古代ローマの建国過程について(22) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「EAST ASIA  [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史体系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(8)タルクィニウス・プリスクス王の登場と「王政期」の開始

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「2 都市国家の成立のエストルキ系王政(以下「平田論文」という)は、タルクィニウス・プリスクス王の登場と「王政期」の開始について、以下のようにいう。

 

 前六世紀にローマにエトルリア出身の王がいたことは、ローマ市内で出土した同世紀の銘文(ラテン語rex「王」とエトルスキ語人名〈silqetenas spurianasなど〉)により疑う余地はない。タルクィニウス・プリスクス王について問題となるのは、彼の出身都市、事績、王政・王権の性格である。

 

 タルクィニはエトルリア語でqglと呼ばれており、出身地名を家族(氏族)名に転用するのは自然である。またタルクィニの外港グラウィスカエではギリシア神殿が造営されており、ギリシア人が頻繁にここを訪れたことは明白である。それゆえデマラトスがタルクィニに亡命し、ここで子どもをもうけたという話は十分ありそうなことである。したがってタルクィニウス・プリスクス王の出身地をタルクィニと明言する文献史料の信憑性を否定する必要はない。

 

 伝えられたプリスクス王の事績は、彼の王政・王権との関連で検討しなければならない。

 

 プリスクス王がローマを征服して専制的に支配したことを示唆する史料は皆無である。それどころか彼は制度改革を試みながら猛反対に遭って思惑通りにはいかなかった、と伝えられているのだ。

 

 考古学的発掘が明らかにしたように、ローマでは前六二五年頃から都市化が始まった。すなわちパラティヌス丘、カピトリヌス丘、クィリナリス丘、エスクィリヌス丘に囲まれた中央の湿地帯が排水され、そこに舗装道路が敷設され、神殿が造営され市場が開設され、集会所が建造され王宮が再建された。そしてその場所はいまや人びとが集う公共の広場(フォルム・ロマーヌム〈フォロ・ロマーノ〉)、すなわち市民の政治・経済・宗教の中心として機能するようになり、しかも谷間のほうまで居住地が広がり、孤立していた各丘が繋がったのである。

 

 この時期は伝えられたアンクス・マルキウス王の治世後期にあたり、ルクモがローマにきたとされる頃と合致する。ルクモはエトルスキの建築・排水技術者を連れ豊富な資金をもってローマにはいり、タルクィニウスと改名してローマに帰化し、アンクス王のもとで都市建設に取り組んだと考えられる。彼はさらにエトルリアの商人を「エトルスキ街」に住まわせて交易・手工業の振興をはかり、またラティウム各地を平定して、ローマの強化をはかったのである。

 

 王の選挙は従来クリアごとにそれぞれ別々の集会所でおこなわれ、その結果を各クリアの長が持ち寄って王を決定した。しかし市民広場が開設されたので、クリアに属する成人男子市民はこの広場に集い、いっせいにクリアごとに投票をおこない、それぞれの決定が一票と数えられた(これは共和政初期のクリア民会の原形である)。アンクス王の死後、タルクィニウスはこのクリア民会で都市形成の功績のゆえにローマ王に選ばれた(前六一六年頃)と考えられる。

 

 彼はもともとエトルスキの王ではなく、エトルリア出身ではあるがローマに帰化して合法的に王座に就いたので、彼の王政は「エトルスキ系ローマ王政」と規定される。

 

 タルクィニウス・プリスクス王の富国強兵策には障害があった。都市は形成されたけれどもローマは依然としてクリア連合体のままだったので、彼の王権は軍隊指揮とクリア間の紛争の調停に隕られ、各クリアの自治に干渉することはできなかった。それゆえ、在来のクリアは閉鎖的で、新来の在留外人を自分たちのクリアに編入しなかった。そこで王はローマ在住の全自由民をローマ市民として受け入れる体制を確立しようとしたのだが、いかんせん王権は限定されており、抜本的改革は不可能だったのである。ラティウムにおいて主導権を握るためにも、ローマは制度を整え統一的な都市国家体制を構築する必要があった。そのためには包括的な絶対権力が不可欠だった。かかる絶対権力をもって国制を整備して統一的都市国家を実現したのが、セルウィウス・トゥリウスだった。

 

(a)「王政期」の約140年間の間に七世代9人の王がいた。

 

  平田論文は、「前六世紀にローマにエトルリア出身の王がいたことは、ローマ市内で出土した同世紀の銘文(ラテン語rex「王」とエトルスキ語人名〈silqetenas spurianasなど〉)により疑う余地はな」く、「タルクィニはエトルリア語でqglと呼ばれており、出身地名を家族(氏族)名に転用するのは自然である」ので、「タルクィニウス・プリスクス王の出身地をタルクィニと明言する文献史料の信憑性を否定する必要はない」という。

 

 この指摘には異論はない。

 

 しかし、以前「古代ローマの建国過程について(8)」で述べたように、古代ローマの建国神話で、古代ローマの王の数を七王とするのは「神秘数」の「七」によるもので事実ではなく、紀元前650年頃の古代ローマの「王政期」の開始以降、紀元前509年のタルクィニウス「傲慢王」の追放までの139年間の実在の王の在位期間は、古代マケドニアの実在の王の例と古代ローマの王宮の建て替えサイクルから、1世代の王の在位期間を20年とすると、七世代となる。

 

 「古代ローマの建国過程について(12)」では、古代ローマ王になったという伝承があるカエリウス兄弟や彼らの先代の王であると推定されるグナエウス・タルクィニウスを含めて、約140年間の間に七世代9人の王がいたと考えて、それらの在位期間を推定した。

 

 こうした検討からすれば、平田論文による王の実在やその在位年数の主張は、根拠なしに古代ローマの建国伝承を無批判的に受容するもので、従えない。

 

(b)「王政期」の初代王の名は不明。後でタルクィニウス・プリスクス王とされた。

 

 平田論文は、「考古学的発掘が明らかにしたように、ローマでは前六二五年頃から都市化が始まった」が、「この時期は伝えられたアンクス・マルキウス王の治世後期にあたり、ルクモがローマにきたとされる頃と合致する」といい、この「合致」を根拠として、「ルクモはエトルスキの建築・排水技術者を連れ豊富な資金をもってローマにはいり、タルクィニウスと改名してローマに帰化し、アンクス王のもとで都市建設に取り組」み、「エトルリアの商人を「エトルスキ街」に住まわせて交易・手工業の振興をはかり、またラティウム各地を平定して、ローマの強化をはかった」という。

 

 しかし、パラティヌス丘、カピトリヌス丘、クィリナリス丘、エスクィリヌス丘に囲まれた中央の湿地帯が排水され始めたのは紀元前六五〇年ごろのことであり、古代ローマの都市化の開始は紀元前六五〇年ごろのことであったと考えられる。

 

 そして、それまでの古代ローマは、ラテン人の集落群とサビニ人の集落群、そしてその後に移住したエトルリア人の集落群が分立する「族長期」であり、そこにはそれらの集落群を包括するような「王」は存在してはおらず、古代ローマの都市化の開始は、新たに「王」が誕生し、「王政期」が開始したことによるものであった。

 

 つまり、古代ローマの建国は、エトルリア人の王による王政の開始によるもので、その時期は紀元前六五〇年頃のことであったと考えられる。

 

 古代ローマの都市の姿や政治制度は殆ど全てがエトリリアの模倣であるので、古代ローマに登場した「王」は、エトルリアの強い影響下にあった、つまり、エトルリアが「派遣」した王であった、つまり古代ローマはエリトリアの属国として建国されたのだと考えられる。

 

 エトルリアが「派遣」した王であったから、タルクィニウス・プリスクス王は、エトルリアから技術者を招いて古代ローマの都市建設を開始することが出来たのだと考えられる。

 

 「プリスクス王がローマを征服して専制的に支配したことを示唆する史料は皆無である」のは、彼が初めて古代ローマの「王」になったからであり、そのことでエトルリアとの交易が発展することは、古代ローマに進出していたエトルリア人の商人や貴族層だけでなく、ラテン人やサビニ人の商人や貴族層にとったも好ましいことであったと考えられる。

 

 平田論文は、プリスクス王が「エトルリアの商人を「エトルスキ街」に住まわせて交易・手工業の振興をはか」ったというが、エトルリアの商人の古代ローマへの進出と彼らの居住区の「エトルスキ街」の形成は、プリスクス王の登場以前のことであり、エトルリアの商人の古代ローマへの進出とそれによるエリトリアとの交易の活発化、そして塩の交易の掌握こそ、プリスクス王が古代ローマに「王」として「派遣」される契機となったのだと考えられる。

 

 なお、平田論文は、プリスクス王が「ラティウム各地を平定して、ローマの強化をはかった」とか、「制度改革を試みながら猛反対に遭って思惑通りにはいかなかった」とかいうが、これらの「事績」は、タルクィニウス王と同名のルキウス・タルクィニウスの名を持つ古代ローマの建国神話の第七代王のタルクィニウス「傲慢王」の事績を遡及させたものであると考えられる。

 

 「王政」を開始して、トリプスとクリアを組織したばかりのプリスクス王が、「統一的な都市国家体制の構築」とか「包括的な絶対権力」とかを目指した「制度改革」などをしようとするわけはないのである。

 

 なお、タルクィニウス・プリスクス王自体は、その名のルキウスが第七代王のタルクィニウス「傲慢王」と同名であり、その事績もタルクィニウス「傲慢王」と共通する部分が多いので、おそらく、タルクィニウス「傲慢王」をコピーして遡及させたものがタルクィニウス・プリスクス王であって、古代ローマの「王政期」の最初の王は、おそらくタルクィニウスという名の王ではあっただろうが、その名が伝えられてはいない王であったと考えられる。

 

(c)「王政期」の開始ではじめて「クリア」が組織される。

 

 平田論文は、「王の選挙は従来クリアごとにそれぞれ別々の集会所でおこなわれ、その結果を各クリアの長が持ち寄って王を決定した」が、「市民広場が開設されたので、クリアに属する成人男子市民はこの広場に集い、いっせいにクリアごとに投票をおこない、それぞれの決定が一票と数えられた(これは共和政初期のクリア民会の原形である)」という。

 

 しかし、「市民広場の開設」は、古代ローマの都市建設の開始以降のことであり、古代ローマの都市建設はプリスクス王の登場以降のことであり、「クリア民会」も「王政期」の開始に伴ってエトルリアの政治制度を模倣して組織されていったものだったとすれば、「アンクス王の死後、タルクィニウスはこのクリア民会で都市形成の功績のゆえにローマ王に選ばれた(前六一六年頃)」という平田論文の指摘には従えない。

 

 クリア自体まだないような状況で、クリア民会による投票で王が選出されるなどという手続きがあったはずもない。

 

 同様に、集落群の長老層は元老院に組織されていくが、クリア民会で選出された王の元老院での承認という手続きも、王政期の初期には存在したはずもない。

 

 なお、「族長期」の古代ローマには、ラテン人やサビニ人、エトルリア人の集落群がそれぞれ違う丘の上に住んで分立していたので、クリアがサビニ人やラテン人の部族共同体に相当する規模のものであったとすれば、それらの集落群が、おそらく彼らが住んでいた丘ごとに「クリア」に組織されたのは、タルクィニウス・プリスクス王によって「王政期」が開始したときのことであり、その数は3から4ったと考えられる。

 

 ここからも、タルクィニウス王がクリア民会で選出されたという伝承には従えない。

 

 なお、「王政期」が開始し、クリアが組織されたときに、それまでのラテン人やサビニ人、エトルリア人の集落群が三つの「トリプス」に組織されたのだと考えられる。

 

 そうすると、初代王のロムルスが三つのトリプスと三十のクリアを設置したという伝承のうち、三つのトリプスを設置したという伝承は「王政期」の開始によるラテン人、サビニ人、エリトリア人の集落群の統合を、三十のクリアを設置したという伝承は「王政期」末から「共和政」初期に古代ローマがラテン同盟の盟主となり三十都市の住民を古代ローマに移住させたことを、それぞれ過去に遡及させたものであったと考えられる。
 

(d)改革に挑戦したのはセルウィウス・トゥリウス王だった。

 

 平田論文は、「都市は形成されたけれどもローマは依然としてクリア連合体のままだったので、彼の王権は軍隊指揮とクリア間の紛争の調停に隕られ、各クリアの自治に干渉することはできなかった。それゆえ。在来のクリアは閉鎖的で、新来の在留外人を自分たちのクリアに編入しなかった。そこで王はローマ在住の全自由民をローマ市民として受け入れる体制を確立しようとしたのだが、いかんせん王権は限定されており、抜本的改革は不可能だった」という。

 

 しかし、古代ローマに流入して定住していた「在留外人」とは、具体的にはラテン人、サビニ人、エトルリア人であり、古代ローマはこうした雑多な出自の人たちを受け入れて発展してきたので、「新来の在留外人を自分たちのクリアに編入しなかった」ということがあったとすれば、彼らの集落群があった丘の上が過密になってしまったからであり、そうであれば、ラテン人やサビニ人ごとに、新たに別の丘を指定して移住させ、その上で、彼ら「新来の在留外人」をローマ市民として受け入れたのであったと考えられる。

 

 つまり、クリアがあったから、「新来の在留外人」を受け入れず、ローマ在住の全自由民をローマ市民として受け入れる体制が存在しなかったわけではない。 

 

 王が各クリアの自治に干渉しようとする大きな動機は、軍事力の編成を王がクリアに依存せずに行うことであったと考えられるが、これは、セルウィウス・トゥリウス王が行おうとしたことであり、「王政」を開始したばかりのタルクィニウス王がこうした課題に挑戦したわけではなかったと考えられる。

 

 セルウィウス・トゥリウス王が行おうとしたのは、おそらくエトルリアに倣ってその後「元老院」の組織されていく、それまでのクリアの長老層に依存した軍事力の編成ではなく、各クリアから相対的に自立した、独立自営農民層によるエトルリアの様な密集した重装歩兵たちの集団を組織しようとしたものであったと考えられる。

 

 重ねて指摘するが、タルクィニウス・プリスクス王とされる王政を開始したばかりの王が、いきなり、セルウィウス・トゥリウス王が行おうとした独立自営農民層によるエトルリアの様な密集した重装歩兵たちの集団を組織しようとはしなかったはずである。

 

 セルウィウス・トゥリウス王が行おうとしたことをタルクィニウス・プリスクス王の課題とする平田論文の主張は、エトルリア人の王の王政によって古代ローマが建国されたという史実を否定する古代ローマの建国神話を無批判的に受容したもので、従えない。

 

 加えて、平田論文の「統一的な都市国家体制の構築」とか、「包括的な絶対権力」」とかいう主張は、具体的でなく、セルウィウス・トゥリウス王の「改革」の具体的課題を明らかにするものでもなく、無意味な主張である。