「最もすばらしい幸福は、したい時にくしゃみをすることだわ」。
一族の堅苦しい食事の席でそう言い放ち、みなを凍りつかせたのは、小説「青い城」のヴァランシーだっただろうか。
彼女は、今では死語かもしれないが、いわゆる「オールド・ミス」、なんの取り柄もないと親族たちから思われている女性で、それまでこの食事会の席では、「自分にとっての最もすばらしい幸福は?」をテーマに「それは人生という詩のなかに求められるものだ」「他人への愛の奉仕によって人生を送ることだ」などと、高尚な話題が繰り広げられていたのだった。
小説ムーミンシリーズのなかで僕が一番好きだったのは、第二作目にあたる「ムーミン谷の彗星」だ。
この作品は「第二次世界大戦が終わった翌年に世にでた第二作で、第一作とおなじく戦争がそこかしこに影を落とす」とも評されるが、僕自身はこの作品を読むと、すごく幸せな気持ちになる。
たしかにムーミンシリーズのなかで最も多幸感に溢れる作品は、次作の「たのしいムーミン一家」なのだろうと思うけれど、一方で後半の作品群、「ムーミン谷の冬」「ムーミンパパ海へいく」「ムーミン谷の十一月」は、僕の心を波立たせ、不安で淋しい気持ちにさせる。
「ムーミン谷の彗星」のなかで、僕が一番好きなエピソードが、天文台からの帰り道、ムーミントロールたちが売店に立ち寄るシーンだ。
ムーミン谷では異常気象が続き、ムーミン屋敷に転がり込んだ哲学者のじゃこうねずみはそれが地球に近づきつつある彗星のせいだ、彗星は地球と衝突し、地球は滅びるのだ、と言い放つ。
恐怖に元気を失ったムーミントロールとスニフに、ムーミンママは、川を下ったところにある天文台というところへ行って、彗星、まさに今、その恐怖の対象となっているものについて、自身の目で確かめてくることを提案する。
道中、スナフキンとの出会いがあり、そして彼らは自分たちの恐怖の対象を、想像ではなく実体として天文台で捉えることで、正面から向き合う勇気を持つ。
その後、ムーミン谷への帰路の途中で、スノークとスノークのおじょうさんとの出会いがあり、一行はやがて売店に行き着く。
『道がまた大きくカーブして、そこに売店がありました。それも、とてもいい売店なのです。まわりには、ありとあらゆる花が、きれいにならんでさいていて、家の前の台に、銀色の玉がついていました。そして、その玉に森がすっかりうつっていますし、家は白くて、屋根の上に草がはえているのでした。かんばんがでていましたので、この店で雑貨やおかしや化粧品を買えることが、わかりました。』
売店にいたのは、「きらきらしてねずみのように小さな目をした、しらがのおばあさん」。
そこでスニフは「赤いレモン水」を、スノークは「横線か、ます目のついているノート」を、スナフキンは「新しすぎないズボン」を注文する。
そしてムーミントロールはスノークのおじょうさんへのプレゼントを、スノークのおじょうさんはムーミントロールへの贈り物を。
だが、支払いの段になって、みんなは誰もお金を持っていないことに気付く。
そこへズボンの試着を終えたスナフキンが戻ってくる。
「このズボンは、やっぱりここでもっと古くしたほうがいいと思うよ。ぼくには合わないね」。
みんなの悲しそうな顔を見たおばあさんが言う。
「ねぇ、小さな子どもたち。スナフキンさんがいらないといった古ズボンがあるわけだろ。これはちょうど8マルクだよ。両方で帳消しになるさ。だから、あんたたちは、お金を払わなくてもいいよ」。
もちろん、スナフキンはズボンを試着しただけで、その代金を支払ってはいない。
だが、こうした落語のような話の展開に笑ってしまった幼い頃とは違い、今の僕にはわかる。
おばあさんは決して勘違いをしたわけではないのだ。
うまく騙されたのは、ムーミントロールたちのほう。おばあさんのほうが騙した。
施し、というのとはすこし違う。
それはとてつもない愛情にあふれ、思いやりに満ちた、年長者から年少者に贈るプレゼントだ。
やがて売店を後にしたムーミントロールたちは、ふと、「あまり強そうに見えない草のはえた屋根」のことを思い出し、おばあさんをムーミン谷に連れ帰り、一緒に避難しようと考える。
おばあさんが上手に自分たちを騙してくれたからではない。
純粋に、おばあさんのことを心配したからなのだ。
しかし「おばあさんは、いかないって。地下室へにげこむんだって。だけど、とってもよろこんで、ぼくたちに棒キャンデーをくれたよ」。
僕は思ったのだ。
無理矢理にでも、おばあさんを連れだしたらよかったのに。僕だったら、絶対そうするのに。
もちろん、この後でムーミントロールたちは干上がった海を竹馬で横断したり、行程を短縮するためにヘムレンさんのスカートを気球代わりにしてムーミン谷へ帰るわけで、そうした道程におばあさんがついていくのは現実的には難しかったのだろうが。
小松左京の「日本沈没」が一大ブームとなったのは、僕が小学三年か四年生の頃だった。
たしか日曜日の夜にはテレビドラマも放映されたが、唯一、僕の記憶に刻まれているのはそのなかの「京都沈没」の回だ。
長い年月のなかでは、記憶の書き換えもあるかもしれない。
実際には、こういうシーンは存在しなかったかもしれない。
だが、僕の記憶の中では、ひとりの老人が避難を勧められるが、これを拒む。
そしてその日、この地が沈没する日、老人は和装で身なりを整え、ひとり静かに和室に正座して瞑想する。
やがて地鳴りが響き、古い家屋が揺れ出す。
だが、老人は静かに姿勢を崩さず、瞑想を続ける。
棚から仏像の一体が落下し、老人の脳天を直撃する。
老人は頭から血を流し、絶命する。
そのシーンがとにかく怖くて怖くて、小学校低学年だった僕は、しばらく夢にみるほどだったのだ。
そして「日本沈没」自体の記憶が薄れていくなかでも、そのワンシーンだけがいつまでも記憶の中にとどまった。
元日の夕刻に、非常に痛ましく悲しい天災が起こった。
そのとき、僕は近所の横断歩道で信号が青にかわるのを待っていたのだが、はるか遠く離れたその場所でも、異様な揺れを感じ、電線が波打つのを目にした。
今もなお、二次避難が進まないとの報道がある。
阪神淡路大震災を経験した僕は、ほんの数駅、ほんの数十分歩けば、そこには変わらない生活を続ける人々がいる、という「不思議」を、あの時、目の当たりにしたが、実際、早々と気持ちの整理をつけ、その地を離れた人たちの立ち直りの早さと、その地にとどまることを選択した人たちがいつまでも取り残されていくという「現実」を、今も覚えている。
もちろん、そこでの「立ち直り」は表面上のことだけで、心の中のことはまた、別物なのだけれど。
そして都心部と地方では、その土地に対する愛着や「見捨てる」「見捨てない」の感覚も違うのだろう。
報道番組のなかであるコメンテーターの方が、孤立集落のなかで、その地を離れることを拒む人に対し、「ひとりでも残れば行政の責任が生じる」「個人の思いは抑えて、従うべきだ」とおっしゃるのを聞いて、僕はふと、「ムーミン谷の彗星」に出てくる売店のおばあさん、そして京都とともに沈む決意をした老人のことを思い出したのだ。
「生きること」「生きようとすること」はたしかに何よりも尊い。
だが、そろそろ「生きている、自分の大切な人」と「亡くなってしまった、自分の大切な人」の比率が、「亡くなってしまった、自分の大切な人」の方に大きく傾きつつある年代にさしかかり、「いかに生きるか」と同じくらいの重さで「いかに死ぬか」を考えるようになった最近では、僕自身、いろいろと考えることがある。感じるものがある。
父も母も、最期を自宅で迎えることを望んだ。
父の場合、その願いを叶えることができなかったことに対しては、「ごめん」と思いながらも、「でも、状況的にそれはどうしても無理だった」と思える。
だが、母の場合は、人工呼吸器の装着をお断りし、「自宅で最期を迎えさせたいので連れ帰りたい」と病院に申し出ると、「自宅で亡くなった場合、病院の責任を問われ、警察か介入することになる。書類的にも煩雑な手続きが必要となるし、いろいろと面倒だから」と断られた。
「どうしてもというなら、今すぐ退院手続きをとって出ていって欲しい。だが、その場合、万一持ち直しても、二度とうちの病院では再入院を認めないし、面倒もみない」。
おそらく長くなるとしてもあと二日ほど、という予感が僕にはあった。
だが、その予感が外れた場合、それほど何日も仕事を休み続けるわけにはいかないし、僕自身の体力的な問題もある。
「自宅で最期を迎えさせる」というのは、これほどたいへんなことだというのか。
「当たり前」のことであるはずなのに、こんなにも壁は厚く、理解も協力も得られない。
ただ、厄介で我儘だと捉えられる。
その現実をあのとき、僕は思い知った。
そしてそこで結局、迷いが生じてしまったことに、今も懺悔の気持ちを僕は持つ。
売店のおばあさんは危険が迫っていることを知っても、その地を離れたくはなかったのだ。
老人は、自分が愛したその地とともに沈むことを望んだのだ。
「自分にとっての最もすばらしい幸福とは何か」。
「したい時にくしゃみをすること」。
そして「生きたい場所で生き、死にたい場所で死ぬこと」。
そこまでを管理し、その望みをただ「我儘だ」「迷惑だ」「自分勝手だ」と片付けてしまうこの世の中は、はたして僕にとって「幸福な世界」だといえるのだろうか。
もちろん、「生きること」はなによりも尊いことではあるのだけれど。