今年のテーマ 藤原氏ビックリマーク

 

お茶の京都トレインに乗って。

 

 

吊り広告、一休寺。

 

 

ジェイなら到着。

 

 

平城宮大極殿跡の石標。

 

 

油阪船橋商店街。

 

 

登大路を東へ。走る人

 

 

聖武元明元正天皇陵左へ六丁廿丁の石碑。

 

 

きたまち案内所(旧鍋屋交番)。

 

 

奈良女子大学。

 

 

東大寺 大仏殿と若草山が見えます。

前日の山焼きで黒くなってますねぇ。🔥

 

一条通り 法蓮橋。

 

 

到着。再訪です。

 

 

聖武天皇佐保山南陵 拝所。

 

 

参道を進みます。

 

 

左の天皇陵へ。

 

 

 

 

 

 

お願い

 

 

生没年 701~756

奈良時代(在位724~749)の第45代天皇。

藤原鎌足のひ孫。藤原不比等の孫。

父は文武天皇、母は藤原不比等と文武天皇の娘、藤原宮子。(よって聖武天皇は藤原の血ビックリマーク

藤原武智麻呂、吉備内親王の甥。

阿部内親王(孝謙・称徳天皇)・安積親王の父。

皇后は、藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘、安宿媛(あすかべひめ)(藤原光明子)。

 

積極的に唐代の文物制度を採り入れて国政の充実に努めた。また仏教を深く信仰し、国ごとに国分僧尼寺を建立し、自ら書写した経文を納めた。さらに東大寺を建立し、奈良大仏を鋳造して天平文化をつくりだした。しかし諸寺院を建立し、多くの土地を寄進するなどが原因で国家財政が乱れる原因も作り出した。

 

藤原氏の重鎮が天然痘で相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には聖武天皇と県犬養広刀自との皇子、安積親王が脚気のため急逝した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。

娘の阿部内親王(孝謙天皇(重祚して称徳天皇))に譲位後は出家入道。遺品の多くは正倉院に納められている。

天皇治世中の政治・社会情勢は決して穏やかなものではなかった。長屋王の変(皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。)に象徴される権力闘争、光明皇后の兄弟たち(藤原四兄弟)を死に追いやった天然痘の流行、九州での藤原広嗣の反乱と、10年以上にわたる激変が続いた。聖武天皇はこうした世の中を癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかるには仏教思想による以外にないと、仏教への傾斜を強められたのであろう。

 

聖武天皇が見ている景色。

 

 

 

聖武天皇陵の景色。

 

 

安宿媛(あすかべひめ)、光明皇后(光明子)陵へ行きます。

 















 

 

 

see you again 👋

フォローしてね…