古代ローマの建国過程について(19) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「ホームにて [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」のうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」についての検討の続きである。

 

(5)古代ローマの塩の交易利権の掌握のための王の擁立をめぐって争うエトルリアの有力都市国家

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「I 初期ラティウムとローマの起源(以下「平田論文」という)は、「初期ラティウムについて史実を反映した古い伝承」として、以下の伝承を紹介する。

 

 「エトルリアのカエレの暴君だったメゼンティウスという男がラティウムに侵入・席捲し、初穂を要求したという」

 

 「のちの伝承によれば、メゼンティウスはラティウムに上陸し定住したアエネアスと戦って敗れたとされており、彼の実在性を疑問視する向きもあった」が、「前七世紀初め頃のエトルスキの陶器にエトルリア語でmezentiesと書かれていることが判明し、これはまぎれもなくラテン語のMezentiusと同一の人名である」ので、「メゼンティウスはもともとアエネアスとは関係のない実在の人物であり、前七〇〇年前後にラティウムに侵入して一時的にその一部を制圧し初穂を要求したエトルスキの王たった」

 

 「彼の侵略と強圧的支配はラテン人の記憶に深く刻み込まれ、のちにア干不アス伝説と結びつけられた」

 

 平田論文が指摘するように、「エトルリアのカエレの暴君だったメゼンティウスという男がラティウムに侵入・席捲し、初穂を要求したという」ことは事実であったと考えられる。

 

 平田論文はそんなことがあったというだけのことしか述べてはいないが、問題はそのことの意味である。

 

(a)古代ローマに交易利権の掌握のために後から移住してきたエトルリア人

 

 以前「古代ローマの建国過程について(6)」で、エトルリアと古代ローマの関係について、以下のように述べた。

 

 古代ローマの王政期の最後の三人の王はエトルリア人であり、彼らの宮殿はカピトリヌスの丘に建設され、その最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブスは、カピトリヌスの丘にユピテル神殿を建設したという。

 

 また、マッシロ・パロッツティーノの「エトルリア学(同成社)」(以下「パロッツティーノ論文」という)によれば、カピトリヌスの丘の麓のヴェラーブロ地区にはエトルリア人が住んでいて、そこには彼らの要塞が築かれていたという。

 

 このカピトリヌスの丘は、「セプティモンティウム」には含まれてはいないので、そこには、ラテン人は住んではおらず、エトルリア人が住んでいたのだと考えられる。

 

 そうすると、初期の古代ローマは、パラティヌスの丘を中心とした「セプティモンティウム」にラテン人が、水はけの悪いウィミナリスの丘は後世まで無人であったので、北方のクィリナリスの丘にサビニ人が、西方のカピトリヌスの丘にエトルリア人が住むことで形成され、彼らはそれぞれの丘の上に自分たちの神殿を建設していたのだと考えられる。

 

 彼らの定住の順番は、まず、ラテン人がパラティヌスの丘に定住し、次にクィリナリスの丘にサビニ人が定住し、その次に、カピトリヌスの丘にエトルリア人が定住し、おそらくその後に、ラテン人がパラティヌスの丘以外の他の「セプティモンティウム」に拡大していったのだと考えられる。

 

 そして、エトルリア人の定住は、発展してきた古代ローマの交易への介入およびその掌握のためであり、それを背景にしてエトルリア人の王が古代ローマの王政期に誕生したのであったが、それは、少数派のエトルリア人による多数派のサビニ人・ローマ人の支配でもあった。

 

 サビニ人の居住する丘とラテン人の居住する丘、エトルリア人の居住する丘をすべて囲む城壁は、古代ローマの建国神話では、古代ローマの6代目の王のセルウィルスが建設したとされているが、考古学の発掘調査によれば、それは紀元前360年ごろに建設されたものであったといわれてきた。

 

 しかし、アレキサンドル・グランダッジの「文庫クセジュ902 ローマの起源(白水社)」(以下「グランダッジ」論文という)によれば、現在の城壁の下に、紀元前6世紀後半の基礎が建設されていたという。

 

 そうすると、紀元前6世紀後半の古代ローマの王政期の後半に、ラテン人の住んだパラティヌスの丘、サビニ人が住んだクイリナリスの丘、エトリリア人が住んだカピトリヌスの丘、そしてアウエンティヌスの丘を取り囲む城壁が建設されたということになり、遅くとも紀元前6世紀後半の古代ローマの王政期の後半までには、ラテン人がパラティヌスの丘から「セプティモンティウム」に拡大していったのであったと考えられる。

 

 「古代ローマの建国過程について(6)」ではこのように述べたが、古代ローマがエトルリアとラティウムとの交易拠点として発展していくと、その交易利権の掌握のためにエトルリア人は古代ローマに移住して、ラテン人やサビニ人が居住していなかっただろうカピトリヌスの丘に拠点を形成し、やがてそれまでのラテン人やサビニ人の族長による集落群の支配体制ではなく、エトルリア人の王による王政を、おそらく紀元前650年頃には開始したのだと考えられる。

 

(b)「王政期」の古代ローマはその時々のエトルリアの有力都市に従属していた。

 

 「古代ローマの建国過程について(6)」では、エトルリアと古代ローマの関係について、続けて以下のように述べた。

 

 古代ローマの建国伝説では、初期の古代ローマは、北方のサビ二人と戦う一方で南方のラテン人とも戦っているが、面白いことに、エトルリア人と戦ってはいない。

 

 そうすると、エトルリア人の王がいた頃の古代ローマは、エトアリアの都市国家に従属した都市国家であったと考えられるが、例えば、5代目のタルクイニウス・プリスクスはエトルリアのタルクイーニアから来たという伝承があり、ウルキにある「フランソアの墓」の壁画に書かれたウルキ出身の「マスタルナ」は、古代ローマのクラウディウス帝によれば6代目のセルウイス・トゥリウスであるというので、彼はウルキ出身であったという伝承があったと考えられる。

 

 なお、この「フランソアの墓」の壁画に書かれているのは、ウルキ出身のカエリウス・ウイウェンナとその弟のアウルス・ウィウェンナと「マスタルナ」たちが、ウォルシニ出身のラレス・パパタナスやローマ出身のグナエウス・タルクィニウスと戦い勝利する場面である。

 

 ビアード論文によれば、このカエリウス兄弟の話は、古代ローマのクラウディウス帝だけでなく、後世の何人かの作家も取り上げているが、そこでは、セルウイス・トゥリウスのエトルリア名はマスタルナであり、「彼はカエリウス・ウイウェンナの忠実な従者で、その冒険にいつも付き従っていた」が、「のちに世間の風向きが変わって、エトルリアを追い出された彼は、残ったカエリウス軍の残党とともに(ローマの)カエリウスの丘を占領し、(カエリウスの丘という名はこのときついたものだ)、改名し(エトルリア名はマスタルナ)て、「セルウィウス・トゥリウス」となって、王位を奪取した」とか、カエリウス・ウイウェンナの弟のアウルス・ウィウェンナも古代ローマの王となったとか言われている、という。

 

 こうした伝承が何らかの史実を反映しているとすれば、古代ローマにエトルリア人の武装集団がやってきて、そこの丘を占領して王位を奪取するということがあったということになり、「フランソアの墓」の壁画に書かれている古代ローマの「グナエウス・タルクィニウス」が、今では名前が忘れられた古代ローマの王の一人であって、セルウィウス・トゥリウスよって打倒された、エトルリアのタルクイーニア出身の王であったとすれば、この戦いは、古代ローマの支配権をめぐって、タルクイーニアとウルキが争い、一時、ウルキ出身の王が即位したということの反映だとも考えられる。

 

 そうすると、エトルリアのキウージの王のボルセンナが古代ローマに侵攻して7代目のタルクイニウス傲慢王を「追放」したというのも、古代ローマの支配権をエトルリアの他の都市から奪取しようとしたものであったとも考えられるので、古代ローマの王政期後半のエトルリア人の王がいた時代には、古代ローマはその時々のエトルリアの有力都市に従属していたのだと考えられる。

 

 「古代ローマの建国過程について(6)」ではこのように述べたが、古代ローマの王政期後半のエトルリア人の王がいた時代には、古代ローマはその時々のエトルリアの有力都市に従属していたのだとすれば、平田論文が紹介する「エトルリアのカエレの暴君だったメゼンティウスという男がラティウムに侵入・席捲し、初穂を要求した」という伝承も、交易拠点であった古代ローマの交易利権の掌握を巡って行われたエトルリアの有力都市の争いの一つであったと考えられる。

 

(c)「傭兵隊長」としての王の擁立

 

 以前「古代ローマの建国過程について(7)」では、ドミニク・ブリケルの「文庫 クセジュ エトルリア人(白水社)」(以下「ブリケル論文」という)依拠して、古代ローマのエトルリア人の王政は、古代ローマでの交易利権を掌握するための「傭兵隊長」としての王の擁立によって開始したと、以下のように述べた。

 

 ブリケル論文は、「ローマを治めたこれらのエトルリア出身の王は軍隊の専門家であって、イタリア・ルネサンス期の傭兵隊長(コンドッティェーリ)と比較される傭兵であり、その軍才ゆえに都市ローマに呼び寄せられたのである」という。

 

 そうした「軍隊の専門家であって、イタリア・ルネサンス期の傭兵隊長(コンドッティェーリ)と比較される傭兵」であったというエトルリア人を古代ローマに呼び寄せたのは、古代ローマのサビニ人やラテン人よりも、エトルリア人の貴族や商人であったと思われるし、そうした貴族や商人とつながっていたタルクィニアやヴルチの支配者の貴族たちは、そうした「傭兵隊長」が古代ローマで王になるのを支援したのだと考えられる。

 

 「古代ローマの建国過程について(7)」ではこのように述べたが、古代では商人は盗賊でもあり、交易には武力は不可欠であったので、エトルリアの有力都市が古代ローマの交易の安全を確保するとともに、他の有力都市に対応して古代ローマの交易利権を掌握するためには、組織的な武力は必須だった。

 

 この組織的な武力の必要性から、古代ローマに交易のために定住したエトルリア人の商人や貴族たちは、エトルリアの有力都市国家と結びついて、古代ローマに彼らの系列の王を擁立したのだったと考えられる。

 

(d)古代ローマの交易利権は塩の交易利権

 

 「古代ローマの建国過程について(7)」では、古代ローマの交易利権は塩の交易であったと、以下のように述べた。

 

 古代ローマにエリトリアのタルクイーニア出身の王が何人もいたという伝承や、ウルキ出身の王もいたという伝承があるのは、古代ローマだけであるので、古代ローマには、他のラテン人の都市にはない何か個別の事情があって、エトルリアの都市国家のタルクイーニアやウルキは、そのためにどうしても古代ローマを掌握しようとして、自分たちに関りがあるエトルリア人の人物が古代ローマの王になるのを支援・協力したのだと考えられる。

 

 「古代ローマには他のラテン人の都市にはない何か個別の事情」があったというときの、この「何か」について、グランダッジ論文は、以下のようにいう。

 

 「考古学の発掘によって、牛市場(フォルム・ボアリウム)がおそらくローマの遺跡でかつて人が最も足繁く通った地域であると判明した」が、「牛市場の陸揚げ地点を交易の場ータルクィニア近くのグラウィスカ〔現ボルド・クンダンティーノ〕やピュルギなどにあった市場を手本とした、外人に開放された一種の自由貿易港ーと解釈」でき、「各種の証拠、とくに地名から、牛市場が担っていた当初の役割や、ローマの発展で塩の収引が占めていた重要性を理解することができる」

 

 「ローマ最古の道が到達した地点は、牛市場と、とくに、その名のとおりの役割を担った「塩の道」(サラリア街道)であった」が、「ティベリナ島を渡ることかできるようになると、この道の正面にはカンパーナ街道か続き、この道はテヴェレ川河口の塩田(カンプス・サリナルム)、換言すればオスティアの塩田へ通じている」のであった。

 

 「したがって、牛市場は、その名が示すように、サビニ地方から降りてきた牧人が、家畜と、海岸で集荷され牛市場に貯蔵された塩を交換するために訪れた市場であり、そこにはサリナエ〔原意は「塩田」〕と呼ばれる地点が存在した」

 

 「ラティウム地方や原史時代のイタリアで塩が稀少で重要であった」ので、「この貴重な食料品の管理がローマ市を誕生させた原因の一つであったといえよう」

 

 古代ローマの4代目の王とされている「アンクス・マルキウスの伝承に登場するラテン人諸族の地を地図に表示してみると、彼の治世は海のほうへ向かっており、ローマによる海岸平野征服の統治であったことが判る」

 

 「塩の交易に関する管理権の掌握は、 スプリキウス橋の建設、ヤニクルム丘の防禦壁の構築、オスティア創建(長いあいだ考えられていたのとは異なり、オスティアは原史時代から人が繁く往来した地であった)といった、一見パラパラと思われる新しい活動を説明する要素の一つだと思われる」

 

 グランダッジ論文のこうした指摘によれば、古代ローマには、おそらく船で河口のオスティアから運ばれてきて、陸揚げされたた塩を交易する「市」があり、古代ローマはその塩を各地に運ぶ交易路の結節点であり、その交易のために各地から古代ローマには多くの人たちが集まってきていたのだと考えられる。

 

 古代ローマの王政期の伝承では、4代目の王とされているアンクス・マルキウスの重要な「業績」は、グランダッジ論文によれば、塩の交易に関する管理権の掌握のための海岸平野征服であったというが、これは、虚構の王であるアンクス・マルキウスの時代に遡及して語られたものであり、おそらく、古代ローマに誕生したエトルリア人の王によって行われたものであったと考えられる。

 

 そして、もしかすると、これを行うことが、エトリリアの都市国家のタルクイーニアがエトルリア出身の人物を古代ローマの王にしようとした目的の一つであったのだと考えらえる。

 

 なお、グランダッジ論文によれば、紀元前八世紀の古代ローマには、エトルリアのウルキの影響が強かったというが、ウルキはテヴェレ川を挟んで古代ローマの対岸にあった、古代ローマに最も近いエトルリアの都市であったので、古代ローマに対するエトルリアの影響は、当初はウルキから及んだのだと考えられる。

 

 そうすると、タルクイーニアがエトルリア出身の人物を古代ローマの王にしようとしたは、そうしたウルキの影響を排除する意味もあったと考えられるが、それはおそらく、古代ローマを結節点とした塩の交易ルートを掌握するためであったのだと考えられる。

 

 そして、古代ローマの第6代王とされるウルキ出身のセルウイス・トゥリウスが、同第5代王のタルクイーニア出身のルキウス・タルクイニウス・プリスクスの暗殺の後、王位についたという伝承は、おそらく、古代ローマの従属先がタルクイーニアからウルキに代わったこと、つまり古代ローマの塩の交易の利権が、タルクイーニアからウルキに移動したこと示すものであり、ルキウス・タルクイニウス・プリスクスからセルウイス・トゥリウスへの変化の過程では、セルウイス・トゥリウスとともにローマのタルクィヌスと戦ったとされるカエリウスが古代ローマのカエリウスの丘を占拠したように、タルクイーニアとウルキの間で軍事力を含む権力闘争が行われたのだと考えられる。

 

 また、そうすると、キウージの王のボルセンナが古代ローマの王政に介入し、タルクイーニアと関係が深いタルクイニウス「傲慢王」を追放したのは、それまで繰り返されてきた、古代ローマの利権をエトルリアのどの都市が掌握するかという争いの延長線のことでもあったと考えられる。

 

 「古代ローマの建国過程について(7)」ではこのように述べたが、古代ローマにラテン人が移住し、その後サビニ人が移住し、さらにその後エトルリア人が移住して、古代ローマが交易拠点となったのは、古代ローマが塩の交易拠点となったからであったと考えられる。

 

 そして、そうであったからこそ、その塩の交易の発展の帰結として、その掌握のためにエトルリアの有力都市は古代ローマに王を擁立して「間接支配」を行ったのであり、またそのことが古代ローマの塩の交易利権をめぐって、エトルリアの有力都市国家相互の争いを引き起こしたのだと考えられる。