古代ローマの建国過程について(20) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「 あなたでなければ  [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(6)古代ローマ建国神話のアエネアス伝承の形成過程

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「I 初期ラティウムとローマの起源(以下「平田論文」という)は、古代ローマ建国神話のアエネアス伝承の形成過程について、以下のようにいう。

 

 「伝承によれば、トロイアが落城したときアエネアスは父親を背負い子どもを連れて脱出し、部下とともに船で西方に向かいラティウムに到着し、ここにラウィニウムを建てた」が、「アエネアスの死後その子アスカニウスまたはユールスがアルバ・ロンガを建設し、四〇〇年程のちにその一族のあいだにロムルスとレムスという双子が生まれ、やがてローマを築いたという」

 

 アエネアスをローマの始祖とするこのような伝承は、いつ、どこで、どのように形成されたのだろうか。

 

 平田論文はこのように問題設定をして論述をするが、以下、平田論文の引用の後に、それへの批判を展開していくが、平田論文のこの問題設定に対する回答には従えない。

 

(a)最初のアエネアス伝承はギリシャ人によって語られた。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「(トロイア落城の)ホメロスの作品はおそらく前八世紀中にギリシアの植民者によってマグナ・グラエキアとシチリアに持ち込まれ、まもなくカンパーニア地方に住むエトルスキ人にも伝えられ、彼らを通じてエトルリア本土にも伝播した」

 

 「前七〇〇年頃シチリアに植民したギリシア人は、セゲスタなどの先住民エリミ人がトロイアの子孫と自称しているのを耳にし」、「ギリシア人はその伝承をトロイアから逃れたアエネアスと結びつけて、その先住民をアエネアスの子孫とみなす神話を創作した」

 

 平田論文はホメロスの作品の伝播経過は、マグナ・グラエキアとシチリア→カンパーニア地方に住むエトルスキ人→エトルリア本土であったと主張するが、マグナ・グラエキアとシチリアにギリシャの植民地が建設される前から、エトルリア本土でエトルリア人とギリシャ人の交易が活発に行われていたので、そうした交易ルートを通じてホメロスの作品が伝播したとするならば、ホメロスの作品はまずエトルリア本土に伝播したのだと考えられる。

 

 セゲスタなどのシチリアの先住民エリミ人がトロイアの子孫と自称していたのは、そうした同祖・同族関係を主張することで古代ギリシャ人との交易を円滑に進めようとしたためであり、イタリア半島の住人がトロイアの子孫であったという主張は、ギリシャ人が語り始めたものではなかったと考えられる。

 

 「トロイアから逃れたアエネアスと結びつけて、その先住民をアエネアスの子孫とみなす神話を創作した」のは、ギリシャ人ではなく、シチリアの先住民エリミ人などのイタリア半島の住人たちであり、その中には、エトルリア人やラティウム人、古代ローマ人も含まれていたと考えられる。

 

 以上から、最初のアエネアス伝承はギリシャ人によって語られたという平田論文の主張には従えない。

 

(b)エトルリアではアエネアスがイタリア半島に到達したという伝説は形成されていた。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「これらのこれらの伝承・神話もエトルリアに導入された」が、「この時点ではまだ、アエネアスがイタリア半島に到達したという伝説は形成されて」はおらず、「エトルスキ人は父親を背負って祖国を脱出する悲劇の主人公アエネアスを絵や彫像の題材にしただけである」

 

 ドミニク・ブリケルの「文庫 クセジュ エトルリア人(白水社)」(以下「ブリケル論文」という)は、エトルリア人の起源について、以下のようにいう。

 

 「すでに古代においてエトルリア人の起源問題か提起されており、そしてたいていの場合、小アジアのリュディア人が海路で移民してイタリアに定着したと考えられた」

 

 「「歴史研究の父」たるギリシアの歴史家へロドトスが五世紀に著わした「歴史」(第一巻九四節)のなかでこう物語っている。すなわち、リュディアの王アテュスが飢饉の際に国民の一部を海外に送り出し、王子テュルセーノスの引率のもとにイタリアに植民市を建設させ、そしてこの王子の名か、こうして形成された新しい民族、すなわちギリシア語でテュルセーノイと呼ばれる「エトルスキ」(エトルリア人)に自分の名前を残すことになったのだと」

 

 津本英利の「PHP新書1376ヒッタイト帝国(PHP研究所)」(以下「津本論文」という)によれば、ヒッタイト帝国時代のアナトリア半島の地中海沿岸部には、北部のトロイアを首都とするアスワ国と南部のエフェソスを首都とするアルザワ国があり、夫々ヒッタイト帝国の属国となっていたが、紀元前1200年頃のヒッタイト帝国の滅亡によって、沿岸部にはそれらの国以外にミラ国やセハ川国などが登場してきたという。

 

 こうした津本論文の指摘から、リュディアもヒッタイト帝国の滅亡後に登場してきた国の一つであったと考えられるが、リュディアがアナトリア半島西部を支配する有力国家になったのは、紀元前620年のアッシリア帝国の滅亡に前後して、アナトリア半島に侵入してアナトリア半島中部で繁栄したフリギア王国を滅亡させ、リュディア王国の首都も陥落させたキンメリア人を、リュディア王のサデュアッテスが駆逐して以降のことであったと考えられる。

 

 へロドトスがいうリュディアの王アテュスは、初代のリュディア王とされているが、リュディアがアナトリア半島の強国としてギリシャ世界に知られるのは、おそらく紀元前七世紀以降のことであったと考えられる。

 

 へロドトスが「歴史」を著わしたのは、古代ローマが王政から共和制に移行したとされる紀元前509年よりも後の時代の紀元前五世紀であり、それは、紀元前438年に行われたエトルリア「王」を称したエトルリアのウェイイの王ラルス・トルミウスと古代ローマの戦いの頃であったので、その時点では、古代ローマの建国伝承はできあがっていたと考えられる。

 

 セゲスタなどのシチリア島の先住民エリミ人がトロイアの子孫と自称していたというように、小アジアからの移住民によって建国されたという伝承を構想するのなら、古くから有名だったトロイアからの移住を主張するのが当然だと考えられれるが、エトルリアがトロイアではなく比較的新興勢力であったリュディアからの移住を主張したというのは、ちょっと不自然だと考えられる。

 

 確証はないが、紀元前五世紀ごろのエトルリアと古代ローマの戦争状態の存在から、エトルリア人が小アジアのリュディア人が海路で移民してイタリアに定着したという伝承は、古代ローマ人がトロイアから移住してきた人たちの子孫であったという伝承に対抗して、比較的新しく語られたものであると考えられる。

 

 そうであれば、この、エトルリア人が小アジアのリュディア人が海路で移民してイタリアに定着したという伝承はが語られる前には、おそらく、エトルリア人もトロイアから移住してきた人たちの子孫であったという伝承を持っており、その伝承にはアエネアスのイタリア半島への移住という話が含まれていたと考えられる。

 

 以上から、アエネアスがイタリア半島に到達したという伝説はエトルリアでは形成されてはいなかったという、平田論文の主張には従えない。

 

 アエネアスのイタリア半島への移住という伝承が、古代ギリシャとの交易を円滑に進めるためには不可欠なものであっとすれば、その伝承はまずエリトリアに伝播し、ギリシャ文字の伝播と同じように、そこからラティウムや古代ローマに伝播いていったのだと考えられる。

 

(c)アエネアスがラウィニウムの都市を建設したという神話はラウィニウム人によって、古代ローマの前にがラウィニウムで語られた。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「前七世紀末からローマはエトルスキ系の王に統治されエトルスキの影響を受けており、ここにも当然ホメロスとともに前記の神話・伝説が伝えられ」、「前六世紀中頃ローマがラティウムに進出すると、この地にもそれらの神話・伝説が導入され」、「ラテン諸国の宗教的中心であったラウィニウム人は、強大化するローマに対抗するため、ラティウムにおける自国の威信を高め、求心力を増大させる必要があった」ので、「彼らは、アエネアスがシチリアからラティウムにやつてきてラウィニウムの都市を建設したという神話を前六世紀後半に創作し」、「この神話に歴史的真実味を付与するために、エトルスキのメゼンティウス王がラティウムを侵攻・蹂躙したという史実と結びつけたのである」

 

 平田論文は、アエネアスがシチリアからラティウムにやつてきてラウィニウムの都市を建設したという神話は、前六世紀中頃のローマのラティウムへの進出に対抗するために、前六世紀後半に創作されたものであったというが、セゲスタなどのシチリアの先住民エリミ人がトロイアの子孫と自称していたことからすると、この神話はラティウム人が前六世紀後半に新規に創作したものではなく、もっと前から存在していたもので、おそらく、エトルリアから伝播して来たものであったと考えられる。

 

 平田論文は、ラティウムの建国神話の創作は紀元前六世紀中頃の古代ローマのラティウムへの進出に対抗するものであったというが、都市国家の建設はその建国神話の創設を伴うものであり、紀元前八世紀にラティウムの都市国家が登場していたとすれば、その時点ではラティウムの建国神話も創作されており、紀元前七世紀半ばには古代ローマの都市建設が開始していたのであれば、その時点では古代ローマの建国神話も創作されていたと考えられる。

 

 平田論文は、ラティウムが建国神話を創作して古代ローマに対抗したと主張するが、その主張は古代ローマには建国神話がなかったことを前提にしていると推測されるが、前述のように、古代ローマには建国神話がなかったという想定は非現実的であり、ラティウムがアエネアス伝承の建国神話を創作したのは古代ローマとの対抗のためではなく、古代ギリシャとの交易の円滑化のためであったと考えられる。

 

(d)ラウィニウム人の神話に対抗して古代ローマ人によって、ロムルスの祖先はアスカニウス、したがってアエネアスにまで遡る、という神話が語られた。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「ローマ人はアルバ・ロンガを自分たちの故地と考えていたが、ラウィニウムがアエネアスをその祖先とみなす神話を創作すると、これに対抗する神話を編み出した」

 

 「すなわち、アエネアスの死後その息子アスカニウスはアルバ・ロンガを建て王として統治し、そしてローマがすでにその建国者と認定していたロムルスの祖先はアスカニウス、したがってアエネアスにまで遡る、という神話を」

 

 平田論文は、アエネアスがシチリアからラティウムにやつてきてラウィニウムの都市を建設したという神話は紀元前六世紀後半にラテン人によって創作されたものであったということを前提として、古代ローマ人は、アエネアスの死後その息子アスカニウスはアルバ・ロンガを建て王として統治し、そしてローマがすでにその建国者と認定していたロムルスの祖先はアスカニウス、したがってアエネアスにまで遡る、という神話を創作したという。

 

 この神話が創作された時期を平田論文は明示してはいないが、平田論文の論述からすると、おそらく紀元前六世紀後半それとそれほど遅くない時期を想定していると推測できる。

 

 古代ローマの建国神話がラティウムの建国神話を前提として創作されたのは間違えはないと考えられるが、ラティウムの建国神話が創作されたのは、イタリア半島の住人はトロイアら移住してきたという伝承がエリトリアから伝播して来た頃のことであり、おそらくそれはエリトリアと古代ギリシャの交易が活発化してきた紀元前八世紀頃のことであったと考えられる。

 

 そして、初期の古代ローマの、ローマ人とサビニ人が夫々の丘の集落群に分かれて住んでいた「族長期」には、古代ローマの建国伝承はまだ体系的に語られてはいなかったとするならば、古代ローマの建国伝承が体系的に整備されたのは、遅ければ紀元前650年頃のエリトリア系の王の登場とほぼ同時期のことであったと考えられる。

 

 つまり、紀元前八世紀頃にラティウムの建国神話が創作され、それを前提として、紀元前七世紀半ば頃に古代ローマの建国神話が創作されたと考えられる。

 

 なお、平田論文は、「ローマ人はアルバ・ロンガを自分たちの故地と考えていた」というが、アルバ・ロンガはラテン同盟の聖地であり、ラテン同盟の正式な一員ではなかった古代ローマとはそれほど関係がないものであったと考えられる。

 

 古代ローマ人が、このアルバ・ロンガを自分たちの故郷だと主張したのは、古代ローマがラテン同盟に対する影響力を強めていった結果であり、その主張の狙いは、古代ローマこそラテン同盟の正当な有力構成員であり、盟主的存在であという政治的な主張であったと考えられる。

 

 そうであれば、古代ローマ人がアルバ・ロンガを自分たちの故地と主張したのは、古代ローマがラテン同盟に対して優位に立って以降のことであり、古代ローマ人は古くからアルバ・ロンガを自分たちの故地と考えたわけではなかったと考えられる。

 

 なお、古代ローマがパラティヌスの丘の上だけにあった、ラテン同盟の部族共同体からの離脱者たちの集落群であった時代には、古代ローマの建国神話などは存在せず、おそらく、ラティウムの各地から集まってきた勇者たちが古代ローマを建設したというだけの物語が語られたのだと考えられる。

 

 「町に必要な住民を集めようとしたロムルスは、城壁のなかに神殿を建て、神殿内に入った人を逮捕や連行から守ることを宣言した」とか、「ロムルスが自分の建設した新しい町に住みたがるあらゆる人々ー異邦人、犯罪者、逃亡者ーを受け人れた」とかいう伝承は、そうした「族長期」の古代ローマの起源伝承の痕跡であったと考えられる。

 

 ローマの地名がラテン語の「ル―マruma」「乳房」に起源するもので、古代ローマ人が初めに定住したパラティヌスの丘の二つの頂が乳房の様であったことから命名されたものであったとすれば、その地名のローマが先行し、その地名の定着とそこでの集落群の発展と連合の形成を前提にして、まず集落群の始祖としてロムルスが登場し、その後に、先行するラテン同盟の諸都市の起源伝承も参考にして、そのロムルスとアエネアス伝承が結合されていったと考えられるが、その結合の最初期の伝承にはおそらくアルバ・ロンガなどは登場してはいなかったと考えられる。

 

(e)ラテン諸国はローマの圧力に対抗するため、古代ローマを排除して全体としてアエネアス崇拝をおこない結束を固めた

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「王政崩壊後ローマはラテン諸国と戦い、その結果、前四九三年頃これらと対等の立場で攻守同盟を結んだが、前三九六年頃にウェイイ(現ヴェーヨ)に勝利すると、ラティウムに対し優位に立った」ので、「ラテン諸国はローマの圧力に対抗するため、全体としてアエネアス崇拝をおこない結束を固めた」

 

 古代ローマを建国した人々はラテン人ではあったが、既存のラテン人の部族共同体や都市から離脱した人々であり、既存の部族共同体や都市の正式な移住によって建国されたわけではない古代ローマは、当初はラテン同盟の正式な構成員ではなかったと考えられる。

 

 信仰によって集団の結束を固めることはよくあることなので、平田論文が指摘するように、ラテン諸国が結束を固めるために全体としてアエネアス崇拝をおこなったということはありえたと考えられるが、古代ローマの建国神話へのアエネアス伝承の登場は、ラテン同盟の正規の構成員ではなかった、いわば成り上がり者の古代ローマが勝手にやったことであり、当初はラテン同盟諸国は、この古代ローマの主張を公認はしていなかったと考えられる。

 

 つまり、「ラテン諸国はローマの圧力に対抗するため、全体としてアエネアス崇拝をおこない結束を固めた」というのは、その結束から古代ローマを排除して行われたものであったと考えられる。

 

(f)古代ローマによるラテン諸都市の併合によって、ローマのトロイア起源神話がこの地方全体に受け入れられ、アエネアス礼拝堂が造営された。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「結局ローマは前三三八年ラテン人戦争で勝利しラテン諸都市を併合し、アエネアス伝説をラティウムと共有し」、「ローマのトロイア起源神話がこの地方全体に受け入れられ、アエネアス礼拝堂が造営された」

 

 平田論文は、古代ローマがアエネアス伝説をラティウムと共有したのは、古代ローマが前三三八年ラテン人戦争で勝利しラテン諸都市を併合していこうのことであったというが、建国神話にアエネアス伝承が登場することを、その神話の「共有」というのであれば、「アエネアスの死後その息子アスカニウスはアルバ・ロンガを建て王として統治し、そしてローマがすでにその建国者と認定していたロムルスの祖先はアスカニウス、したがってアエネアスにまで遡る、という」古代ローマの神話が語られたことは、古代ローマによるアエネアス伝説のラティウムとの共有といえる。


 古代ローマのアエネアス伝説を取り入れた建国神話をラテン同盟の諸都市が公認、または追認していくのは、古代ローマが発展し、交易的にも政治的にもラテン同盟の諸都市への影響力を強めていくことによってであったと考えられる。

 

 その過程で、アルバ・ロンガでのラテン同盟の「大祭」は開催されなくなり、ローマにその代わりの狩猟の神ディアナの神殿が建設されていくことになる。

 

 そして、その最終形が、古代ローマが前三三八年ラテン人戦争で勝利しラテン諸都市を併合したことで、古代ローマのトロイア起源神話がこの地方全体に受け入れられ、アエネアス礼拝堂が造営されたということであったと考えられる。

 

(g)古代ローマのトロイア起源説のギリシアの諸ポリスでの受容とユリウス氏の神話的系譜の主張とローマ帝国の共通の認識への転化。

 

 平田論文は以下のようにいう。

 

 「前二〇〇年以降ローマが東方ギリシアに進出した際、そのトロイア起源説は同じ起源を主張するギリシアの諸ポリスにとって、自国への有利な取扱いをローマに期待する口実となった」

 

 「その後ユリウス・カエサルは、自分の氏族ユリウス氏がアエネアスの子ユールスに遡ることを強調し」、「このユリウス氏の神話的系譜は、元首政を確立したカエサルの養子アウグストゥスに継承され、ウェルギリウスの国民的叙事詩「アエネーイス」によってローマ帝国の共通の認識になった」

 

 古代ローマのトロイア起源説がギリシャの諸ポリスに受容されていく過程と、それが共和政ローマを経て帝政ローマに継承されていく過程は、平田論文が指摘するとおりであったと考えられる。

 

 古代ギリシャでも、ポリスの有力な大貴族層は、自分たちは古の王の子孫であるとか神々の子孫であるとか主張して、自分たちの高貴性を平民層に対して主張し、彼らの平民層に対する支配を正当化した。

 

 同様のことが古代ローマにも起こったはずで、古代ローマ共和政のトップに立ったユリウス・カエサルも、自分たちの出自をアエネアス伝承に結合することで、自分の支配を正当化したのだと考えられる。

 

 そして、ユリウス・カエサルを模倣することで、古代ローマ帝政の創始者の子アウグストゥスも自分たちの出自をアエネアス伝承に結合しようとしたのだと考えられる。