丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

「あなたの代わりの薬剤師さんの採用が決まったので、あなたは今週中に退職していただける?」
いきなり女性の経営者から言われた。
「え?」

「あなた、一日でも早くここを辞めたいんでしょ。私はそう聞いてこれまで一生懸命に動いてきたのよ」。

いやいや、それって変でしょ。
たしかに「辞めることができるのならすぐにでも辞めたい」というのは僕の本心ではある。
だが、それを言葉にしたのは僕ではない。
あの、若い男性の事務長さんなのだ。

なにかとマウントをとり、僕の「おはようございます」に対してムスッとした不機嫌な表情と無言を貫く一方で、意外とメンタル面が弱いのか、患者さんやドクターからのクレーム対応はすべて僕に押し付けてくる管理薬剤師さんと「これ以上、一緒に働くことは僕自身のためにならない」と考え、退職を申し出たのは今年の9月中旬で、そのとき、僕は「退職は希望日の90日以上前に申し出ること」という雇用契約に従い、退職日を「来年1月15日」とした。
僕が退職の意思を伝えた若い男性の事務長さんは「自分一人では判断できないので、一度持ち帰って協議の上、返答します」とおっしゃった。

僕は「あなた方が設けた決まり事に則っての退職の申し出に対し、協議もなにもないでしょう?協議って、いったいなにを誰と協議するの?」とは思ったのだけれど、仕方がない。
ところがそれ以降、事務長さんからは何の連絡もなかったのだ。

それから1カ月ほどが経過し、ようやく職場を訪れた事務長さんに退職の件はどうなったのか尋ねた。
来年1月15日を退職日として、次の仕事探しを始めてもいいのか。もちろん、いいよね。

すると事務長さんはおっしゃった。
「10月を超えるとあなたを紹介してきた転職エージェントに紹介料を支払わなくてはならない。だから辞めるならそれまでに辞めて欲しいのだけれど、あなたの代わりの人材もなかなか見つからない。それをどうするか理事長(女性の経営者)と協議中なのだけれど、なかなか結論が出ないんです。」

いやいや、僕にだって次の仕事を探す都合がある。
紹介料を支払うのはもったいないから、辞めるなら今月中に辞めろ、なんてことを急に言われても困る。

そのとき、この事務長さんがおっしゃったのが、「でも、辞めることができるものなら一日でもはやく辞めたいでしょ?このような状況の中で働くのはあなたにとっても辛いだけでしょ」。

ここらあたりまでのお話は以前、ブログにも書いた。

そして、そうだ。
このとき、職場に横行するパワハラに対処するわけでもなく、対応策を提案するでもなく、双方の言い分を聞いて公平に判断しようとするわけでもなく、いや、なによりも事実確認もせずに、僕の(一方的な)言い分を受け入れて、当然のことのように全面的にパワハラの事実と、それを理由とした僕の退職申し出を容認するかのような態度を示した事務長さんの言動に、僕はなんとも不可解な印象を抱いたのだったっけ。

たしかにこれから先、3か月をこのような職場環境で過ごすことは辛いし、おそらくは貴重な時間を無駄遣いすることにもなる。
だが、生活費を稼ぐという点において、僕にも守らなくてはならないものがあるのだ。
何か月か収入がなくても暮らしていけます、というほどの金銭的な余裕は、残念ながら今の僕にはない。

「もちろん、申し出ている来年1月15日まで、この職場で働き続けることは私にとってストレスではあるけれど、私にも生活がありますから、急に辞めろと言われても、それも困ります。私の希望する退職日は1月15日です。ただ、紹介料の支払いという金銭的な損害が生じることを問題視するというのなら、とにかく早急に結論を出して、教えてください」。

だが、それ以降、ふたたび事務長さんとは音信不通状態となったのだ。

もともと、転職エージェントが示した職場紹介には、こんな一文があった。
「基本的には現場の従業員の皆さんに任せて運営を行っていますので現場主義の社風になります」。
理事長と呼ばれるこの薬局の女性経営者は隣県で個人病院を営むドクターの奥様であり、「事務長さん」は本来、この薬局の事務長ではなく、ご主人の経営する個人病院の職員さんなのだ。

そしてこの薬局の経営者である「理事長」と僕は採用面接の時以来、まったく顔を合わせる機会もなく、月に一度、薬局に売上金を回収に来るのは、契約している税理士事務所の職員さんか事務長さんだった。

たしかに「現場の従業員の皆さんに任せて」。その通りの職場なのだ。
だが、これはいささか無責任すぎないか。
「信頼して任せる」ことと「責任を放棄し、放置する」ことはまったくの別物なのだ。

まもなく12月になろうとするのに事務長さんからは何の連絡もない。
というか、月に一度は顔を出していた事務長さん、この2か月ほど、まったく姿を見せないのだ。
こちらから連絡をとろうにも、事務長さんの携帯電話の番号も、本来の勤務先の病院の電話番号も教えてもらっていない。
病院の正式名称すら。
「どうやって事務長さんとは連絡をとればいいですか」僕は前回、お尋ねしたのだ。
そのときの返答は「こちらから必ず連絡しますから、それまで待ってください」。
このやりとりもまた、不可解といえば不可解なものだった。

結局のところ、僕は「無関係だ」とは思いながらも、他に手立てがなく、給与明細を届けに来た税理士事務所の担当の方に、「私は来年の1月15日でこちらを退職することになっているのですが、その手続き的なことなんかも、事務所として引き受けておられます?事務長さんとも連絡がつかなくなって、困ってるんです」と相談を持ち掛けた。

そしてそこで僕は「あくまでもここだけの噂話。公にはされていない内緒の話」として、あの「事務長さん」が突然仕事を辞め、連絡がつかない「らしい」という話を聞かされたのだ。

だが、まあ、それを聞いて、僕は驚きはしなかった。
むしろ、これまでの「不可解」の謎が解けたような気がしたのだ。
僕が最初に退職を申し出たとき、あの若い男性の事務長さんは深く事情を聞こうとはせず、引き留めようともしないで、当然のことのように、「女性中心の職場はなんでこんなに揉め事が多いんでしょうね」と疲れたようにおっしゃった。
その「女性」とは、僕の働く調剤薬局の「管理薬剤師さん」のことなのか、経営者の「理事長」のことなのか、あるいは事務長さんの本来の職場である病院のスタッフさんのことなのか、いやいや、全員のことなのかは不明だったが、無条件に「あなたの気持ちはわかります」的なその態度に、僕は多少の違和感を覚えたのだ。

そしてまもなく12月に入ろうかとする頃、理事長直々に電話が入り、今回のブログの冒頭の場面へと繋がるのだ。

「あなたの代わりの薬剤師さんの採用が決まったので、あなたは今週中に退職していただける?」

僕は言った。
「今週中に辞めろというのなら、失業保険の給付をすぐに受けることができるように、その退職理由を会社都合としていただけますか?」

「だってあなた、一日でも早くここを辞めたいんでしょ。私はそう聞いてこれまで一生懸命に動いてきたのよ」。
「一日でも早く辞めたいというのは私の言葉ではなく、事務長さんの言葉です。いろいろと言葉の行き違いがあるようですから、一度、事務長さんとお話させていただけますか?」

理事長はそれには答えずに、ただ、「契約している労務士さんと相談して、労務士さんから返事させてもらいます」と、そのまま電話を切ってしまわれた。
そして…それ以降、何の連絡もなしに、今日まできた。

実はある方から、ここしばらくは「なんかこれって法律に反していませんか的なことだったり、契約おかしくないですか的なことか罷り通っているところに縁が出やすい」星回りだと、僕はアドバイスを受けていたのだ。
で、僕は「次の仕事選びは慎重にしなくては」と思っていたのだが…次の職場どころか、今の職場がまさにそうで、退職を巡ってここまで振り回されるとは思っていなかった。

そして今回のことで一番僕にとって「よくないこと」は…なんだか消耗しすぎて、「次の仕事を探す」こと自体が怖くなってしまったのだ。
なんというか、人の善なる部分を信じることができなくなったというか、おかしいのは僕自身なのかその周囲の人たちなのかわからなくなってしまったというか…。
とにかく僕は自分に自信が持てなくなってしまったのだ。

人はおそらく自分の可能性を信じられなくなると、今、目の前にあることだけしか見えなくなり、あれほど楽しみだった新しい明日という日が来ることが怖くなってしまう。

それが今回の一連の出来事による影響なのか、毎年悪いことが重なることの多い「11月」という月のせいなのか、「陰」が極まる冬至へと向かうせいなのかはわからないが、僕はまあ、久しぶりに自分というものを信じることができなくなってしまったのだ。
長らく、あれほど楽しかった「文章を書く」ということすらできなかった。

だが、悪いことも極まれば、あとは良い方向へ進むしかない。
まもなく数時間後には冬至点に達し、あとは徐々に陰が陽に転じていくように。

それにしてもこの一年は本当にきつかった。
そして多くのことを学んだ。

僕は自信を失ってこのまま埋没してしまうのではなく、前に進むしかない。
本来、自分の居るべき正しい場所に辿り着くことができるように。
 

クランシーさんはシャツを積み重ねた上からとりあげるとまるで投げつけるようにおばさんのほうへやった。大声でブウブウいいながら、おばさんに、もし昼飯までにできなければ、そのできない理由をききたいといった。
「わたしは、どなられて仕事をするのはまっぴらですよ」と、おばさんは、まっかになっておこっていった。「あんただけじゃない、小屋住まいのアイルランド人になんか、だれにだってどなられるもんか!」
クランシーさんはそのとき、なんといったかローラにはほとんど聞こえなかった。ローラはしんからそこにいたくないと思った。けれどもおばさんはローラにいっしょにきて昼飯をたべるようにといった。ふたりがいっしょに店のうしろの台所にはいっていくと、クランシーさんがそのあとからどなってついてきた。
台所は雑然としていて暑くてひとがいっぱいで混雑していた。
クランシーさんの奥さんがテーブルの上に昼飯の用意をしていた。女の子が三人と男の子がひとり、おしっくらをして、おたがいにいすから落とそうとしている。クランシーさんと奥さんとホワイトさんのおばさんと、みんな大きな声をはりあげてけんかしながら、腰かけてパクパクたべている。なんのことでけんかしているのか、ローラにはわからなかった。クランシーさんが奥さんとけんかしているのか、そのお母さんのホワイトさんとけんかしているのか、ふたりの女のひとがクランシーさんとけんかしているのか、女のひと同士でけんかしているのか、ローラにはわからなかった。
三人とも、カンカンにおこっているので、なぐり合いをするのではないかとローラは心配した。それでもときどき、クランシーさんは「パンをとってくれ」とか、「もう一ぱいくれないか」と、茶わんを出す。奥さんはそれをしてあげる。そうしながらもお互いにどなってののしりあっていた。子どもたちは全然無関心だった。ローラはびっくりしてしまって、とてもたべられない、ただ逃げだしたい一心だった。だから、食事がすむとすぐ仕事をしにもどった。
クランシーさんは、おいしい昼飯を家族といっしょに静かにすませてきたかのようなようすで、口笛を吹きながら台所から出てきた。彼はホワイトさんのおばさんにあかるい調子できいた。
「そのシャツはもうどれくらいでできるかね?」
「二時間はかからないよ」と約束するように彼女はいった。「ふたりでやるからね。」
「世の中というところはいろいろなひとが集まってそれではじめてできるんだよ」と、いった母ちゃんのことばがローラには思い出された。

「大草原の小さな町」 L.I.ワイルダー(鈴木哲子 訳)

「縁はどうやってつくられるのか」というブログのなかで、僕は「この楽しき日々」という小説のなかの一文を引用したのだが、この物語のシリーズのなかでもうひとつ、思い起こされたシーンがある。
それが、「この楽しき日々」の前作にあたる「大草原の小さな町」のなかの、上記のシーンなのだ。

独身の入植者が増えてきたことに目をつけたひとりの男が、シャツを仕立てる店をひらくことを思いつく。
男の奥さんのお母さんが当時、まだまだ珍しかったミシンでシャツを縫うのだが、手縫いでそれを手伝う人間を探しているのだ。
大勢の人間が苦手なローラは、町へ行って知らない人たちの中で働くことは本当は嫌だったのだけれど、でも、その仕事を引き受ければ、一週間に1ドル50セント稼ぐことができる。
姉が大学へ進学するための費用の手助けができる。
本当は家で家族と過ごしたいが…ローラは町へ出て、働くことを決意する。
そして冒頭のシーンは、ローラが町で働きだした初日の光景だ。

「世の中というところはいろいろなひとが集まってそれではじめてできる」
それはまさに、今年という一年に、僕が学んだことだった。
このことを身をもって体験するために、僕にとってはこの一年があったのだといえるだろう。

いや、僕はそのことをすでに知っているつもりだった。
わかっているつもりだったのだ。

でも、それは結局のところ、「つもりだった」にすぎず、本当の意味でそのことを理解していなかったことを、今年という一年の中で、僕は嫌というほど思い知った。

「誰とでも仲良く」と僕たちは義務教育の中で叩き込まれてきた。
付き合う人間を「選ぶ」ことは「協調性がない」とみなされ、問題児・変わり者であるとの烙印を押されることとなった。

僕はそのことに息苦しさを覚え、高校一年までを重圧のなかで暮らした。
「人にどう思われようと構わない」と割り切ることができず、そんななかで、自分の心を殺して薄く浅く、無難に人と付き合う術をやがて身につけた。
いや、身につけた、とただ、思い込んでいたのだ。

いつしかそれは、誰にでも「いい人」だと思われたい、思われなくてはならない、という、強迫観念にも似た思いへと変わっていった。
自分を嫌う人がいる、という状況に耐えることができなかった。

でも、実際には、「誰にでも好かれるいい人」なんて存在しない。
いるとすれば、それは自分の心、気持ち、個性を無理やり押し殺す人間なのだ。
それは「器用だ」といえるかもしれないが、その器用さは代償を伴う。

「理解してもらえない」ことに焦り、なんとか「理解してもらおう」ともがいた。
「やっぱりこの人は自分とは違う世界に住む人なのだ」と思っても、卑屈にご機嫌をうかがい、たまに穏やかな口調の返答を得られると、それを嬉しく思ったりもした。

「それはバカげたことだ」と思いながらも、無意識のうちに卑屈な思いを抱え、「この人とうまくいかないのは、自分に問題があるのだ」と自分を責めた。

「世の中というところはいろいろなひとが集まってそれではじめてできる」

そうなのだ。

なかには異次元の世界に住む人のように、まったく理解しあえない人だっている。
だが、それは誰が悪いわけでもない。
理解しあえないことに罪悪感を覚える必要はない。
自分を責める必要もない。

「わかりあえない人」というのはどこにでもいるのだ。
そんなとき、できるのはただ、「うまく流す」か、流すことができないのなら、自分自身が「その場から去る」ことだけだ。

今年は、僕にとって、そのことをあらためて認識するための一年だったといえる。
そしてこの一年の苦しみは、きっと僕が次の人生を歩むための新たな礎となるのだろう。

無駄な体験はひとつもない。
苦しいけれど。
ふと、そう思った。
 

「塩について学んでみませんか」
ある方から、そんなお誘いをいただいた。

「人は生きとし生けるものの命をいただいて生きています。ただ、唯一命でないもの。それが“塩”です。」
ん?ほんとに?
そんなこと、考えたこともなかったなぁ。
でも、たしかに「僕たちが口にするもので、命をもたないものは?」と考えてみると…他にはまったく思いつかない。

生命の維持に欠かせないもの。塩。
一方で、その摂取量は厳しく制限されている。
一日に男性で7.5g未満、女性で6.5g未満だったっけ?
WHOだと1日5g未満。
これはだいたい、小さじですりきり1杯の量なんだって。

必要不可欠なのに、一日にわずか小さじ1杯以上で害になるだなんて…すごくビミョウだ。

そうそう、塩といえば…
たしかシェイクスピアの「リア王」で、末娘のコーディリアは父への愛を訊かれたときに「塩のように大切に思っています」と答え、父王の怒りにふれ、勘当されたんじゃなかったっけ。
「お前にふさわしい物を与えてやる」と腰に塩一袋だけを縄でくくりつけられて。

だが、数年前、劇場で「リア王」を観たときに、そんな台詞はなかった。
「おやおや?」と思った僕はその後、本屋で「リア王」の戯曲を確認したのだが…たしかにコーディリアと父王とのあいだに、そんなやりとりはなかったのだ。

何の記憶と混同してしまっていたのだろうか…。
そうだ、グリム童話のなにか。
ああ、あれは「泉のそばのがちょう番の女」だ。

「娘が十五歳のとき、王さまは姉妹三人を玉座の前へめされました。いちばん末のがはいってまいったときに、みなの者がどのような目をいたしましたでしょう。ほんとうに、お目にかけたいようでございました。まるでお日さまがお昇りになったような光景でございましたもの。
 王さまは、『のう、ひめたちや、わしはいつなんどき命数がつきるかも知れぬ、わしは今日、わが亡きのちにおまえたちがめいめい受けとるものをきめておく。おまえたちは、いずれもわしを愛してくれる。ではあるが、わしをいちばん深く愛してくれる者に、いちばん佳いものをつかわすことにいたす』と、おおせになりました。
 めいめい、じぶんがいちばん愛していると申しました。王さまは、おりかえして、『ぜんたい、どのくらいわしを愛しておるのか、口に言えぬものかな、そうすれば、そちたちの心がようわかるのだが』と、おおせになりました。そうりょうは、『わたくしは、いちばん甘いお砂糖とおなじぐらいに、おとうさまが大好き』と申しました。次女は、『わたくしのいちばんきれいな着物とおなじぐらいに、おとうさまが大好き』と申しました。末の娘は、だまっておりました。
 『こんどは、おまえだ、おまえはわしの秘蔵娘、どのようにわしを好いておるかの』と、父にたずねられて、娘は、『そんなこと、存じませんわ。わたくしがおとうさまをお慕い申すことは、ほかにくらべるものがございませんもの』と、こたえました。けれども、父親は、是非ともなにかにくらべてごらんと言い張りましたので、娘もやっとのことで、『どんな上等なお料理でも、お塩がはいらなくてはお味がでません。でございますから、わたくしは、おとうさまが、お塩とおなじぐらいに大好き』と申しました。これをきくと、王さまは、かっとお腹立ちで、『おまえがわしを、塩とおなじように好きだというなら、その愛情には塩で返礼をいたしてつかわすぞ』とおおせられ、お国は年うえの娘ふたりにわけて、末のには、塩を一ふくろ背なかにくくりつけさせ、これを、下僕ふたりが森へつれこむことになりました。」

「泉のそばのがちょう番の女 KHM179」(金田鬼一 訳)

そしていかにも童話らしく、この美しい娘が「泣くたびごとに目から落ちますのは、ただの涙ではなく、真珠や、いろいろの宝石ばかりでございました」。
森の小径には、娘の目から流れ落ちた真珠が散っていたという。

さて、薬膳(東洋医学)の世界、五行説では、味は酸・苦・甘・辛・鹹(五味)にわけられ、このうち「鹹(かん)」が塩辛さをあらわす。
鹹味には軟堅散結(塊や硬いものを軟らかくする)や瀉下(便を下して出す)の作用があるとされ、摂りすぎはむくみ、動悸、顔色の暗さの原因となる。
鹹味の食材として代表的なのは昆布などの海藻類やクラゲ、アワビやイカ、カニなどの海産物、魚介類。
鹹味はいわゆる塩化ナトリウムのしょっぱさではなく、ミネラル豊富な自然の塩味を指すのだ。

そしてこの鹹は五行・木火土金水のうちの水に属し、五臓では腎、五腑では膀胱、五志では恐(驚)、五気では寒、そして耳、髪、骨などが同じグループとなる。

腎は精を蔵す、水を主る、納気を主る、骨を主り髄を生じ脳に通じる、耳と二陰に開竅する、華は髪にあらわれる、といわれ、腎精の不足は様々な老化現象を引き起こすのだ。
ちなみに、ここでいう「腎」とは、腎臓そのものを指すわけではない。
だが、いずれにしても、生命活動の基礎物質とされる「精」を蔵する腎が好むのが「鹹味」である、ということは興味深い。

実はこの国では、1972年以前と以降では、「塩」そのものが違っているのだという。

1972年、環境汚染を理由に、「塩田廃止法」が施行された。
これまで海水から塩田でつくられていた塩が、以降、工業的につくられるようになったのだ。

何が違うのか。何が変わったのか。
塩田でつくられていた「塩」はミネラル分が豊富で、塩化ナトリウム濃度は70%ちょっと。
一方、現在「塩」とよばれる精製塩は海水を電気分解してつくられており、塩化ナトリウムを99%以上に精製した塩なのだという。

「そしてそれ以降、次第にある言葉が頻繁にメディアにとりあげられ、社会問題化するようになりました。なんだと思います?」
先生がおっしゃった。
なんだろう。
1972年といえば、僕が7歳の頃だ。

答は…「キレるこども」なのだという。

たしかに別の先生も、こんなふうに書いておられる。


 天然塩は、全身の氣を維持し、特に脳の前頭葉領域にとてもよい作用をもたらしてくれます。
 前頭葉は、人が人らしく生きるために大切な領域で、特に人間において著しく発達しています。そして、その大部分を占めるのが前頭前野であり、ここが「考える」「記憶する」「集中する」「コミュニケーションする」「感情を制御する」「アイデアを出す」「ポジティブになる」などの働きを担っています。
 この領域の活力を増して明晰にする役割を持つのが、高品質の天然塩です。

現代のように不自然すぎるほどの過剰な減塩を続けていると、氣が削がれ、自分で考えることを放棄し、盲目的に人に従い、物事に集中できなくなり、心身の活力を失ってしまいます。

「神の国日本の食と霊性」   森井啓二 著

たしかにこの国では漬物や味噌など、塩分を多くとる食習慣が昔からあった。
その頃、高血圧などの人が多かったのかどうかは定かではないけれど、どうなんだろう。
すくなくとも、「塩」が変わり、減塩が叫ばれるようになったこととの関連性は確かではないが、「人の性質」はここ数十年でずいぶんと変わってきたように感じる。

先生はおっしゃる。
「問題は“塩”じゃありません。塩化ナトリウムを高濃度に含む“精製塩”なんです」。

ミネラル分を豊富に含み、その分、塩化ナトリウム濃度が低い塩を「不純物の多い塩」とおっしゃる方もおられるらしいが、実はこのミネラル分が大切なのだという。
そして体に害をなすのは、塩田が廃止されて以降、僕たちが口にするようになった、ミネラルを除いて塩化ナトリウム濃度をあげた精製塩なのだ。

なるほど、それは薬膳をしばらく学んでいた僕としては、すごくしっくりする考え方だ。

そして法律により、僕たちに必要不可欠な塩をこのようなものに変えてしまったこの国。

塩田廃止法が施行された背景には、当時問題となってきた環境(海)汚染とは別に、「確かな税収入を得る」という目的もあったのだといわれている。
まだ終わらない「米問題」もそうだけれど…僕たちはもっといろんなことを学び、知り、考え、さまざまな「大切なこと」を完全に国任せにはせずに、自分で判断する姿勢をもつことが必要なのかもしれない。

自分を守ることができるのは、結局のところ、自分だけなのだ。

そういえば、塩は食用にするほか、「清め」にも使う。
「塩で邪気をはらう」という考え方は、この国特有なのだろうか。
あるいは他の国でも、塩はこのような使い方をされるのか。

「塩で清める」というのはなんとなく神道的な考え方のような気がするのだが、でも、仏式の葬儀でも配られるよね。
僕にはそれがすごく不思議だったりもする。
だって、神棚に塩はお供えするけれど、仏壇に塩はお供えしない…よね?

そもそも「塩で清める」という考え方はどこからきたのだろうか。

不意に気になって、調べてみたら、それはそもそも「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が妻である伊弉冉尊(いざなみのみこと)がいる黄泉の国から戻った後に、日向の阿波岐原で自分の体についた死の国のケガレを祓うため、海水につかって禊ぎを行った」という古事記の記述を起源とするらしい。

ということは、清めに使う塩も、精製塩ではなく、「海水」に近い天然塩のほうがいいということなのだろうか。
あるいは塩化ナトリウム濃度が高い精製塩のほうが、穢れを祓う力も強力なのか?

塩って不思議で、そして興味深いな。
あらためて思った。

そしてもうひとつ。
こどもの頃に読んだ物語のなかに、時々、「地の塩」という言葉がでてきたことを僕は思い出した。
その頃は「なんとなく、聖書のなかの言葉っぽいな」と感じながらも、調べることなく読み飛ばしていたのだが。
今、調べてみると、これはやはりキリストの言葉に由来するもので、「神を信じる者は、腐敗を防ぐ塩のように、社会・人心の純化の模範であれ」という意味らしい。
つまり、「地の塩」とは、「社会のために尽くして、模範となる人」のことをいうのだそうだ。

ふと思った。
おそらく幼いころから日々、両親が僕に刷り込んできたのは、この、「地の塩」であれ、ということだったのかもしれない。
僕が無意識のうちにもつ、人に対する基準は、おそらくは「心の純度」だ。

 

僕自身の心の純度が高いとは思わない。

だが、心の純度が低いと感じられる人と同じ空間にいることは、僕には苦痛だ。
だからこそ、短い期間の中で、普通なら我慢するところを我慢できず、続けて仕事を辞めることにもなった。

自分ではそれを「間違ったこと」だとは思わないが…身近にこういう人間がいたなら、第三者として、「ちょっと融通がきかずに厄介な人間だな」と思うかもしれないな。
 

 ローラは、自分の力で及ぶ限りのいい学校が見つかるだろうということは疑わなかった。だが、自分が行きたいという学校に運よく行くにはどうしたらいいかと考えた。その夜、彼女はほとんどそのことばかりしか考えなかった。
L.I.ワイルダー「この楽しき日々」(鈴木哲子 訳)


ふと、昔読んだ小説のこんな一節を思い出し、そして僕は最近、たびたびそのことを考える。

「この楽しき日々」は僕たちの世代にはよく知られているであろう、昔、NHKで放映されていた「大草原の小さな家」の原作のうちの一冊だ。
ローラは熱病で視力を失った姉が盲学校へ進学するための学費を助けるため、教員免許をとる。
何期かを学校で教え、そして今度が結婚前の「最後の学校」となるのだ。

 「人の運は、よかれ悪しかれその人自身が作るものだよ。」と母ちゃんは落ち着き払っていった。「おまえにはきっとおまえらしい運がまわってくるよ、母ちゃんはそう信じてるよ。」

やがて、ローラの友人が、高給の学校を紹介してくれる。
友人自身がその学校で教えるつもりだったのだが、彼女は教員免許をとることができなかったのだ。

 「ほんとにほんとにありがとう、フローレンス!」
 「だって、あなた、いつもわたしに親切にしてくださったわ。だからそのちょっぴりでもお役に立つ機会があれば嬉しいわ。」とフローレンスは彼女に話した。
 ローラは、母ちゃんが運についていったことを思い出して、考えた。
 「わたしたちの運の大部分は、意識することなしに自分たちで作るんだと思う。」


今年に入って2回連続で転職に「失敗」した僕は、どうすれば「良き縁」と巡り合うことができるかを、日々、考える。
「縁」は難しい。
特に「よき職場・よき仕事」に対する縁は、恋愛にも似ている。

いくら望んでも、相手側が僕という人間を欲しがってくれない。
あるいは僕の履歴をみて、是非にとおっしゃってくださっても、僕自身がその場所に違和感を覚え、心が動かない。
縁を感じ「こここそその場所だ」と思っても、自分自身がすぐに動ける状況にない。つまり、タイミングがあわない。

あらゆる状況が整って、はじめて縁は得ることができる。
それは自分自身の一方的な努力や熱意だけでは、どうにもならない。

「片思い」のままで終わってしまう。

いや、これはただ、僕がそう「思い込んでいる」だけなのだろうか。

「タイミングをはずすことなく、本来自分がいるべき正しい場所へと導かれるためには、どうすればいいのでしょう」僕はある方に尋ねる。

「ひとつは自分自身が無意識に行っているルーチン的なことから外れてみること。そうすればパッと視界がひらけます」。

自分の中でルーチン化してしまっていること。
どんなことがあるだろう。

決まった時間に起床し、決まった時間に家を出、決まった電車、決まったドアから乗り込む。
決まった同じ道を歩く。
僕はそういうタイプの人間だ。
無意識に「決めていること」「習慣化していること」は多い。

でも、そういうことではないのだろう。

そうだ、仕事を探すときにここ最近、僕が一番重要視してきたこと。
それは年俸額だ。

今回の2回の転職の失敗に共通するのは「同じ転職エージェントの紹介案件である」ということのほかにも、「契約年俸が高かった」ということがある。

以前はこれほど、お金のことに拘らなかった。
行政薬剤師を早期退職して以降は、収入よりも、これから先の限りある人生のなかで「自分がやってみたいこと」「自分が勉強してみたいこと」を重視した。
お金は「最低限の生活が維持できればいい」。

父も母も、奇しくも、と言っていいのかどうかわからないのだけれど、76歳の誕生日を迎える3か月前に亡くなった。

父親を早くに亡くした友人は、自分自身がその年齢を超えることができるかどうか、不安だったという。

その年齢を自分自身が超えて、ようやく、その呪縛から解かれた。
その話をきいたときには「ふうん、そんなものなのかな」と思っていたけれど、今ではその気持ちがなんとなくよくわかる気がして、僕自身も自分のこれから先を考えるときには「76歳」という年齢をひとつのボーダーとして思う。

具体的には「あと16年」ということになる。
いや、母は亡くなるまで、10年以上も機械に繋がれ寝たきりの生活を送ったのだし、父も2年近くを病院で過ごし、そのうち1年近くは意識も定かではなかった。
しかもふたりは、そうなるまでは病院にかかることもなく薬も飲まない、まったくの健康体だったのだ。
そう考えると、僕が「本当にやりたいことをやれる」時間は、あと十年も遺されていない可能性だってある。
無駄にできる時間はないのだ。

そんな僕が「やりたいこと」よりも「お金」にとらわれるようになってしまったのは、そうだ、「59歳の誕生日」に等しく送られてくる「ねんきん定期便」がひとつのきっかけだった。
そこで僕は「やりたいこと」も大切だけど、現実的には定年退職以降、「最低限の生活を維持する」ことさえ、このままでは難しいのだ、ということを悟った。

まずは住宅ローンという名の借金をできるだけ早く返してしまうこと。
そこでようやくゼロ地点に立てる。
「やりたいこと」を追求する「資格」を得ることができる。

でもね、おそらく今の世の中、自分自身の価値観を転換でもしないことには、おそらく「やりたいことを追求する」日なんて、訪れることはないのだ。
宝くじに当たりでもしない限り。
一生、「お金」という呪縛から逃れることはできないのだろう。
かなしいけれど、この国は、今ではそういう仕組みになってしまっている。

ここで僕は「稼ぐ」ことよりも、「身の丈に合った暮らし」の本質を、いったん考える必要があるのではないだろうか。

なにかを得るためには、なにかを捨てることも必要なのだ。

そうだ。
「お金」を一番に考える習慣、ルーチンを捨て去り、もう一度原点に立ち返ってみよう。
今回の失業はあらたな生き方をスタートさせるチャンスでもある。

そして本来自分がいるべき「正しい場所」へと導いてくれる縁は…
「人の運は、よかれ悪しかれその人自身が作るものだよ。」

それを信じて退職までのあと数カ月を、焦ることなく自分自身としっかり向き合いながら、過ごすことにしようか。

 

これまでのルーチン的思考から離れて、次の仕事を探す。
これまでの自分を、自分自身の積み重ねを信じて。
「わたしたちの運の大部分は、意識することなしに自分たちで作るんだと思う。」

 

8月から働き始めた職場で退職を申し出た、というお話をしたのだけれど…
そのとき、話をした本部の事務長は「自分だけでは判断できないので、持ち帰って協議する」とおっしゃったのだ。
僕は「協議するって、いったいなにを?」と思った。

雇用契約書には「自己都合の退職の手続」として「退職する90日以上前に届け出ること」と記載されている。
「働きだしてからまだ二か月に満たない時期での退職の申し出」という点では、たしかに「普通ではない」のかもしれないが、互いの「決め事」に従っての退職申し出なのだ。
ここで「雇用者はパワハラやモラハラのない職場環境をつくり、働く者の心身を守る義務がある」なんてことを言うつもりもなく、ただ、「私をここから去らせてください」というだけのこと。

ふたりだけの職場なのだから、「もうひとりの方」は僕ではない「もっと気の合う人」を見つけるほうが、双方にとっていいことなのは間違いない。


だが、以降、数週間が経過しても、事務長からはなにの連絡もない。

給与支給日、給与明細を配りに来た事務長をようやくつかまえ、「次の仕事を探す都合もあります。退職日は契約書に記載された90日にすこし余裕をもたせた来年1月15日ということでいいですよね」と最終確認をとろうとしたのだが…

事務長はおっしゃった。
「10月を超えてしまうと、人材紹介会社に紹介料を100%支払わなければならなくなる。辞めていただくなら、その前に辞めていただくかどうかを協議中だが、まだ、結論は出ていません」。

おやおや、これって「退職を申し出たら、逆にクビにされそうになった」ということなんだろうか?

先日も、僕が「これ以上は一緒に働くことは無理」と考えた年配の女性管理薬剤師さんとの間でこんなことがあった。
土曜日にシフトに入ってくださった派遣の女性薬剤師さんに仕事の指示をあれこれなさって「やってもらうこと、理解できた?」と尋ねられたところ、その派遣薬剤師さんは「やりながら、もし、わからないことが出てきたら、こちらの薬剤師の先生(僕)に教えていただきます」とこたえられたのだ。
するとこの管理薬剤師さんは吐き捨てるようにおっしゃった。
「尋ねるだけ無駄よ。この人はまったく仕事はできないし、わかってもいないから。あなたに教えるなんてこと、できるわけもない」。

そのとき、僕はまだまだ「なんとかこの人との関係を修復できないだろうか」と甘い期待を抱いていた自分に気付き、そして、「ああ、この人って、やっぱり“普通の人”ではないのだな」ということを悟った。
“普通の人”であれば、たとえそんなふうに思っていても、本人の目の前でこのようなことを言ったりはしない。

退職が決まっても、それから90日間、このような日々に耐えることはできるのだろうか、と考えていたところではある。
一日でも早く退職し、次の段階に進みたい、というのは僕の正直な思いなのだ。

だが、「紹介料がもったいないから、辞めるんだったら来月中に辞めてくれ」と雇用者から言われるのは、また、問題が別ではないだろうか。
雇用者に対する僕の信頼はおおきく揺らいだ。
いったいなんなん、この会社?

で、結局のところ、今日にいたるまで「僕の退職時期に関する協議結果」は知らされていない。

これまでの僕の転職はすべて「知人の紹介」か「ハローワーク案件」だったのだ。
転職エージェントに登録することはあったが、採用決定に至ることまではなかった。

前回の「実際に初日に出勤してみたら、店舗はまだ出来上がっておらず、営業許可取得のための手続きもぜんぜんなされていなかった」職場が、転職エージェントを介して僕が仕事を決めた初めての経験だった。
そのとき、僕は「転職エージェントって、求人元をしっかり調査することなく紹介してくるのだろうか」と、その無責任さにまあ、心底驚いた。
しかもこのエージェントは、薬剤師の人材紹介としては、かなり大手の有名どころだったのだ。
そして今回の薬局は「その不手際のお詫びに」と同じエージェントから紹介された案件だった。

求職する側として、僕たちはそのサービスを無料で利用できるということは知っているのだが、紹介される側が紹介手数料として、どの程度の金額を支払わなければならないか等についてはあまり公にされていない。

どうやら紹介料の相場は、契約年俸の3か月分らしい。
もちろん、紹介した人材が早々に辞めてしまったなら、その紹介料は払い損となってしまうから、雇用者としてはできるだけ長く働いてもらいたい。


僕はなんとなく、例えば半年以内で辞めてしまったら紹介料の50%、一年が経過したら100%の支払い、そんな感じかと考えていた。
今回の調剤薬局のように、自己都合の退職の場合「90日以上前に申し出る」としているところは僕の経験上、多いと思う。
つまり「入職後3か月以内に辞める」というのは、よほどの理由があって雇用者側がクビにするなどといった、きわめて稀な案件に限られる、ということになる。
3か月が経過したら紹介料を全額支払わなければならない、一方で退職には90日=3か月前の申し出が必要、ということは…「ほぼほぼ紹介料は100%得ることができる」という巧妙な設定・仕組みだということではないか。

僕の場合、前回の職場には半年しかいなかったが、すでに転職エージェントは200万円近い紹介料を手にしており、そして今回は僕が「10月いっぱいまで居座ってくれれば」150万円ちょっとの紹介料をさらに得ることができる、ということになる。
どうりで「なんとか状況の改善を働きかけますから、早まらずに、結論を出すのはもうすこしだけ待ってください」とエージェントの担当者が僕に言うはずだし、前回のように求職元の「身元」的なことを十分に調査せずに無責任に紹介もしてくるわけだ。
言葉は悪いが、居心地のいい職場を紹介して何年もそこに居座られるより、半年程度で次の紹介を繰り返し求めてくる人材のほうがエージェントにとっては「おいしいカモ」、ということになる。

しかもこの転職エージェントの僕を担当するコンサルタント、これまでは僕のLINE書き込みに対し、電光石火でレスポンスしてきたのに、今回、「3か月を経過すると紹介料の支払い義務が生じるので、辞めるなら10月中に辞めてもらうことを検討している、と事務長から言われた」という書き込みに対し、数週間が経過した今も既読スルーが続いている。

「まったく、うまく利用されたもんだ」
僕は溜息をついた。
結局のところ、僕はただの商品としてしか見られていなかったのだよね。