女性が結婚し、「妻」となる。
やがて子供を産み、「母」となる。
そうした日常のなかで、次第に「〇〇さんの奥さん」「〇〇ちゃんのお母さん」と呼ばれることばかりが多くなり、名前で呼んでくれる人は少なくなる。
私には私の名前があるのだ。
「〇〇さんの奥さん」「〇〇ちゃんのお母さん」という、他者に属することのみによって存在する、無個性な「誰か」ではない。
私はここにいる。
ここにこうして存在しているのに。
そんな詩がなかっただろうか。
どうにも思い出せない。
テーマからすると、それは新川和江か茨木のり子の作品のような気もするのだが。
名前を持たない、といって、一番に頭に浮かぶのは、ムーミンパパとムーミンママだろうか。
そしてバカボンのパパとバカボンのママだな。
でも、これらの人々は無個性どころか、かなり強烈な個性を放っている。
なかでもムーミンママは、良妻賢母(今では死語だろうか?)のイメージが強いが、意外な一面も持ち合わせているのだ。
コミックス版のムーミンママはかなりズボラで、汚れた食器は雨水で洗うため、雨が降るまでベッドの下に押し込んであったりする。
隣人から家の散らかりを指摘されたムーミンママは、集めた埃を「そんなにおそうじが好きなら余分な埃をさしあげるわ!」と隣家の窓に放り込んだりもする、ブッ飛びぶりなのだ。
大学入試の合格発表の帰り道、大学の最寄り駅から三駅ほど行ったところにある病院に入院していた母方の祖父を見舞った。
その年の早春は珍しく激しい雨が降り続き、裏山へ様子を見に行った祖父は山崩れに巻き込まれたのだ。
昔、高校で生物教師をしていた祖父は僕の薬科大学合格をすごく喜んでくれた。
一方の祖母はすこしばかり変わった感性を持った人で、僕の合格を聞くと、「あんたもあとひとり、女の子がいたら、もっと幸せだったのに」と泣きながら僕の母に言った。
だから、というわけではない。
でも、その日から、僕は休日には家族のために夕飯を作るようになった。
女の子を持たない母親は不幸なのか、あるいは孤独なのか、僕にはわからない。
ただ、僕はムーミンママのこんなシーンを思い出す。
「ムーミンパパ海へいく」でのことだ。
家族の誰からも必要とされていない気がして落ち込むムーミンパパは、大海に浮かぶ小さな小島に移住することを決意する。
ムーミンパパ、ムーミンママ、ムーミントロール、そして養女のミイの四人だけで。
そこには打ち捨てられたかのような無人の灯台があり、一家はそこで暮らし始める。
だが、大好きな植物も育たない灰色の島。
ムーミンママは次第に「いつものママ」ではなくなっていく。
ある夜、ムーミントロールの姿もミイの姿も見えない。
ムーミンママは考える。
「おちびさんは、夜はどこで寝ているんだろ。それからムーミントロールもさ……。母親というものは、すきなときに外にいってねるというわけにいかないのがざんねんね。ほんとは母親こそ、そういうことができるといいのにさ」。
ここで単純に「ムーミントロールもミイもどこかへ行ってしまったのなら、ムーミンママもここにとどまる必要はない。すきなときに外にいってねることができるはずなのに」と考えてしまうことは誤りなのだろう。
大切なのは、母親だってこんなふうに感じることがある、ということなのだ。
「ムーミンパパ海へいく」のなかで、ムーミンママは変わっていく。
それはまるで「ママ」という大雑把なひとくくりの呼び名から、自分だけの「名前」を持つ個性あるひとりの人間(ではなく、トロール族だけれど)に戻ろうとするかのようだ。
ムーミンママを変えたのは、こんなに敵意をむき出しにする寂しい島を離れ、大好きなムーミン谷に帰りたい、という思い。
やがてママは見つけたペンキで、無機質な灯台の壁にムーミン谷の絵を描き始め、「その絵の中に入り込む」ことを覚える。
こんなシーンがある。
絵の中、自分だけの世界に入り込み、家族の前から姿を消したムーミンママ。
心配したムーミンパパは、やがて現実世界に何食わぬ顔で戻ってきたママにこんなふうに言う。
『「しかし、おまえ、わしたちをこんなふうにまでおどろかすのは、よくないね。わしたちが夕がた家に帰ってくると、おまえはいつもここにいる-こういうきまりになってるんだ。それをよくおぼえていなさい」
こう、パパはいいました。ムーミンママはため息をつきました。
「それがたまらないのよ。たまには変化も必要ですわ。わたしたちは、おたがいに、あまりにも、あたりまえのことをあたりまえと思いすぎるのじゃない?そうでしょ、あなた」』
だが、物語の終盤近く、ママはこちらの世界へと完全に戻ってくる。
固有の名前ではなく、「ママ」と呼ばれる、この世界へ。
おそらくは、自分自身の意思で。
『ムーミンママはみんなをちらっとひとわたり見てから、壁画の方へ歩いていきました。ママは前足をりんごの木の幹におしつけました。でも、なにもおこりませんでした。それはただのかべでした。ただのしっくいのかべでした。
(-わたしはただたしかめてみたかっただけなのよ。やっぱりそうだったのだわ。もちろんわたしは、もうこの庭には、はいりこめないんだわ。もうホームシックはきえちゃったんだから)』
じつのところ、物語のなかでは、どういった経緯でムーミンママの意識が変化していったのか、具体的な記述はないのだ。
むしろそこでは、ムーミンパパやムーミントロールの変化の方が主に描かれている。
物語のタイトルだって、「ムーミンパパ海へいく」なのだ。
でも、僕にはこの物語の主人公はムーミンママ、「母親」という役割を生きる女性が、悩み、迷い、でも最後には自分自身の意思でその役割に戻っていく物語でもあるように思える。
もちろん、物語の前半と後半、同じ「ママ」という役割を果たしているように映っていても、ムーミンママのなかでは大きな意識の変化が起こっているのだ。
この物語を、僕は実家の処分のため、片付けに入るなかで、数十年ぶりに手にした。
果てしのないように思える、今は亡き父や母のものを「要るもの」「要らないもの」に分ける作業、そして思い切りがなかなかつかずに「要るもの」のカテゴリに入れてしまった、それでもまだまだ大量のものを、「本当に要るもの」「ただの感傷にすぎないもの」に分別する作業にすっかり飽きてしまった僕は、「ちょっと一休み」のつもりで、この本を久しぶりに読んでみたのだ。
そして僕は、ふと、ある人の言葉と、以前のブログでも触れた天命のことを思った。
この物語をこどもの頃から何度となく繰り返し読んできたなかで、これまではそのような角度でみてみたことはなかったのだけれど。
天命とは、それぞれが持って生まれた宿命なのだという。
天命は「天職」そして「この世界で自分自身が果たすべき役割」「生まれてくるときに何者かと交わした約束事」と置き換えることも出来るのではないだろうか。
『「やりたいこと」やなくて、「やらなあかんこと」が仕事になることもあるねん。意外とそれが天職やったりするねんけどね』
『意見が合わん人とは対峙するんやなくて横に並んで同じ景色を見てみたらええよ』
つまりはそういうことなのだろう。
ムーミンママもきっと、この「真理」に気がついたのだ。
「ムーミンパパ海へいく」はムーミン一家が登場する、最後の物語だ。
彼らはおそらくこの物語が終わった後で、島を離れ、ムーミン谷へ戻ったのだろう。
次作、本当の最終章となる「ムーミン谷の十一月」で、ホムサが水晶玉の中に見たように。
そして、もしかすると「真理」を得たムーミンママは、この後、コミックスに描かれる、自分に対して「無理をしない」ブッ飛びムーミンママへと変貌をとげたのかもしれない。
コミックスのなかでムーミンママは言う。
「習慣にこだわるのはよくない。老化のしるしね」。
名前を持たず、ムーミンママのままであろうとも、ママの心はもはや自由で、なにものにも縛られない。
そして現在を生きる僕たちを縛りつけているのは、きっと自分自身の「こうあるべきだ」「こうするべきだ」という、ただの思い込みにすぎないのだろう。