今日のブログも雑談の間合いで行くのかな? と思って心に聞いてみたら、「今日は心に聞きまくる回にしよう」とか言ってきました。
なにを聞くの? と尋ねると、「なんでも」と言う。
そう言われると逆になに聞けばいいのか迷っちゃうんですが、そこはそれこそ雑談の心意気ということで、適当に聞いちゃう。
てことで以下は、地の文は私の言葉、「」内は心の言葉です。
ひろプリ、面白いな。
「ええアニメやね」
私は女児じゃないのに、なんで面白く感じるのかね?
「ひろプリは虚無率が高いんよ。虚無40・支配15・光45ぐらいの割合やな」
って、一番高いの光やん。
「正統派の子ども向けアニメは、光の正しさを一番に掲げるからな。ただそれだけだと親しみを感じてもらえないということもわかっているから、虚無の要素も多めに入れてくる。ひろプリはバランスがええのよね」
虚無の要素は親しみにつながんの?
「虚無の究極は、あるがままを認める、やからな。つまりは全肯定の心なんで、自然と親しみになる。否定がないからな」
否定されない安心感を親しみと感じるってこと?
「ちょっと違う。肯定・否定の二極化の世界に突入しちゃうと、それは支配のバトルワールドになっちゃうから、親しみのホルモンより戦いのホルモンが優位に立つ、みたいな感じやな」
なるほど、ゲームのジャンル自体が変わると。
「そうそう。んで幼少期の体験とかトラウマの再上演とかもここらへんに関わっていて、親から『正しい・間違ってる』の判断を(親が意識してるかどうかは関係なく)問われ続けていた子どもは、親の愛、つまり世界からの愛とは正しさを選んで間違いを避けることだと認識してしまう。それは結局の所、正しさという食料を求め続けるサバイバル、バトルの世界になるんや」
ゆーても、プリキュアもバトル自体はあるよな?
「そこはまあ支配要素もスパイス程度にはいる、てのもあるが、プリキュアの場合は光の正しさを得るがゆえのバトル、というのがメインやな。バトルというのも結局はストーリーの一部やから、どういう文脈で描かれるかによって話が変わってくる」
てことは、虚無的な価値観で描かれるバトルってのもあんの?
「ある。支配を拒絶する過程をバトルとして描くことはあるな。もっともその場合、結構特殊な描かれ方になるけど」
具体例はある?
「ネタバレなんで詳細は避けるが、鬼滅の刃の『私を置いて行くなアアアア!!』やな。検索するともろネタバレ含んだ詳細が出てくるけど、これはわかりやすく、支配をただ拒絶するという工程が描かれとる」
なるほど、確かに。てことは虚無的なバトルだと、むしろ戦わないバトルになるというか、精神的な勝負になるって感じ?
「戦わない、についてはそうやな。精神的な勝負という領域になると、支配や光の要素になりやすいんでちょっと違う。虚無にとっては根本的に、勝負自体がどうでもええんよ」
自分との戦い、みたいな表現があるけど、それも虚無にとっては本来どうでもいい?
「どうでもいいな。自分と戦ってるつもりで、実は脳のネットワークで繋がった支配者と戦ってるってケースは多いし、あるいは光の価値観である克己を自分との戦いを表現してるという場合もある。本来の虚無にとっては、自分はただ自分であってそれ以上でも以下でもないから、戦ってどうこうするなんてことはない」
戦わんでええなら、楽やろなー。
「楽やで。虚無の生き方は本来、ただ楽なもんや。それをあれこれ言って批判し否定し苦難の道に引きずり込もうとするのが支配者で、つまりはさっきの鬼滅のアレやな」
つまり、支配者がなにを言おうと、そこに一見道理があるように見えても、結局はそういう攻撃をしてきているだけという話だから、全部ガン無視でいいと?
「そうなる。そもそも道理なんてもんはなんにだってつけられるから、道理があるからいいということは全くない。世の中、どんなことだって正当化はできるもんや。
良心が痛む、なんて言うが、結局それも支配者がぶん殴ってきてるから痛いと感じてるだけや。自分が原因の痛みではない。だから、支配者がぶん殴ってくるのを拒絶する、それだけでいい」
こんなこと書いていたら、自分の罪を支配者なんていう妄想の存在に押し付けている弱い卑怯者! というダメ出しが脳内に浮かんできたんやけど?
「置いていけ」