奈良県生駒郡平群町を散歩しまーす。走る人


近鉄 生駒線で平群駅下車。





カリヨン時計塔。



国道168号線。後方は矢田丘陵。



脇道を西へ折れます。後方は生駒山地。



鳥居⛩️が見えます。





第40代 天武天皇皇孫 長屋王墓。




綺麗に整備されてます。

何やろ?身の引き締まる雰囲気ビックリマーク


?~729.2.12

天武天皇の孫で,高市(たけち)皇子の子。母は天智天皇の子で元明天皇の姉御名部(みなべ)皇女か。文武天皇の同母妹吉備内親王を正妻とし,親王に準じる高い待遇をうけた。元明天皇の信頼あつく,720年(養老4)の藤原不比等(ふひと)の死後は政権の中核となり,右大臣ついで左大臣に任じられ,良田百万町の開墾計画(722),三世一身の法の制定(723)などの諸政策を実施した。しかし724年(神亀元)の聖武天皇の即位後は,藤原武智麻呂(むちまろ)ら不比等4子の勢力が強まり,729年(天平元)謀反の罪で妻子とともに自殺に追いこまれた(長屋王の変)。漢詩文をよくし,自邸でしばしば詩宴を催したほか,仏教の信仰もあつかった。王の邸宅跡からは多くの木簡が出土している。


お願い



鳥居の奥には大木。



畑と住宅に囲まれてますね。



長屋王像(南法華寺蔵、江戸時代)




お隣は長屋王御陵公園。



長屋王墓と周辺の遺跡。


長屋王の変

729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕生した。この王は次の天皇たるべく翌々月に立太子したが,翌728年9月夭折した。ところがそのころ,聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積(あさか)親王を出産し,藤原氏に衝撃を与えた。聖武唯一の皇子である安積親王はやがて立太子し即位する公算が大きく,そうなると藤原氏は将来権力の座を追われかねない。安積親王を暗殺して光明子が次の皇子を出産するのを待つことも考えられるが,いかにも強行手段である上に皇子が生まれるかどうかわからず,生まれても夭折しない保証はないという不安があった。そこで藤原氏は,光明立后の道をえらんだ。日本古来の伝統的な皇后の地位からすると,安積親王が皇太子になっても十分対抗しうるし,場合によっては次の女帝となることも可能であったからである。しかし,それには問題があった。皇后には伝統的に皇族出身者がなるため,光明子の立后には当然反対が出ると予想される点である。その反対の中心人物と目されたのが,当時左大臣として廟堂の首班であった長屋王である。そこで藤原氏によって,長屋王の打倒が計画された。729年2月10日,左京人の漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまんど)の2人が,長屋王はひそかに左道を学び,国家を傾けんとしていると密告した。その夜ただちに長屋王の宅が包囲され,翌日訊問が行われ,2月12日には早くも自尽が命ぜられた。弟の鈴鹿王はじめ大部分はゆるされた。事件の動揺がおさまった6月,藤原麻呂が大夫(長官)である左京職から,背中に〈天王貴平知百年〉という瑞字のある亀が献上され,これを機に8月に天平と改元され,つづいて光明子の立后が実行された。ここに藤原氏は目的を達したのである。以後,藤原氏は光明皇后とその4兄弟を中心に政界を領導していった。













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