福島県棚倉町③(時の鐘と棚倉城歴代城主) | ケイの旅ブログ

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ケイと相坊の無知、無恥、ふたり旅。

やっと目的地の福島県棚倉町に着きました~!
もう大分お昼を回っています。

取り敢えず駅に行けば、案内所があるか、
パンフレット等を戴けるのではないかと、
駅に向かいます。

水郡線「磐城棚倉駅」です。

駅にはいっぱいパンフレットが置いてあり、
ありがたいです。

棚倉に鉄道で来るには、水郡線で来るのですね~。
水郡線は、茨城県の水戸と福島県の郡山を結んで
いるのだと思います。
機会があったら、乗ってみたい路線です。

駅前の案内板の地図。

案内板を見ると駅から比較的近かったので
まず行ってみたのが、この「時の鐘」です。


埼玉県川越市の時の鐘には行った事がありますが、
各地に残っているのですね。

時の鐘の横に「学びの門」が、あります。


門を潜ると、棚倉の城主の説明している案内板(?)が、
円形に並んでいます。
それで「学びの門」なのね~!

相坊:みんな写真撮っといて!
ケイ :自分で撮って!
相坊:面倒で撮れない!

9枚(?)あるのです。
ブログの参考になるかもと思って撮ったので、
一応載せますが~!

棚倉の初代藩主となった「立花氏」についての説明。


初代藩主は、「立花宗茂」で、筑後柳川(福岡県)の城主で
したが、「関ヶ原の合戦」で、豊臣方に付いたため改易、
流浪の身となりましたが、二代将軍秀忠に取り立てられ、
慶長9年(1604年)に棚倉に領地を与えられ、
赤館を居城として支配しました。

棚倉城の初代城主「丹羽氏」についての説明。

「丹羽長重」は、「関ヶ原の合戦」では、徳川方に
付いたものの、前田利長との争いが原因で改易、
その後秀忠に大名に取り立てられ、寛永元年
(1624年)、城の建築を開始しました。

案内板では、「立花宗茂」を「初代」としていますが、
まだお城が出来ていなかったため、「藩主」としています。
ただ一代目としています。

パンフレットでは、お城の建築を始めた「丹羽長重」を
「初代」としているため、「代」が、ずれています。
パンフレットに基づいて書いています。

「内藤氏」。

二代城主は、内藤信照。
        近江(滋賀県)より、城主に。
        丹羽長重がやり残した城郭の完成、
        城下町の整備。
        検地を行いました。
三代城主は、内藤信長(のぶよし)。
        父信照の遺志を継ぐ熱心な浄土宗の帰依者。
四代城主は、内藤弌信(かずのぶ)。
        飢饉や大火により、財政難に陥り、財政改革を
        行おうとしましたが、農民から反発され失敗。
        駿河田中(静岡県)へ、移封になりました。
「内藤氏」三代。78年にわたる支配によって、
棚倉の藩体制が確立されました。

「太田氏」。

五代城主は、太田資晴。
        太田道灌を含む関東の名門の出。
        宝永2年(1705年)、駿河田中より、
        国替えとなりました。 

「松平氏」。

六代城主は、松平武元(たけちか)。
         上野館林より棚倉城主へ。

「小笠原氏」。


七代城主は、小笠原長恭(ながゆき)。
         7歳で、遠江掛川(静岡県)より棚倉城主に
         なりました。近江の2万石と棚倉の4万石
         で6万石となりました。
         寛延3年(1750年)塙騒動があり、依頼されて、
         兵を出しました。
八代城主は、小笠原長堯(ながたか)。
         17歳で城主になりました。
         天明4年(1784年)、領地引替で、領地を
         引き継ぎました。
九代城主は、小笠原長昌。
         文化9年(1812年)城主を継ぎました。
         文化14年(1817年)、肥前唐津(佐賀県)城主
         となりました。

「井上氏」。

十代城主は、井上正甫(まさもと)。
         文化14年(1817年)、遠江浜松(静岡県)より、
         城主となりました。文政3年(1820年)、幕府の役を
         やめ病気と言って棚倉には来ませんでした。
         棚倉城には蛇が多いという伝説はこの頃
         作られました。
十一代城主は、井上正春。
          文政7年(1824年)、英国船が常陸大津に
          上陸したので、海岸に陣屋を設けて警備しました。

「松平氏」。


十二代城主は、松平康爵(やすたか)。
          天保7年(1836年)、石見浜田より、
          城主になりました。
十三代城主は、松平康圭(やすかど)。
          嘉永7年(1854年)、兄康爵の養子となり、
          城主になりました。藩政改革を行い、機織り、
          瓦焼き、梨子園、こんにゃく栽培、放牧等を
          奨励しました。
十四代城主は、松平康泰(やすひら)。
          文久2年(1862年)、城主となりました。
          元治元年(1864年)、天狗党鎮圧のため、
          棚倉と江戸屋敷から、兵を出しました。
          その年16歳で亡くなりました。
十五代城主は、松平康英。
          元治元年(1864年)、城主になりました。
          老中職を二回勤めました。
          慶応2年(1866年)、天狗党事件で、
          常陸に兵を出した功績もあり、8万4百余石と
          なりました。同年10月川越(埼玉県)城主となりました。

「阿部氏」。                 

十六代城主は、阿部正静(まさきよ)。
          阿部家は8代43年間白河城主でしたが、
          10万石で棚倉城主となりました。
          慶応4年官軍の命令で一時出兵しましたが、
          奥羽越列藩同盟(東北の各藩と新潟の藩が
          手を組んで官軍に立ち向かう。)に入り、
          白河城を中心に官軍と戦い、激しい攻防の末、
          東北勢は敗れ、それぞれの藩に帰りました。
          官軍は棚倉攻撃に入り、6月24日、棚倉城は
          落城しました。この戊辰戦争で棚倉城と古町等
          戦火で焼失しました。

              学びの門案内板、
              「棚倉城と棚倉藩」(棚倉町生涯学習課、
                          棚倉町観光協会、
                          棚倉町物産振興会)
                             パンフレット参照

ここもまた、戊辰戦争の舞台だったのですね~。

そしてまた、現代のサラリーマンと同じで、命令一つで
色々な所に移動していたのですね~!


                           9/13



                             つづく