父と通字 | 丁寧に生きる、ということ

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自覚なきまま、気がつけば50代後半にさしかかって感じる、日々の思いを書き留めます

父と母の実家は歩いて10分ほどの距離のところにあり、遠縁、たしかお祖父さんが従兄弟同士とか、そんな関係だったんじゃないかな。

ただ、年が離れていたので、おとなになってから、父が偶然、バス停で母に出会い、恋に落ちるまでは、お互いに「なんとなく見知っている」程度だったらしい。

 

その土地では、屋号というのだろうか、それぞれの家を苗字ではなく、家を興した初代当主の名前で呼ぶ風習があった。

たとえば「仁左衛門」とか「伝兵衛」とかね。

「仁左衛門のところの次男坊の太郎さん」「伝兵衛のところの娘さんの花子ちゃん」。

それだけですべてがわかる。口にしなくても、人に伝わる。

父や母が、祖父や祖母が、曾祖父や曾祖母がどんな人たちで、誰と親戚筋なのか、その一族にはどんなエピソードがあるのか、そんなことまでがすべて。

 

僕が小学生の頃だったかな。

借りた自転車で従弟と畦道を走っていたら、全然知らないおばあさんに「見かけんけど、どこの子や」と呼び止められた。

僕は「〇〇(父の家の屋号)の〇〇(父の名前)と□□(母の家の屋号)の□□(母の名前)の次男です」と答えた。

するとおばあさんはニコニコしながら「ああ、なんか知らん気がせんかったわ。たしかにあんたの顔、先代の●●さんの面影があるわ」などと口にし、僕と従弟はそのまま家に案内されて、昼ご飯をご馳走になったのだ。

そんな体験がけっして珍しいことではない、土地柄であった。

 

 

「通字(とおりじ)」というらしい。

父の家では、屋号に含まれる「嘉」という漢字を、生まれた男子の名前に用いる、という決まりがあった。

母の家では、屋号に含まれる「喜」という漢字を、長男の名前にのみ用いる、という決まりが。

 

でも、僕たちの代になって、どちらの本家にも女性しか生まれず、そして従姉妹たちは自分たちのこどもにはキラキラ系の名前を選んだので、この風習は途絶えてしまった。

 

たしかに古臭いかもしれないが、僕はそういう「古さ」が好きだったりもする。

特定の漢字を、名前の中に延々と引き継いでいく、という、その感覚が。

父もおそらくそうだったんじゃないだろうか。

古きものや伝統あるものに心を捉えられる。

 

だから僕は長年、不思議に思っていたのだ。

なぜ父は、自分のこどもの名前に、自分も持つ「嘉」の字を使おうと思わなかったのだろうか。

 

ここ最近、「ムーミン」からいろいろと思いが飛躍し、「パパ」「ママ」といった呼び名から、自分自身の名前の由来のことなど、久々にあれこれ思いを巡らせているうちに、ふと、そんな昔の疑問が思い起こされた。

 

その夜も、湯船に浸かりながら、そんなことを考えるともなく考えていたとき、ふと、僕にはある考えが浮かんだ。

なぜ、これまではそこに思いが至らなかったのだろう。

 

使わなかったのではなく、使うことを許されなかったんじゃないだろうか。

「嘉」の文字はおそらく、本家の者だけが引き継ぐことを許されるものなのだ。

次男であった父は自分の名前の中にある「嘉」の文字を、自分のこどもに引き継ぎたくとも、それができなかったのではないだろうか。

 

ある時、親戚筋の方から、最近、父の母(つまり僕の祖母)の姿を見かけない、という連絡を父は受けた。

それまで、80歳を超えてもなお、祖母は田畑に出て、農作業をしていたのだ。

 

心配して実家へ向かった父だが、祖母に大事はなかった。

ただ、同居する伯父の奥さんが「年寄りがいつまでも外へ出て農作業をしていたら体裁が悪い。私が虐待しているように思われる」と、祖母が外出できないようにその履物をすべて処分し、薄暗い奥の間に閉じ込めてしまっていたのだ。

 

父はすぐに祖母を自分が引き取ると言ったのだが…それを拒絶したのは祖母自身だった。

自分が次男の家に身を寄せれば、長男が周囲から悪く言われる、

長男の名前に傷がつく。

それは絶対にできない。私が我慢すれば済むことだ。

 

父や母が生まれ育ったのは、そういうところだったのだ。

外から見ればなんとも不思議で不自由な慣習が、当たり前のように幅をきかす場所。

 

「通字」も、ある人にとっては、自分の進む道までをも「何者か」によってあらかじめ定められる、そんな重荷、足枷であったのだろうか。

僕が単純に想像する、会ったことはないが、常に傍にいて見守っていてくださる、自分の血のずっと先の先に存在する「誰か」を感じさせる文字、ではなく。

 

父はあのとき、すごく悔しかったのだろうな、と思う。

一緒に暮らそうという父の申し出を断った祖母。

そして僕は祖母の頑なな心に、あの頃、モヤッとした感情を抱いた。

もちろん祖母が土の香りもしない、川のせせらぎも聞こえないこの街の中で、どれほど大切にされようとも、けっして幸せにはなれないのだろうことはわかっていたのだけれど。

 

父とはほとんど会話することがなかった。

あの頃、昭和の父親というものは、仕事一筋で、家族と語り合う時間というものをほとんど持たなかったのだ。いや、持つことができなかった。

それがどこの家庭でも、「当たり前」だったんじゃないだろうか。

 

僕が父と互いの思いを語り合うような関係性を持つようになったのは、父が余命宣告を受けて以降の、最後の一年くらいの間のことだろうか。

一年といっても、その半分くらいの期間、父は病室のベッドの上で意識なく時間を過ごしたのだけれど。

 

父と僕とは、父親と息子であると同時に、神経難病で寝たきりとなった母を守るための同志でもあった。

 

 

人は特に意識が混沌とした状態になると、それまで抑えていた感情のタガが外れて、本音や弱音が出やすくなるのかもしれない。

 

それまで強固な意志を持ち、けっして揺らぐことのない自信と精神の持ち主であると信じていた父が、実は次男であるというコンプレックスと悔しさを抱えながら生きてきたのだ、と僕が知ったのは、この頃だったのだ。

 

先の戦争で最年少、海軍飛行予科練習生に志願したのも、戦後、学費を自分で稼ぎながら大学を出たことも、生まれ育った土地を離れ、大阪へ出てきたことも、すべては長男至上主義の風習に反発し、「負けない」という父の意思表示だったのかもしれない。

 

そして僕は…僕はそんな悔しさを抱えて生きる父に「こんな名前じゃなくて、僕も名前のなかに”嘉”の字を一字、入れてほしかったなぁ」などという、無邪気ながら残酷な言葉を発したことはなかっただろうか。

記憶にはないのだけれど。

 

「でもさ」と僕は今、父の写真に向かって呟く。

時代の流れの中で、価値観や人の考えはすごい速さで変化していくのだ。

それまで、多くの人々が守ってきた長男至上主義は、今となっては一部の伝統的な芸能や技能を繋いでいく環境を除いては、ほとんどないと言えるだろう。

そして、長男か次男か、とか、男か女か、なんてことは、人の価値にはまったく関係ない、意味がない、ということにみんなが気付いている。

祖母の”自分の幸せよりも長男の名誉を”という頑固さに通じるものを、もしかすると僕も引き継いでいるのかもしれない。

でも、僕はそういう多少なりとも自己犠牲を払うことで得られる甘い陶酔感には、実のところなんの価値も意味もなく、ただの自己満足にすぎないことがわかってきた。

これからはもっと自分中心に物事を考えてもいいのだ。もちろん、”自分勝手に”ではなく。

結局のところ、我慢のなかからは幸せというものは生まれないし、自分を幸せにできない人間が他人を幸せにできるはずもないのだ。

 

そして僕はふと、気がついた。

 

浄土真宗である父がいただいた法名は「釋嘉心」だ。

葬儀の日、それを知った僕は、兄に「”嘉”は通字やのに、ご住職にそれを伝えんかったん?」と訊いた。

もちろんその時の僕は「次男である父がその漢字を先に使ってしまっていいの?」なんてことを考えたわけではない。

僕は”嘉”は通字なんだから、一族の中には「釋嘉心」という法名をもつ人がすでに何人かいるのではないか、あるいは今後、本家の伯父さんが亡くなったら、同じ法名になったりしてヤヤこしくならないか、と単純に思ったのだ。

 

だが、父の法名は「釋嘉心」と決められた。

何代もの人々に引き継がれ、大切にされてきた「嘉」の字を得て、父は嬉しいかもしれないな。

 

いやいや、それは欲にまみれた現世に生きる僕だから思うことなのだろうか。

あらゆるこだわりは現世にあるからこそ生じるもので、今の父にはもう、それは「どうでもいいこと」であるに違いない。