古代ローマの建国過程について(18) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島みゆきの「歌旅 -中島みゆきコンサートツアー 2007-」から、「御機嫌如何 [Live]」を聞いている。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」を入手したので、そのうちの、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」について以下検討していきたい。

 

 なお、古代ローマの建国過程については、以前「古代ローマの建国過程について」の(1)から(17)にかけてで検討した。

 

 以下の検討でもこれらの過去の記事に言及するが断片的になるはずなので、関心がある方は、過去の記事を一読されたい。

 

(1)アルバ・ロンガは「大祭」の祭場が設置された地で、そこには都市も共同体もなかった。

 

 松本宜郎編「世界歴史大系 イタリア史1(山川出版社)」所収、平田陽一・安井萌分担執筆の「第二章ローマの興隆」のうち、平田陽一執筆の「I 初期ラティウムとローマの起源(以下「平田論文」という)は、古代ローマの建国伝承では古代ローマを建国したロムルスの祖父が王であったとされている都市のアルバ・ロンガについて、以下のようにいう。

 

 「伝承によれば、「初期ラテン人」は三〇の共同体に分かれていて、これらが同盟を結んでいたという。そのなかには「アルバーニ」=アルバ・ロンガや「フィデナテス」=フィデナエのように容易に同定できる共同体がある反面、同定か困難あるいは不可能な共同体も含まれている」

 

 「アルバ・ロンガはトロイアの英雄アエネアスの子アスカニウスが建てたとされる。それはアルバ山麓にあるいくつかの定住地の一つで、カステル・ガンドルフオの遺跡と同定されている。しかしここでは前十世紀の墓がもっとも古く、アスカニウス時代(伝承では前十二世紀頃)の居住地は発見されていない」

 

 平田論文はここで、「「初期ラテン人」は三〇の共同体に分かれていて、これらが同盟を結んでいたが、そのなかには「アルバーニ」=アルバ・ロンガのように容易に同定できる共同体がある」といい、アルバ・ロンガは「アルバ山麓にあるいくつかの定住地の一つで、カステル・ガンドルフオの遺跡と同定されている」という。

  

 ラテン人が結成したラテン同盟は初めは部族の共同体の同盟であり、ラテン人が都市を建設していくとその都市の同盟となったのだが、平田論文はここでは、アルバ・ロンガはラテン同盟を構成する共同体=都市であったと主張している。

 

 しかし、以前「古代ローマの建国過程について(6)」で指摘したように、アルバノ山地の山麓のアルバの地で行われていたラテン人の「大祭」はラテン同盟の三〇都市の結束を深める宗教的な儀礼であったが、アルバ・ロンガの地にあったのは幾つかの集落だけであり、「大祭」のときにのみそこに祭場は設営されたが、そこに都市が建設されていた痕跡はない。

 

 また、前述のように、ラテン同盟の三〇都市はラテン人が部族共同体ごとに都市を建設して形成されたものであるので、アルバ・ロンガの地にラテン人の都市が建設されていないのであれば、アルバ・ロンガにラテン人の共同体が存在したとは言えない。

 

 以上から、平田論文による、アルバ・ロンガにラテン人の共同体が存在していたとか、そこにラテン連合に加盟していた都市があったとかいう主張は、考古学の発掘資料に根拠を持たないものであり、古代ローマの建国伝承に無批判に従うものであって、受け入れられない。

 

 アルバ・ロンガは「大祭」の祭場が、その期間の間のみ設置された地で、そこには都市も共同体もなかったのである。

 

 アルバ・ロンガに都市がありそこには王がいて、その王の子孫が古代ローマを建国したロムルスであり、古代ローマが発展する過程でアルバ・ロンガの都市は古代ローマに征服され、そこの住民は古代ローマに移住させられたという伝承は、ラテン同盟の主導権を古代ローマが掌握していったことによってアルバ・ロンガは「大祭」が開催されなくなっていったことを背景にした架空のものであり、そこでいう アルバ人とは、古代ローマに後から移住してきた雑多なラテン人たちが、古代ローマの建国神話に自分たちの出自を結び付けたものであったと考えられる。

 

(2)初期ラティウムへはエトルリアの「保護区」として「間接支配」を受けていた。

 

 平田論文は、ラティウムの古代都市で古代ローマの北東の山間部にあったプラエネステとエトルリアとの関係について、以下のようにいう。

 

 「プラエネステでは前七世紀前半の「バルペリーニの墓」と「ベルナルディーニの墓」が発掘され、東方化様式の豪華な副葬品が出土した」

 

 「この副葬品は同じ頃のチェルヴェテリの「レゴリーニーガラッシの墓」の出土品と類似していたので、エトルスキがプラエネステを征服または植民したという説が提唱されてきた」

 

 「ところが近年ラティウム北東部のオステリア・デル・オーサが発掘され、その墓所(前九~前八世紀)から豪華な副葬品が出土し」、「「古ラティウム」の別の遺跡(カステル・デイ・デチマ、アクア・アチェトーサ)でも王侯貴族の墓が発見され、しかも東方化様式の製品はギリシアなどでも発見されている」

 

 「したがってプラエネステがエトルスキに支配されたと論定すべき考古学上の必然性はない」

 

 平田論文は、「ラティウム北東部のオステリア・デル・オーサが発掘され、その墓所(前九~前八世紀)から豪華な副葬品が出土し」、「「古ラティウム」の別の遺跡(カステル・デイ・デチマ、アクア・アチェトーサ)でも王侯貴族の墓が発見され」ているので、ラティウムの古代都市はラテン人の有力者層によって建設されたものであったから、プラエネステがエトルスキに支配されたと論定すべき考古学上の必然性はない、と主張する。

 

 ここで問題になるのは、プラエネステがエトルスキに支配されたのでなければチェルヴェテリとプラエネステの有力者の墓の副葬品の共通性の持つ意味とは何だったのか、ということである。

 

 チェルヴェテリはエトルリアの有力な都市国家であったカエレのことであり、チェルヴェテリとプラエネステの有力者の墓の副葬品の共通性は、エトルリアの有力者がプラエネステに進出し、プラエネステの有力者になっていたことを示すものであると考えられる。

 

 初期ラティウムへのエトルリアの影響とエトルリアにとっての初期ラティウムの位置づけについて、以前「古代ローマの建国過程について(7)」では以下のように論述した。

 

 「エトルリアの影響は古代ローマだけではなく、ラティウムの他の都市にも及んでおり、マッシロ・パロッツティーノの「エトルリア学(同成社)」(以下「パロッツティーノ論文」によれば、「ラツィオ州にはアルカイック期のエトルリアの神殿形式と装飾テラコッタがいたるところに散在しており」、「サトリクナムにはエトリリア人の墓地とエトルリア語の碑文があった」という」

 

 「さらに、カンパーニアの「エトルリア支配の中心はカプア」であり、その後「最大の人口を擁するイタリキ=ローマの都市となった」が、そこからは「前9~6世紀の最も古いネクロポリスの一部が発見され」ていて、そこが「エトルリア人に支配されていた確かな証拠として、一枚の瓦の上に彫られた長文の碑文がある」という」

 

 「こうしたパロッツティーノ論文の指摘から、エトルリアの発展によって、カンパーニアに植民都市を建設するだけでなくラティウムにもエトルリア人が広範に進出・移住して、そこに大きな影響力を持っていたのだと考えられる」

 

 「カンパーニアと異なり、エトルリアと最も近接した地域であるにもかかわらず、ラティウムについては、カンパーニアですでに見られたような統一的・固定的な支配や、まして人口の移動による植民について語るわけにはいかない」

 

 「一部の人々の主権者、首長の派遣、制度的・文化的影響は認められるから、エトルリア諸都市からカンパーニアに向かう陸路と海路(沿岸航路)の管理を確保するための一種の「保護区」であったという印象が妥当なものとなる」

 

 「「エトルリア人がテーヴェレ川の南に拡張したとき」、「青銅器時代晩期および鉄器時代初期(前10-9世紀)の火葬人の「原ラティウム」または「アルバーナ」の文化と、デーチマ(ローマ南郊)の大型ネグロポリスに代表される前8-7世紀の土葬文化に見られるように、すでに相当以前から都市化の方向やかれらの「国家的」アイデンティティを自覚した組織化された原史社会の世界に出会った」のである」

 

 「古代ローマの建国過程について(7)」ではこのように、エトルリアの有力都市はカンパーニアに植民市を建設して「直接支配」するとともに、すでに現地有力者層が成長して都市を建設し始めていたラティウムは、エトルリア諸都市からカンパーニアに向かう陸路と海路(沿岸航路)の管理を確保するための一種の「保護区」として、エトルリアの有力者層の移住、首長としての「派遣」などによって、「間接支配」していたと指摘した。

 

 そうすると、平田論文による、プラエネステがエトルスキに支配されたと論定すべき考古学上の必然性はない、という主張は、その「支配」が「直接支配」であったというのなら正しいものであるが、その「支配」が「「間接支配」であったのならば誤りであると考えられる。

 

 考古学資料からすれば、ラティウムの在地の有力者層の成長もラティウムへのエトルリア有力層の進出はも事実であるので、それらの事実から、ラティウムは、エトルリア諸都市からカンパーニアに向かう陸路と海路(沿岸航路)の管理を確保するための一種の「保護区」とされて、エトルリアによって「間接支配」されていたと考えられる。

 

 なお、このエトルリアによる首長の派遣による「間接支配」の延長線上に、古代ローマへのエトルリア系の王の登場がある。
 

(3)古代ローマではなくガピーにエトルリアからギリシャ文字が伝播した。

 

 ガビーは古代ローマの真東18kmにあったラテン人の古代都市であったが、ガビーへのギリシャ文字の伝播について、平田論文は以下のようにいう。

 

 「ガビーで出土した陶器に、前七七〇年頃に編年されるギリシア文字が記されて」おり、「その銘文は左から右にEVLINもしくはEVOINと読まれ、ギリシア語またはエトルリア語として解釈が試みられたが、意味は不明確である」り、「逆にそれを右から左にNIKEと読み、ギリシア語で「勝利」と解釈する説もある」

 

 「ともあれギリシア文字は、すでに前八世紀前半にガビーに伝播していたのであ」り、「その限りでこの事実は、ロムルスがガビーでギリシア語を学んだと報じるディオニュシオスの記事と合致する(ただしロムルスの実在を証明するものではない)」

 

 平田論文はこのように、「ガビーで出土した陶器に、前七七〇年頃に編年されるギリシア文字が記されていた」ので、「ギリシア文字は、すでに前八世紀前半にガビーに伝播していた」という。

 

(a)イタリア半島へのギリシャ文字の伝播はエトルリア経由

 

 イタリア半島への古代ギリシャ人の進出とそれに伴うエリトリアの発展について、以前「古代ローマの建国過程について(5)」では以下のように論述した。

 

 「ドミニク・ブリケルの「文庫 クセジュ エトルリア人(白水社)」(以下「ブリケル論文」という)によれば、イタリア最古のギリシャ人居留地は、紀元前785年ごろに建設されたナポリ湾の西部のイスキア島のピテクーサイで、紀元前750年ごろには対岸のキューメに植民都市が建設されたが、そこでは、エトルリアのエルバ島で産出した鉄鉱石が交易されていたという」

 

 「また、サルデーニア州はにはフェニキアの植民都市が建設されていたので、ギリシャとフェニキアが構築した地中海交易のネットワークにエトルリアも参加して、活発な交易をおこなっていたと考えられる」

 

 「このように、エトルリアは、イタリア半島南部の古代ギリシャの植民都市やフェニキアの植民都市を媒介とした地中海交易と、それを前提とした、中央ヨーロッパやバルト海沿岸に延びる北方との交易によって、その鉱物資源の開発と肥沃な平野の土地開発を進展させ、紀元前8世紀には発展を開始するのである」

 

 「古代ローマの建国過程について(5)」で述べたように、紀元前8世紀以降のエトルリアの発展は、イタリア半島に進出してきた古代ギリシャ人やサルジニア島に進出してきたフェニキア人との交易の活発化によるものであり、その過程でギリシャ文字がまずエトルリアに伝播してきたと考えられる。

 

 「古代ローマの建国過程について(5)」では、古代ローマのアルファベットはエトルリアを通じてもたらされたものであったと以下のようにいう。

 

 「古代ローマに対するギリシャの文化の影響は、古代ローマのアルファベットが、ギリシャの植民市で使用された「方言」のギリシャのアルファベットがエトルリアで変形されたエトルリアのアルファベットに起源するように、エトルリアを通じてもたらされたものであった」

 

 「古代ローマの建国過程について(5)」で述べたように、古代ローマのギリシャ文字のアルファベットはエトルリアを通じてもたらされたものであったのだが、この事情はおそらく他のラティウムの都市についても同じであり、それらの都市で使用されたギリシャ文字のアルファベットも、エトルリアを通じてもたらされたものであったと考えられる。

 

(b)古代ローマにではなくがピーに最初にギリシャ文字がエトルリアから伝播した

 

 ガビーの位置は古代ローマの真東18kmの地点であるが、古代ローマを貫くティベリス川に、古代ローマの北方で合流する支流のアニオ川の中流に、ガビーに隣接する川が合流しているので、ガビーはエリトリアとラティウムを繋ぐ交易路の重要拠点の一つであったと考えられる。

 

 前述の「ロムルスがガビーでギリシア語を学んだと報じるディオニュシオスの記事」がギリシャ文字のアルファベットが初めて伝播してきたのが古代ローマではなくガビーであったという事情を反映していたものであれば、ガビーはこの交易路の重要拠点であったので、エリトリアからギリシャ文字が最初に伝播してきたのだと考えられる。

 

 しかし、古代ローマはエトルリアとラティウムとの交易拠点であり、エトルリアとの距離は圧倒的に古代ローマの方が近い。

 

 ギリシャ文字のアルファベットがエトルリアを通じて紀元前8世紀ごろにラティウムにもたらされたものであったのなら、まず古代ローマに伝播してもおかしくはないが、なぜ、古代ローマにギリシャ文字が最初に伝播してこなかったのだろうか?
 

 同じような交易拠点であり、かつ、エトルリアよりもより近い位置にあった古代ローマが先ではなく、遠方のガビーにまずエリトリアからギリシャ文字が伝播してきたのは、その時点では古代ローマには都市が建設されておらず、おそらく、エトルリアとの交易のために集まってきたラテン人とサビニ人の集落群があっただけであったからであったと考えられる。

 

(4)紀元前八世紀には古代ローマには都市がなかったので、ギリシャ文字はエリトリアからガピーに伝播した。

 

(a)行き場のない人たちが交易のために作った集落群であった「族長期」の古代ローマ

 

 以前、「古代ローマの建国過程について」で、メアリー・ビアードの「SPQRローマ帝国史I 共和政の時代(亜紀書房)」(以下「ビアード論文」という)やアレキサンドル・グランダッジの「文庫クセジュ902 ローマの起源(白水社)」(以下「グランダッジ論文」という)に依拠して、以下のようにいった。

 

 「古代ローマの建国過程について(5)」では、古代ローマの開放性の起源について、以下のようにいった。

 

 「マティザック論文やビアード論文の指摘によれば、古代ローマには「外部者を積極的に受け入れる、驚くほど寛容な」傾向があり、それは、「家内奴隷の解放」にも表れている」

 

 「ビアード論文が指摘するように、「都市国家成立過程でアテナイ市民権を持てなかった者は、国を持たない根無し草となった」というのは、都市国家アテナイにその建国以降に流入した人たちはアテナイ市民権を持てなかったということであり、こうした傾向は、他の都市国家でも同様であったと思われる」

 

 「この「他の都市国家」には、ラテン人が建設したラティウムの都市国家も入るとすると、ローマが、他のラテン人の都市国家の市民たちが、過剰人口を理由として分岐し、その分岐した集団の一方が新天地に移住するという「「聖なる春」と呼ばれた慣習」などにより、公的に一括して移住してきて古代ローマを建国したとすれば、このような古代ローマの「開放性」などは生まれるはずもなかったと考えられる」

 

 「そうすると、古代ローマは、ラテン人の他の都市国家からの公的な移住によって建国されたものではなく、「新しい町に住みたがるあらゆる人々ー異邦人、犯罪者、逃亡者ーを受け人れたこと」によって、建国されたのだと考えられる」

 

 また、「古代ローマの建国過程について(8)」では、古代ローマの王政期の伝承の前半部分は虚構の伝承であり、その実体は「王政期」ではなく「族長期」であったと、以下のようにいった。

 

 「ビアード論文は、古代ローマの王政期について、以下のようにいう」

 

 「この時期の現実社会(神話ではなく)について話をするときには、王ではなく族長やお頭のようなものをイメージし、王政期というより族長期だったと考えたほうがいいかもしれない」

 

 「「族長期」の古代ローマは、マティザック論文が指摘しているように、「各地の貧しい人びとが寄り集まってつくった町であり、多くのローマ人が極貧の暮らしにあえぎ、比較的裕福な人びとでさえ、隣人の土地を横取りできないものかといつも考えていた」、「都市と呼ぶにはほど遠い、ほかに行く場所のない人たちが集まってつくった寄り合い所帯であり、どの部族も故郷の伝統と習慣を守りつづけていた」のであるが、彼らが生活できたのはエトルリアやオスティアとの交易利権及びその分け前があったからであり、その分け前がそれぞれの武力に比例するならば、ビアード論文が指摘しているように、当時は、「王ではなく族長やお頭のようなもの」が指導者となって、「私的戦闘」を繰り広げるという「王政期というより族長期だった」と考えられる」

 

(b)ラテン人の住む村がある丘とサビニ人が住む村のある丘がエトルリアとの交易利権で連合していた「族長期」の古代ローマ

 

 また、「古代ローマの建国過程について(5)」では、「族長期」の古代ローマにはラテン人の住む村がある丘とサビニ人が住む村のある丘があり、エトルリアとの交易のために「連合」していたと以下のようにいった。

 

 「ビアード論文は、「セプティモンティウム」の祭祀に加わった「丘」について、以下のようにいう」

 

 「「セプティモンティウム(「七つの丘」の意)と呼ばれる毎年十二月に開催されていた儀式」の「祭祀に加わったモンテス(「丘」)のリスト」に乗っているのは、「パラティウム、ウェリア、ファグタル、スブラ、ケルマルス、オピウス、カエリウス、キスピウスである」が、「パラティウムとケルマルスはどちらも一般にパラティヌスとして知られる丘の一部」である」

 

 「そして、古代ローマ「に存在するもう二つの丘、クィリナリスとウィミナリスがリストにな」く、「古代ローマの作家たちはこの二つの丘のことを、ラテン語で「丘」というときにもっと一般的に使われる。「モンテス」ではなく、「コレス」と表現している(二つの単語の意味はほぼ同じ)」」

 

 「こうした、ビアード論文の指摘から、おそらく、サビニ人はローマの北方に居住していたので、パラティヌスの丘の北方に当たるクィリナリスとウィミナリスの丘にサビニ人が居住していたのだと考えられるが、ウィミナリスの丘は後世まで無人であったので、クィリナリスとウィミナリスの丘がサビニ人の勢力圏であったが、サビニ人の村があったのはクィリナリスの丘であったと考えられる」

 

 「なお、このクィリナリスの丘の名はサビニ人の神のクゥイリーニヌスにちなんだもので、後世には、同じくサビニ人の神のフローラの神殿がその丘の上の建設されており、また、この丘にはサビニ人の小さな村があって、サビニ人と古代ローマ人の「連合」が形成されたとき、サビニ人の王のティトス・タティウスがこの村に住んだという古代ローマの伝承があるという」

 

 「古代ローマの建国神話では、サビニ人と古代ローマ人の連合によって、ロムルスとサビニ人の王の共同統治が始まり、ロムルスの死後は、エリトリア人が王になるまでは、サビニ人と古代ローマ人が交互に王になったという」

 

 「そうすると、古代ローマ人に略奪されてその妻になったサビニ人の女性が仲立ちして、サビニ人と古代ローマ人の「連合」が成立したという伝承も、おそらく、先住の古代ローマ人と新来のサビニ人との間で、エトルリアとの交易利権の分け前が調整されることによって、相互の「連合」と「婚姻同盟」が結ばれたということを、後世の古代ローマの歴史家たちが脚色したものであったと考えられる」

 

 「伝承では、この「連合」によって、サビニ人が古代ローマに移住してきて、サビニ人の王と古代ローマ人の王の共同統治として古代都市ローマが出発したとされているが、これは、古代ローマが持っていたエトルリアとの交易利権に、近隣のサビニ人も参入し、エトルリアとの交易が、古代ローマ人とサビニ人によって共同運営・管理されるようになったことを物語るものであったと考えられる」

 

 「そして、パラティヌスの丘の集落が前七五〇~七〇〇年頃のものであったとすれば、古代ローマに多くの人たちが集まって来たのは、おそらく、エトルリアが発展し始めたころの紀元前八世紀ごろのことであり、その記憶から、古代ローマの建国神話では、その建国を紀元前753年としているのだと考えられる」

 

(c)古代ローマの建設が開始したのは紀元前六五〇年頃であった

 

 「古代ローマの建国過程について(5)」では、以下のようにいう。

 

 「グランダッジ論文は古代ローマの建設が開始したのは紀元前六五〇年頃であったと、以下のようにいう」

 

 「紀元前六五〇年頃、年頃、クィリナリス丘とパラティヌス丘を分け隔てる窪地の奥に流れている急流の排水工事によって、まず一本の道(聖道(ウィア・サクラ))が開通」し、「王宮では、紀元前六二五年頃、建物か洪水で運び去られ、標石か残る空地となった」が、その後、「五回にわたって(紀元前六二〇年、六〇〇年、五八〇年、五四〇年、五一〇年頃)、一棟の建物が同じ場所に建てられた(王(レクス)」という語が記された土器の断片によって王宮と特定できる)」

 

 「一方、紀元前六二〇年頃、初めてウェスタ聖所が整備される」

 

 「フォルム・ロマヌムでは、その名の示すとおり、市民の会合の場である(または、将来市民の会合の場となる)コミティウムで、紀元前六二五年頃土を踏み固める舗装工事が実施されるか、それと並行してその近くに建物が整備される」が、「瓦が出土しているので、その建物はクリア・ホスティリアの可能性がある」

 

 「ついで、紀元前七世紀なかば、そこに聖域が設けられ、碑文が刻まれた標石(ラピス・ニゲル〔黒い石〕)が設置され」、「その際、近くの建物も改修され」、「この遺跡は、紀元前六世紀末頃、再び整備される」

 

 「最後に、サント・オモボノでは、紀元前七世紀に最初の聖域が存在し、紀元前五八〇年頃か紀元前五四〇年頃(見解ほまちまち)、神殿が建造されたと推定されている」

 

 「紀元前七世紀末と紀元前六世紀は造営活動や都市化の面で大変革が起こった時代であ」り、「紀元前七世紀から初めて聖なる空間(ウェスタ聖所、サンド・オモボノ、古クリア)が整備され、奉納品か奉献されはじめたことがカピトリヌス丘(しかし最近の解釈では異論が唱えられている)やクィリナリス丘(サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会)で検証されている」

 

 この指摘によれば、古代ローマに都市が建設され始めるのは紀元前六五〇年頃のことで、ギリシア文字がガビーに伝播した前八世紀前半の時点では、古代ローマは都市ではなく、「族長」たちが支配する集落群でしかなかったと考えられる。

 

 以上から、ギリシア文字がすでに紀元前八世紀前半にガビーに伝播していたが、その時期には古代ローマには伝播してはいなかったのは、まだそのころの古代ローマは都市ではなく、古代ローマの丘の上に散在していた集落群の緩やかなまとまりでしかなかったからであったと考えられる。

 

 古代ローマが都市になるのは、後から移住してきたエトルリアの勢力を背景にして、エルトリアの有力都市の支援を受けたエリトリア系の王が即位し、現実の「王政期」が開始して都市建設に着手して以降のことであった、と考えられる。