古代ローマの建国過程について(23) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「ボディ・トーク   [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史体系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(9)セルウィウス・トゥリウスの改革

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「2 都市国家の成立のエストルキ系王政(以下「平田論文」という)は、セルウィウスの改革について、以下のようにいう。

 

 この王の出自については古代の史料自体が対立している。リウィウスやディオニュシオスはともに、セルウィウスはラテン女性(奴隷か王妃か)の子どもで、タルクィニウスの王宮で育てられた、と述べている。

 

 これに対し、エトルリア史の研究者だった第四代ローマ皇帝クラウディウスは碑文に刻まれた彼の演説のなかでつぎのように言明している。セルウィウス・トゥリウスはエトルリアではマスタルナと呼ばれ、もともとエトルスキの軍隊長カエレス・ウィペンナのもっとも忠実な戦友であったが、のちに自分の軍隊を率いてローマのカエリウス丘を占領した、と。またヴルチの「フランソワの墓」の壁画(前四世紀後半)には、一方が他方を救出している二人の男が描かれ、おのおのの脇にエトルリア語でmacstrnaおよびcaile vipinasと書かれていて、この二つの名前はそれぞれラテン名MastarnaとCaeles Vibennaに相当する。

 

 以上のようにローマ側の伝承とエトルスキ側の史料は相反するが、後者のほうが事実を伝えていると判定される。というのは、リウィウスやディオニュシオスは往々にしてローマに不利な事柄を隠蔽ないし改竄する傾向かあり、セルウィウスの場合も彼の軍隊によるローマ征服という厳然たる事実を隠蔽するため、彼をラテン女性の子どもでタルクィニウスの王宮で育てられたというように改竄した、と推定できるからである。

 

 エトルリア出身の武将マスタルナは、プリスクス王横死後のローマの混乱に乗じてこの都市を征服し、ローマ風にセルウィウス・トゥリウスと改名し、征服王としてローマを支配する包括的絶対権力を掌握し、しかもこの権力をクリア会で市民に了承させて合法化した(前五七八年頃)。

 

 権力の象徴としてエトルリアからファスケス(鞭を束ねてあいたに斧を差し込んだ束桿)などを導入したのも、おそらくセルウィウスであろう。このような絶対権力を保持していたからこそ、彼は抜本的な制度改革を断行し、ローマを本格的な統一的都市国家に発展させることができたのである。

 

 セルウィウス王はまずローマ市を新たに四つの都市トリブスに分けたと伝えられるが、これは課税と徴兵をおこなうために不可欠の行政単位だった。しかも新設のトリブスはクリアとは異なり、血縁や氏族の繋がりとは関係なく市民の 現住地にだけ基づく「地区」であり、設置の目的は既成の氏族制的な人的関係を排除することだった。そのうえで彼はケントゥリア制を導入し、成人男子市民を資産に応じて五つのクラッシス「等級」と計一九三のケントゥリア「百人組、百人隊」に分けたと伝えられる。

 

 この制度は民会としても利用され、各ケントゥリアは一票の投票権をもつ。したがって票数は計一九三となる。

 

 市民をこのように厳密に区画する制度が、セルウイウス王の治世(前六世紀中頃)に成立していたかどうかについて、伝承を全面的に認める説からすべて否定する説まで諸説紛々である。

 

 セルウィウスが創設したと伝えられるケントゥリア制は、一九三の票数のうち過半数は騎士と第一等級が握り、市民の半数を占めると推定される最下層のプロレタリーはわずか一票しかもたず、最富裕者に絶対有利な民会組織にほかならない。しかし絶対権力者たる王に必要だったのは、最富裕者に絶対有利な投票によって国政を決定するケントゥリア民会ではなく、重装歩兵としての基本的な武器(兜、楯、槍)を自弁できる平民層だった。このような投票制度はその資産額などから判断して、間違いなく前三世紀前半に運用されていたケントゥリア民会の投票制度であり、これがそのまま三〇〇年前のセルウィウス時代に遡る制度とみなされたと考えるべきである。

 

 彼が実際に創設したケントゥリア制はそのような複雑な民会組織ではなく、軍隊を編成するための単純な制度であった。すなわち成人男子市民は重装歩兵としての武器を自弁できるかどうかに応じて、クラッシス(もともとは「召集軍」という意味で、したがって重装歩兵のことである)とインフラ・クラッセム「クラッシスより下」(軽装小兵ないし予備兵)とに二分され、召集軍はケントゥリア「百人隊」に編成された。

 

 市民の財産を査定するためセルウィウス王はケンスス(「戸口調査」)をおこない、当時の人口は八万、八万三〇〇〇などと伝えられる。しかし実際の人口は同時代のエトルリアの大都市国家並の二万五〇〇〇くらいと推算される。「クラッシス」のケントゥリア数は三〇程度、したがって兵員数は(各ケントゥリアの人数を一〇〇人とすれば)三〇〇〇人程度と見積もられる。王は平民に土地を分与し、新来の外人をローマ市民として新しいクリアに編入し、彼らの支持を得た。

 

 クリアの増加にともないクリア民会は拡大されて存続し、王の決定を了承した。クリアの長たちの会議には新たにメンバーが加わり王の諮問機関(元老院)になった。

 

 セルウィウス王はティベリス川河畔の「牛の広場」に神殿を建てるなどして、この広場を対外交易の拠点とし、またローマ都市を城壁で取り囲んだと伝えられる。

 

 このような国制確立と都市施設の整備により、彼は統一的な都市国家体制を完成し、ローマをラティウム随一の強国に成長させたのである。王が創設したトリブス制やケントゥリア制は共和政時代に受け継がれ、しだいに拡大されながら国制の基盤となった。また彼が行使した包括的な絶対的命令権「インペリウム」も、共和政国家の最高権力としてコンスル(執政官)に相続された。

 

 しかし伝承によれば、セルウィウス王の最後は悲惨だった。王の娘が夫のタルクィニウス(のちにスペルブス「傲慢な、横柄な」と綽名された)と共謀し、スペルブスが老齢のセルウィウスを強引に玉座から引きずり落とし、逃げて道に倒れた王を娘が二輪馬車で引き殺したという(前五三四年頃)。

 

 この話の真偽のほどは確定できないが、少なくとも宮廷内で権力争いが生じ、クーデタによって王権が簒奪された可能性は否定できない。

 

(a)セルウィウス・トゥリウスの出自

 

 平田論文が指摘するように、ヴルチの「フランソワの墓」の壁画の内容から、第四代ローマ皇帝クラウディウスの演説でのセルウィウス・トゥリウスの出自の話は事実であったと考えられる。

 

 以前「古代ローマの建国過程について(12)」では、セルウィウス・トゥリウスの出自について、以下の様に述べた。

 

 「5代目のタルクイニウス・プリスクスはエトルリアのタルクイーニアから来たという伝承があり、ウルキにある「フランソアの墓」の壁画に書かれたウルキ出身の「マスタルナ」は、古代ローマのクラウディウス帝によれば6代目のセルウイス・トゥリウスであるというので、彼はウルキ出身であったという伝承があったと考えられる」

 

 「なお、この「フランソアの墓」の壁画に書かれているのは、ウルキ出身のカエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナと「マスタルナ」たちが、ウォルシニ出身のラレス・パパタナスやローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利する場面である」

 

 「このカエリウス兄弟の話は、古代ローマのクラウディウス帝だけでなく、後世の何人かの作家も取り上げているが、そこでは、セルウイス・トゥリウスは、残ったカエリウス軍の残党とともに(ローマの)カエリウスの丘を占領し、(カエリウスの丘という名はこのときついたものだ)、改名し(エトルリア名はマスタルナ)て、「セルウィウス・トゥリウス」となって、王位を奪取した」とか、カエリウス・ウイウェンナの弟のアウルス・ウィウェンナも古代ローマの王となったとか言われている、という」

 

 「古代ローマの第6代王とされるウルキ出身のセルウイス・トゥリウスが、同第5代王のタルクイーニア出身のルキウス・タルクイニウス・プリスクスの暗殺の後、王位についたという伝承は、おそらく、古代ローマの従属先がタルクイーニアからウルキに代わったこと、つまり古代ローマの塩の交易の利権が、タルクイーニアからウルキに移動したこと示すものであり、ルキウス・タルクイニウス・プリスクスからセルウイス・トゥリウスへの変化の過程では、セルウイス・トゥリウスとともにローマのタルクィヌスと戦ったとされるカエリウスが古代ローマのカエリウスの丘を占拠したように、タルクイーニアとウルキの間で軍事力を含む権力闘争が行われたのだと考えられる」

 

 「セルウイス・トゥリウスはローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利したのだとすれば、このグナエウス・タルクィニウスは、今日では名前が伝わっていないタルクイーニア出身の王であったと考えられる」

 

 こうした「古代ローマの建国過程について(12)」での指摘から、古代ローマの王政期のエトルリア人の王には、カエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナやグナエウス・タルクィニウスのように、古代ローマの建国神話には登場していない王が存在していたと考えられる。

 

 そして、タルクイニウス・プリスクス、グナエウス・タルクィニウス、タルクイニウス「傲慢王」がエリトリアの有力都市国家のタルクイーニアの出身で、カエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナ、セルウイス・トゥリウスが同じくエリトリアの有力都市のウルキの出身で、タルクイニウス「傲慢王」が追放された後で古代ローマを占領したのが エトルリアの有力都市のキウージの王のポルセンナであったことから、古代ローマの王政期の王の変遷は、それらの王を擁立したその時々のエトルリアの有力都市の変遷でもあったと考えられる。

 

 セルウイス・トゥリウスは、カエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナとともに、出身地の都市国家ウルキの支配層の支援を受けて、おそらく武力で古代ローマを占領し、グナエウス・タルクィニウス王を打倒して都市国家タルクイーニアの支配を一掃し、カエリウス兄弟の後で古代ローマの王となったのだと考えられる。

 

(b)セルウィウス・トゥリウスの改革

 

 現在残る古代ローマの市壁の基礎にある市壁を建設したのはセルウィウス・トゥリウスであったと考えられるが、彼が「ローマ市を新たに四つの都市トリブスに分けた」のは、古代ローマの都市の範囲を確定しようとしたためであり、プリスクス・タルクイニウスとされる古代ローマの「王政期」の初代王が設定した三つのトリプスを四つに拡張したのは、「王政期」の開始以降に古代ローマに移住・流入してきた人たちが当初の三つの丘以外の丘にも拡散していたことを背景としたものであったと考えられる。

 

 セルウィウスが創設したと伝えられるケントゥリア制は、従来の部族共同体に基づく血縁関係や出身都市による結合を前提とした集落群の「クリア」ではなく、所属「クリア」に係わらず、武器を自弁できる市民をケンスス(「戸口調査」)によって地域ごとに把握して、重装歩兵の密集方陣隊に組織しようとしたものであったと考えられる。

 

 こうした「戸口調査」には、その対象となる都市の範囲の確定が不可欠になる。

 

 セルウィウスが古代ローマに市壁を建設したのは、おそらくはこの「戸口調査」のために、その対象となる古代ローマの範囲を確定させるためであり、その最終的な目的は、重装歩兵の密集方陣の組織であったと考えられる。

 

(c)セルウィウス・トゥリウスの包括的な絶対的命令権「インペリウム」の帰結

 

 平田論文は、セルウィウス・トゥリウスは包括的な絶対的命令権「インペリウム」を行使したというが、彼がこうせざるをえなかったのは、彼の改革が、それまでのクリアの支配層であったサビニ人やラテン人、エリトリア人の集落群の長老層、つまり元老院に結集する「大貴族層」の利権を奪い、彼らの影響力の下にあったり彼らに支配されていた「平民」たちを、重装歩兵の密集方陣への組織という形で王が直接支配しようとしたからであった、と考えられる。

 

 彼がこうしたいわゆる強硬策に出たのは、彼の王政が、それまでのタルクイーニアの影響下の王政からウルキの影響下の王政に変わったので、これまでタルクイーニアの影響下にあったサビニ人やラテン人、エリトリア人の集落群の長老層と彼らを支持する大貴族層や商人層の権力を削減しようとしたからでもあった。

 

 そのために、大貴族層や商人層の権力の源泉であった、彼らが私的に所有する軍事力、つまる傭兵の私兵の影響力を削減し、武器を私弁できる独立自営農民層を組織して、古代ローマ王が直接掌握できる軍事力を確保しようとしたのだ、と考えられる。

 

 なお、セルウィウス・トゥリウスは包括的な絶対的命令権「インペリウム」も、その行使には元老院の承認が必要だったはずで、それがあるので彼は、元老院に自分の味方の新たなメンバーを加えることで、おそらく元老院をコントロールしようとしたのだと考えられる。

  

 古代ローマの建国神話では、セルウィウス王が悲惨な最後を迎えたとされているが、これは、セルウィウス王の支配が古代ローマの大貴族層の反発を買い、そこにタルクイーニアが介入することで、ウルキからタルクイーニアに古代ローマの王を擁立するエトルリアの有力都市が変わったこと、それがおそらく暴力的な介入であったことを隠ぺいするために語られたものであったと考えられる。

 

 平田論文のが指摘するように「少なくとも宮廷内で権力争いが生じ、クーデタによって王権が簒奪された可能性は否定できない」のは事実であるが、そうした「宮廷内の権力争い」が何で生起したのか、とか、なぜクーデタによって王権が簒奪されたのか、ということについては、平田論文は説明不足である。

 

 セルウィウス王が悲惨な最後を迎えたという物語が語られた理由は、歴代の古代ローマの王がエリトリアの有力都市が擁立した王であり、王の支配の強化がラテン人やサビニ人の大貴族層との対立を生んだことによるものであったと考えられる。

 

 なお、こうしたそれまでの王と、王政の下で発展してきた大貴族層の利害の対立とそれを契機にした王政から大貴族による共和制への移行は、古代ローマの王政期と同時代のエトルリアの都市国家でも普通に起こっていたことであった。

 

 そして、この、王権と大貴族層との対立こそ、タルクイニウス「傲慢王」の追放によって王政ローマを崩壊させ共和制ローマを誕生させた古代ローマの基本矛盾であり、タルクイニウス「傲慢王」の追放の後にエトルリアの有力都市のキウージの王のポルセンナの支配を阻止して、元老院に結集した大貴族層による共和政を実現したということは、タルクイニウス「傲慢王」の追放以降の経過は、エリトリアの「属国」であった古代ローマがエリトリアの支配から独立する過程でもあったのだと考えられる。

 

 つまり、古代ローマの王政から共和制への移行とは、大貴族層による王政の打倒闘争という側面とエトルリアの属国からの古代ローマの独立戦争という側面の、二つの意味を持ったものであったと考えられる。

 

 古代ローマの建国神話は、おそらく共和政の開始期に語られ始めたもので、その目的は、ラテン人とサビニ人の集落群の「族長期」の古代ローマが都市国家として建国されたのは、その時々の襟問あの有力都市国家を背景にした、エリトリア人の王によるエリトリアの「属国」としてであったということを隠ぺいするためであったと考えられる。

 

 西條勉が「古事記」の読解について指摘しているように、その伝承が何を語るために、誰によって語られたのか、ということの理解抜きに、その伝承に隠された真実の物語を見出すことなどできはしないのであり、古代ローマの建国神話の読解もその例外ではないのである。