と宮古への残存状況の違いによる、九州語の波及状況と影響の違いに起因していたと考えられる。

 

 そうであれば、平子他論文による琉球諸語と上代日本語の比較とは、紀元後一一世紀~一二世紀ごろの九州語と紀元後八世紀ごろの上代日本語を比較することであると考えられる。

 

 紀元後一一世紀~一二世紀ごろの九州語に上代日本語の形成以前の言語の特徴が一定程度は残存していたとしても、その九州語は上代日本語よりは新しい言語であり、古い九州語よりも進化し、上代日本語やそれが進化した言語の影響もうけて変化した新しい九州語=「琉球祖語」と上代日本語との比較から、上代日本語とその新しい九州語=「琉球祖語」の共通祖語を再建しようとするということは、方法論的には限界・無理があると考えられる。

 

 また、琉球諸語の方言の形成の理由が、貝文文化人であるY染色体ハプログループC1の集団の言語やオーストロネシア語族であるY染色体ハプログループO1の言語の影響であったとするならば、それらの言語の影響の解明抜きに琉球諸語の方言の理解はできないと考えられる。

 

 これらの言語のうち、その内容が分かっているのはオーストロネシア語族の言語だけであるので、オーストロネシア諸語の琉球諸語及びその諸方言への影響を解明することは十分可能なことであり、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、その貴重な材料を提供している。