僕の宝物 | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

こどもの頃、住んでいた家の窓枠は木でできていて(開け閉めのとき、時々、ソゲが指に刺さったものだ)、はめられた硝子は指先ではじくとチーンと澄んだ音がするくらいに薄かった。

冬の室内の寒さときたら尋常ではなく、ましてやストーブをたくことのできない浴室なんて、まるで北極のようだったのだ。

だから我が家では、冬の間は家の風呂は使わず、3日おきくらいに、歩いて5分ほどの銭湯へ通った。

 

銭湯へ行く手前には、ぐるりを道路で囲まれた、見通しのいい三角形の公園があった。

ちょうど三か所の頂点部分それぞれに入口があり、ひとつの辺に沿って砂場と鉄棒が、もうひとつの辺にはちいさなジャングルジムと滑り台が、そして一番手前の一辺にはブランコと、地球儀のような球形の遊具があった。

この球形の遊具は鳥かご状になっており、地軸よろしくすこし傾いて設置されており、グルグル回すことができて、内側に入り込むとこどもが3~4人、座ることのできるスペースがあった。

 

遊具はどれも錆びついていて、遊んだあとの手や白いシャツは赤茶色に染まり、血の味に似た鉄の臭いがした。

 

夜、銭湯ですっかり温まった状態で街灯に照らされた道を帰るとき、風で揺れるブランコを「あれは目に見えないお化けがブランコを漕いでるんやで」と僕に教えてくれたのは、五つ年上の兄か、あるいは当時、一緒に暮らしていた、大学生だった母の一番下の弟だっただろうか。

 

だが、僕は暗闇のなか、かすかな街灯にてらされて揺れるブランコを見ても、なぜだか怖いとはまったく感じず、むしろその光景に不思議と惹かれた。

 

そしてある夜、一緒に銭湯から帰る父や母のそばを離れて、ひとり、ドキドキしながら公園のひとつの頂点の入口から、もうひとつの入口に向かって、ブランコの横を走り抜けようとした僕は、ひとつの「宝物」を拾ったのだ。

 

それは真鍮のように鈍い光を放つ、長径が1センチほどの金属製の、おそらくはペンダントトップなのだろう。

女性のレリーフが施されていて、大きさの割に重量感があり、こどもの手にはずっしりとした不思議な重みが感じられた。

 

母はそこに刻まれた立ち姿を、おそらく聖母マリアだろうと言い、こうしたものには人の思いがこもるものだから持ち帰ってはいけない、と続けた。

そのため、僕は心惹かれながらも、その「宝物」を街灯に照らされた公園の入口の、低い門柱の上に目立つように置いたのだ。

 

それは母の言うとおり、ただのデザインとしてのマリア像や十字架ではなく、信仰の対象ともなるような意味合いを持った品ではなかったのだろうか。

その古びた鈍い輝きと手に感じる不思議な重みが、そんなことを思わせたが、だからこそ、その「本物」感がいっそうに、僕の心を捉えた。

 

だが、その「宝物」は三日後くらい、銭湯帰りに立ち寄ったときも、そしてさらに三日後くらいの帰り道でも、まだそこに置かれたままだった。

父は母の方を見やり、諦めたように、あるいはすこし呆れたように言った。

「ま、これだけ経って誰も持っていかへんのやったら、持って帰ってもええやろ」。

 

こうしてこの「宝物」は僕の宝箱、セミの抜け殻や未来を見通すこともできそうな不思議な色合いのガラスのビー玉、夏に海岸で拾った貝殻なんかと一緒に、クッキーの入っていたカンカンの中に収められることとなったのだ。

 

あのカンカンはどこへいったのだろう。

実家の片付けをしたときには見つからなかった。

たしかその後も、あのカンカンの中には制服のボタンだとか、詰襟につけていた校章だとか、もらった四葉のクローバーだとか、そういった大切な「思い出の品」が、次々と、ファラオの棺よろしく、大切に収められていったのだが。

 

いや、違う。

あの「宝物」の関しては、いつまでもあのカンカンの中に大切に入れられていたわけではなかった。

今、この文章を書いていて、不意に思い出した。

どうしてあの「宝物」を拾ったときのことは鮮明に覚えていたのに、あの「宝物」を手放したときのことはすっかり忘れていたのだろう。

 

そうだ、あれはそれからしばらく経ってからのことだ。

当時の僕にはすごく仲のいい友達がいて、何をするのも、すべて彼と一緒だった。

あまりに仲がよすぎて、逆に、彼以外との同級生との関係は極めて希薄だったのだ。

だが、変化は突然、訪れた。

 

彼は転校してきたN君と、僕の気付かぬ間にすごく仲が良くなってしまい、僕は孤立してしまったのだ。

 

彼とN君の二人組が僕に仕掛けるからかいやちょっかいを、僕は「意地悪」だと捉え、学校へ行くのが辛く、嫌になってしまった。

おとなの目からすれば、別にそれはイジメでもなんでもなく、「だったら今度は3人で仲良くすればいいやんか」。今の僕には、そうだ、そうした健全な考えが理解できるのだけれど、当時の僕からすれば、「すべてが終わった。もう、この世の中に楽しいことなんてひとつもない。あるのはただ、絶望だけだ」、そんな思いだったのだ。

喧嘩をした、などというのであれば、まだ、心の整理がつく。

でも、一方的に飽きられた、面倒くさく思われるようになった。直接的な言葉ではなく、態度でそれを示された。

そして周囲の同級生からは「ひとりとだけ、仲良くするからこんなことになるのだ」と考えられ、可哀想がられる。

僕はそのことに耐えられなかったのだ。

 

僕はふと母の言葉を思い出した。

「こういうものには人の思いがこもっているから、持ち帰らないほうがいいよ」。

 

僕の人生にこうした裏切りとも思える不幸が訪れたのは、もしかして、あの「宝物」を自分のものにしようと考えたからなのではないのだろうか。

そのバチが当たったんじゃないだろうか。

 

鈍い輝きを放ち、しっかりとした重みを感じる、その「宝物」。

 

僕はカンカンの中に同じように大切にしまいこんでいた、誕生日プレゼントかなにかに結びつけられていた綺麗な色のリボンをその「宝物」のリングに通し、公園まで持って行って、木の枝にぶら下げた。

くすんだ色合いの「宝物」と鮮やかな色のリボンはいかにも不釣り合いな組み合わせではあったが、これなら、落とした人はきっと気付くに違いない。

 

その後はどうなったんだっけ。

たしか銭湯通いの冬はもう終わり、空気はすっかり暖かくなっていて、通学路からははずれたその公園は、「行こう」という特別の意思を持たなければ、僕にとっては「近いけれど遠い場所」だった。

 

「宝物」がその後、持ち主のもとへ戻ったのか、あるいは別の誰かに拾われたのかはわからないけれど、僕に関していえば、結局のところ、状況は改善しなかった。

生きることはこんなにも辛いことなのだ、ということを僕は知ったけれど、でも、それでも「明日」は否応なく訪れ、ただ僕は生きてその一日一日を乗り越えていくしかないのだ、ということを悟った。

 

今、思えば、そうだ、あれ以降、僕は「広く浅く」しか、人と交わることができなくなった。

いや、「できなくなった」というのはすこし大袈裟だな。

 

おそらく僕は自分以外の人に対して、もともと、「ほどよい距離感を持つ」ことが苦手なのだ。

無意識に「全身全霊」「全力」で向き合ってしまう。

そして、本来の独立した「自分」というものを見失ってしまう。

それが無意識のうちにもわかっているために、自己防衛的に、自分からは誰とも深い関りを持とうとはしないのだ。

持とうとはしなくなったのだ。

 

三十代、四十代の頃になって、僕はふと思った。

「僕って、薄情な人間なんじゃないだろうか」。

 

友人の「数」で言えば、多い方なのかもしれない。

飲み会に誘われることも、今のこの不規則なシフト制の仕事となってからは、そしてコロナを経験した後では、ほとんどなくなってしまったが、それまでは毎週ペースとはいかないまでも、それに近いくらいのお誘いはあった。

だが、その一方で、たとえば友人の結婚披露宴に招かれたのは2回だけだ。

このことは、まさに僕の人との付き合い方、「広く浅く」を象徴してはいないだろうか。

 

まさかこれはあの時の体験が尾を引いているわけじゃないだろうけれど、と、今頃になって、ふと、思った。

深く人と関わることのできない、その理由。

いつも受け身で、自分からは誘うことのできない、その理由。

笑顔も「なんとなく胡散臭い」とよく言われる。

 

いや、こんなことを書くつもりはまったくなかったのだ。

本当は今回は、京都で観た、劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター」について書こうと思っていた。

だが、「そういえば僕にとって最初のイエス・キリストとの出会いはいつだっけ」と考えるうちに、昔のいろんな記憶が蘇ってきたのだ。

 

続けて書いていくとあまりにも長くなりすぎる。

回をあらためて、次は脇道にそれずに、「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観て抱いた様々な思いについて触れてみたい。