古代ローマの建国過程について(25) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「ファイト!   [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史体系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(10)タルクィニウス「傲慢王」の追放と古代ローマ「王政」の崩壊

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「2 都市国家の成立のエストルキ系王政(以下「平田論文」という)への批判の続きである。

 

(d)古代ローマの王政の崩壊と共和制への移行過程

 

 平田論文は、「タキトゥス[[歴史]三ー七二]とプリニウス[「博物誌」三四ー一三九]のごく短い史料から読み取れるように、ポルセンナはローマを征服・支配したのである」が、「その際彼はスペルブスを復位させることはなく、その後ローマの統治を息子のアルンスに委ねて帰国し、そしてアルンスは確実に前五〇四年に編年されるアリキアの戦いで敗れ、クルシウムのローマ占領軍はすべて撤収したのであ」り、「かくしてスペルブス王の追放(前五〇九年頃)からポルセンナのローマ占領・撤収(前五〇四年)にいたる動乱の時期をへて、二人コンスル制が確立したと考えられる」という。

 

 この、古代ローマの王政の崩壊と共和制への移行過程については、以前「古代ローマの建国過程について(17)」で以下のように述べた。

 

 ドミニク・ブリケルの「文庫 クセジュ エトルリア人(白水社)」(以下「ブリケル論文」という)によれば、古代ローマの王政の崩壊過程は、以下のとおりであったという。

 

 「六世紀終わりにキウージの王ポルセンナはおそらくはラティウムに覇権を打ち立てようとする意図から、当時ローマを治めていたタルクィニウス家を行きかかりに追放したが、彼の企ては早々と頓挫し」、「ポルセンナのローマ占領後その息子に率いられたエトルリア軍は、クーマエのアリストデーモスの救援を受けたラテン連合の軍隊によってアリキアで撃破された」のであった。

 

 「そのためポルセンナの企ては頓挫をきたし、南方への進出計画は捨てざるをえなかった」が、「アリキアの戦いに際してタルクィニウス家はラテン連合側に付いた」のであり、「また、ローマの伝承が何を語っているにせよ、ポルセソナが同家と同盟を結んだことはけっしてな」く、「タルクィニウス家を失墜させたのはポルセソナであり、それがローマの共和政樹立を可能にしたのである」

 

 ここから、おおむね以下のように考えられる。

 

 1)キウージの王ポルセンナによるローマの占領とタルクィニウス「傲慢王」の「追放」(紀元前509年)

 

 2)キウージの王ポルセンナによるローマの占領・支配

 

 3)クーマエのアリストデーモスの救援を受けたラテン同盟とタルクィニウス「傲慢王」の軍隊による、アリキアの戦いでのキウージの王ポルセンナの撃破(紀元前508年)

 

 4)古代ローマの共和政への移行(紀元前508年)

 

 5)キウージの王ポルセンナと共和政ローマの「和平」の成立とローマからのキウージの王ポルセンナの撤退(紀元前508年)

 

 6)共和政ローマがラテン同盟とタルクィニウス「傲慢王」の軍隊と戦い勝利する(紀元前499年:レギッルス湖畔の戦い)

 

 おそらく、1)の経過は、タルクィニウス「傲慢王」が、実質的な「僭主」となって独裁的権力を掌握し、エトルリアからの自立傾向を示し始めたために、当時のエトルリアで覇権を握っていたキウージの王ポルセンナが、古代ローマに介入したというものだったと考えられる。

 

 そして、2)の経過は、ローマを占領したキウージの王ポルセンナが、タルクィニウス「傲慢王」が「追放」されて、権力の空白が生じた古代ローマを一時期直接支配したのだったと考えられる。

 

 そして、3)から5)までの経過は、ラテン同盟の連合軍にキウージの王ポルセンナが敗北したすきに、古代ローマの大貴族層がエトルリアから離反して、エトルリアからの「独立戦争」を戦うとともに、タルクィニウス「傲慢王」の復帰を阻止して共和政を樹立したということであったのだと考えられる。

 

 おそらく、キウージの王ポルセンナの敗北と同時に、古代ローマの大貴族層に指揮されたローマ市民によるエトルリアの占領軍に対する武装闘争が展開され、それを指導した人たちが指導者となって共和政ローマが誕生したのだと考えられる。

 

 そして、6)は、有力な都市となってラテン同盟に大きな影響力を行使するようになった古代ローマが、ラテン同盟を支配するようになること警戒したラテン同盟の諸都市が、王政から共和政に移行した古代ローマは、エトルリアから独立したことでエトルリアからの支援を得れずに「弱体化」すると考えて、この機に古代ローマを押さえつけておこうとして、共和政ローマと戦ったのだったと考えられる。

 

 このように、古代ローマの王政から共和政への移行は、エトルリアの「属国」であった古代ローマが「宗主国」のエトルリアから「独立」したという側面を持っていたのである。

 

 しかし、後世の古代ローマの歴史家たちは、そうした「史実」を隠ぺいするために、この過程を、共和政の樹立はタルクィニウス「傲慢王」の一族の不祥事に起因し、エトルリアやラテン同盟との戦争はタルクィニウス「傲慢王」の復位への執念に由来するというように、タルクィニウス「傲慢王」の個人的な動機によって引き起こされたものであったと矮小化して語ったのであった。

 

 また、史実の時系列を操作して、キウージの王ポルセンナはローマの一部を占領したが、古代ローマを支配したわけではなかったのだったと粉飾したのだった。

 

 「古代ローマの建国過程について(17)」ではこのように述べたが、平田論文はクルシウムの王ポルセンナによる古代ローマの支配は認めるが、、古代ローマの建国神話に依拠して、タルクィニウス「傲慢王」の追放は古代ローマの大貴族層による共和政の樹立によるものであり、ポルセンナによる介入は共和政樹立後のことであったったと主張している。

 

 こうした平田論文の主張は、古代ローマがエトルリアが王を派遣することで建国した属国であって、古代ローマの支配権をめぐってエトルリアの有力都市の間で争いが行われてきたという経過の無理解から、エトルリアの影響を過小評価したもので、かつ、タルクィニウス「傲慢王」が実質的な「僭主」であったことによって大貴族層や平民層の反発を招いていたことも無視したもので、結局は、全てがタルクィニウス「傲慢王」の個人的な動機によって引き起こされたものであったとする、共和政初期に流布された古代ローマの建国神話での伝承を無批判的に受け入れるものであって、従えない。

 

 なお、平田論文は、「ポルセンナのこの支配こそ<そしてこれだけが>ローマにおける正真正銘の「エトルスキ王政」といえる」というが、これまで述べてきたように、古代ローマの王政期の王の支配は、正真正銘の「エトルスキ王政」であったと考えられる。

 

(e)古代ローマの基本矛盾は王と大貴族層の間にありエトルリア人による「異民族支配」は存在しなかった

 

 平田論文は、「エトルスキ系王政の崩壊により迫放されたのは、スベルブス王の一族だけであって、ローマ在住のエトルスキ人全員ではな」く、「その後数十年間のコンスル名簿にエトルスキ系の氏族名が記載されており、ローマにはまだエトルスキ人が在住していた」ので、「ラテン民族が「エトルスキ王政」を打倒してエトルスキ民族をローマから一掃したのではない」という。

 

 しかし、古代ローマの王政の崩壊と共和制への移行過程が、「古代ローマの建国過程について(17)」で述べたようなものであったとすれば、「その後数十年間のコンスル名簿にエトルスキ系の氏族名が記載されており、ローマにはまだエトルスキ人が在住していた」理由は、おそらく以下のようなものであったと考えられる。

 

 タルクィニウス「傲慢王」はエトルリアの有力都市タルクィーニアの支援を受けていたので、彼の時代に古代ローマにいたエトルリア人は、タルクィーニアの系列のエトルリア人であったはずであり、エトルリアの有力都市キウージの王ポルセンナによる古代ローマの占領と支配には、古代ローマにいたエトルリア人は、タルクィーニアとキウージとの対抗関係から、ポルセンナによる支配に抵抗したのだと考えられる。

 

 そして、タルクィニウス「傲慢王」が実質的な「僭主」であったならば、彼の時代に古代ローマにいたエトルリア人も彼の強権支配に対して反発し抵抗していてたはずなので、ラテン人やサビ二人とともにエトルリア人も共和政を支持したものと考えられる。

 

 その結果、共和政を支持したエトルリア人の大貴族は、エトルリア系の古代ローマの大貴族となっていったので、「その後数十年間のコンスル名簿にエトルスキ系の氏族名が記載されており、ローマにはまだエトルスキ人が在住していた」ということになったのだと考えられる。

 

 つまり、古代ローマがエトルリア人の王によって、エリトリアの有力都市属国として建国されたということと、エトルリア人総体が古代ローマを異民族支配したということは別のことであり、古代ローマが王政から共和制に移行する過程での基本矛盾は、エトルリアから自立し、専制支配に傾斜していく王政と、発展・成長しつつある大貴族層との矛盾であったと考えられる。

 

 そうであれば、当然、そこには「異民族支配」などは存在する余地はなかった後考えられる。 

 

(11)実質的な「僭主」となったタルクィニウス「傲慢王」の専制支配の排除という側面とエトルリアの支配からの独立戦争という側面の存在

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、安井萌執筆の「3 初期ラティウムとローマの起源(以下「安井論文」という)は、ローマ共和政の成立について、以下のようにいう。

 

 前六世紀末のある年、一般的な編年によれば前五〇九年のこと、ローマで一大政変が起こった。長年この地をおさめたエトルスキ系の王タルクィニウス・スペルブスが突如失脚し、国外へと亡命したのである。(このときに)民衆を巻き込むなんらかの騒乱があったというのは、おそらく史実とみなしてよいであろう。

 

 ところで、従来の理解では、この騒乱は一面においてラテン人住民によるエトルスキ支配からの解放運動でもあったとされる。近年の研究はしかしこうした理解に疑問を投げかけている。なるほど王自身はエトルスキ系であったにしても、その統治は、エトルスキの集団が現地民の上に君臨しこれを支配するといった、いわゆる異民族支配の類ではなかった。またローマ人がエトルスキ全体に敵意をもち、その人や文化を排斥しようとしたという形跡も見当たらない。政変の背後に民族的な対抗関係を見て取るのは、近代人の先入見だといえよう。

 

 ともあれ、タルクィニウスの追放はローマ史上重要な転換点となるできごとであった。人びとはただ気に入らない王を廃したばかりではなく、こののち王をいただくこと自体をやめた。そして、代わって任期付きの政務官が中心となり国家運営を担う体制を導入した。ここに建国以来続いたローマの王政は幕を閉じ、単独支配者なき体制、共和政の時代が開始したのである。

 

(a)エリトリアの有力都市国家の属国であった古代ローマ

 

 古代ローマは、エリトリアとの交易のために移住してきた、ラテン人、サビニ人、エトルリア人の集落群が、エトルリアの有力都市国家のっ支援を受けたエトルリア人の王によって包括されて、エトルリアの属国として建国された都市国家であった。

 

 エトルリア人の王によって古代ローマの都市建設が行われ、そうした都市建設によって、古代ローマのエトルリアやラティウムなどとの交易も活発化し、それらっが発展することで、古代ローマには、ラテン人、サビニ人、エトルリア人の夫々の、広大な土地開発を行う大貴族層が形成されていったと考えられる。

 

 そうであれば、エトルリア人の王政は、ラテン人、サビニ人、エトルリア人の夫々にとって、共通にいいことであったはずであり、安井論文が指摘するように、エトルリア人の王「の統治は、エトルスキの集団が現地民の上に君臨しこれを支配するといった、いわゆる異民族支配の類ではなかった」ということも当然のことである。

 

 そして、それを前提とすれば、安井論文が指摘するように、「ローマ人がエトルスキ全体に敵意をもち、その人や文化を排斥しようとしたという形跡も見当たらない」のもまた当然のことである。

 

 しかし、これまで見てきたように、古代ローマがエリトリアの有力都市国家の属国であったことは事実であったので、古代ローマが王政から共和政に移行する過程には、キウージの王ポルセンナによる支配を排除していくということに象徴されるような、エトルリアの支配からの独立戦争という側面が存在したことも事実であったと考えられる。

 

 このように、古代ローマが王政から共和政に移行する過程には、実質的な「僭主」となったタルクィニウス「傲慢王」の専制支配の排除という側面とともに、エトルリアの支配からの独立戦争という側面が存在したのであるが、平田論文や安井論文がこれらの側面を認識できないのは、古代ローマがエトルリアの有力都市の属国として、エトルリア人の王によって建国されたという事実を理解できないからアであると考えられる。

 

(b)王政位から共和制への移行の理由、その必然性を理解できない安井論文

 

 安井論文は、「前六世紀末のある年、一般的な編年によれば前五〇九年のこと、ローマで一大政変が起こ」り、「長年この地をおさめたエトルスキ系の王タルクィニウス・スペルブスが突如失脚し、国外へと亡命した」が、「民衆を巻き込むなんらかの騒乱があったというのは、おそらく史実とみなしてよい」という。

 

 安井論文は、続けて、「人びとはただ気に入らない王を廃したばかりではなく、こののち王をいただくこと自体をやめ」、「代わって任期付きの政務官が中心となり国家運営を担う体制を導入した」というが、彼らがなぜそういう選択をしたのかという理由もその必然性も説明してはいない、

 

 安井論文は、「タルクィニウスの追放はローマ史上重要な転換点となるできごとであった」というが、それは、「ここに建国以来続いたローマの王政は幕を閉じ、単独支配者なき体制、共和政の時代が開始したのである」というだけの、いわば現象面のことに終わっている。

 

 これまで見てきたように、エトルリア人の王による王政の開始と古代ローマの建国、そして都市建設と周辺への影響力の拡大は、古代ローマの繁栄をもたらすと共に、その過程で大きく成長した、ラテン人、サビニ人、エリトリア人の大貴族層の利権と、専制化を志向する王の権力との矛盾を拡大し、最終的には、古代ローマの支配権をめぐるエリトリアの有力都市の間での争いによって、実質的な「僭主」となって専制化した王が打倒、追放されるたのを契機とする、平民を味方につけた大貴族層の対エトルリア独立戦争によって古代ローマの共和政が誕生したのである。

 

 しかし安井論文は、古代ローマが王政から共和政に移行したことを、「人びとはただ気に入らない王を廃した」としか語らず、何故、人々はエトルリア人の王が「気に入らな」かったのかという理由を語ろうとはしない。

 

 古代ローマの人々がエトルリア人の王が「気に入らな」かったのは、彼が実質的な「僭主」となって専制化したことであった。

 

 そして、彼がエトルリアの有力都市によって古代ローマの王位に就いて専制化したことや別のエトルリアの有力都市によって古代ローマの王位から追われたことを見てきた人々は、こうしたことを繰り返さないためには、エトルリア人の王を拒否して、自分たちの代表による共和制での統治を選択したのだったと考えられる。 

 

 さらに、彼が専制化したのは、彼がエトルリアの有力都市の「支配」から自立しようとしたからであったのだとすれば、エトルリアからの独立だけではなく、王政の廃止も不可欠であったはずであった。

 

 つまり、古代ローマが王政から共和政に移行する過程は、海外ドラマ「アウトランダー」が描写しているような、植民地アメリカが宗主国イギリスから独立する過程と類似していたと考えられる。

 

 こうした検討を踏まえれば、安井論文の主張は、結局は、一連の過程が、タルクィニウス「傲慢王」の個人的な動機によって引き起こされたものであったという理解に繋がろもの、あるいは、そうした理解を完全には排除できないものであり、実質的には、古代ローマの建国神話の無批判的な受容に帰結しかねないものであると考えられる。