丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

こどもの頃、住んでいた家の窓枠は木でできていて(開け閉めのとき、時々、ソゲが指に刺さったものだ)、はめられた硝子は指先ではじくとチーンと澄んだ音がするくらいに薄かった。

冬の室内の寒さときたら尋常ではなく、ましてやストーブをたくことのできない浴室なんて、まるで北極のようだったのだ。

だから我が家では、冬の間は家の風呂は使わず、3日おきくらいに、歩いて5分ほどの銭湯へ通った。

 

銭湯へ行く手前には、ぐるりを道路で囲まれた、見通しのいい三角形の公園があった。

ちょうど三か所の頂点部分それぞれに入口があり、ひとつの辺に沿って砂場と鉄棒が、もうひとつの辺にはちいさなジャングルジムと滑り台が、そして一番手前の一辺にはブランコと、地球儀のような球形の遊具があった。

この球形の遊具は鳥かご状になっており、地軸よろしくすこし傾いて設置されており、グルグル回すことができて、内側に入り込むとこどもが3~4人、座ることのできるスペースがあった。

 

遊具はどれも錆びついていて、遊んだあとの手や白いシャツは赤茶色に染まり、血の味に似た鉄の臭いがした。

 

夜、銭湯ですっかり温まった状態で街灯に照らされた道を帰るとき、風で揺れるブランコを「あれは目に見えないお化けがブランコを漕いでるんやで」と僕に教えてくれたのは、五つ年上の兄か、あるいは当時、一緒に暮らしていた、大学生だった母の一番下の弟だっただろうか。

 

だが、僕は暗闇のなか、かすかな街灯にてらされて揺れるブランコを見ても、なぜだか怖いとはまったく感じず、むしろその光景に不思議と惹かれた。

 

そしてある夜、一緒に銭湯から帰る父や母のそばを離れて、ひとり、ドキドキしながら公園のひとつの頂点の入口から、もうひとつの入口に向かって、ブランコの横を走り抜けようとした僕は、ひとつの「宝物」を拾ったのだ。

 

それは真鍮のように鈍い光を放つ、長径が1センチほどの金属製の、おそらくはペンダントトップなのだろう。

女性のレリーフが施されていて、大きさの割に重量感があり、こどもの手にはずっしりとした不思議な重みが感じられた。

 

母はそこに刻まれた立ち姿を、おそらく聖母マリアだろうと言い、こうしたものには人の思いがこもるものだから持ち帰ってはいけない、と続けた。

そのため、僕は心惹かれながらも、その「宝物」を街灯に照らされた公園の入口の、低い門柱の上に目立つように置いたのだ。

 

それは母の言うとおり、ただのデザインとしてのマリア像や十字架ではなく、信仰の対象ともなるような意味合いを持った品ではなかったのだろうか。

その古びた鈍い輝きと手に感じる不思議な重みが、そんなことを思わせたが、だからこそ、その「本物」感がいっそうに、僕の心を捉えた。

 

だが、その「宝物」は三日後くらい、銭湯帰りに立ち寄ったときも、そしてさらに三日後くらいの帰り道でも、まだそこに置かれたままだった。

父は母の方を見やり、諦めたように、あるいはすこし呆れたように言った。

「ま、これだけ経って誰も持っていかへんのやったら、持って帰ってもええやろ」。

 

こうしてこの「宝物」は僕の宝箱、セミの抜け殻や未来を見通すこともできそうな不思議な色合いのガラスのビー玉、夏に海岸で拾った貝殻なんかと一緒に、クッキーの入っていたカンカンの中に収められることとなったのだ。

 

あのカンカンはどこへいったのだろう。

実家の片付けをしたときには見つからなかった。

たしかその後も、あのカンカンの中には制服のボタンだとか、詰襟につけていた校章だとか、もらった四葉のクローバーだとか、そういった大切な「思い出の品」が、次々と、ファラオの棺よろしく、大切に収められていったのだが。

 

いや、違う。

あの「宝物」の関しては、いつまでもあのカンカンの中に大切に入れられていたわけではなかった。

今、この文章を書いていて、不意に思い出した。

どうしてあの「宝物」を拾ったときのことは鮮明に覚えていたのに、あの「宝物」を手放したときのことはすっかり忘れていたのだろう。

 

そうだ、あれはそれからしばらく経ってからのことだ。

当時の僕にはすごく仲のいい友達がいて、何をするのも、すべて彼と一緒だった。

あまりに仲がよすぎて、逆に、彼以外との同級生との関係は極めて希薄だったのだ。

だが、変化は突然、訪れた。

 

彼は転校してきたN君と、僕の気付かぬ間にすごく仲が良くなってしまい、僕は孤立してしまったのだ。

 

彼とN君の二人組が僕に仕掛けるからかいやちょっかいを、僕は「意地悪」だと捉え、学校へ行くのが辛く、嫌になってしまった。

おとなの目からすれば、別にそれはイジメでもなんでもなく、「だったら今度は3人で仲良くすればいいやんか」。今の僕には、そうだ、そうした健全な考えが理解できるのだけれど、当時の僕からすれば、「すべてが終わった。もう、この世の中に楽しいことなんてひとつもない。あるのはただ、絶望だけだ」、そんな思いだったのだ。

喧嘩をした、などというのであれば、まだ、心の整理がつく。

でも、一方的に飽きられた、面倒くさく思われるようになった。直接的な言葉ではなく、態度でそれを示された。

そして周囲の同級生からは「ひとりとだけ、仲良くするからこんなことになるのだ」と考えられ、可哀想がられる。

僕はそのことに耐えられなかったのだ。

 

僕はふと母の言葉を思い出した。

「こういうものには人の思いがこもっているから、持ち帰らないほうがいいよ」。

 

僕の人生にこうした裏切りとも思える不幸が訪れたのは、もしかして、あの「宝物」を自分のものにしようと考えたからなのではないのだろうか。

そのバチが当たったんじゃないだろうか。

 

鈍い輝きを放ち、しっかりとした重みを感じる、その「宝物」。

 

僕はカンカンの中に同じように大切にしまいこんでいた、誕生日プレゼントかなにかに結びつけられていた綺麗な色のリボンをその「宝物」のリングに通し、公園まで持って行って、木の枝にぶら下げた。

くすんだ色合いの「宝物」と鮮やかな色のリボンはいかにも不釣り合いな組み合わせではあったが、これなら、落とした人はきっと気付くに違いない。

 

その後はどうなったんだっけ。

たしか銭湯通いの冬はもう終わり、空気はすっかり暖かくなっていて、通学路からははずれたその公園は、「行こう」という特別の意思を持たなければ、僕にとっては「近いけれど遠い場所」だった。

 

「宝物」がその後、持ち主のもとへ戻ったのか、あるいは別の誰かに拾われたのかはわからないけれど、僕に関していえば、結局のところ、状況は改善しなかった。

生きることはこんなにも辛いことなのだ、ということを僕は知ったけれど、でも、それでも「明日」は否応なく訪れ、ただ僕は生きてその一日一日を乗り越えていくしかないのだ、ということを悟った。

 

今、思えば、そうだ、あれ以降、僕は「広く浅く」しか、人と交わることができなくなった。

いや、「できなくなった」というのはすこし大袈裟だな。

 

おそらく僕は自分以外の人に対して、もともと、「ほどよい距離感を持つ」ことが苦手なのだ。

無意識に「全身全霊」「全力」で向き合ってしまう。

そして、本来の独立した「自分」というものを見失ってしまう。

それが無意識のうちにもわかっているために、自己防衛的に、自分からは誰とも深い関りを持とうとはしないのだ。

持とうとはしなくなったのだ。

 

三十代、四十代の頃になって、僕はふと思った。

「僕って、薄情な人間なんじゃないだろうか」。

 

友人の「数」で言えば、多い方なのかもしれない。

飲み会に誘われることも、今のこの不規則なシフト制の仕事となってからは、そしてコロナを経験した後では、ほとんどなくなってしまったが、それまでは毎週ペースとはいかないまでも、それに近いくらいのお誘いはあった。

だが、その一方で、たとえば友人の結婚披露宴に招かれたのは2回だけだ。

このことは、まさに僕の人との付き合い方、「広く浅く」を象徴してはいないだろうか。

 

まさかこれはあの時の体験が尾を引いているわけじゃないだろうけれど、と、今頃になって、ふと、思った。

深く人と関わることのできない、その理由。

いつも受け身で、自分からは誘うことのできない、その理由。

笑顔も「なんとなく胡散臭い」とよく言われる。

 

いや、こんなことを書くつもりはまったくなかったのだ。

本当は今回は、京都で観た、劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター」について書こうと思っていた。

だが、「そういえば僕にとって最初のイエス・キリストとの出会いはいつだっけ」と考えるうちに、昔のいろんな記憶が蘇ってきたのだ。

 

続けて書いていくとあまりにも長くなりすぎる。

回をあらためて、次は脇道にそれずに、「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観て抱いた様々な思いについて触れてみたい。

「メアリー・マライアおばさん」の後任としてやって来たのは…そうだな、僕自身がこれまでに読んできた小説の登場人物には、ピッタリ当てはまる人はいないな。残念だけど。

でも、一言でいうなら、「大阪のおばちゃん」だ。

人情家ではあるか、ややデリカシーに欠ける一面がある。

ま、ご本人は「阪神淡路大震災で被災するまでは、芦屋の高級住宅街で暮らしていた」とおっしゃっていたので、「大阪のおばちゃん」呼ばわりされたら、すごく気を悪くされるのだろうけれど。

 

デリカシーに欠ける、という表現はしたものの、僕はこの、70歳ちょい手前の女性薬剤師さんのことを嫌いではなかった。

水薬を調整したあとの床はビショビショ、器具はベタベタ、粉薬を秤量したあとの台は粉でジャリジャリ、引き出しから錠剤の箱を取り出した後は、もともとあった場所を思い出せずにテキトーに突っ込むため、「あるはずの薬が行方不明になる」、そんなガサツなあれこれが日常茶飯事ではあってもね。

 

僕がこの人をある種、尊敬していたのは、彼女の投薬スタイルが、僕自身の目指す理想形のひとつでもあったからだ。

渡す薬の説明だけではなく、たとえば食事や運動など、日常生活での改善点をさらっと伝える。

こどもさんを連れたお母さんには、子育てのアドバイスを挟む。

 

「こんなことを言うと気持ち悪がられるかもしれないけれど、でも、あなたのスタイルは僕の目指す薬剤師のひとつの理想形なんですよねぇ」というと、この方はおっしゃった。

「なんも特別なことはしてへんよ。勉強してどうこうということやない。主婦業や子育てをするなかで自然と身についたもんや。大切な家族を守るためにな。でも、まぁ、家庭を持たへん、子育てしたことのない、そんな人には無理やろうね」。

 

ここにすこし、この人のデリカシーのなさが垣間見える。

「家庭を持たない人には無理」「子育てしたこともない人には無理」。

僕はあまりこうしたことを気にするたちではないが、でも、人によってはさりげないながらも、これは胸を突きさす一言にはなるだろう。

 

そしてこの人、残念ながら、患者さんに対しても、一言多いところがある。

「こんなに検査値が高いのは、毎日贅沢においしいもんばっかり食べてるからやろ」

「ちょっとお腹が出てきてるで。運動し」。

「えらい長いこと、同じ薬ばっかり飲んでるなぁ。いっぺん、違う病院へ行った方がええんとちゃうか」。

究極は「もう、平均寿命を超えてるやんか。充分やで。薬なんか飲まんと、自然にまかせたほうがええよ」。

「平均寿命まであと〇年やね。まぁ、それまでは頑張りや」。

 

もともとこの調剤薬局があるのは下町。

車も通れないような細い道に面して長屋が立ち並び、舗装されていない土道も残る、そんな土地柄もあり、この人のざっくばらんで畏まらない対応とは、親和性が高いとも考えられるのだ。

だが、最近では周辺に、億を下らない超高層のタワーマンションもでき、そうしたところに暮らす人たちに対しては、こうした言動は不躾で厚かましく、時には恐怖感すら感じさせてしまう。

 

そしてすこし前までなら、「ここは自分にはあわない」と感じたなら、人は黙って、以降、違う薬局を利用するようになるだけではなかっただろうか。

調剤薬局の数はコンビニよりも多いといわれ、この薬局の半径数十メートル内の範囲にでさえ、複数の調剤薬局が存在する。

でも、今は違うのだ。

ネットに苦情を書き込む。

電話をかけてきて、責任者の謝罪を求める。

「あの調剤薬局でこんなことを言われた」と主治医に訴える。

主治医は「おまえのとこはどんな薬剤師を雇ってるねん。しっかり教育しろ」と怒鳴りこむ。

 

しかもこの薬剤師さんのアドバイスには、時々、「それってひょっとして、お昼のワイドショーか週刊誌で仕入れた健康ネタ?」というレベルのものが入り交じる。

「あのスポーツドリンクには有害なホルモン攪乱物質が入っている」「中国産の野菜なんて農薬だらけ」など、下手すると訴訟沙汰にもなりかねないような「噂話」レベルの根拠なき情報を真顔で布教する。

 

この人がただの「大阪のおばちゃん」なら、まぁ、そんな人は結構いるかもしれないのだ。

無責任な話を、さも真実であるかのように語る人騒がせな困ったおばちゃん。

だが、この人は「ただのおばちゃん」ではなく、調剤薬局の窓口に立つ薬剤師なのだ。

その口から出た言葉は、「根拠ある真実」として人に伝わってしまう。

同じおばちゃんでも、「ただのおばちゃん」と「調剤薬局で働く薬剤師のおばちゃん」とでは、発する言葉の重みが違うのだ。

 

もともとこの薬局は、製薬メーカーに勤務する、薬剤師の資格を持たないオーナーが、それまでは専業主婦で株が趣味だった奥さんと、いったんリタイアしていた薬剤師である自分の父親、三人でスタートさせたのだという。

おそらく「調剤薬局はこうあるべき」「薬剤師はこうあるべき」という考えは、かつての封建的な医療界で働いてきた、この「お父様」の考えが今に至るまで、引き継がれてきたのだろうと感じる。

今もなお、ここには「お客様は神様です」「医師は絶対的存在だ」という価値観が根強く残っているのだ。

 

だから「患者さんからの苦情」には敏感だし、「医師からのクレーム」となると、それはもう、「神の声」に近い。

 

たしかに直すべきところは直す、正すべきものは正す。それは大切だ。

でも、僕自身はこの薬局に根付く「オーナーの思想」を、「古すぎる価値観」に支配されすぎだ、とも感じる。

 

卑屈と謙虚は違うのだ。

度を越した卑屈さは、相手の増長、見下す気持ちに繋がり、そうした上下や尊卑の誤った関係性からは、本当のパートナーシップは生まれない。

医師と薬剤師、患者さんと薬剤師、いずれの関係においても。

「相手の機嫌を取る」ことと「相手と心を通わす」ことは、表面上は似ていても、まったくの別物なのだ。

ただ頭を下げ、なんでも言いなりになる、というのは、ちょっと違うだろう。

 

もちろん、行き過ぎた言動や、そのつもりはなくとも相手の気持ちを損ねてしまったことに対しては、謝罪し、改める必要があることは、当然のことではあるけれども。

 

でもまぁ、「あること」さえなければ、次第に「オーナー側の意向」と「おばちゃんの信条」は次第に歩み寄り、ある地点に落ちついたのではないだろうか。

だが、残念ながらそうとはならなかった「あること」、後々、大きな事件を引き起こしてしまうきっかけとなってしまったのが、「おばちゃん」が働きだして数週間後に、僕がとった一本の電話だった。

 

「求人票を見たんですが、薬剤師の募集はまだ行っていますか?」

う~ん…

「人事のことは私ではわかりかねるので、オーナーのほうから折り返し連絡させていただきたいのですが、お電話番号を頂戴してもよろしいですか?」

「あぁ…どうしようかなぁ…」

「これもご縁ですし、差し支えなければ、ぜひ」

「えぇ…そうねぇ…どうしようかなぁ…」

 

僕はまぁ、こうした決断力のない、ダラダラとした受け応えをする人は嫌いだ。

「どうしたらいいですかねぇ…」などと、おっとりした口調で言われても、そんなこと、僕の知ったことではない。

わずかでもチャンスがあれば、と思うのなら、連絡先を僕に伝えればいいし、これを縁がないと考えるなら、電話を切れば済む話ではないか。

こちらは業務時間内、ちょうど忙しい時間帯でもあるのだ。

そのことは電話の主も、調剤薬局で働いたことのある薬剤師であるのならば、充分にわかっているはず。

 

「ええ、どうしよう…どうしたらいいと思いますか」などというグダグダした、(僕からすれば)不毛なやりとりは5分ほども続いただろうか。

結局、最終的に「今日はやめておきます」と言って、その電話は切れてしまったのだが。

 

それから数日後、僕の公休日に再び電話があり、オーナーの奥さんが対応したようだ。

オーナーの奥さんはこの電話をきっかけに、人員増の計画はまったくないものの、面接を行い、相手の女性薬剤師をいたく気に入ってしまった。

そして、事態は大きく動き出す。

 

「もうすこし待っていれば…」

「おばちゃん」に対するクレームの嵐に疲弊したオーナーの奥さんはきっと思ったに違いないのだ。

「ほんのタッチの差で、こんないい人が応募して来るなんて。あんな厄介な人を採用してしまった、その直後に」。

 

そこへ「まだ試用期間中なんだから、クビにすればいいんじゃない」などという考えを吹き込んだのは、いったい誰だったのか。

 

「通勤も一時間以上かかるし、いろいろ大変そうだけど、どうですか?これからどんどんやっていただかなくてはならない仕事も増えていきますけど、大丈夫かしら」奥さんは「おばちゃん」に切り出したらしい。

 

「おばちゃん」は「おばちゃん」で、連日のオーナーの奥さんからの苦言にうんざりもしていたのだろう。

それにこの調剤薬局は、これまで社内転勤も含め両手の指の数以上の店舗で働いたことのある僕からしても、一二を争うほど体力的にはキツく、無駄な作業が多いところなのだ。

給与レベルも決して高くはない。

 

「いやぁ、私の方から今日明日にでも言おうと思ってたんよ。私、今月いっぱいで辞めさせてもらいますわ。こちらの善意にいちいち文句をつけられるのもアホらしいし」。

 

オーナーの奥さんは心の中で快哉を叫んだのではあるまいか。

誰も傷つくことなく、誰もがそれを「自分自身の意思」であると信じて、幕は下りるはずだった。

 

だが、そうはならなかった。

因幡の白兎。

あとすこしのところで、真実を、そのからくりを「おばちゃん」に告げたのは、口を滑らしたのは、いったい誰だったのだろう。

おそらくは義憤にかられてのことではない。「実はあなたは首を切られたのだ」と告げることにより、「おばちゃん」を最後になんとしてでも傷つけたかった誰か。

 

あと一週間、という頃になって、「おばちゃん」の態度が変わった。

それまでは「私、辞めることにしたわ。あんたは辞めることも出来ず、いろいろと責任を負わされて大変やねぇ」などと言っていたのに。

 

「私、クビになってん。絶対、許せん」。

 

たしかに「おばちゃん」は試用期間中ではある。

だが、試用期間中ではあっても、解雇には正当な理由が必要だ。

「一部の患者に不快な思いをさせた」「近隣のクリニックの医師からクレームを受けた」。

これらははたして、その「正当な理由」になり得るのだろうか。

もちろん「最近、雇用したい人材が他に見つかった」なんてことは、たとえそれが本当の理由であるにせよ、完全にアウトだろう。

 

「まぁ、詫びとして、退職金代わりに給料3か月分を支払ってもらうんやけど」。

 

この薬局は、雇用に際し、年齢制限を設けないかわりに、退職金制度もないのだと、僕は最初に聞かされている。

「おばちゃん」は2か月ちょっと、勤務しただけだ。

なのに「3か月分の給与を退職時に支払う」?

よほど厄介払いしたかったのだろうか。

 

だが、これは「おばちゃん」側が勝手に吹聴する「願望」であって、実際には合意されたものではなかった。

「おばちゃん」の方には、退職を自分の方から言いだし、退職届を提出してしまったという弱みがある。

「今にして思えば、誘導された」と「おばちゃん」が主張したところで、両者はあくまでも平行線をたどるだけだろう。

 

そしてその日から、「おばちゃん」の勤務態度が変わった。

こればかりは「おばちゃん」の肩を持つことはできない。

たとえ雇用者と揉めようと、それは患者さんには関係のないことなのだ。

不満はあろうとも、プロとして、勤務時間中は真摯に仕事と向き合う。それは当然のことだろう。

 

付近のクリニックの午前診が終了する前後、11時30分頃から12時30分頃にかけての一時間は、一日の中でも一番忙しい時間帯だ。

「あぁ、疲れた。これ以上は無理や。休憩に行くわ」

「おばちゃん」は突然、白衣を脱ぎ、出ていこうとした。

「これだけ待ってる患者さんがいるのに、なに勝手なこと言うてんねん。あんたもプロやったらプロらしく、私情は挟まんと、仕事せんかい、おばはん」と口調も荒く、「おばちゃん」の行く手を遮った僕は…悪い?

いや、たしかに「おばはん」という言葉は余計やね。ごめんなさい。

でも、「おばちゃん」がこのことで、僕を「オーナー側の人間」、つまり「敵」と色分けしたことは確かなのだろう。

 

とにかく最後の数日は悪夢のようだった。

空気がピリピリしていた。

刃傷沙汰には至らなかったことだけが、ただただありがたい。

 

そして「おばちゃん」は退場した。

最後の日、挨拶することもなく、無言でレンタルの白衣をカウンターに叩きつけて。

規定の時間より、二時間ばかり早く。

 

だが、ことはこれだけでは終わらなかったのだ。

この件には「第二幕」がある。

 

ようやく平穏が訪れたある日。

よりにもよって一番忙しい時間帯に、スーツを着た二人連れが薬局を訪れた。

市の薬務指導の職員さんだ。

 

通報があったのだという。

「あの薬局は薬剤師の資格を持たない人間が調剤行為をしている」。

通報者は匿名ではなく、しっかり名乗り、その名を相手側に伝えてもらって結構、とまで言ったらしい。

 

あの「おばちゃん」だった。

 

少なくとも僕の勤務する時間帯、薬剤師でない人間(といっても、それは事務さんとオーナーの奥さんしかいないのだが)が調剤を手伝ったことはこれまでに一度もない。

だが、僕が公休日を取り、午後からの数時間は薬剤師が「おばちゃん」だけになる、あの特定の曜日はどうだったか。

僕にはわからない。

 

話を聞くと、どうやら「おばちゃん」ひとりでは仕事が回らず、オーナーの奥さんが錠剤を揃えることは何回かあったのだという。

だが、以前はグレーとされていたこの行為は、今は薬剤師の監督の下では許されるという通達が数年前になされている。

 

その後、同じような通報を受けた府の職員さん、そして厚生局の職員さんの査察が入った。

 

もちろん探られて痛い腹はない。

その点、不正はなく公明正大な薬局なのだ。

 

だが、その応対には時間をとられ、僕自身は何枚も「不正を行った事実はありません」という「誓約書」を自筆で書いて署名し、提出しなければならなかった。

 

僕は思った。

腹立たしいといえば腹立たしい。

だが、「おばちゃん」のその行為はあまりにも哀しすぎる。

あえて自分の名前を名乗り、相手側に伝えてもらって結構、と言い切るあたりに、誰からも肯定されず居場所を持てない人間の承認欲求というか、すさまじいまでの孤立感と「これから先」をもう期待しないという絶望感が感じられはしないか。

 

「おばちゃん」はいったいどんな思いで電話をしたのだろう。

名乗りをあげ、「おばちゃん」からすれば「爪痕」を残すことで、すこしはその心は満たされたのだろうか。

むしろ逆に、虚しさにとらわれたりはしなかったのだろうか。

 

「ほんまに恐ろしい人。早めに辞めてもらって、よかったわ」オーナーの奥さんは言ったが、そこまで追い詰めた側に罪はないのか。

あるいはそれをただ、傍観していた僕自身には?

 

だが、これだけでは終わらなかった。

 

ある日、ひとりの中年男性が怒鳴り込んできたのだ。

「お前らやない。社長を出せ、社長を」。

 

この方は地方に住んでいた80代のお母様を呼び寄せ、芸能人も住むというセキュリティ対策万全の超高層タワーマンション、その自宅と隣り合わせの一室に、住まわせておられた。

お母様はその一室で一人暮らしをなさっていたのだが、そこに電話がかかってきたのだという。

電話の主はあの「おばちゃん」。

 

「おばちゃん」はすごい剣幕で自分が不当に解雇されたこと、あの薬局ではいろいろと不正が行われているので今後は利用するべきではないことなどを一方的に延々と一時間近く、話し続けたのだという。

お母様はこのことに対し、たいへんな恐怖感を覚え、「なぜ私の電話番号を知っているのか」「住んでいるところまで特定され、今後、事件に巻き込まれるのではないか」と、今は外出もままならない状況だというのだ。

 

オーナーの奥さんはすぐに警察に被害届を提出した。

 

「でも、あの人はどうやってパソコンで管理されている患者情報を抜き取ることができたのかしら…」

いやいや、データを抜き取ったというより、ただ、カルテから書き写したのだろう。

きわめて原始的な方法で。

 

だが、いつ頃から、あの人の心は憎悪に黒く染まり、ひそかに復讐に向けて準備を進めていたのだろうか。

 

昭和の時代は個人情報の取り扱いも今ほどに厳格ではなく、僕が一番最初に就職した企業などでは、入社時に、氏名、自宅住所、電話番号のほか、生年月日、卒業した高校と大学、血液型、長男・次男・三男等の別、父親の名前、その就業先と役職までが記載された名簿が配布された。

 

そんな時代に生き、そんな時代から長く働いてきた「おばちゃん」には、患者さんの電話番号を抜き取ることが犯罪にあたる、という認識は、おそらくなかったのだろう。

 

だが、今や「おばちゃん」の名前や住所は警察の記録に残ることになった。

これだけではすぐには拘束されたり事情聴取を受けることはないが、今後、薬局近辺でその姿を見かけることがあったなら、すぐに警察に通報すること、そうすれば警察はすぐに動くことを僕たちは告げられた。

 

おそらくは「おばちゃん」が電話番号を抜き取り、電話をかけた相手はひとりではないだろう。

ひとりだけでは警察は動けないが、今後、同様の被害が他からも複数寄せられることがあれば、そのときには警察も動くのだという。

 

どこでどう、道を誤ってしまったのか。

その場にいて、僕にできることは本当になにもなかったのか。

 

「おばちゃん」も家庭ではよき妻であり、よき母であり、よきおばあちゃんであったはずなのだ。

それが警察の記録に名前が残ることになってしまった。

家族にとってはあまりにも哀しすぎる「復讐の顛末」ではないか。

 

そういえば最初のころ、「おばちゃん」は言っていた。

「これまでもいろんな職場で同僚から無視されたり、陰口を言われたり、そんなことがあったわ。薬剤師はプライドばっかり高くて、世界が狭すぎるねん。あんたも負けんと頑張りや」。

 

そうだ。僕は冒頭で「おばちゃん」のことを「僕自身がこれまでに読んできた小説の登場人物には、ピッタリ当てはまる人はいないな」と書いた。

いや、ひとりだけいるよ。

今、思い出した。

あれは小学生の頃、図書室で読んだ「マキオのひとり旅」だ。

そこに登場する「夕焼け小焼けのおばさん」、だっただろうか。

 

一人っ子で過保護に育てられた少年が春休み、おばの家に泊まりに行く。

そこには年下の従妹と、生まれたばかりの従弟がいる。

おじさんは出張中で不在だ。

初めての夜、従弟が急に体調を崩し、病院へ運ばれる。

おばさんは付き添いのため、病院から帰れない。

少年は幼い従妹とふたりきりで不安な夜を過ごす。

その翌日、だったかな?

家政婦協会から、珍妙なみなりの不思議なおばさんがやってくるのだ。

頬が夕焼けのようなオレンジ色に塗られていた。僕の記憶では。

そしてそのおばさんは聴力に障害があったのだ。

その耳のせいで、おばさんにはすこし頓珍漢なところがある。

そこへ出張を切り上げたおじさんが帰ってくる。

おじさんは自分が帰って来たのでもう大丈夫と、その「夕焼け小焼けのおばさん」が明日以降、来ることを断る。

力なく肩を落とすおばさんを見て、たしか少年は思うのだ。

「すこし奇妙で耳の悪いおばさんにはあまり仕事が回ってこないのではないだろうか。回ってきてもすぐに断られることが多かったのではないだろうか」。

「あのおばさんは本当にひとりぼっちなのではないだろうか」。

少年はおばさんを断ったおじさんに対し、不満の気持ちを持つが、おじさんはこれから必要な入院費用に加えて、おばさんに給金を払うだけのお金はないのだと説明し、少年は納得する。

 

たしかこの章の終り、おばさんは夕暮れのなかを、何も入っていなさそうな軽そうなデパートの紙袋を下げ、ゆっくりしょんぼりと歩いていくのだ。

 

他人の気持ちを察することができない「おばちゃん」と、耳に障害がある「夕焼け小焼けのおばさん」はどこか似ている。

根本は「善」であるのに、人から受け入れてもらうことができない。

その絶望のなかから「おばちゃん」の善には歪みが生じ、その歪みが汚れを生み出した。

 

たとえば調剤薬局の薬剤師が「指名制度」であったなら、こんなことは起こらなかったのだろう。

「おばちゃん」を嫌う人がいる一方で、「おばちゃん」の言葉に思わず涙ぐむ悩み多き若葉マークのお母さんや、「おばちゃん、ほんまにおもろいなぁ」と笑うヤンチャ系の若者もたしかにそこにはいたのだ。

 

トラブルをおそれて「基本、薬を渡すだけ」「なにか訊かれた時だけ、最小限で答える」スタイルを貫いた前任の「メアリー・マライアおばさん」は雇用者からすると無難な人材であったかもしれないが、退職後、「いつものあの薬剤師さん、姿が見えないけれど、どうしやはったの?」と尋ねてくる患者さんはひとりもいなかった。

 

「おばちゃん」はある意味、殉教者だった。

だが、復讐の感情に支配されてしまったことで道を踏み外した。

 

「鈴星」の暗示する「厄介な人との縁」。

その「厄介な人」とは、この「おばちゃん」を指していたのだろうか。

あるいは「おばちゃん」を、必ずしも正しい・誠意あるとはいえない対応によって復讐の鬼に変えてしまった、雇用者の方を指していたとも…考えられるのではないだろうか。

旧暦1月1日、1年のスタートにあたるのは、今年の場合、2月10日だ。

ようやく実質的に新しい一年がスタートした。

 

去年の旧正月、僕の一年を予言するカードは「鈴星」で、これは「厄介な人との縁が近づいている」ことを僕に告げていた。

たしかにそのとおりの一年となった。

そしてその「予兆」は、実は「一年」が始まるすこし前から、ジワジワと現れ始めるものらしい。

 

以前、勤務していた病院を退職したのには、特に大きな不満があったわけではない。

残業もなく、給料もよく、採用時に提示された条件そのままに(これは本当に大切。実際に働きだしてから「え?そんなん、聞いてませんけど?」というのは実に多い)、少々退屈ながらも、楽しい日々だった。

ただ、以前のブログにも書いたように、ミーサちゃん問題があった。

 

ミーサちゃんは系列病院から数週間の予定で「僕に仕事を教える」ためにだけ派遣された薬剤師さんだったが、引継ぎが終わっても「戻ってこなくても大丈夫です」と言い渡され、「どっちみち、あこは意地悪な人が多かったし、これを機会に退職するわ。年金受給も始まるし」と、その手続きを進めていた。

だが、いよいよ退職して年金暮らしをスタートさせようという段になって、その額が生活を維持することが難しいくらいに少額であることが判明し、急遽、居残りを宣言し、薬剤師定員1名の座を僕と争うことになったのだ。

 

勤務時間の大半をウトウトとまどろみながら過ごしているようなミーサちゃんだから、僕もこの勝負に関しては、まったく負ける気はしなかったのだが、逆に僕にはこの職場以外にも働き口の候補はいろいろあるのに対し、ミーサちゃんの方は年齢的にも技能的にも、この職場を追われれば、他に行く先など、とうてい見つからないと思われる。

それに非常に低次元のミーサちゃんが仕掛けてくる策略に、いちいち対応するのも邪魔くさい。

で、退職した。

その決断に今も悔いはない(ま、たまに「ちょっともったいなかったかな」と思うことはあるのだが)。

 

新たに就職した調剤薬局は、薬剤師2名体制だった。

ただ、この一緒に働くことになった、僕より数歳年上の女性薬剤師が…なかなかに厄介な性格の持ち主だったのだ。

どう厄介かというと…そうだ、たとえるのにまさに最適な例がある。

彼女はまさに「メアリー・マライアおばさん」そのものだったのだ。

メアリー・マライアおばさんはモンゴメリの「赤毛のアン」シリーズ後半の方に登場する、アンの夫ギルバートの親戚筋の女性だ。

立派な屋敷を所有しながらも、なぜかアンとギルバートの家庭に居ついてしまう。

 

「あんまり小さなことなので愚痴をこぼすわけにもいかないわ。それでいて蛾のように…人生に穴をあけ…人生を破壊するのはそういう小さな事柄なのだわ」と、アンは考えた。

女主人ぶるメアリー・マライアおばさん…客を招待しておきながら客が到着するまで一言も言わないメアリー・マライアおばさん。まるでわたしが自分の家の者ではないかのような気持ちにさせる…アンの留守のあいだに家具の移しかえもした…

 

「あたしたちは臆病者だわ」と、アンは思った。「この家は『こうしたらメアリー・マライアおばさんの気に入るかどうか?』という問題を中心にぐるぐるまわりはじめている。このことを認めまいとしてもそれは事実だもの。あんなふうに殊勝げに涙をふかれるのがなによりやりきれない。」

(「炉辺荘のアン」 村岡花子 訳)

 

この女性薬剤師の一番の問題点は「ここの薬局は私ひとりの力で成り立っている」と思い込んでいることだったように思う。

もちろん、そんなことはない。

調剤薬局の仕事はチームで回すものなのだ。

薬剤師だけではない。処方箋を入力し、点数計算を行う調剤事務のスタッフさんも含めてみんなで回す。

だが、この人には「チーム」という感覚がまったくないのだ。

主役は自分で、周囲の人間は自分を引き立てるための脇役、「名もなきただの大勢」に過ぎない、と思っているフシがある。

 

だから忙しくなってきて気持ちに余裕がなくなると、平気で事務さんを怒鳴りつける。

感情的になる。

相手にも「感情」があるのだということを気にしない。いや、おそらくは気がつかない。

苦手な患者さんが来ると、トイレに雲隠れする。

 

僕が公休日をとっている間に、薬の置き場所を変える。

「こっちの方が便利だと思って」。

休憩時間中に訪問してきたメーカーさんがあっても報告しない。

「別にたいした用事じゃないと思ったので」。

オーナーの奥さんに、自分がいかに他の薬剤師(つまり、僕)のミスをカバーし、本来の仕事以上のものを抱えているか、アピールする。

不平不満を本人に直接ぶつけず、陰でコソコソ言う。

 

たとえば薬の置き場所を無断で変えながらも、そのことをまったく伝えないということが、この人の「意地悪」なのか、あるいはそんなことをすれば他の人が困るということを想像する力が完全に欠落しているのかは不明だ。

想像する力が欠落しているのなら、まぁ、仕方がない…なんてことはもちろんないのだが。

調剤薬局だって、人の命を預かる仕事なのだ。

自分勝手な行動やチームの和を乱す言動はミスを誘発し、場合によってはそれが人の命にかかわることだってある。

 

そしてこの人には、やらなかったらやらなかったで「なんで気がつかないの?役に立たないわね」、やったらやったで「なんで勝手にやるのよ!」、つまり、やろうとやるまいと、どっちにせよ、自分以外の人間の行動はとことん気に入らず、相手を責めて文句を言うという癖がある。

呼吸をするように人のことを批判するが、逆に自分自身の行動に「それはちょっと…」と異議をとなえられようものなら、涙ぐむ。

 

たまに存在するのだ。

その日の「職場の雰囲気」を左右する、困ったパワーを持つ人間が。

こちらの「おはようございます」に対する返事のトーン(あるいは無視)で、その日一日の職場の雰囲気を決定づけてしまう、そんな負の影響力を強く放つ人間が。

 

だが、そんな厄介で気の重い日々ではあっても、僕がすぐに「次の仕事」を見つけようと行動を切り替えなかったのには理由がある。

つまり…命学が、その人は数か月後にはここから退場する、ということを告げていたのだ。

 

ここが命学のおもしろくも奥深い点であると思う。

通常であれば、その人の動静は、その人自身の命盤を読み解かなくてはわからない、と考えてしまうではないか。

でも、僕自身の命盤を読み解くことでも、「僕に関わる人間」としての、その人の動静が読み取れるらしいのだ。

僕の両親、僕のきょうだい、僕の友人、僕の師、僕のパートナー、僕のこども。

まぁ、ここらあたりのことは僕のこれからの勉強課題のひとつで、現段階では、あまり詳しいことは僕自身、わからないのだけれどね。

 

だが、「その時期」が訪れても、なぜか変化なく日常が流れていく。

おや?ひょっとして、今回は外れた?

 

だが、そうではなかったことが判明する。

ちょうどその時期、この人から退職の申し出があったが、オーナーの奥さんが「あなたはここに必要な人だから」と慰留したと言うのだ。

なんて余計なことを…。

 

「いろいろと問題はあっても、結局のところ、仕事はできるし、必要な人でしょ」と僕に言うオーナーの奥さんに対し、僕はどういう表現を使えば悪口のようには響かずに「あの人は陰湿な策謀家で、いかに職場のスタッフのモチベーションを下げる人物であるのか」を伝えることができるか考えたが…諦めた。

事実を淡々と述べたところで、なぜかそれはただの悪口にしか聞こえないのだ。

そんなことをすれば、僕自身の「質」も下がってしまうではないか。

 

僕はにっこり微笑みながら言った。

「どっちにしても薬剤師の求人は行ったほうがいいと思います。あの人が辞めないのであれば、僕が辞めますから」。

 

だが、結局のところ、数か月後、その人の退職が決まった。

「私をもっと正当に評価してくれるところが見つかった」らしいことを僕はオーナーの奥さんから聞いたのだが…退職するその日に至るまで、ご本人からは「私、退職します」という話は出ることなく、特に挨拶もなく、その人は最後は無言で退場したのだ。

 

だが、これで「鈴星の予言」は終わったわけではなかった。

次の登場人物は、これまたすこぶる強烈な人だったのだ。

 

それにしても…なんてことだ。

今回の文章を読み返してみたが、そこには「人の悪口」しか書かれていないではないか。

我ながら、「僕もまだまだ人間ができていないな」と嘆息してしまう。

でも、これでもかなり言葉を選び選び、書いたのだよ。ほんとに。

あれは僕が二十代の頃のことだっただろうか。

両親の帰省に同行した、そう、季節は夏。たしか、お盆の頃。

父の生家で昼ご飯をご馳走になっていたら、そこにひとりのおばあさんが訪ねてきた。

 

彼女は僕の祖母の妹。

足腰が弱く、最近では外出もままならなかったが、孫がちょうどこちらの方面に用事があり、車で送り届けてくれたのだという。

それから30分余り、再びお孫さんが帰り道に立ち寄るまでの間、おばあさんふたりは涼しく風通しのいい縁側で、まるで少女のように楽しく笑いながら語り合っていた。

それほど遠く離れた場所に暮らしているわけではないのに、ふたりが会うのは数年ぶりだという。

 

祖母は早くに夫(僕の祖父)を失うなか、ひとりで先祖伝来の田畑を守り、四人のこどもを育て上げたという経験を持つからであろうか、小柄ながらもいつも背筋をのばし、意志が強く「厳しい人」というイメージがあった。他人に対しても、自分に対しても。

 

父が祖母を家に呼び寄せようとしたとき、長男(伯父)の顔を潰すわけにはいかないと、それを断ったエピソードは前回、ご紹介したが、そういえばこんなこともあった。

僕が就職した翌年の新年、祖母や祖父に今度は僕の方から「お年玉」を渡してはどうか、という提案を父と母から受けたのだ。

母方の祖父と祖母はたいへん喜び、まずは仏壇にあげ、その後、新年の挨拶に来る人来る人に嬉しそうにそれを見せるので、僕はいささか閉口してしまった。

一方で父方の祖母は…帰宅して、僕は自分のコートのポケットに見覚えのない茶封筒が入っていることに気付いたのだ。

封筒の裏には鉛筆で「祖母より」と書かれており、中にはしわくちゃの一万円札が入っていた。

結局、新札の一万円札が古い一万円札に両替されて戻ってきたというわけだ。

いかにも祖母らしい。僕はそう思いながらも、いささかの淋しさを感じた。

「孤高」という言葉が頭に浮かんだ。

 

そんな祖母だったからこそ、縁側で楽し気に少女のように笑いながら話すその印象が、いっそう強く僕の記憶に刻まれたのかもしれない。

 

それから数か月後、祖母の妹さんは亡くなった。

「きっとあのとき、お別れを言いに来やはったんやろね」と周囲の人たちは言った。

 

正月に帰省すると、祖母は僕たちに淋し気に言った。

「長生きがめでたいとみんな言うけれど、そんなことはない。なかなかお迎えが来ないというのも、辛いこと。これで姉妹も私ひとりだけが残って、私が若くてきれいだった頃を覚えている人はひとりもいなくなった」。

祖母の口からそんな気弱な、そしてある意味文学的な言葉(たしか、よく似た有名な詩があったんじゃないだろうか)が発せられたことが僕には意外、いや、意外を通し越して衝撃的だったせいで、今でも僕はそのときの祖母の表情と言葉を覚えているのだ。

 

ただ、二十代の頃に受けた「衝撃」は年とともに僕のなかではじんわり、ゆっくりと浸み込んでいき、「私が若くてきれいだった頃を覚えてくれている人」が少なくなっていくという現実が、次第に深い実感を伴って僕の心に突き刺さるようになってきた。

 

「名前」だってそうだ。

以前、女性が結婚し、出産するなかで、次第に名前ではなく「〇〇さんの奥さん」「●●ちゃんのお母さん」と呼ばれることが多くなる、ということに触れたが、これは女性に限ったことではない。

 

両親を見送り、親戚との交流も絶えた僕は、ある日、ふと、自分を名前で呼んでくれる人がこの世に誰もいなくなってしまったという事実に気付いた。

 

「マリゴールドの魔法」という作品がある。

生まれる直前だったか、生まれた直後だったか、とにかく父を失った少女が母、祖母、曾祖母、女四代が暮らす家の中で育っていくモンゴメリの物語。

おそらく僕はこの上下本を、実家の片付けのなかで、「処分する」方の箱の中に入れてしまったのだと思うが、ひとつ、いつまでも記憶に残るエピソードがある。

 

死の床についた曾祖母。

一族の頭として君臨するこの曾祖母をマリゴールドは畏れていたのだが、ある日、こっそり寝室に忍び込む。

そんなマリゴールドに曾祖母はある願い事をする。

お前にしか頼めないこと。

私を…私を下の名前でよんでほしい。

 

あまりの畏れ多さにマリゴールドは固まってしまう。

「さぁ」と曾祖母は促す。

 

ようやく絞り出したマリゴールドの呼びかけに、失望したように曾祖母は呟く。

「そんなんじゃない」。

マリゴールドは、曾祖母の願いを叶えることができなかった事実に打ちひしがれる。

 

やがて夜がふけ、月明かりが曾祖母の顔を照らし出した。

そしてマリゴールドはそこに、活き活きした少女の幻影を見るのだ。

「エディス(たしか曾祖母の名前はそういったような気がする)、ようやくわかったわ」。

マリゴールドは囁く。

曾祖母は満足したように頷き、微笑みながら永遠の眠りにつく。

 

そのエピソードの持つ「重み」を、僕はわかっているつもりで、実際には全然わかっていなかったことに、最近、気がついた。

そして僕自身の祖母の、あの言葉の重みと真実も。

 

大学からの先輩にこの話をしたら、「それじゃあ、これからはあなたのことを下の名前で呼んであげるわ」とおっしゃった。

でも、それはやっぱり、ちょっと違うんだよなぁ。

そんなふうにおっしゃってくださって、ますます僕は先輩のことを好きになってしまった(もちろん、それは恋愛感情ではなく)んだけれどね。

父と母の実家は歩いて10分ほどの距離のところにあり、遠縁、たしかお祖父さんが従兄弟同士とか、そんな関係だったんじゃないかな。

ただ、年が離れていたので、おとなになってから、父が偶然、バス停で母に出会い、恋に落ちるまでは、お互いに「なんとなく見知っている」程度だったらしい。

 

その土地では、屋号というのだろうか、それぞれの家を苗字ではなく、家を興した初代当主の名前で呼ぶ風習があった。

たとえば「仁左衛門」とか「伝兵衛」とかね。

「仁左衛門のところの次男坊の太郎さん」「伝兵衛のところの娘さんの花子ちゃん」。

それだけですべてがわかる。口にしなくても、人に伝わる。

父や母が、祖父や祖母が、曾祖父や曾祖母がどんな人たちで、誰と親戚筋なのか、その一族にはどんなエピソードがあるのか、そんなことまでがすべて。

 

僕が小学生の頃だったかな。

借りた自転車で従弟と畦道を走っていたら、全然知らないおばあさんに「見かけんけど、どこの子や」と呼び止められた。

僕は「〇〇(父の家の屋号)の〇〇(父の名前)と□□(母の家の屋号)の□□(母の名前)の次男です」と答えた。

するとおばあさんはニコニコしながら「ああ、なんか知らん気がせんかったわ。たしかにあんたの顔、先代の●●さんの面影があるわ」などと口にし、僕と従弟はそのまま家に案内されて、昼ご飯をご馳走になったのだ。

そんな体験がけっして珍しいことではない、土地柄であった。

 

 

「通字(とおりじ)」というらしい。

父の家では、屋号に含まれる「嘉」という漢字を、生まれた男子の名前に用いる、という決まりがあった。

母の家では、屋号に含まれる「喜」という漢字を、長男の名前にのみ用いる、という決まりが。

 

でも、僕たちの代になって、どちらの本家にも女性しか生まれず、そして従姉妹たちは自分たちのこどもにはキラキラ系の名前を選んだので、この風習は途絶えてしまった。

 

たしかに古臭いかもしれないが、僕はそういう「古さ」が好きだったりもする。

特定の漢字を、名前の中に延々と引き継いでいく、という、その感覚が。

父もおそらくそうだったんじゃないだろうか。

古きものや伝統あるものに心を捉えられる。

 

だから僕は長年、不思議に思っていたのだ。

なぜ父は、自分のこどもの名前に、自分も持つ「嘉」の字を使おうと思わなかったのだろうか。

 

ここ最近、「ムーミン」からいろいろと思いが飛躍し、「パパ」「ママ」といった呼び名から、自分自身の名前の由来のことなど、久々にあれこれ思いを巡らせているうちに、ふと、そんな昔の疑問が思い起こされた。

 

その夜も、湯船に浸かりながら、そんなことを考えるともなく考えていたとき、ふと、僕にはある考えが浮かんだ。

なぜ、これまではそこに思いが至らなかったのだろう。

 

使わなかったのではなく、使うことを許されなかったんじゃないだろうか。

「嘉」の文字はおそらく、本家の者だけが引き継ぐことを許されるものなのだ。

次男であった父は自分の名前の中にある「嘉」の文字を、自分のこどもに引き継ぎたくとも、それができなかったのではないだろうか。

 

ある時、親戚筋の方から、最近、父の母(つまり僕の祖母)の姿を見かけない、という連絡を父は受けた。

それまで、80歳を超えてもなお、祖母は田畑に出て、農作業をしていたのだ。

 

心配して実家へ向かった父だが、祖母に大事はなかった。

ただ、同居する伯父の奥さんが「年寄りがいつまでも外へ出て農作業をしていたら体裁が悪い。私が虐待しているように思われる」と、祖母が外出できないようにその履物をすべて処分し、薄暗い奥の間に閉じ込めてしまっていたのだ。

 

父はすぐに祖母を自分が引き取ると言ったのだが…それを拒絶したのは祖母自身だった。

自分が次男の家に身を寄せれば、長男が周囲から悪く言われる、

長男の名前に傷がつく。

それは絶対にできない。私が我慢すれば済むことだ。

 

父や母が生まれ育ったのは、そういうところだったのだ。

外から見ればなんとも不思議で不自由な慣習が、当たり前のように幅をきかす場所。

 

「通字」も、ある人にとっては、自分の進む道までをも「何者か」によってあらかじめ定められる、そんな重荷、足枷であったのだろうか。

僕が単純に想像する、会ったことはないが、常に傍にいて見守っていてくださる、自分の血のずっと先の先に存在する「誰か」を感じさせる文字、ではなく。

 

父はあのとき、すごく悔しかったのだろうな、と思う。

一緒に暮らそうという父の申し出を断った祖母。

そして僕は祖母の頑なな心に、あの頃、モヤッとした感情を抱いた。

もちろん祖母が土の香りもしない、川のせせらぎも聞こえないこの街の中で、どれほど大切にされようとも、けっして幸せにはなれないのだろうことはわかっていたのだけれど。

 

父とはほとんど会話することがなかった。

あの頃、昭和の父親というものは、仕事一筋で、家族と語り合う時間というものをほとんど持たなかったのだ。いや、持つことができなかった。

それがどこの家庭でも、「当たり前」だったんじゃないだろうか。

 

僕が父と互いの思いを語り合うような関係性を持つようになったのは、父が余命宣告を受けて以降の、最後の一年くらいの間のことだろうか。

一年といっても、その半分くらいの期間、父は病室のベッドの上で意識なく時間を過ごしたのだけれど。

 

父と僕とは、父親と息子であると同時に、神経難病で寝たきりとなった母を守るための同志でもあった。

 

 

人は特に意識が混沌とした状態になると、それまで抑えていた感情のタガが外れて、本音や弱音が出やすくなるのかもしれない。

 

それまで強固な意志を持ち、けっして揺らぐことのない自信と精神の持ち主であると信じていた父が、実は次男であるというコンプレックスと悔しさを抱えながら生きてきたのだ、と僕が知ったのは、この頃だったのだ。

 

先の戦争で最年少、海軍飛行予科練習生に志願したのも、戦後、学費を自分で稼ぎながら大学を出たことも、生まれ育った土地を離れ、大阪へ出てきたことも、すべては長男至上主義の風習に反発し、「負けない」という父の意思表示だったのかもしれない。

 

そして僕は…僕はそんな悔しさを抱えて生きる父に「こんな名前じゃなくて、僕も名前のなかに”嘉”の字を一字、入れてほしかったなぁ」などという、無邪気ながら残酷な言葉を発したことはなかっただろうか。

記憶にはないのだけれど。

 

「でもさ」と僕は今、父の写真に向かって呟く。

時代の流れの中で、価値観や人の考えはすごい速さで変化していくのだ。

それまで、多くの人々が守ってきた長男至上主義は、今となっては一部の伝統的な芸能や技能を繋いでいく環境を除いては、ほとんどないと言えるだろう。

そして、長男か次男か、とか、男か女か、なんてことは、人の価値にはまったく関係ない、意味がない、ということにみんなが気付いている。

祖母の”自分の幸せよりも長男の名誉を”という頑固さに通じるものを、もしかすると僕も引き継いでいるのかもしれない。

でも、僕はそういう多少なりとも自己犠牲を払うことで得られる甘い陶酔感には、実のところなんの価値も意味もなく、ただの自己満足にすぎないことがわかってきた。

これからはもっと自分中心に物事を考えてもいいのだ。もちろん、”自分勝手に”ではなく。

結局のところ、我慢のなかからは幸せというものは生まれないし、自分を幸せにできない人間が他人を幸せにできるはずもないのだ。

 

そして僕はふと、気がついた。

 

浄土真宗である父がいただいた法名は「釋嘉心」だ。

葬儀の日、それを知った僕は、兄に「”嘉”は通字やのに、ご住職にそれを伝えんかったん?」と訊いた。

もちろんその時の僕は「次男である父がその漢字を先に使ってしまっていいの?」なんてことを考えたわけではない。

僕は”嘉”は通字なんだから、一族の中には「釋嘉心」という法名をもつ人がすでに何人かいるのではないか、あるいは今後、本家の伯父さんが亡くなったら、同じ法名になったりしてヤヤこしくならないか、と単純に思ったのだ。

 

だが、父の法名は「釋嘉心」と決められた。

何代もの人々に引き継がれ、大切にされてきた「嘉」の字を得て、父は嬉しいかもしれないな。

 

いやいや、それは欲にまみれた現世に生きる僕だから思うことなのだろうか。

あらゆるこだわりは現世にあるからこそ生じるもので、今の父にはもう、それは「どうでもいいこと」であるに違いない。