昨日の記事タイトルである「常に自分が正しいと仮定して考える」というのは、そのまま呪文としても使えます。
私自身、心に言われて昨日はこれを唱えまくってたんですが、この呪文はかなり強力かも? と感じているんです。
これを唱えていると、いろいろ揺さぶられそうになる自分の気持ちの中心に、しっかり芯が通って揺さぶりを抑えてくれる感じがする。
「考える」という言葉を呪文の中には入れていますが、実際に意識的に自分の正しさを考えたりはしていません。
別にしてもいいんですが、そうしなくても、無意識が勝手に考えてくれるでしょ! というスタンスでやっています。
そして感じるのは、「仮定する」という一見呪文の効果を弱めていそうな言葉が、実はものすごく強力に作用してるんじゃないのかな、ということです。
この呪文をもっとストレートに書けば、「常に自分が正しい」と表現することもできるかと思います。
でもこれだと、多分呪文としてはそれほどうまく機能しない。
平たく言えば、唱えても多分そんなに楽にはならないし、むしろかえって動揺が強くなるかもしれません。
それで思い出したのは、かつて阪神淡路大震災が起こったときのことでした。
ちょうどあの地震が起こった年まで、私は関西に住んでいたんです。
そして、現地であの震災に直面することになった。
地震が始まったあの朝、揺れで目が覚めた私は、一体なにが起こっているのかわけもわからないまま、本能的に毛布にくるまって身を守っていたように記憶しています。
当時のうちは高層マンションに住んでいて、私の家は三十何階だったか、正確には忘れましたが、ともかく高い位置にありました。
もしも建物が崩壊でもしたら、どう考えても助からない位置です。
けれど地震が収まったときも、その後の余震を迎えたときも、うちのマンションは崩れることはありませんでした。
後から母に話を聞いたところ、うちのマンションは、当時としては最先端の(?)「あえて揺れやすくすることで地震の衝撃を逃す構造」を採用していたそうです。
そのおかげで、あの震災を乗り越えることもできたのかもしれません。
金属も、硬すぎる金属は折れやすい、とも聞きます。
建物や金属と同じく、人間の身体や精神も、硬いよりも柔らかいほうが強いのかもしれない。
今回の呪文で言えば、「常に自分が正しい」という言葉は一見強く見えるものの、その実は硬く柔軟性に欠け、故にガンガン揺さぶられやすいんじゃないかなと思うんです。
けれど、「常に自分が正しいと仮定して考える」という言葉だと、「仮定」「考える」という二つの単語が、言わばクッションの様に作用しているのかもしれない。
その単語によってもたらされる柔らかさが、「常に自分が正しい」という硬い言葉と組み合わさることで、とてつもない強さを生んでいるのかもしれないと感じるんです。
そう考えると、昨日の記事でも書いた「常に自分が正しいと本当に信じきれる人間はいない」というのは、そこに本当の強さはないと理解している人間の本能ゆえの心理なのかもしれません。
「なんかよくわからんけど」ぐらいのいい加減で曖昧な感じのほうが、人はかえって強くなるのかも、なんてことを思うんです。