和束井手線(府道321号)を走って和束町に到着。🛵。。。

何度となく見ている太鼓山(安積親王(あさかのみこ)墓)。そう言えば上まで行ったことないなぁ。


ってことで、初訪問ビックリマーク



和束墓参道ビックリマーク



茶畑に囲まれてます。走る人



青空照れ







到着。



第45代 聖武天皇皇子安積親王 和束墓



🙏



ローソンが見えます。



周れるようになってます。走る人



北西方向。



太鼓山(安積親王 和束墓)から見た和束の町。



退散します。和束川が見えます。



ローソンからの太鼓山。



和束で生活した安積親王

安積親王は、728年、聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間に第2皇子として生まれました。同母姉に井上内親王(いのうえのひめみこ)、同母妹に不破内親王(ふわのひめみこ)がいます。聖武天皇は、後に皇后となった安宿媛(あすかひめ)との間に、718年、阿倍内親王(あべのひめみこ)、727年、第1皇子基親王(もといのみこ)をもうけました。安宿媛は、740年ころから光明子(こうみょうし)と称した藤原不比等の3女で、藤原家という大きな後ろ盾を持っていました。
 ところが、生まれてすぐに立太子した基親王が728年に薨去したため、安積親王が聖武天皇の唯一の皇子となり、将来の皇太子の最有力候補と目されました。ところが、安宿媛が皇后となり、738年には、安宿媛を母とする阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が異例の女性皇太子として立太子しました。このような立太子のありかたは、従来の慣例・慣行に反するものですが、藤原氏の血をひかない天皇の誕生を阻止するために行なわれたと考えられ、当時の藤原氏権勢の大きさを示しています。


安積親王の薨去

  安積親王は、大伴家持らと親交を結んでいたようで、743年の秋から冬にかけて恭仁京にあった藤原八束の邸宅で宴会を開きましたが、そのときに大伴家持が詠んだ歌が万葉集に載せられています。翌744年1月には、親王の邸があったと見られる活道(いくぢ)の岡(和束町白栖)で家持や市原王(いちはらのおおきみ)(天智天皇5世の孫)らが集まって宴を開いています。

聖武天皇は、744年閏1月11日、安積親王を伴って難波に行幸しましたが、安積親王は、途中の桜井頓宮で脚気が発症して恭仁京に引き返しました。そして、その2日後に17歳でその生涯を閉じました。安積親王の死は、恭仁京の留守を守っていた藤原仲麻呂による毒殺説も唱えられており、藤原氏が安積親王の死に関与した可能性が指摘されている。陵墓を見ていると、安積親王の無念の声が聞こえてくるようです。

 


















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