先ほどの記事で、いささか短大生に対する表現に誤解を招く表現があったかもしれない。


大谷大学大学院に入った時に、自分の偏見を恥じた。大谷大学は同じキャンパスに、4年制と、併設する短大があるのであるが、なんといっても一目でわかるくらいに、短大生はまじめでしっかりしていた。


おいおい、これから海水浴にでもいくのか・・・というような恰好をして、授業中もメールやゲームをしているのは4年制の方である。


見ただけでわかるほど短大生は、立ち居振る舞い等が4年制とは異なっている。大学院の研究室の前には、短大の校舎があって、この年で大学院に入ると、教員と間違えられるのも無理のないことであって、大きな声で「おはようございます!」と挨拶されてふりかえると短大生である。


もともと。幼稚園の保母さんになるコースが中心であり、就職率も抜群に良い。グローバルなんとかだの国際人の養成など戯言をいって4年制に進む学生よりも職業意識・人生設計がしっかりしているのであろう。


さて、なんで幼児教育学科の短大生が抜群の就職率かを理解するには時間がかかった。


答えは、全国各地には必ずお寺はある。お寺が経営している幼稚園や保育園は山ほどある。伝統のある仏教系の大学だから、OBには幼稚園を経営している僧侶も多い。


そこまで、ちゃーんと調べて短大に進む学生さんは偉い!



現在(2012.6月・岡山版朝刊)、日経新聞の「私の履歴書」に日本を代表する女性科学者の米沢富美子先生が執筆されている。


特に、理系の研究者を目指す女性には、ぜひ読んでほしい。


ほんの少し前まで女性が、大学に行って、研究をするということが社会的にいかに難しかったということが綴られている。


ましてや、女性が浪人して難関大学に再チャレンジなどということはあり得なかったのであろう。私が高校生のときでさえ、25年ほど前だが、女の子は短大で十分だと授業中にみんなの前で言った教師がいたのを、はっきり覚えている。


米沢先生が母親についてお書きになっているところは落涙ものである。


お母様は女学校時代、爆発的に数学の能力を開花され、

学校の先生が、あまりの才能に驚き、上級学校への進学を説得に来られたそうだ。ただ、当時のこととて、それはできなかったとの事である。


一体全体、米沢先生から見て「数学の才能がある」というのは、どの程度なのかということは、私のような凡人には想像すら不可能だ。


米沢先生が、まだ2,3歳のころ、お母様が幾何を教えたら、かたっぱしから理解されたそうだ。


その時の話がまた、凄い。


米沢先生は「幾何があれば、もう,おもちゃも何もいらない」と思ったそうだ。


お母様は、自分の才能が娘に受け継がれていることが分かった時に、

「体に電気が走るような衝撃を受けられ、(自分の才能の)後継者」と確信されたそうだ。



ぜひ、女子の理系受験生にはお読みいただきたい。








電子辞書に関しての見解を更新する。


最新の高校生向けの売れ筋と言われる電子辞書を買った。


以前に買った電子辞書とは別物だ。画面も大きくきれいになっている。

例えば卵の孵化の動画もあれば、漢詩の朗読・単語テスト機能もついている。パソコンとの接続も可能だ。


こうなると、紙の辞書と電子辞書というのはもう比較できないのではないか。辞書を電子化したものではなくて携帯型情報教養機器というべきものだ。


当ブログは全て見てください。一部だけを見ないでくださいとお願いしているのはこれが理由である。



現在の段階では、簡単な単語や文章の書きとりと言った内容になります。もちろん、こういった繰り返しの基礎的な練習も重要ですが、これらは、学校でも練習することですし、ご家庭でも自習できる内容になります。このため、どうしても数学の時間が多くなりますことを、ご説明いたします。

 電子辞書の発音機能は、英語の単語を実際に辞書のスピーカーから流し、それを聞くことができるというものです。


 さて、以前本ブログ記事「電子辞書の発音機能 」で、外国語の発音というのは、聞こえたとおりに発音してはいけないと書きましたが、このことをもう少し詳しく説明したいと思います。





音楽を例にとって説明します。


ベートーベンの第九を収録したCDのなかに、フルトヴェングラーがバイロイトで指揮したものがあります。その中で、フルトヴェングラーが舞台に出てくるときの足音(とされる)が録音されているものがあります。


私は以前、何度も聞いていましたが、それにはまったく気づきませんでした。

ところがある時、これがフルトヴェングラーの足音であると説明された解説書を読みました。

そこで改めてCDを聞き直したところ、確かに足音(のような)ものが入っているわけです。


その知識をもってCDを聞くと、今度は常に足音(のような)ものが聞こえるようになるわけです。


もう一つの例を挙げます。


モーツァルトの生まれ故郷で、Salzburg(ザルツブルグ)という街があります。

このSalzburgの「Sa」の部分の音は、日本語でいうと、「サ」と「ザ」の中間部分の音だから、「サルツブルグ」と発音したほうが分かりやすいと、現地の人からアドバイスを受けました。


そしてそのアドバイスを聞いて現地の人が発音しているのを聞いてみると、皆「サルツブルク」と言っているように聞こえるわけです。




このように、人間が音を聞くというのは、単純な作用ではなく、脳のデータベースに基づく総合的な働きなのです。


だから、電子辞書の発音機能を用いて発音されるのを聞き、それを真似するというのは、発音記号の学習や音声学の勉強をすることがおろそかになるという、安易な勉強法につながる恐れがあると思われます。



ものを見る=視覚についても同じことが言えます。


たとえば、30年ぶりに同窓会に行ったとします。

そこに、あれは一体誰だ、何度考えてもわからない、かつての同級生がいます。


そのうち出席者の誰かから、「彼が田中君だよ」と教えられて、あ、よく見ればあの田中君じゃないか!と思うと、それからはその人が田中君にしか見えないわけです。


こういう例もあります。

久々に会ったら、いや、ちょっと痩せた(太った)のではないかと言われることがあると思います。

久々に会えば、その人の変化が目で見て分かるわけです。


ところが、毎日自分の顔を見ていると、自分自身の脳のデータベースが少しずつ更新されますから、自分が太ったとかやせたとか、あるいは年を取ったということは、なかなか気が付きにくいものなのです。


「私は人から(実年齢より)若く見られている」

と勘違いする女性(や男性)が多いのも、これと同じ理由です。




ですから、撮影者の目で見たままをそのまま撮影できるデジカメを製造することは、非常に難しいことなのです。












UBQの近くに、それはそれは見事な蛍鑑賞の穴場を発見しました。


はっきり言って感動しました。


せっかくの機会ですから、帰宅路誘導をしている学年は、場合によっては少々早めに授業終了を繰り上げて、帰りに、少し寄り道して蛍を鑑賞する機会を、一度は、設けたいと思います。


授業進度に差し支えないように致しますが、10分程度、お子様のお車への誘導が遅れることもあるかとも思いますので、ご了承ください。




金環蝕です。


次に日本で見られるのは遠い将来。奇跡の天文ショー。


一体、何年に一度、ある場所でみられるのか知らないが200年に一度とすれば、2000億年に、10億回も!


でも、「今日という日」は宇宙開闢から以来永劫まで、ないし宇宙消滅の日まで、一回きり。

また、おひとり偉大な芸術家が、亡くなられました。

今回の訃報はとくに、驚きでした。

20年くらい昔、倉敷(岡山県倉敷市)でディースカウ氏の、シューベルトの歌
曲のリサイタルがありました。幸いにも最前列のチケットが入りました。
ロビーは同氏のおかきになった絵画の展覧会にもなっていました。

後でお聞きした話ですが、直前まで同氏が、ロビーで説明されていたそうです。もう少し早くいけば、、、、

いよいよ、会場に入ると倉敷芸文館という小さな会場ですから、本当に目と鼻の
先に、ディースカウ氏が現れました。


正直に申し上げますと歌曲の歌詞や文学的背景は、詳しくわかりませんでした。

ただ、それでも、ディースカウ氏が、歌われると、ある場所では魔法にでもかけ
られたように、こちらもウキウキしてくるのです。また、ある場所では、低い声
で、嘆くように歌われると、こちらも、どっと落ち込むのです。

大芸術家に対して失礼な表現をおゆるしください。

歌詞も詳しくわからないのに、歌詞が、手に取るように、わかるような錯覚を覚えたのです。


もう、古い思い出になりましたが、帰ってから日記に

「今日は世界最高の芸術に接した。」

と書いたことは覚えています。                花を添えて合掌。


以下の花は特別な場所ではなく、UBQの近くで見つけた野草です。


勝手に野草とか雑草とか、お前ら人間の都合で呼ぶんじゃない!もともと、花は全て野草で雑草だ!と・・・花は思っているかもしれません。


UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ

UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ

UBQ数理フォーラム代表:長山豊のブログ

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数学のセンスというのは本当に便利な言葉だ。


塾講師歴30年の中で


「僕は数学を本当に頑張って勉強してきました。誰にも負けないぐらい本当に、寝食を忘れて努力してきました。僕ほど数学の勉強に関して努力してきた人は少ないと思います。でも、どうしても数学の成績が上がらないのです。僕には数学のセンスがないのでしょうか?


という相談は私を含めて、どの数学の講師も一度も聞いたことがない。

とはいえ、そのご老人には何も申し上げませんでした。


話は変わる。ここからは「危険な教育論」。他人に注意しないのが日本の文化:


高校生なら一度は習う、徒然草52段より



「仁和(にんわ)寺に、ある法師(ほふし)、年寄るまで、石清水を拝(をが)まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

 さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

 すこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。」


兼好法師も注意していませんね。(それまで、こころうき)一生の念願を果たそうとしているかたなのですから、せめて人生の本意(ほい)のために、教えてあげればよかったのに。


文脈(仁和寺から石清水まで歩いていける体力がある)から見て石清水リベンジはできた可能性が強いですね。かりにもう高齢でできなくても自己責任です。仁和寺の法師が死に際に不本意に気がついたら、兼好法師はなんて残酷な人なのでしょうか。古典はひどく人生勉強になりますね。