古代ローマの建国過程について(21) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「 蕎麦屋   [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(7)ロムルス伝説とラテン・サビニ系王政

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「I 初期ラティウムとローマの起源(以下「平田論文」という)は、ロムルス伝説とラテン・サビニ系王政について、以下のようにいう。

 

(a)検討の方法と観点

 

 平田論文はまず、検討の方法と観点について以下のようにいう。

 

 「パロッティーノは、史料的に真実を確定できない場合には「真実らしさ」を判断基準として伝承を含む全史料を精査し、ローマの起源を村落から都市形成・都市国家成立への過程として考察する」が、「筆者の方法と観点も基本的にこれと同じである」

 

 「とはいえ彼ら(古代ローマの歴史家たち)の記事が(頻用された演説は疑問の余地なく彼らの創作だったことを別にすれば)すべて捏造の産物だとは断定できない」

 

 「なぜなら前述のように、アエネアスと戦ったとされるメゼンティウスが実在の人物だったことが銘文史料によって実証されており、このような事例がほかにもいくつか存在するからである」

 

 「したがって事実を解明するには、文献史料の各記事を綿密に比較・検討し、ほかの史料(何よりも考古学的遺跡・遺物と碑銘文)と突き合わせて整合的に解釈しなければならない」

 

 「かかる方法と観点に基づき、以下でラテンーサビニ系王政の実態を探究」する。

 

 平田論文のこの宣言が事実かどうかは、平田論文の主張を検証する中で判断していきたい。

 

(b)パラティヌス丘に定住したラテン人が「ローマ」の地名をつけ、パラティヌス丘の周囲を囲む壁の建設に前後して、「ローマ」から始祖「ロムルス」が創作された。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「Romaという地名はRomulusに由来するのではなく、その逆だと考えられる」から、「ロムルスの実在性は疑わしい」

 

 「Romulusはエトルリア語の家族名rumelnaから推定されるプラエノーメン(個人の名前)rumeleと同じ名前であり、rumeleはRoma(エトルリア語でruma)を語幹にしているので、エトルスキ系王政期にローマの建国者と想定された人物がロムルスと命名されたのであろう」

 

 平田論文が指摘するように、「Romaという地名はRomulusに由来するのではなく、その逆だと考えられる」から、「ロムルスの実在性は疑わし」く、「Romulusはエトルリア語の家族名rumelnaから推定されるプラエノーメン(個人の名前)rumeleと同じ名前であ」るので、「エトルスキ系王政期にローマの建国者と想定された人物がロムルスと」されていたのは確かであったと考えられる。

 

 しかし、「rumeleはRoma(エトルリア語でruma)を語幹にしている」としても、このrumaはラテン語の「ruma」と同形であり、Roma(エトルリア語でruma)がエトルリア語に起源するものであるとは言えないので、Romulusがエトルリア系の名称であったとしても、Romulusを初めて命名されたのがエトルスキ系王政期であったとはいえず、それ以前にラテン系の名称としてのRomulusが存在したことを否定することはできない。

 

 Roma(エトルリア語でruma)がラテン語に起源するもので、エトルリア系の王政が開始する以前の「族長期」の古代ローマには、エリトリアの影響はそれほど強くはなかったとすれば、古代ローマのラテン人の間で古代ローマの始祖としてRomulusの伝承が形成されていたと考えられる。

 

 以前「古代ローマの建国過程について(3)」では、ローマの語源について以下のように述べた。

 

 古代ローマで最も古くから人が居住していたのはパラティヌスの丘であり、古代ローマの最初期の城壁はパラティヌスの丘を囲んで建設されているので、パラティヌスの丘から古代ローマは始まったと考えられる。パラティヌスの丘には二つの山があり、パラティウムとケルマルスという名はその二つの山にそれぞれ付けられたものであったと考えられる。

 

 フィリップ・マティザックの「古代ローマ歴代誌―7人の王と共和政期の指導者たち(創元社)」(以下「マティザック論文」という)は、ロムルスとレムスの名前の由来をラテン語の「乳首(ル―マ ruma)」から来たものであったというが、ラテン語の「ル―マ」を「乳首」とするのは、双子が狼に養われたという神話に由来するものであり、本来はラテン語の「ル―マruma」は「乳首」ではなく「乳房」であったのだと考えられる。

 

 古代ラテン語やエトルリア語では、rumisやrumenはともに「乳房」という意味であるが、これらは、ギリシャ語で「力」を意味するromeに由来しており、本来は「胸の中に秘められている力」を意味するものであり、そこから、その力を生み出す乳を出すものとして、「乳房」に転用・派生されたのだと考えられる。

 

 そのことを前提とすれば、ギリシャ語で「力」を意味するromeがラテン語になったrumaは、「乳房」という意味であったということができる。

 

 そして、パラティウムとケルマルスの二つの村が連合して都市ができたときに、二つの山を持つパラティヌスの丘が、まるで「乳房」のようにも見えたので、古代ラテン語の「乳房ruma」から新しい都市を「ローマruma」と名付け、その始祖王をロムルスとして古代ローマの建国神話を構想したのだと考えられる。

 

 こうした理解に立てば、エトルスキ系王政期で初めて、ローマの建国者と想定された人物がロムルスと命名されたのではなく、パラティウムとケルマルスの二つの村が連合して都市ができて、古代ローマの最初期の城壁がパラティヌスの丘を囲んで建設されたときに、古代ローマの最初の建国神話として始祖王ロムルスの伝承が構想されたのだと考えられる。

 

 また、ロムルスとレムスの争いとロムルスの勝利による古代ローマの建設という伝承が、ゲルマン民族などにもみられる民族移動の戦時の二人の指導者が定住後に一人の王になるという慣習を反映したもので、イタリア半島の先住民であったエリトリア人ではなく、イタリア半島に移住してきたラテン人の伝承に起源するものであることからも、古代ローマの最初の建国神話としての始祖王ロムルスの伝承が構想されたのは、パラティヌスの丘に定住したラテン人によってであったと考えられる。

 

 なお、この時点では古代ローマ人となるラテン人の勢力範囲はパラティヌスの丘のみであり、やがて北方のクイリナリスの丘にサビニ人が移住してきて、古代ローマ人とサビニ人でエトルリアとの交易をおこなっていくことになるが、おそらくこの時点では古代ローマ人とサビニ人の建国伝承はそれぞれ異なっていたと考えられる。

 

 その後にエトルリア人がカピトリヌスの丘に移住してきて、古代ローマ人の集落群とサビニ人の集落群、エトルリア人の集落群を包摂したエリトリア人の王政によって古代ローマの都市建設が推進されていくが、これらの古代ローマの三つの人間集団の統合は、もっとも古くから定住していて、おそらく人数的にも多数派であっただろう古代ローマ人の建国神話を三つの集団が共有するという形で進められ、最初の建国神話としての始祖王ロムルスの伝承はエリトリア人の王政によって継承されていったのだと考えられる。

 

 以前「 古代ローマの建国過程について(6)」で述べたように、考古学の発掘資料によれば、パラティヌス丘に集落群が建設されたのは紀元前750年から同700年にかけてであり、パラティヌス丘の周囲を囲む壁が建設されたのは紀元前730年から同720年にかけてであったと推定されている。

 

 後世のパラティヌス丘周囲に溝を掘る儀式の存在とエリトリアの都市建設で市壁を建設する前にはその位置に溝で区画するという儀式の存在から、パラティヌス丘に集落群が建設されるとともに、パラティヌス丘の周囲に溝が掘られ、やがてそこに木柵が、次に土塁が設置されていき、紀元前730年から同720年にかけて石の壁が築造されていったと考えられる。

 

 現在のローマに残る市壁の基礎にある古い市壁が築造されたのは紀元前6世紀後半だと推定されているが、こうした壁の発展過程は古代ローマの発展過程に対応しており、同時に古代ローマの建国神話の形成過程にも対応していると考えられる。

 

 そうであれば、もしかすると、紀元前730年から同720年にかけてパラティヌス丘の周囲に石の壁が築造されていった時点の前後で、パラティヌス丘の集落群に住んでいた、本来は雑多な出自のラテン人たちの虚構の始祖王ロムルスの伝承が創作され始めたのかもしれない。

 

 それぞれ独自に行動しようとする雑多な出自のラテン人たちの集落群や集団が古代ローマ人として一つに包摂されたときに初めて、彼らの共通の始祖王の伝承が必要になる。それはおそらく、塩の交易のために南下してきて、やがてクィリナリスの丘に定住して集落群を形成したサビニ人との、エトルリアとの交易利権をめぐる争いや交渉の必要性の発生という、新たな課題への対応のためであったと考えられる。

 

 以上からも、平田論文の、エトルスキ系王政期にローマの建国者と想定された人物が(初めて)ロムルスと命名されたという主張には従えない。

 

(c)トリプスもクリアも、ラテン人、サビニ人、エリトリア人の三つの集落群を包括したエリトリア人の王政開始によって形成され始めた。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「ロムルスは実在しなかったけれども、彼に帰された事績が(神話・伝説の類は別として)すべて否認されるわけではない」

 

 「ロムルスが町を築いたというパラティヌス丘で前八世紀までに人びとが生活した跡が発掘されており、ここにいくつかの村落があったことは確定的で」、「パラティヌス丘とは深い谷で隔てられたほかの丘(エスクィリヌスやカピトリヌスなど)でもほぼ同時期の遺跡が発掘されており、ここにも集落があったことは明らかである」が、「この時期には、ローマの中心となる広場(フォルム)はまだ開設されていなかった」

 

 「とすればロムルスが活躍したとされる前八世紀にローマは物理的にも国制的にも統一的な都市ではなく集落の集合体であり、その集落とは彼が設置したと伝えられるクリアだったととらえられる」

 

 「というのもcuriaはco-uir-iaと分析され、coが「共に」、uirが「人、男、戦士」を意味するので「人びとの集まり」(集まる所、集会所)ないし「戦士共同体」をあらわし、しかも伝承によればクリアは新旧の区別があるので、最初から三〇あったわけではない」ので、「三トリブス=三〇クリアという図式は成立」せず、「その図式が人為的だとすれば、それぞれの丘にいくつかの独立自治のクリア「戦士共同体」が存在し、各自の集会所でその長を選出したと考えられる」

 

 平田論文は、「ロムルスが活躍したとされる前八世紀にローマは物理的にも国制的にも統一的な都市ではなく集落の集合体であり、その集落とは彼が設置したと伝えられるクリアだった」というが、クリアとは平田論文が指摘するように「人びとの集まり」(集まる所、集会所)ないし「戦士共同体」であるが、ラティウムに定住する前のラテン人が移動生活を起こっていたとすれば、本来のクリアの意味は「戦士共同体」であったと考えられる。

 

 この場合の「戦士共同体」とは、古代ローマの三〇クリアがラテン同盟に加盟していた三〇都市に対応するもので、この三〇都市がラテン人の三〇部族が部族ごとに建設した都市であり、古代ローマのクリアが、古代ローマがラテン同盟の諸都市を併合する過程で、それらのラテン同盟の諸都市から移住させた人たちを組織したことで形成されたものであったとすれば、この古代ローマのクリアは幾つかの集落の集合体などではなく、都市国家や部族集団に相当する規模のものであったと考えられる。

 

 そうであれば、平田論文の、紀元前八世紀のローマにあった集落の集合体を構成した個々の集落がクリアであったという主張には従えない。

 

 古代ローマのクリアのもとになったのはパラティヌス丘にあった集落群の総体であり、古代ローマ人が他の丘に進出していったことで、あるいは、古代ローマに新規に流入してきた人々が他の丘に定住することで、その進出先や定住先の丘にできた集落群が、その後にクリアに組織されていったのだと考えられる。


 「三トリブス=三〇クリアという図式」の「三トリブス」は、古代ローマの幾つもの丘にそれぞれ定住していたラテン人、サビニ人、エリトリア人の三つの集落群を「トリブス」に組織したものであり、紀元前六世紀半ばに古代ローマに初めての王が、エトルリア系の王として登場したときに、それまでの三つの集落群を統合して支配するために組織されたものであったと考えられる。

 

 そうであれば、「クリア」もそのときにそれまでの集落群をおそらく丘ごとに組織して形成されたものであり、それ以前にあったのは、集落群の丘ごとのまとまりでしかなかったと考えられるので、古代ローマの「族長期」には正式な「クリア」は存在しなかったと考えられる。

 

 なお、古代ローマのエトルリア人の王政開始期のクリアの数は、それが集落群が存在した丘の数であったとすれば、おそらく最小では3、最大でも4から5程度であったと考えられる。

 

(d)「族長期」の古代ローマにいたのは「族長」であり、そこには「王」はいなかった。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「これらのクリアは連合体を組織し、各クリアの長たちの会議で連合体を統率する全体の王を選出し」、「王は軍隊を指揮しクリア間の紛争の調停にあたった」が、「王は各クリアの内政には干渉できず、したがって王権は限定されており、包括的・絶対的な権力(インペリウム)ではなかった」

 

 「ロムルスの治世とされる期間には、名前の伝わっていない王たちが統治したに違いない」

 

 平田論文は、「これらのクリアは連合体を組織し、各クリアの長たちの会議で連合体を統率する全体の王を選出し」たといって、「族長期」の古代ローマに「王」が存在したという。

 

 こうした平田論文の主張は、「族長期」の古代ローマについての無理解に起因するもので、その結果、平田論文はその後の「王政期」の古代ロマの姿を核に投影した古代ローマの建国伝承を無批判的に受け入れることになっている。

 

 「族長期」の古代ローマは、雑多な出自を持ったラテン人がラティヌス丘にに定住し、やがてその丘の上に二つの集落群を形成することで始まり、その後、その交易のために南下してきたサビニ人がクィリナリスの丘に移住してきてその丘の上に集落群を形成し、それと並行して、ラテン人が他の丘の上にも集落群を形成してその範囲を拡大してくという経過で発展していった。

 

 サビニ人の集落群とラテン人の集落群はエトルリアとの交易をめぐって相互に争ったり交渉したりしていたが、両者は夫々独立していて、サビニ人の集落群の人たちがラテン人の集落群のことに関与することもなく、エトルリアとの交易をめぐって夫々の集落群の代表が交渉することはあっても、全体を包括するような人物は存在しなかったと考えられる。

 

 サビニ人の集落群やラテン人の集落群の代表者も、それぞれの集落や集団の長老などから、問題が発生したときに選出された人物であって、ゲルマン民族の族長や契丹などの遊牧民族の王が任期制だったことを参考にするならば、おそらくその地位は世襲などではなく、それぞれの集落群を纏めるような「王」でもなかったと考えられる。

 

 サビニ人の集落群とラテン人の集落群の交渉は、それが必要なときに、その時点でのそれぞれの集落群の代表が協議する形で行われ、そのとき以外はそれぞれの集落群は独自に行動していたと考えられる。

 

 ラテン人がパラティヌスの丘に定住したばかりのころは集落は一つで、その集落はその後パラティヌスの丘の二つの頂に対応する二つの集落に分岐し、それらの集落が雑多な出自のラテン人を吸収していく過程で幾つかの集落となり、やがて他の丘にもラテン人の集落が形成されていったと考えられる。

 

 これらのラテン人の集落群は、おそらく日常的には集落の長老たちによって運営され、非常時には長老たちの代表か、あるいは長老たちが指名した人物が、ラテン人の集落群全体を代表して、サビニ人の集落群の代表やエトルリア人の商人の代表などと交渉に当たったのだと考えられる。

 

 そうであれば、この代表は「王」などではなく、「族長」であったと考えられる。

 

 また、「族長期」の古代ローマの「戦争」も、夫々の集落群や集団が勝手に行う、交易利権をめぐる「私戦」であり、平田論文がいう「王は(古代ローマ全体の)軍隊を指揮」するなどということはなかったと考えられる。

 

 以上から、「族長期」の古代ローマに「王」が存在したことを前提として、「王は各クリアの内政には干渉できず、したがって王権は限定されており、包括的・絶対的な権力(インペリウム)ではなかった」とか、「ロムルスの治世とされる期間には、名前の伝わっていない王たちが統治したに違いない」とかいう平田論文の主張には従えない。

 

(e)ヌマ・ポンビリウスは、古代ローマはラテン人の王とサビニ人の王が交互に王位となることで建国されたという建国神話によって、神から創作された架空の王。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「ヌマの統治開始は伝承の年代、前七一六年よりもう少しあとかもしれないが、この王は実在したと考えてよい」

 

 「なぜならNuma Pompiliusという名前のうちNumaはオスキ語系の個人名であり、Pompiliusはliusはオスキ語系の名前rompo(Pompus)を基にした形容詞形で父名をあらわすと把握でき、氏族名になる前の段階を示唆しているので、彼の名前は全体として真正と考定されるからである」

 

 「しかも前述のように、ヌマの出身地グレースはサペリ系の言語を話す共同体であり、またその言語から借用されたラテン語のgx「牛」やlupus「狼」はローマとサビ二人との古くからの接触を示唆している」

 

 「「中間王政」がおこなわれた可能性も排除されない」

 

 ヌマ・ポンビリウスは古代ローマの建国神話では初代のロムルスに次ぐ第二代の王とされており、その治世は紀元前715年~673年であったとされている。

 

 平田論文は、ヌマ・ポンビリウスの名がサベリ人のオスキ語の個人名であることを根拠にして、彼は実在の古代ローマ王であったという。

 

 しかし、古代ローマの建国神話ではエリトリア系の王が登場するのはその後半期で、その前半期はラテン人の王とサビニ人の王が交互に王位となったとされている。

 

 そうすると、ラテン人の王であったロムルスの次代の王がサビニ人の王であったという伝承は、古代ローマはラテン人の王とサビニ人の王が交互に王位となることで建国されたという、建国神話が構想されたときに、それにふさわしい名とともに構想されたものであったと考えられる。

 

 考古学の発掘資料によれば、古代ローマに宮殿や神殿、公共施設などが建設され、古代ローマの都市建設が開始するのは紀元前六五〇年頃のことであり、これらの都市建設がエトルリアの技術なしにはできなかったものであったことから、おそらくこの都市建設の開始は、それまでの分立していた三つの集落群を包括するエリトリア系の王政が古代ローマに誕生したことを物語っているものであると考えられる。

 

 都市国家としての古代ローマは、エトルリアの有力都市国家ら派遣された人物が、在地のエトルリア人の有力者を基盤に、それまでの三つの集落群を包摂して建設されたものであるが、エリトリア人の王を追放して共和政の古代ロマを建設した古代ローマ人たちは、古代ローマがエリトリアの実質的な属国としてっ建設されたという現実の歴史を否定するために、エトルリア系の王の登場以前に、サビニ人とラテン人の王を創作し、古代ローマはラテン人とサビニ人の王政によって建国されたと、政治的に主張したのだと考えられる。

 

 おそらくは、ヌマ・ポンビリウスの名は、共和政になってから、サビニ人の貴族層の始祖としてサビニ人の神の名から構想されたもので、ヌマ・ポンビリウスがサビニ人の王として創作されたのであれば、彼の名や彼の出身地とされた地が、サビニ人に係るものであったことは当然のことであり、それらのことを根拠として、彼が王として実在したということはできないと考えられる。

 

 なお、サビニ人の「言語から借用されたラテン語のgx「牛」やlupus「狼」はローマとサビ二人との古くからの接触を示唆している」と平田論文はいうが、それは「族長期」の古代ローマの姿からすれば当然のことであり、そのことがヌマ・ポンビリウスの実在を証明するものではない。

 

 「族長期」の古代ローマのクィリナリスの丘にサビニ人の集落群があり、その丘の上には彼らの神殿が建設されていたのであり、「族長期」の古代ローマはラテン人の集落群とサビニ人の集落群が連合することで発展していったのであるが、古代ローマが「族長期」から「王政期」に移行するのは、エトルリア人の勢力がラテン人とサビニ人を包指定校のことであったと考えられる。

 

 そして、古代ローマの建国神話が伝えるヌマ・ポンビリウスの事績から、後世の古代ローマのエトルリア人の王政期の事績を遡及させたものを除外すると、そこに残るのは神としての伝承のみであり、後世、ヌマ・ポンビリウスを祖先とするサビニ人の貴族が存在することから、ヌマ・ポンビリウスは本来はサビニ人の貴族の祖神として伝承されてきた存在であったと考えられる。

 

(f)トゥッルス・ホスティリウスやアンクス・マルキウスも架空の王であった。

 

 平田論文は、以下のようにいう。

 

 「ヌマのあとの二人の王、Lullus HostiliusとAncus Marciusも、名前の構成がヌマと同じであり、実在の人物と認定できる」

 

 「ただしトゥルスによるアルバ・ロンガの併合やアンクスによるオスティアの建設については考古学的確証はない」

 

 「しかしアルバには前六世紀以降の遺跡はなく、またローマは交易と塩田のためにティベリス川河口地帯に重大な関心をいだいていた」

 

 「前八世紀以降ローマがしだいに拡大してクリアが増加したことは間違いなく、アンクスの治世末期(前六二五年頃)から都市化が始まったのである」

 

 古代ローマの建国神話では、トゥッルス・ホスティリウスは第三代の王と、アンクス・マルキウスは第四代の王とされ、前者の在位期間は紀元前673年~641年、後者の在位期間は紀元前641年~616年とされている。

  

 平田論文は、トゥッルス・ホスティリウスやアンクス・マルキウスの名の構成はヌマ・ポンビリウスと同じであるので、彼らも実在したというが、彼らの名が、個人名+父名であったということが、彼らが実在したことの根拠になるとは思えない。

 

 トゥッルス・ホスティリウスやアンクス・マルキウスの名も、ヌマ・ポンビリウスの名と同じように、古代ローマはエトルリアの属国とっしてエトルリア人の王によって建国されたという史実を隠ぺいするために、古代ローマはラテン人の王とサビニ人の王が交互に王位となることで建国されたという建国神話が、共和政になってから構想されたときに、それにふさわしい名とともに、ラテン人らサビニ人の貴族層の始祖の神の名を転用することで創作・構想されたものであったと考えられる。

 

 平田論文は「前八世紀以降ローマがしだいに拡大してクリアが増加したことは間違いな」いというが、平田論文がいう「クリア」が組織されたのは紀元前650年頃にエトルリア人の王政が開始た頃のことであり、紀元前八世紀以降の集落あるいは集落群の増加は、クリアの増加ではなかったと考えられる。

 

 平田論文は、本来は部族単位の大規模集団であった「クリア」を小規模な集落だと誤認し、古代ローマの建国伝承を無批判的に受け入れて、「クリア」が「族長期」に存在したと誤解しているのである。

 

 また平田論文は、「アンクスの治世末期(前六二五年頃)から都市化が始まったのである」というが、アンクス・マルキウスは実在の王ではなかったので、ここでも古代ローマの建国伝承を無批判的に受け入れている。

 

 トゥルスによるアルバ・ロンガの併合もそもそもアルバ・ロンガという都市は存在しなかったったので架空のことであり、ティベリス川河口地帯の塩田の地のオスティアは古くから存在したい立であって、古代ローマが建設した都市ではないし、古代ローマがオスティアを破壊したという別伝承でも、史実とは異なる。

 

 古代ローマが交易と塩田のためにティベリス川河口地帯に重大な関心をいだいてその地を掌握しようとしたのは、古代ローマの王政期の開始後のことであり、その交易と塩田の掌握こそ、エトルリアの有力都市国家がエトルリア人の王を派遣して彼らの属国として古代ローマを建設した理由の一つであったと考えられる。 

 

 なお、初代王ロムルスから第四代王アンクス・マルキウスが架空の王であったことは、以前「古代ローマの建国過程について」の(9)から(11)にかけてで論述したので、詳細はこれらの記事を参照してほしい。