古代ローマの建国過程について(26) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「誕生 [Live]」を聞いている。

 

 古代ローマの建国過程の議論とは直接かかわらないが、松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」の、松本宜郎分担執筆の「第一章 先史時代からイタリア諸民族の興隆まで」で、古代ローマの建国の前後のイタリア半島の民族配置やエリトリア人の言語や民族について、比較的まとまって述べられているので、以下検討していきたい。

 

 なお、松本論文では、こうした古代のイタリア半島の民族配置ン形成過程についての言及は殆どないので、それについては、松本論文の検討後に論述したい。

 

 なお、古代ローマの建国の前後のイタリア半島の民族配置については、以前「古代ローマの建国過程について(5)」で検討したので、関心がある方は参照願いたい。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、松本宜郎分担執筆の「第一章 先史時代からイタリア諸民族の興隆まで」のうち、松本宜郎執筆の「2 イタリアの諸民族とその言語(以下「松本論文」という)は、古代ローマの建国の前後のイタリア半島の民族配置について、以下のようにいう。

 

(1)古代のイタリアの民族配置

 

 単一民族が単一言語を話すギリシア世界と違って、イタリアはさまざまな民族がそれぞれ固有の言語を話す世界だった。すなわち北イタリアにはウェネティ人、ラエティ人、リグレス人が定住し、ケルト人(ガリー人)が進出していた。

 

 中央イタリアではウンブリア地方を中心にウンブリ人、その南にはアッペンニーノ山脈沿いにオスキ人(サベリ人)が居住していた。エトルリア地方はエトルスキ人の本拠地であり、彼らはここから北はポー川流域、南はカンパーニア地方にまで進出した。ラティウム地方にはラテン人(ラティー二人)が定住し、アドリア海側中央部にはピケー二人が住んでいた。一方、南イタリアにはルカー二人やメッサピ人がおり、またサルデーニャにはサルド人シチリアにはシクリ人とシガー二人が暮していた。さらに半島南部とシチリア東部の沿岸地帯にはギリシア人が植民し、シチリア西部とサルデーニャの沿岸地帯にはフェニキア人とカルタゴ人が商業基地や植民市を築いていたのである。

 

 松本論文は古代イタリアの民族配置をこのように概括するが、これらの民族のうち、エトルリアのエトルスキ人、サルデーニャのサルド人、そしておそらくシチリアのシクリ人は、インド・ヨーロッパ語族以外の民族であり、インド・ヨーロッパ語族も、イタリア半島への移住の新旧と、イタリア半島への移住方向の違いから、幾つかの集団に分けられると考えられる。

 

 さらに、インド・ヨーロッパ語族のイタリア半島への移住の前にイタリア半島に移住してきた民族の移住経過は、現生人類の初期拡散以降の移動の何派にも渡るヨーロッパに波及した波に係るものであったと考えられる。

 

 こうした、古代のイタリア半島の諸民族がイタリア半島に移住・拡散していった経過については、松本論文による古代のイタリア半島の諸民族の配置の検討の後に、論述する。

 

(2)サベリ人の諸グループ

 

 松本論文はサベリ人の諸グループについて以下のようにいう。

 

 他のイタリック語派の話者と同様にサベリ人は、「ウェル・サクルム」(「聖なる春」)という制度を固持した。これは異常事態が発生した年に、翌年の春に生まれたものすべて(動植物と人間)を神に捧げることを約束する制度である。ただし人間の場合、嬰児は殺さず成人したのちに外地に移住させる。その際動物のトーテム(狼、牛など)が道案内すると信じられた。

 

 サベリ人は言語により三つのクループに大別され、各グループは複数の種族に分けられる。彼らのアルファペットは種族によって異なる。たいていはギリシア文字かエトルスキ文字を使ったが、これらの文字から独自に編み出した文字もあり、またラテン文字を使う種族もいた。文章は左から右に、あるいは右から左に書かれた。

 

(a)ウンブリ人

 

 サベリ人の第一のグループであるウンブリ人は、彼らの民族名に由来する現在のウンブリア州よりも広い範囲に住んでいたが、エトルスキ人、ガリー人、サムニテス人に押されて居住地を狭めた。彼らの拠点はイグウィウム(現グッビオ)、ナルニア、トゥデル(現トーディ)などである。彼らは前七~前六世紀の銘文を若干残したが、その最大の記念碑「イグウィウムの青銅板」は前二世紀の宗教文書である。この本来のウンブリ人に対し、前五〇〇年頃マルシ人、アエクィ(アエクイクリ)人、ウォルスキ人がウンブリアからそれぞれローマの北東、東、南東に移動して定住した。これらの種族が残した数十点の碑銘文はほとんど前四世紀末以降のものである。アエクィ人とウォルスキ人は前五世紀初頭からラティウムに出没した。そこで彼らに対抗するため、ローマは前四九三年頃ラテン人と攻守同盟を結んだ。

     

(b)南ピケー二人

 

 サベリ人の第二のグループである南ピケー二人は、アドリア海のピケーヌム地方の南部を本拠地としたが、彼らの碑銘文はボローニャなどでも出土している。そのなかで歴史的な見地から極めて重要なのは、サビーナ地方の主都クレース近くで発見された碑文(前五世紀)である。というのは、ローマニ代目の王、サビニ系のヌマ・ポンピリウスの出身地と伝えられるグレース地方でオスコ・ウンブリ語と同系の南ピケーニ語(サビニ方言)が話されていたことが、その碑文によって実証され(サビ二人はピケーヌム地方から「聖なる春」の制度に基づきローマ方面に向かったと推定される)、また碑文中に記されたtoutaihという単語がオスキ語碑文中に頻出するtuvtiks、toutoなどと同じ「市民共同体」という意味に解され、グレースは古くから独立の共同体だった可能性が高いからである。しかもラテン語の単語bos「牛」やlupus「狼」はサビニ方言からの借用語と考えられ、両者が古くから接触していたことを示唆している。この第二のグループには、サムニテス以前のサベリ語(「前サムニテス語」)を話していた人びとも含まれ、その碑銘文はカンパーニア(カプアやノラなど)だけでなくラティウムでも発見されている。

 

 松本論文はこのようにいう。

 

 松本論文は、「ピケー二人は、アドリア海のピケーヌム地方の南部を本拠地としたが、彼らの碑銘文はボローニャなどでも出土して」おり、ボローニャに近いイタリア西北部の「サビーナ地方の主都クレース近くで発見された碑文(前五世紀)」によれば、「グレース地方でオスコ・ウンブリ語と同系の南ピケーニ語(サビニ方言)が話されていた」という。

 

 以前「古代ローマの建国過程について(5)」では、南ピケーニ人を含む東部イタリキ語族=オスク・ウンブリア語群は、先住のラテン人を含む西部イタリキ語族=ラテン・ファリスク語群が広がっていたイタリア半島に後から、おそらくドナウ川流域のハンガリー平原付近からイタリア半島中部のアドリア海沿岸を南下して広がっていたと推定した。

 

 そうであれば、ボローニャやサビーナ地方のグレースの南ピケーニ語(サビニ方言)の存在は、イタリア半島を南下した東部イタリキ語族の痕跡がボローニャへのエリトリア人の進出の後まで残存したものであったと考えられる。

 

 ローマニ代目の王、サビニ系のヌマ・ポンピリウスは虚構の存在であったが、彼の名が、古代ローマにラテン人と共に定住していたサビニ人の神の名に由来したものであるなら、古代ローマのサビニ人たちの遠い記憶の中に、彼らがボローニャやサビーナ地方のグレースからはるばる移住してきたという伝承が存在したのだと考えられる。

 

 なお、おそらく、サビーナ地方の「サビーナ」はサビニ人の「サビニ」に由来するもので、サビニ人がアドリア海のピケーヌム地方の南部を本拠地としてピケー二人となる以前に、サビーナ地方がサビニ人の拠点であった時代があり、そこのグレースの名は古代ローマの時代まで伝承されていったのだと考えられる。

 

 そして、その記憶と伝承から、グレース地方がサビニ系のヌマ・ポンピリウスの出身地と伝えられたのだと考えられる。
 

(c)オスキ人

 

 サペリ人の第三のグループであるオスキ人は、南イタリア一帯に住んでおり、多くの種族に分けられる。そのうち最人の種族はサムニテス人である。彼らはもともと中央アッペンニーノ山脈のサムニウム地方に住む遊牧民であり、城塞を構えたが、都市を築いて定住することはなかった。それぞれ独立した四ないし五の部族国家を形成し、戦時にはこれらが軍事同盟を結んだ。サムニテス人は前五世紀半ばからカンパーニア地方に南下を始め、その過程でエトルスキの都市国家カプアやポンペイなどを、さらにギリシア植民市キューメー(ラテン名クマエ)などを占領・支配し、これらの都市でもオスキ語が使われるようになった。前四世紀後半に彼らは、カンパーニアに重大な関心をもつようになったローマと対立し、三度にわたる戦争をおこない、最終的に敗れた。一〇〇点を超える彼らの碑銘文史料により、オスキ語が前一世紀にいたるまで使用されており、この間サムニテス人が各地でmeddis(ラテン語でmeddix)と呼ばれる最高政務官に統治される共和政国家を建てていたことが判明する。

 

 サムニテス人につぐ種族はコルフィニウムやスルモなどを拠点としたパエリグ二人である。彼らの貨幣に刻印されたvitelliuという名称は、彼らの居住地「イタリア」を表示する(のちにイタリア全体をあらわすことになる)が、もともとは「若い雄牛の地」を意味した。このほかにもマルキ二人やウェスティ二人、フレンタ二人、ラリナテス人、ダウ二人、さらにヒルピ二人、ヘルニキ人、シディキ二人がいた。これらのうちアナグニアを中心地としたヘルニキ人は、最初に(前四八三年)ローマと同盟を結んだオスキ人として知られる。オスキ語はルカーニア地方やブルッテイウム地方でも用いられた。ルカー二人はギリシアの影響で民族意識に目覚め、前五世紀中頃にペテリアを首都として連合を結成し(その一派ブルッティ人は分離して自立した)、ギリシア植民市トゥリオイを攻撃した。前四世紀にはギリシア植民市ポセイドニアを支配下におき、以後この都市はパイストム(ラテン名パエストウム)と呼ばれるようになった。シチリア北東端の都市国家メッサーナ(現メッシーナ)はもともとギリシア植民市だったが、前三世紀前半にカンパーニア出身の慵兵隊がこの都市国家を占領し、それ以来ここでもオスキ語が用いられた。

 

(f)サペリ系諸種族の言語

 

 これらのイタリア諸民族の言語は、エトルリア語とフェニキア語・カルタゴ語(ポエニ語)を除き、ほとんどすべてがインド・ヨーロッパ語族に属し、ケルト語とギリシア語以外はたいていはイタリック語派に分類されている。イタリック語派の言語を話す諸民族をもっとも広い意味で「イタリキ」と称するが、ローマ人を含むラテン人は通例イタリキには含めない(ラテン語とイタリック語は別個の語派をなしているという説もある)。もっとも狭い意味でのイタリキとはオスキ人とウンブリ人を指し、彼らの言語は一括してオスコ・ウンブリ語と称されてきた。しかし近年この言語グループに南ピケーニ語が加えられ、H・リックスはこの三つの言語群を一括して「サベリ語」と呼んでいる(以下この呼称を用いる)。

 

 松本論文はこのようにいう。

 

 松本論文は、南ピケー二人を含む、第二のグループには、サムニテス以前のサベリ語(「前サムニテス語」)を話していた人びとも含まれ、その碑銘文はカンパーニア(カプアやノラなど)だけでなくラティウムでも発見されている、といい、サベリ人の第一のグループであるウンブリ人は、彼らの民族名に由来する現在のウンブリア州よりも広い範囲に住んでいたが、エトルスキ人、ガリー人、サムニテス人に押されて居住地を狭めたという。

 

 松本論文はまた、中央アッペンニーノ山脈のサムニウム地方に住む遊牧民のサムニテス人は、前五世紀半ばからカンパーニア地方に南下を始め、その過程でエトルスキの都市国家カプアやポンペイなどを、さらにギリシア植民市キューメー(ラテン名クマエ)などを占領・支配し、これらの都市でもオスキ語が使われるようになった、という。

 

 松本論文はまた、前五〇〇年頃マルシ人、アエクィ(アエクイクリ)人、ウォルスキ人がウンブリアからそれぞれローマの北東、東、南東に移動して定住し、アエクィ人とウォルスキ人は前五世紀初頭からラティウムに出没したので、彼らに対抗するため、ローマは前四九三年頃ラテン人と攻守同盟を結んだ、という。

 

 松本論文はまた、オスキ語はルカーニア地方やブルッテイウム地方でも用いられ、ルカー二人はギリシアの影響で民族意識に目覚め、前五世紀中頃にペテリアを首都として連合を結成し(その一派ブルッティ人は分離して自立した)、ギリシア植民市トゥリオイを攻撃し、前四世紀にはギリシア植民市ポセイドニアを支配下におき、以後この都市はパイストム(ラテン名パエストウム)と呼ばれるようになった、という。

 

 そうすると、東部イタリキ語族=オスク・ウンブリア語群のイタリア半島に移住・拡散は、ボローニャから中央アッペンニーノ山脈の東側、アドロア海沿岸を南下した人々が、その手移住先で、南イタリアのオスキ人、中部イタリア南部の南ピケー二人、中部イタリア北部のウンブリ人に分岐し、その後、オスキ人が南イタリアからシチリア島の一部に拡大し、ウンブリ人がラティウムに、南ピケー二人がカンパーニアに南下していき、彼らの中から都市国家を形成するものも出現した、という経過であったと考えられる。

 

 そして、こうした経過から、部族を形成して遊牧生活を送っていたイタリキ語族の人たちがやがて定住し、それまでの部族を基盤にして都市国家を建設し、同じ民族御都市国家で部族同盟、都市国家連合を形成していくという流れは、古代ローマやエトルリアに固有のものではなく、イタリア半島に移住してきた部族に共通する傾向であったことが分かる。

 

 また、そうした都市国家が、王政として出発するのではなく、共和政として出発しているのは、部族共同体の伝統の強固さを示すものであるとともに、古代ローマが王政の都市国家として建国されたのはおそらく例外だったのであり、それはエトルリアの強い影響力があったためであったと考えられる。エトルリアの強い影響力がなければ、雑多な出自の人達の集落群であった古代ローマは、独自の都市国家にならなかったか、あるいは、当初からラテン人とサビニ人の共和政の都市国家として建設されていたのかもしれない。

 

(3)メッサピ人、ウェネテイ人、リグレス人、レポンテイ人

 

 以上のサペリ系諸種族のほかにイタリアにはラテン語にもギリシア語にも属さないインド・ヨーロッパ語系の言語を話す民族がいた。アドリア海の東南沿岸に広がるプーリア地方は、古代にはヤピュギアと呼ばれ、ダウニア、ペウケテイア、メッサピアに分かれており、一括してメッサピアと呼ばれることもあった。彼らメッサピ人の言語はイリュリア語と関係があるとみられている。

 

 アドリア海の奥に位置するウエネテイア(ヴェーネト州)にはこの名の起源となったウェネテイ人がおり、青銅製のバケツを特徴とする独自のエステ文化を発展させた。彼らの言語もイリュリア語に近いと考えられている。

 

 半島北西部にはリグレス人やレポンテイ人がいたが、彼らの言語はケルト系である。

 

 松本論文はこのようにいう。

 

 これらの諸民族のイタリア半島への移住過程について、「古代ローマの建国過程について(5)」では以下のように述べた。

 

 非インド・ヨーロッパ語族が分布していたイタリア半島に、まず、現在のアルバニア付近からアドリア海を渡って西部イタリキ語族がイタリア半島南部から中部に広がり、

 

 それとほぼ同時期に、アドリア海北部のクロアチアやスロヴェニア付近からウエネティ語族が西進してイタリア半島東北部に広がり、

 

 その後、東部イタリキ語族が、おそらくドナウ川流域のハンガリー平原付近からイタリア半島中部のアドリア海沿岸を南下して広がり、

 

 彼らに追われた西部イタリキ語族のシケニ人は、イタリア中部からイタリア半島を南下してシチリア島東部に渡り、

 

 最後に、アルバニア付近からメッサビー語族がアドリア海を渡ってイタリア半島南部のアドリア海沿岸に広がった

 

というように考えることもできる。

 

 さらにその後、ギリシャ人がイタリア半島南部とシチリア島に植民都市を建設して先住の西部イタリキ語族やメッサビー語族を沿岸部から内陸部に追いやったのである。 

 

 こうした移住過程であったとすれば、イタリア半島へのインド・ヨーロッパ語族の移動は、北東のアルプスやドナウ川方面から南下する方向と北西のフランス方面から南下する方向と、南のバルカン半島からアドリア海を渡って西進する方向と、バルカン半島の中間地点からアドリア海を渡って、イタリア半島中南部に拡散する方向の、おおむね四つの方向があったと考えられる。

 

 そうした多方面からの移住と、移住してきた人達の累積が、イタリアの文化の発展をもたらしてきたのだが、朝鮮半島や日本列島についても同様な傾向があったと考えられる。

 

(4)ガリー人

 

 ローマ人がガリー人と呼んだケルト系の諸種族は、すでに前六〇〇年前後からポー川平野に侵入し始めていた。インスブレス人は前五世紀にミラーノを建てた。そのラテン名「メディオラーヌム」はケルト語に由来し、「中央の平地」を意味する。トリーノもこの地方に住んでいたケルト系のダウリー二人の名前にちなんで名づけられた。他方ボイ人はポー川平野のエトルスキ人の中心都市ボローニャを占領した。エトルリア語でフェルシナと呼ばれたその都市はボノーニアと呼ばれるようになった。前三九〇年頃ガリー人は南下し、アリア川河畔の戦いでローマ軍を粉砕し、ローマ市を占領した。その後撃退されたものの、彼らの影響は例えばラテン語carrus「二輪馬車」(英語のa「の語源」やSE「車輪」(英語のrotaryの語源)などに痕跡をとどめている。

 

 松本論文のこうした指摘によれば、ケルト系ガリー人のイタリア半島への移住は前六〇〇年前後以降のことで、イタリキ語族のイタリア半島への移住時期に比較すると、新しい時期のことであったと考えられる。

 

 なお、ラテン語carrus「二輪馬車」(英語のa「の語源」やSE「車輪」(英語のrotaryの語源)などがガリー人の言語の影響だとしたら、ガリー人は二輪馬車の戦車を持っていたと考えられるが、そうした戦車はインド・ヨーロッパ語族が共通に持っていたものでもあったが、その戦闘力は、定住していたラテン人よりも民族移動してきた集団であったあったガリー人の方が上回っていたので、二輪馬車の戦車については、ラテン人の言語がガリー人の言語の影響を受けたのだったと考えられる。

 

(5)シチリアの諸民族

 

 一方シチリアには、ギリシア人の植民以前から西方にシガー二人とエリミ人が、東方にシクリ人がいた。

 

 シクリ人(Sikeli)はシチリア(ギリシア語Sikeliaのラテン語Sicilia)の語源となった。また古代の注釈によればシクリ語のregesはラテン語のreX「王」に相当するので、シクリ語はラテン語に近い言語と考定されている。前五世紀前半、シクリ人の長ドゥケティオスは軍隊を編制・指揮してシラクサ(シラクーザ)に協力し、シクリ諸都市の連合化を促進してシクリ国を創建した。前四五〇年頃彼は領土拡大を企てて、アクラガス(ラテン名アグリゲントゥム、現アグリジェント)を攻撃したが、彼の台頭を恐れて、またギリシア人同士の連帯感からシラクサが救援に駆けづけた。ドゥケティオスは敗れてコリントに亡命した。五年後シチリアに戻り都市建設を計画したが断念し、こうしてシクリ人の国家形成の試みは水泡に帰した。

 

 他方エリミ人はトロイアからの移民と伝えられるが確証はない。またシガー二人はインド・ヨーロッパ語ではない古い言語を話したと推定されている。

 

 松本論文はこのようにいう。

 

(a)シガー二人

 

 古代のシチリア島には、東部にエミリ人、中部にシガー二人、西部にシクリ人が住んでいたが、シガー二人が非インド・ヨーロッパ語族であったとすると、おそらく、エトルリア人やサルド人と同じ語族に属していたのだと考えられる。

 

(b)エリミ人

 

 エリミ人はトロイアからの移民と伝えられるが、インド・ヨーロッパ語族に属しており、イタリア半島西北部の地中海沿岸のリグリアから移住してきたという説もあるので、おそらく、ラテン語などの西部イタリキ語族=ラテン・ファリスキ語群と同じような言語集団に属していたと考えられる。西部イタリキ語族=ラテン・ファリスキ語群は東部イタリキ語族=オスク・ウンブリア語群がイタリア半島に移住・拡散する以前にイタリア半島の南部に移住し、南部から、おそらく中央アッペンニーノ山脈の東側、地中海沿岸を北上してイタリア半島に拡散したものだったと考えられる。

 

 そうであれば、イタリア半島西北部の地中海沿岸のリグリアから移住してきたという説が、古代リグリア語とシチリアのエリミ語との共通性に基づいているとすれば、その共通性は、西部イタリキ語族=ラテン・ファリスキ語群とエミリ語の共通祖語に起源するもので、その共通祖語が北上して古代リグリア語となり、カンパーニアではファリスキ語となり、ラティウムではラテン語となり、シチリアではエリミ語となったという経過が考えられる。

 

 なお、イタリア半島西北部のウェネティ語と古代リグリア語との類似性は、古代リグリア語が西部イタリキ語族=ラテン・ファリスキ語群とエミリ語の共通祖語に起源するものであったとすれば、おそらく、隣接していたことで言語の借用などによって類似してきたことによるものであったと考えられる。

 

 また、エリミ語とシガー二語の類似性は、エミリ人とシガー二人との接触が長期にわたったことによる、言語の借用などによって類似してきたことによるものであったと考えられる。

 

(b)シケル人

 

 シケル人はメサピア人と同族で、アドリア海の東岸にいた先住の非インド・ヨーロッパ語族(ティレニア人)を征服したイリュリア人に起源し、イリュリアからアドリア海を渡海してイタリア半島南部に移住し、その後、イタリア半島を北上して拡散し、シチリア島にも移住してその東部に定住したと考えられる。

 

 ツキディディス(紀元前460年頃 - 紀元前395年)や他の古典作家は、シケル人がかつてはイタリア半島中央部、東部、さらにはローマより北部にも住んでいたと記述している。

 

 シケル人は、その後サビニ人に圧迫され、最終的にシケリアに渡ってきたというが、おそらく、当初からシチリア島に移住してきていたのであって、そこにイタリア半島本土からサビニ人に追われたシケル人が流入したのだと考えられる。

 

 なお、松本論文は、シケル語はラテン語に近い言語と考定されているというが、その類似性が、シケル語のregesはラテン語のreX「王」に相当するということを根拠としているのなら、その類似性はおそらく、イタリキ語族の祖語に起源するものであるか、または、ラテン語などの西部イタリキ語族=ラテン・ファリスキ語群もアドリア海の東岸からアドリア海を渡海してイタリア半島の移住してきた人たちだった、つまり、ラテン人も遠くはイリュリア人に起源するものであったことによるものであったと考えられる。

 

 そうではなかったとすれば、その類似性は、ラテン人とシケル人の接触による借用に起源するものであったと考えられる。