厄介な人々 その2 大阪のおばちゃん | 丁寧に生きる、ということ

丁寧に生きる、ということ

自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

「メアリー・マライアおばさん」の後任としてやって来たのは…そうだな、僕自身がこれまでに読んできた小説の登場人物には、ピッタリ当てはまる人はいないな。残念だけど。

でも、一言でいうなら、「大阪のおばちゃん」だ。

人情家ではあるか、ややデリカシーに欠ける一面がある。

ま、ご本人は「阪神淡路大震災で被災するまでは、芦屋の高級住宅街で暮らしていた」とおっしゃっていたので、「大阪のおばちゃん」呼ばわりされたら、すごく気を悪くされるのだろうけれど。

 

デリカシーに欠ける、という表現はしたものの、僕はこの、70歳ちょい手前の女性薬剤師さんのことを嫌いではなかった。

水薬を調整したあとの床はビショビショ、器具はベタベタ、粉薬を秤量したあとの台は粉でジャリジャリ、引き出しから錠剤の箱を取り出した後は、もともとあった場所を思い出せずにテキトーに突っ込むため、「あるはずの薬が行方不明になる」、そんなガサツなあれこれが日常茶飯事ではあってもね。

 

僕がこの人をある種、尊敬していたのは、彼女の投薬スタイルが、僕自身の目指す理想形のひとつでもあったからだ。

渡す薬の説明だけではなく、たとえば食事や運動など、日常生活での改善点をさらっと伝える。

こどもさんを連れたお母さんには、子育てのアドバイスを挟む。

 

「こんなことを言うと気持ち悪がられるかもしれないけれど、でも、あなたのスタイルは僕の目指す薬剤師のひとつの理想形なんですよねぇ」というと、この方はおっしゃった。

「なんも特別なことはしてへんよ。勉強してどうこうということやない。主婦業や子育てをするなかで自然と身についたもんや。大切な家族を守るためにな。でも、まぁ、家庭を持たへん、子育てしたことのない、そんな人には無理やろうね」。

 

ここにすこし、この人のデリカシーのなさが垣間見える。

「家庭を持たない人には無理」「子育てしたこともない人には無理」。

僕はあまりこうしたことを気にするたちではないが、でも、人によってはさりげないながらも、これは胸を突きさす一言にはなるだろう。

 

そしてこの人、残念ながら、患者さんに対しても、一言多いところがある。

「こんなに検査値が高いのは、毎日贅沢においしいもんばっかり食べてるからやろ」

「ちょっとお腹が出てきてるで。運動し」。

「えらい長いこと、同じ薬ばっかり飲んでるなぁ。いっぺん、違う病院へ行った方がええんとちゃうか」。

究極は「もう、平均寿命を超えてるやんか。充分やで。薬なんか飲まんと、自然にまかせたほうがええよ」。

「平均寿命まであと〇年やね。まぁ、それまでは頑張りや」。

 

もともとこの調剤薬局があるのは下町。

車も通れないような細い道に面して長屋が立ち並び、舗装されていない土道も残る、そんな土地柄もあり、この人のざっくばらんで畏まらない対応とは、親和性が高いとも考えられるのだ。

だが、最近では周辺に、億を下らない超高層のタワーマンションもでき、そうしたところに暮らす人たちに対しては、こうした言動は不躾で厚かましく、時には恐怖感すら感じさせてしまう。

 

そしてすこし前までなら、「ここは自分にはあわない」と感じたなら、人は黙って、以降、違う薬局を利用するようになるだけではなかっただろうか。

調剤薬局の数はコンビニよりも多いといわれ、この薬局の半径数十メートル内の範囲にでさえ、複数の調剤薬局が存在する。

でも、今は違うのだ。

ネットに苦情を書き込む。

電話をかけてきて、責任者の謝罪を求める。

「あの調剤薬局でこんなことを言われた」と主治医に訴える。

主治医は「おまえのとこはどんな薬剤師を雇ってるねん。しっかり教育しろ」と怒鳴りこむ。

 

しかもこの薬剤師さんのアドバイスには、時々、「それってひょっとして、お昼のワイドショーか週刊誌で仕入れた健康ネタ?」というレベルのものが入り交じる。

「あのスポーツドリンクには有害なホルモン攪乱物質が入っている」「中国産の野菜なんて農薬だらけ」など、下手すると訴訟沙汰にもなりかねないような「噂話」レベルの根拠なき情報を真顔で布教する。

 

この人がただの「大阪のおばちゃん」なら、まぁ、そんな人は結構いるかもしれないのだ。

無責任な話を、さも真実であるかのように語る人騒がせな困ったおばちゃん。

だが、この人は「ただのおばちゃん」ではなく、調剤薬局の窓口に立つ薬剤師なのだ。

その口から出た言葉は、「根拠ある真実」として人に伝わってしまう。

同じおばちゃんでも、「ただのおばちゃん」と「調剤薬局で働く薬剤師のおばちゃん」とでは、発する言葉の重みが違うのだ。

 

もともとこの薬局は、製薬メーカーに勤務する、薬剤師の資格を持たないオーナーが、それまでは専業主婦で株が趣味だった奥さんと、いったんリタイアしていた薬剤師である自分の父親、三人でスタートさせたのだという。

おそらく「調剤薬局はこうあるべき」「薬剤師はこうあるべき」という考えは、かつての封建的な医療界で働いてきた、この「お父様」の考えが今に至るまで、引き継がれてきたのだろうと感じる。

今もなお、ここには「お客様は神様です」「医師は絶対的存在だ」という価値観が根強く残っているのだ。

 

だから「患者さんからの苦情」には敏感だし、「医師からのクレーム」となると、それはもう、「神の声」に近い。

 

たしかに直すべきところは直す、正すべきものは正す。それは大切だ。

でも、僕自身はこの薬局に根付く「オーナーの思想」を、「古すぎる価値観」に支配されすぎだ、とも感じる。

 

卑屈と謙虚は違うのだ。

度を越した卑屈さは、相手の増長、見下す気持ちに繋がり、そうした上下や尊卑の誤った関係性からは、本当のパートナーシップは生まれない。

医師と薬剤師、患者さんと薬剤師、いずれの関係においても。

「相手の機嫌を取る」ことと「相手と心を通わす」ことは、表面上は似ていても、まったくの別物なのだ。

ただ頭を下げ、なんでも言いなりになる、というのは、ちょっと違うだろう。

 

もちろん、行き過ぎた言動や、そのつもりはなくとも相手の気持ちを損ねてしまったことに対しては、謝罪し、改める必要があることは、当然のことではあるけれども。

 

でもまぁ、「あること」さえなければ、次第に「オーナー側の意向」と「おばちゃんの信条」は次第に歩み寄り、ある地点に落ちついたのではないだろうか。

だが、残念ながらそうとはならなかった「あること」、後々、大きな事件を引き起こしてしまうきっかけとなってしまったのが、「おばちゃん」が働きだして数週間後に、僕がとった一本の電話だった。

 

「求人票を見たんですが、薬剤師の募集はまだ行っていますか?」

う~ん…

「人事のことは私ではわかりかねるので、オーナーのほうから折り返し連絡させていただきたいのですが、お電話番号を頂戴してもよろしいですか?」

「あぁ…どうしようかなぁ…」

「これもご縁ですし、差し支えなければ、ぜひ」

「えぇ…そうねぇ…どうしようかなぁ…」

 

僕はまぁ、こうした決断力のない、ダラダラとした受け応えをする人は嫌いだ。

「どうしたらいいですかねぇ…」などと、おっとりした口調で言われても、そんなこと、僕の知ったことではない。

わずかでもチャンスがあれば、と思うのなら、連絡先を僕に伝えればいいし、これを縁がないと考えるなら、電話を切れば済む話ではないか。

こちらは業務時間内、ちょうど忙しい時間帯でもあるのだ。

そのことは電話の主も、調剤薬局で働いたことのある薬剤師であるのならば、充分にわかっているはず。

 

「ええ、どうしよう…どうしたらいいと思いますか」などというグダグダした、(僕からすれば)不毛なやりとりは5分ほども続いただろうか。

結局、最終的に「今日はやめておきます」と言って、その電話は切れてしまったのだが。

 

それから数日後、僕の公休日に再び電話があり、オーナーの奥さんが対応したようだ。

オーナーの奥さんはこの電話をきっかけに、人員増の計画はまったくないものの、面接を行い、相手の女性薬剤師をいたく気に入ってしまった。

そして、事態は大きく動き出す。

 

「もうすこし待っていれば…」

「おばちゃん」に対するクレームの嵐に疲弊したオーナーの奥さんはきっと思ったに違いないのだ。

「ほんのタッチの差で、こんないい人が応募して来るなんて。あんな厄介な人を採用してしまった、その直後に」。

 

そこへ「まだ試用期間中なんだから、クビにすればいいんじゃない」などという考えを吹き込んだのは、いったい誰だったのか。

 

「通勤も一時間以上かかるし、いろいろ大変そうだけど、どうですか?これからどんどんやっていただかなくてはならない仕事も増えていきますけど、大丈夫かしら」奥さんは「おばちゃん」に切り出したらしい。

 

「おばちゃん」は「おばちゃん」で、連日のオーナーの奥さんからの苦言にうんざりもしていたのだろう。

それにこの調剤薬局は、これまで社内転勤も含め両手の指の数以上の店舗で働いたことのある僕からしても、一二を争うほど体力的にはキツく、無駄な作業が多いところなのだ。

給与レベルも決して高くはない。

 

「いやぁ、私の方から今日明日にでも言おうと思ってたんよ。私、今月いっぱいで辞めさせてもらいますわ。こちらの善意にいちいち文句をつけられるのもアホらしいし」。

 

オーナーの奥さんは心の中で快哉を叫んだのではあるまいか。

誰も傷つくことなく、誰もがそれを「自分自身の意思」であると信じて、幕は下りるはずだった。

 

だが、そうはならなかった。

因幡の白兎。

あとすこしのところで、真実を、そのからくりを「おばちゃん」に告げたのは、口を滑らしたのは、いったい誰だったのだろう。

おそらくは義憤にかられてのことではない。「実はあなたは首を切られたのだ」と告げることにより、「おばちゃん」を最後になんとしてでも傷つけたかった誰か。

 

あと一週間、という頃になって、「おばちゃん」の態度が変わった。

それまでは「私、辞めることにしたわ。あんたは辞めることも出来ず、いろいろと責任を負わされて大変やねぇ」などと言っていたのに。

 

「私、クビになってん。絶対、許せん」。

 

たしかに「おばちゃん」は試用期間中ではある。

だが、試用期間中ではあっても、解雇には正当な理由が必要だ。

「一部の患者に不快な思いをさせた」「近隣のクリニックの医師からクレームを受けた」。

これらははたして、その「正当な理由」になり得るのだろうか。

もちろん「最近、雇用したい人材が他に見つかった」なんてことは、たとえそれが本当の理由であるにせよ、完全にアウトだろう。

 

「まぁ、詫びとして、退職金代わりに給料3か月分を支払ってもらうんやけど」。

 

この薬局は、雇用に際し、年齢制限を設けないかわりに、退職金制度もないのだと、僕は最初に聞かされている。

「おばちゃん」は2か月ちょっと、勤務しただけだ。

なのに「3か月分の給与を退職時に支払う」?

よほど厄介払いしたかったのだろうか。

 

だが、これは「おばちゃん」側が勝手に吹聴する「願望」であって、実際には合意されたものではなかった。

「おばちゃん」の方には、退職を自分の方から言いだし、退職届を提出してしまったという弱みがある。

「今にして思えば、誘導された」と「おばちゃん」が主張したところで、両者はあくまでも平行線をたどるだけだろう。

 

そしてその日から、「おばちゃん」の勤務態度が変わった。

こればかりは「おばちゃん」の肩を持つことはできない。

たとえ雇用者と揉めようと、それは患者さんには関係のないことなのだ。

不満はあろうとも、プロとして、勤務時間中は真摯に仕事と向き合う。それは当然のことだろう。

 

付近のクリニックの午前診が終了する前後、11時30分頃から12時30分頃にかけての一時間は、一日の中でも一番忙しい時間帯だ。

「あぁ、疲れた。これ以上は無理や。休憩に行くわ」

「おばちゃん」は突然、白衣を脱ぎ、出ていこうとした。

「これだけ待ってる患者さんがいるのに、なに勝手なこと言うてんねん。あんたもプロやったらプロらしく、私情は挟まんと、仕事せんかい、おばはん」と口調も荒く、「おばちゃん」の行く手を遮った僕は…悪い?

いや、たしかに「おばはん」という言葉は余計やね。ごめんなさい。

でも、「おばちゃん」がこのことで、僕を「オーナー側の人間」、つまり「敵」と色分けしたことは確かなのだろう。

 

とにかく最後の数日は悪夢のようだった。

空気がピリピリしていた。

刃傷沙汰には至らなかったことだけが、ただただありがたい。

 

そして「おばちゃん」は退場した。

最後の日、挨拶することもなく、無言でレンタルの白衣をカウンターに叩きつけて。

規定の時間より、二時間ばかり早く。

 

だが、ことはこれだけでは終わらなかったのだ。

この件には「第二幕」がある。

 

ようやく平穏が訪れたある日。

よりにもよって一番忙しい時間帯に、スーツを着た二人連れが薬局を訪れた。

市の薬務指導の職員さんだ。

 

通報があったのだという。

「あの薬局は薬剤師の資格を持たない人間が調剤行為をしている」。

通報者は匿名ではなく、しっかり名乗り、その名を相手側に伝えてもらって結構、とまで言ったらしい。

 

あの「おばちゃん」だった。

 

少なくとも僕の勤務する時間帯、薬剤師でない人間(といっても、それは事務さんとオーナーの奥さんしかいないのだが)が調剤を手伝ったことはこれまでに一度もない。

だが、僕が公休日を取り、午後からの数時間は薬剤師が「おばちゃん」だけになる、あの特定の曜日はどうだったか。

僕にはわからない。

 

話を聞くと、どうやら「おばちゃん」ひとりでは仕事が回らず、オーナーの奥さんが錠剤を揃えることは何回かあったのだという。

だが、以前はグレーとされていたこの行為は、今は薬剤師の監督の下では許されるという通達が数年前になされている。

 

その後、同じような通報を受けた府の職員さん、そして厚生局の職員さんの査察が入った。

 

もちろん探られて痛い腹はない。

その点、不正はなく公明正大な薬局なのだ。

 

だが、その応対には時間をとられ、僕自身は何枚も「不正を行った事実はありません」という「誓約書」を自筆で書いて署名し、提出しなければならなかった。

 

僕は思った。

腹立たしいといえば腹立たしい。

だが、「おばちゃん」のその行為はあまりにも哀しすぎる。

あえて自分の名前を名乗り、相手側に伝えてもらって結構、と言い切るあたりに、誰からも肯定されず居場所を持てない人間の承認欲求というか、すさまじいまでの孤立感と「これから先」をもう期待しないという絶望感が感じられはしないか。

 

「おばちゃん」はいったいどんな思いで電話をしたのだろう。

名乗りをあげ、「おばちゃん」からすれば「爪痕」を残すことで、すこしはその心は満たされたのだろうか。

むしろ逆に、虚しさにとらわれたりはしなかったのだろうか。

 

「ほんまに恐ろしい人。早めに辞めてもらって、よかったわ」オーナーの奥さんは言ったが、そこまで追い詰めた側に罪はないのか。

あるいはそれをただ、傍観していた僕自身には?

 

だが、これだけでは終わらなかった。

 

ある日、ひとりの中年男性が怒鳴り込んできたのだ。

「お前らやない。社長を出せ、社長を」。

 

この方は地方に住んでいた80代のお母様を呼び寄せ、芸能人も住むというセキュリティ対策万全の超高層タワーマンション、その自宅と隣り合わせの一室に、住まわせておられた。

お母様はその一室で一人暮らしをなさっていたのだが、そこに電話がかかってきたのだという。

電話の主はあの「おばちゃん」。

 

「おばちゃん」はすごい剣幕で自分が不当に解雇されたこと、あの薬局ではいろいろと不正が行われているので今後は利用するべきではないことなどを一方的に延々と一時間近く、話し続けたのだという。

お母様はこのことに対し、たいへんな恐怖感を覚え、「なぜ私の電話番号を知っているのか」「住んでいるところまで特定され、今後、事件に巻き込まれるのではないか」と、今は外出もままならない状況だというのだ。

 

オーナーの奥さんはすぐに警察に被害届を提出した。

 

「でも、あの人はどうやってパソコンで管理されている患者情報を抜き取ることができたのかしら…」

いやいや、データを抜き取ったというより、ただ、カルテから書き写したのだろう。

きわめて原始的な方法で。

 

だが、いつ頃から、あの人の心は憎悪に黒く染まり、ひそかに復讐に向けて準備を進めていたのだろうか。

 

昭和の時代は個人情報の取り扱いも今ほどに厳格ではなく、僕が一番最初に就職した企業などでは、入社時に、氏名、自宅住所、電話番号のほか、生年月日、卒業した高校と大学、血液型、長男・次男・三男等の別、父親の名前、その就業先と役職までが記載された名簿が配布された。

 

そんな時代に生き、そんな時代から長く働いてきた「おばちゃん」には、患者さんの電話番号を抜き取ることが犯罪にあたる、という認識は、おそらくなかったのだろう。

 

だが、今や「おばちゃん」の名前や住所は警察の記録に残ることになった。

これだけではすぐには拘束されたり事情聴取を受けることはないが、今後、薬局近辺でその姿を見かけることがあったなら、すぐに警察に通報すること、そうすれば警察はすぐに動くことを僕たちは告げられた。

 

おそらくは「おばちゃん」が電話番号を抜き取り、電話をかけた相手はひとりではないだろう。

ひとりだけでは警察は動けないが、今後、同様の被害が他からも複数寄せられることがあれば、そのときには警察も動くのだという。

 

どこでどう、道を誤ってしまったのか。

その場にいて、僕にできることは本当になにもなかったのか。

 

「おばちゃん」も家庭ではよき妻であり、よき母であり、よきおばあちゃんであったはずなのだ。

それが警察の記録に名前が残ることになってしまった。

家族にとってはあまりにも哀しすぎる「復讐の顛末」ではないか。

 

そういえば最初のころ、「おばちゃん」は言っていた。

「これまでもいろんな職場で同僚から無視されたり、陰口を言われたり、そんなことがあったわ。薬剤師はプライドばっかり高くて、世界が狭すぎるねん。あんたも負けんと頑張りや」。

 

そうだ。僕は冒頭で「おばちゃん」のことを「僕自身がこれまでに読んできた小説の登場人物には、ピッタリ当てはまる人はいないな」と書いた。

いや、ひとりだけいるよ。

今、思い出した。

あれは小学生の頃、図書室で読んだ「マキオのひとり旅」だ。

そこに登場する「夕焼け小焼けのおばさん」、だっただろうか。

 

一人っ子で過保護に育てられた少年が春休み、おばの家に泊まりに行く。

そこには年下の従妹と、生まれたばかりの従弟がいる。

おじさんは出張中で不在だ。

初めての夜、従弟が急に体調を崩し、病院へ運ばれる。

おばさんは付き添いのため、病院から帰れない。

少年は幼い従妹とふたりきりで不安な夜を過ごす。

その翌日、だったかな?

家政婦協会から、珍妙なみなりの不思議なおばさんがやってくるのだ。

頬が夕焼けのようなオレンジ色に塗られていた。僕の記憶では。

そしてそのおばさんは聴力に障害があったのだ。

その耳のせいで、おばさんにはすこし頓珍漢なところがある。

そこへ出張を切り上げたおじさんが帰ってくる。

おじさんは自分が帰って来たのでもう大丈夫と、その「夕焼け小焼けのおばさん」が明日以降、来ることを断る。

力なく肩を落とすおばさんを見て、たしか少年は思うのだ。

「すこし奇妙で耳の悪いおばさんにはあまり仕事が回ってこないのではないだろうか。回ってきてもすぐに断られることが多かったのではないだろうか」。

「あのおばさんは本当にひとりぼっちなのではないだろうか」。

少年はおばさんを断ったおじさんに対し、不満の気持ちを持つが、おじさんはこれから必要な入院費用に加えて、おばさんに給金を払うだけのお金はないのだと説明し、少年は納得する。

 

たしかこの章の終り、おばさんは夕暮れのなかを、何も入っていなさそうな軽そうなデパートの紙袋を下げ、ゆっくりしょんぼりと歩いていくのだ。

 

他人の気持ちを察することができない「おばちゃん」と、耳に障害がある「夕焼け小焼けのおばさん」はどこか似ている。

根本は「善」であるのに、人から受け入れてもらうことができない。

その絶望のなかから「おばちゃん」の善には歪みが生じ、その歪みが汚れを生み出した。

 

たとえば調剤薬局の薬剤師が「指名制度」であったなら、こんなことは起こらなかったのだろう。

「おばちゃん」を嫌う人がいる一方で、「おばちゃん」の言葉に思わず涙ぐむ悩み多き若葉マークのお母さんや、「おばちゃん、ほんまにおもろいなぁ」と笑うヤンチャ系の若者もたしかにそこにはいたのだ。

 

トラブルをおそれて「基本、薬を渡すだけ」「なにか訊かれた時だけ、最小限で答える」スタイルを貫いた前任の「メアリー・マライアおばさん」は雇用者からすると無難な人材であったかもしれないが、退職後、「いつものあの薬剤師さん、姿が見えないけれど、どうしやはったの?」と尋ねてくる患者さんはひとりもいなかった。

 

「おばちゃん」はある意味、殉教者だった。

だが、復讐の感情に支配されてしまったことで道を踏み外した。

 

「鈴星」の暗示する「厄介な人との縁」。

その「厄介な人」とは、この「おばちゃん」を指していたのだろうか。

あるいは「おばちゃん」を、必ずしも正しい・誠意あるとはいえない対応によって復讐の鬼に変えてしまった、雇用者の方を指していたとも…考えられるのではないだろうか。