古代ローマの建国過程について(24) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「昔から雨が降ってくる  [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史体系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(10)タルクィニウス「傲慢王」の追放と古代ローマ「王政」の崩壊

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「2 都市国家の成立のエストルキ系王政(以下「平田論文」という)は、タルクィニウス「傲慢王」の追放と古代ローマ「王政」の崩壊について、以下のようにいう。

 

 タルクィニウス・スペルブス王はタルクィニウス・プリスクス王の息子あるいは孫と伝えられるが、正確なことはわからない。しかし彼は確実にタルクィニウス氏の出身であり、したがってエトルスキ系ローマ市民だった。征服ではなく簒奪によって王位に就いたスペルブスは、セルウィウス王の保持していた王権をそのまま継承したが、おそらくただちに人民を召集して即位を宣言し、彼らの了承ないし黙認によって権力を合法化した。スペルブス王の治世にローマでエトルリア語も話されていたことは疑問の余地がないが、重要な制度をあらわす用語(rex、curia、tribus、imperium、centuria、classis)はラテン語でしか伝わっていない(ただしpopulus「国民」やurbs「都市」はエトルリア語からの借用語だという説もある)。

 

 スペルブス王の事績はプリスクス王のそれとかさなる部分があるが、悪い政策はすべてスペルブスに帰され、悪王のイメージが定着した。すべての政策を元老院に諮問せず独断専行で決定し、反対する元老院議員を追放あるいは処刑して財産を没収し、人民を強制労働に駆り出し、衛兵に身辺を警護させ、略奪戦争をおこなって富を増やしたと報じられている。これらの行動は、彼がおかれた歴史的状況を顧慮すれば、たんに悪王のイメージで図式化されたものとは断定できないであろう。絶対権力を確立したセルウィウス王が自重してそれを公益のためだけに行使したのとは対照的に、簒奪者であるスベルブス王がその絶対権力を公私の別なく濫用したのは、むしろ自然のなりゆきだった。これら三人の王の王政はいずれも「エトルスキ系ローマ王政」と規定できるが、その具体的な内実はかなり異なっていたのである。

 

 スペルブス王は市民軍を率いて近隣のラテン共同体を侵略し、あるいは策略によって掌中におさめた。こうしてローマはラティウムの覇者として君臨し、その領域ないし勢力圏は八〇〇平方キロを超えた。反対勢力は容赦なく弾圧され、「最善・最大のユピテル」神殿の建立のために当然のこととして市民が動員された。しかし彼の権力には重大な弱点があった。それは市民の武装を解除し、代わりに常備軍として大勢の傭兵を長期間雇用するだけの資力が欠如していたことである。彼にできたのは、せいぜい身辺警護の衛兵を配備することだった。最初のうちこそスペルブス王の領土拡大政策や経済発展政策に賛同し協力していたローマ市民が、しだいに彼の強圧的政治に不平不満をいだくようになったとしても不思議ではない。

 

 そのようなときに王子が不祥事を起こした、と伝承は報じている。市民も激怒し、ただちに軍隊を編成しアルデアに向かった。これを知ったスペルブス王はローマに向かった。しかしローマの城門は固く閉ざされていて、彼は亡命をよぎなくされた。こうしてスペルブスの王政は崩壊し、その後ブルートゥスとコラティヌスがコンスルに選ばれ、共和政が始まった(前五〇九年頃)。

 

 以上の伝承の真偽についても諸説が乱立しているが、その中核部分は史実と認定できる根拠がある。王追放後ただちに二人のコンスルが選ばれたという伝承は前一世紀末に編纂されたコンスル名簿に基づいているので、そこに記載された最初期のコンスルの実在性を疑問視する研究者も少なくない。しかしながら、登場人物のうちスベルブスはもちろんのこと、ブルートゥスとコラティヌスも実在したと考定される。というのも、コラティヌスはコンスルに就任したもの の、追放された王と同じタルクィニウス氏に属するとして引退を強制されたと伝えられ、事実その後タルクィニウス氏は主要な官職には就いておらず一族の政治的失脚は疑いない。一方ブルートゥスの氏族であるユニウス氏は共和政初期には有力な氏族ではなかったので、初代のコンスルとして捏造される必然性はない。したがって彼ら二人が専制化したスペルブスの王政に対してクーデタを敢行し、王の暴政に対し不平不満が鬱積していた市民が彼らに同調し、二人を指導者として革命を推進し王政を廃止した、と考えられるからである。スペルブスの依存する軍隊が市民兵であった限り、市民の離反・蜂起は王にとって致命的だった。

 

 ところで、スベルブス王が建立した「最善・最大のユピテル」神殿の奉献はほぼ確実に前五〇七年に編年され、本来なら神殿を建立した王自身が奉納したはずである。しかるに奉献者はコンスルのホラティウスだったが、そのとき釘打ちの儀式を一人の最高司令官(プラエトル・マクシムス)がおこなったと、リウィウスは伝えている。この記事から、前五〇七年にスペルブスはすでにローマ王ではなかったことと、この時点で最高政務官は一人だったことが帰結される。

 

 またスペルブスは追放されたのちエトルリアのクルシウムの王ポルセンナに、自分をローマ王座に復帰させてほしいと頼み込み、それに応じてポルセンナは大軍を率いてローマを包囲したが、結局攻略できず帰還した、と古代の著作家たちは報じている。

 

 ところがじつは、タキトゥス[[歴史]三ー七二]とプリニウス[「博物誌」三四ー一三九]のごく短い史料から読み取れるように、ポルセンナはローマを征服・支配したのである(彼のこの支配こそくそしてこれだけが〉ローマにおける正真正銘の「エトルスキ王政」といえる)。その際彼はスペルブスを復位させることはなく、その後ローマの統治を息子のアルンスに委ねて帰国し、そしてアルンスは確実に前五〇四年に編年されるアリキアの戦いで敗れ、クルシウムのローマ占領軍はすべて撤収したのである。かくしてスペルブス王の追放(前五〇九年頃)からポルセンナのローマ占領・撤収(前五〇四年)にいたる動乱の時期をへて、二人コンスル制が確立したと考えられるのである。

 

 なおエトルスキ系王政の崩壊により迫放されたのは、スベルブス王の一族だけであって、ローマ在住のエトルスキ人全員ではなかった。その後数十年間のコンスル名簿にエトルスキ系の氏族名が記載されており、ローマにはまだエトルスキ人が在住していた。ラテン民族が「エトルスキ王政」を打倒してエトルスキ民族をローマから一掃したのではない。

 

(a)ウエイからタルクイーニアへの擁立権力の交代によるセルウィウス・トゥリウスからタルクィニウス・スペルブスへの移行

 

 平田論文は、タルクィニウス・スペルブス王は「確実にタルクィニウス氏の出身であり、したがってエトルスキ系ローマ市民だった」というが、タルクィニウス・スペルブス王がセルウィウス・トゥリウス王の次代の王であったとしても、セルウィウス・トゥリウス王を擁立したのはエリトリアの都市国家のウエイであり、タルクィニウス・スペルブス王がタルクィニウス氏の出身であったとすれば、タルクィニウス・スペルブス王を擁立したのはエリトリアの都市国家のタルクイーニアであったので、セルウィウス・トゥリウス王からタルクィニウス・スペルブス王への権力の移動は、おそらく、タルクイーニアの軍事力の介入によるものであり、そうであるならば、それは平和裏に行われた「簒奪」ではなく、軍事力によって行われた、実質上の「征服」であったと考えられる。

 

 平田論文は、「スペルブス王の治世にローマでエトルリア語も話されていたことは疑問の余地がない」というが、そもそも古代ローマの建国と王政の開始は、エトルリアによって、王を擁立することで、交易拠点に属国を建設するために行われたものであり、そこではおそらくエトルリア語が公用語であったと考えられる。

 

 平田論文は、「重要な制度をあらわす用語(rex、curia、tribus、imperium、centuria、classis)はラテン語でしか伝わっていない(ただしpopulus「国民」やurbs「都市」はエトルリア語からの借用語だという説もある)」というが、そもそもこうした重要な制度は、エトルリアの制度を模倣したものであり、そうであるならば、おそらく、「重要な制度をあらわす用語」は、「ラテン語でしか伝わっていない」のは、その元となったエトルリア語が失われてしまって伝わっていないからであり、それらのラテン語は、その元となったエトルリア語から誕生したのであったと考えられる。

 

(b)古代ローマの実質上の「僭主」であったスベルブス「傲慢王」

 

 平田論文は、「絶対権力を確立したセルウィウス王が自重してそれを公益のためだけに行使したのとは対照的に、簒奪者であるスベルブス王がその絶対権力を公私の別なく濫用したのは、むしろ自然のなりゆきだった」というが、その「自然のなりゆき」について、以降の論述んどこでも説明してはいない。

 

 これでは、スベルブス王がその絶対権力を公私の別なく濫用したのが何故だったのか、それが個人的な資質とかではなく、「彼がおかれた歴史的状況」によるものであったということの具体的な中身は全く分からないままである。

 

 なぜ、スベルブス王が「傲慢王」と呼ばれたのかについては、以前「古代ローマの建国過程について(16)」で、以下のように述べた。

 

 タルクィニウス「傲慢王」が古代ローマの王であったころには、他の国々でも独裁政権が誕生していたが、彼らは、王として権力を握ったのではなく、王ではない身分であったが、没落しつつある貴族層の動揺する貴族制を「延命」するために、勃興しつつあった平民層の支持を得て、独裁的な権力を掌握したので「僭主」と呼ばれていた。

 

 こうした「僭主」の登場は、地中海世界の中で最も早く発展していた古代ギリシャでは、紀元前八~七世紀の貴族制ポリスの時代の後の紀元前六世紀に登場した。

 

 「岩波講座世界歴史1古代1(岩波書店)」の「地中海世界Ⅰ」の「3 貴族制の発展と僭主制の出現」所収の清水昭次の「国政転換のダイナミズム」(以下「清水論文」は、アテネにおけるにおける貴族制の発展と僭主の出現過程について、おおむね以下のようにいう。

 

 重装歩兵となって王の軍事力の中核を担った貴族層は、奴隷労働による広大な土地の開発とそこで得られた農産物などの交易によって、王の権力に勝利して貴族政を実現し、都市の権力を握ったが、地中海交易の発展による商工業者などの平民の経済的な成長と、密集陣形の採用によって、彼らなどの「平民」が重装歩兵の中核となったことで、その地位と権力を、平民から脅かされることとなった。

 

 こうした状況下で、平民層の不満であった、貴族層が恣意的に裁判を行うこと防止するために「立法者」が「成文法」を作る動きや、貴族層と平民層の闘争を「調停者」によって調停しようとする動きがおこったが、それでも多くの場合、問題は解決せずに、貴族層と平民層の闘争が続くことになった。

 

 「貴族が立法者や調停者を立てることを考えないか、立法者・調停者の活動が問題を解決しえなかった場合には、貴族と平民の党争が続くよりほかはなかった」が、「多くの有力なポリスでは、その経過中にこの党争がとつぜん一時中断され、貴族收が廃棄されて一人支配が樹立されるという異常事態が起」こり、「それを遂行したのが僭主であった」


 「僭主は、前七世紀後半から前二世紀までの長い期間にわたって現われたが、たまたま僭主の出現をみなかった前四六一~四〇五年を境にして、前期僭主と後期僭主に分けられる」

 

 「前期僭主(以下たんに僭主と呼ぶ)は、ほとんどすべて貴族出身であ」り、「前七世紀末のミレトスのトラシュブーロスは、もっとも重要な官職であったプリュタニスの地位を利用して僭主にな」り、「アテナイのペイシストラトスは、メガラからニサイアを奪うという戦功で名を挙げ前五六一年ごろに第一回僭主政を樹立した」ので、「僭主になったのは、貴族の中でも、ポリスの要職につくとか、ポリスのために顕著な貢献をするとかいった有能な者たちであった」
 
 「僭主が頼ったいっそう重要な勢力は、同じポリス内の平民であ」り、「僭主の大多数は民衆指導者の出であった」


 「僭主は下層農民の経済的地位の改善に努力した」

 

 「ペロポネソス戦争の前後のアッティカには、中小土地所有が広汎に存在していたが、それは主として、ペイシストラトスが、亡命したり死んだりした貴族の土地を没収して、少なくともその一部を下層農民に分配したことに由来すると考えられる」


 「また僭主の中には、活発な建築・土木活動を行なった者も少なくなかった」が、「僭主のこうした活動が、中小商工業者に仕事の機会を与えたことは疑いない」


 「貧困農民や中小商工業者の経済的地位を向上させるための、僭主の政策の窮極の狙いは、これらの農民や商工業者に経済上の満足を与えて、その支持をつなぎとめ、独裁政維持の支えとすることにあった」が、「僭主があくまで独裁政を貫徹しようとするかぎり、政権参与の要求を持つ中流以上の平民を満足させることは、結局不可能であった」

 

 「僭主は、やはり独裁政を守りとおすことができなかった」

 

 「僭主政の成立とともに国外に亡命した貴族は、つねに僭主政打倒の機会を狙って」おり、「また中流以上の平民のあいだには、隠然たる不満が広がってい」て、「僭主から恩恵を受け、初めは僭主を支持していた広汎な下層平民も、中流平民の階層に上昇することによって同じ不満を抱くようになった」ので、「彼らは、ついにはポリスを構成する全階層の大多数の成員の支持を失い、ポリスの中で真に孤立した独裁者になった」が、「じっさいに僭主政を倒したのはしばしば外国の力であ」った。

 

 「僭主政打倒直後の」「多くのポリスではまず寡頭收が成立した」

 

 清水論文のこうした指摘から、貴族層の経済的、軍事的力の低下と平民層の経済的、軍事的力の増大、そして貧困農民の大量発生と社会の不安定化という状況下で、貧困農民の人気を取り、平民層の経済的な地位を向上させ、ある貴族が敵対する貴族層との闘争に勝利して独裁政権を樹立したのが「僭主政」であったと考えられる。

 

 そして、こうした「僭主政」は、僭主自身が貴族であったこともあって、貧困農民や平民層の問題を根本的に解決することができず、国内の混乱と外国の介入によって打倒され、平民層の要求を受け入れる形で、有力貴族による「寡頭政」が確立していったのだと考えられる。 

 

 清水論文が指摘しているような、これらの「僭主」たちが、その権力の掌握過程で、まず行ったことは、それまでの貴族制の否定であったが、タルクィニウス「傲慢王」が行ったことは、古代ローマの建国神話では、タルクイニウス・プリスクスが行ったとされていることであったとすると、「平民」や「二級の氏族」から新しい代表を一〇〇人任命し、元老院の定員を増加させたのはタルクィニウス「傲慢王」であり、自分の意に沿う人たちを元老院のメンバーに多数送り込んだことで初めて、タルクィニウス「傲慢王」が、元老院の承認がなくても死刑を宣告できる権利をみずからにあたえ、政敵の排除と、土地と財産の没収に乗りだすことができたのだと考えられる。

 

 この、「平民」や「二級の氏族」から新しい代表を一〇〇人任命し、元老院の定員を増加させたということは、「平民」や「二級の氏族」の支持を得て貴族層の権力を制限したことであり、その結果、タルクィニウス「傲慢王」は「ローマを意のままに支配する」独裁権力を樹立するこであるが、ここでタルクィニウス「傲慢王」が行ったことは「僭主」たちが行ったこととよく似ているのである。

 

 また、タルクィニウス「傲慢王」と古代ギリシャの「僭主」たちは、「活発な建築・土木活動を行なった」ことも共通しているし、彼らの独裁権力が「国内の混乱と外国の介入によって打倒され、平民層の要求を受け入れる形で、有力貴族による「寡頭政」が確立していった」という、政治過程も共通しているのである。

 

 こうしたことから、タルクィニウス「傲慢王」の独裁権力は、他の国々の「僭主」の独裁権力と同じようなものであったと考えられるので、その支配者の出自ではなく、その支配者の権力の本質からその支配者の名を付けるとすれば、タルクィニウス「傲慢王」は古代ローマの実質的な、事実上の「僭主」であったということができる。

 

 また、タルクィニウス「傲慢王」が彼の家族の不祥事で「追放」されたという伝承に何らかの背景があったとすれば、それは、彼の権力が独裁権力であり、かつ彼が事実上の「僭主」であったために、古代ギリシャの「僭主」たちと同じように、「ついにはポリスを構成する全階層の大多数の成員の支持を失い、ポリスの中で真に孤立した独裁者になった」からであったと考えられる。

 

 こうした「古代ローマの建国過程について(16)」から、タルクィニウス「傲慢王」は古代ローマの実質的な「僭主」であったと考えられる。平田論文は、「最初のうちこそスペルブス王の領土拡大政策や経済発展政策に賛同し協力していたローマ市民が、しだいに彼の強圧的政治に不平不満をいだくようになった」というのは、古代ギリシャの都市国家で、「中流以上の平民のあいだには、隠然たる不満が広がってい」て、「僭主から恩恵を受け、初めは僭主を支持していた広汎な下層平民も、中流平民の階層に上昇することによって同じ不満を抱くようになった」ので、「彼らは、ついにはポリスを構成する全階層の大多数の成員の支持を失い、ポリスの中で真に孤立した独裁者になった」という経過と同じ事態が聖来たことを示しているものであった。

 

 なお、平田論文は、スペルブス王の権力について、「彼の権力には重大な弱点があった。それは市民の武装を解除し、代わりに常備軍として大勢の傭兵を長期間雇用するだけの資力が欠如していたこと」であったというが、仮に「常備軍として大勢の傭兵を長期間雇用するだけの資力」があったとしても、スペルブス王が「ついにはポリスを構成する全階層の大多数の成員の支持を失い、ポリスの中で真に孤立した独裁者になった」のであれば、その権力は維持できるわけではなかったと考えられる。

 

 平田論文の主張は、表面的、かつ些末的なもので、スペルブス王の権力の本質規定を欠いた無内容な主張であると考えられる。

 

(c)ブルートゥスとコラティヌスが実在した根拠は薄い

 

 平田論文が指摘するように、「タキトゥス[[歴史]三ー七二]とプリニウス[「博物誌」三四ー一三九]のごく短い史料から読み取れるように、ポルセンナはローマを征服・支配したのであ」り、古代ローマの共和政は、エトルリアの都市国家キウージの王ポルセンナの支配からの独立闘争の結果として勝ち取られたものであり、「王追放後ただちに二人のコンスルが選ばれたという伝承」は、エトルリアからの独立闘争の過程を隠ぺいした伝承であって、この伝承のブルートゥスとコラティヌスの二人のコンスルの実在性は薄いと考えられる。

 

 平田論文は、「コラティヌスはコンスルに就任したもの の、追放された王と同じタルクィニウス氏に属するとして引退を強制された」という伝承は史実を反映していると主張するが、おそらくこの伝承は、エトルリアからの独立に伴うエトルリア人の貴族層の政治的な没落を説明するために語られたものであり、そのまま史実ではなかったと考えられる。

 

 平田論文はまた、「ブルートゥスの氏族であるユニウス氏は共和政初期には有力な氏族ではなかったので、初代のコンスルとして捏造される必然性はない」と主張するが、初代のコンスルの一人ブルートゥスの実在性については、以前「古代ローマの建国過程について(16)」で、以下のように述べた。

 

 フィリップ・マティザックの「古代ローマ歴代誌―7人の王と共和政期の指導者たち(創元社)」(以下「マティザック論文」という)が、共和制で初めて選出された「一年制の二人の政務官」のひとりのブルートゥスの「生涯は謎に包まれたものであった」といっている。

 

 おそらく、ユリウス・カエサルから「ブルートゥス、お前もか!」と言われたブルートゥスの先祖にあたるとされている、このブルートゥスも虚構の存在なのであって、もしかしたら、後世に、ユリウス・カエサルとブルートゥスの逸話から構想された人物であったのかもしれない。

 

 平田論文は、「ブルートゥスの氏族であるユニウス氏は共和政初期には有力な氏族ではなかった」ことを初代のコンスルの一人ブルートゥスの実在性の根拠とするが、当時はそうであっても、その後、「ブルートゥス、お前もか!」と言われたブルートゥスが有力な大貴族となっていたのであれば、ユニウス氏が政治的に発展する過程で、彼らの祖先のブルートゥスが初代のコンスルの一人とされたことは十分ありうることだと考えられる。