自分の名前に対して、どの程度愛着があるかというと…名付けてくれた両親に対して申し訳ないが、僕の場合は「ビミョウ」といったところだろうか。
僕と同じくらいの年代の人なら、小学校のころ、「自分の名前の由来を両親から聞いて、それについて作文を書きましょう」という宿題があったんじゃないかな。
それは「親がどういう願いや希望を込めて、名前という最初のプレゼントを贈ってくれたのか」なんてことをこれまであまり考えることのなかった・意識することのなかった小学生にとっては、すこしワクワクする宿題でもあったのだけれど。
だが、そのワクワクした期待に反し、我が家の両親の返答は素っ気ないものだった(ように感じられた)。
女の子なら「〇子」、男の子なら第一子は「〇一」、第二子は「〇二」、第三子だったら「〇三」。
ここに父の好きな漢字を三つ(なぜ三つなのかといえば、まぁ、こどもは3人くらいかな、と考えていたからだ)、順番に当てはめていく。
最初から、そう決めていた。以上。
ん?
それだけ?
いや、もっとあるでしょ。
その「漢字」「文字」を敢えて選んだ理由というものが。
その字に込めた願いだとか、思いだとかいうものが。
「好きな漢字」の「好きだという理由」が。
「いや、別に」。
20代の頃、毎週通っていたテニスクラブ。
そこで仲良くなった2組のご夫婦は、どちらも旦那さんが僕と同い年で、テニスが終わった後、5人で食事をしたり、お茶をしたりすることも多かった。
やがておひとりの奥さんが懐妊され、そこで「名付け」が話題になったことがある。
父親となる彼の名前は「真一」クンで、それは「父が真実一路という言葉が好きで、それを名前にしたいと思ったんだそうです」。
「そりゃ、そういうもんですよね」と思った僕は、かつての小学生の頃の苦い経験を思い出していた。
だが、あの記憶は正しいのだろうか。
父や母が語った実際のこと以上に、その「素っ気なさ」の感覚が、時間とともに増幅されているということはないのだろうか。
あるいはあの時、両親はもっと目を向けなければならない大切なことを抱えていて、じっくり僕に話す余裕がなかった、とか。
照れ隠しがあった、とか。
だって「名付け」というのはすごく大切で、そしてワクワクする経験に違いないのだ。
そうでしょ?
「小学生の頃にさぁ、自分の名前の由来を訊いたことがあったと思うんやけど…」。
さっそく、両親に切り出したのだが…結局のところ、それは僕の記憶違いではなかったのだ。
「最初から決めていた漢字があって、女の子ならそれに”子”、男の子なら…」。
そして結局のところ、「なんでその漢字だったのか」については、はっきりしないままだった。
やがて「三度目の正直」のタイミングが十数年後に訪れる。
肺癌と悪性リンパ腫を併発した父は、余命宣告を受けるなか、敗血症を発症し、意識のない状態が続いていた。
毎日、病室を訪れ、呼吸器を装着した父の傍らにいながら、僕は考えていた。
父の意識が一瞬でも戻ったなら、確認しなくてはならないこと。
まずは実印と預金通帳のしまい場所。
あとは、現金を入れた封筒を箪笥の裏側や畳の下なんかに忍ばせていないか。
そうだ。阪神淡路大震災以降、父は急に預金を引き出せない事態が生じたときに備えて、ある程度のまとまった現金を用意していたはずなのだ。
不人情に思われるかもしれない。
でも、現実問題として、難病の母の二週間ごとの病院への支払いは20万円前後にのぼり、父の医療費も高額療養費控除の対象外となる費目が多く、ふたりの年金と僕の給料を合わせた額よりも多くなる。
これまでは僕自身の預金を切り崩してきたけれど、それにも限界はあるのだ。
もちろん、この世に生を授けてくれたこと、ここまで育ててくれたことに対する感謝と、いろいろと反抗・反発もしたけれど、でも、愛しています、という気持ちを「言葉」にして伝えることも、しなくてはならない。
そして…「名前の由来」。
最後にもう一度だけ、確認しておきたい。
結構、自分自身の中でそれが蟠りとなっていたんだな、我ながら怖っ、と思ったのだけれど。
それから数年後、母への呼吸器装着をお断りし、その旅立ちへのカウントダウンがスタートしたときに、「四度目の正直」のタイミングが訪れた。
気管を切開していた母は声を発することはできなかったが、唇の動きからその言葉を読み取ることができる。
「でも、あんたらしい、ええ名前やわ」。
まあ、確かにね。
漢字の字画数からみる「姓名判断」には、いくつかの流派があるそうだが、そのだいたいにおいて、僕の場合、「姓」からなる「天格」は大凶もしくは凶、「名」からなる「地格」も大凶もしくは凶。一方、一文字目と四文字目からなる「外格」は大吉、二文字目と三文字目からなる「内格」も大吉、そんな結果が共通して導き出される。
大吉と大凶の共存。
その中間は、この名前のどこにもないんかい、と思わずツッコミを入れたくもなるが、たしかに「てっぺん」と「どん底」、振り幅の大きな人生であることは、そのとおりなのだ。
だいたい、僕は安定期に入ると焦燥感にかられ、そこから飛び出したくなってしまう。
自分の手で、その「平穏」をぶち壊してしまう。
「天邪鬼だ」とこどもの頃からよく言われていた。
でも、それを楽しむ自分がいることも確かなのだ。
それが名前の字画のせいなのかどうかはわからないけれど。
自分の名前に対して、どの程度愛着があるかというと…名付けてくれた両親に対して申し訳ないが、僕の場合は「ビミョウ」といったところだろうか。
でも、まあ、「嫌い」というわけではないな、と今、僕は思うのだ。